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2009年6月 6日 (土)

稲田騒動と「北の零年」

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  明治5年の5月13日(1870年6月11日)、蜂須賀家臣の過激派が、洲本の家老稲田邦稙(いなだくにたね、1855-1931)屋敷や益習館(稲田家の学問所)や稲田家臣の屋敷を襲撃し、無抵抗の者を殺戮・放火した事件が起きた。自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人の被害者がでた。これを稲田騒動(庚午事変)という。

    事件のおこりは藩祖蜂須賀小六正勝(1526-1586)と稲田貞祐は義兄弟の間柄といわれ、蜂須賀氏が阿波・淡路の領主となると稲田氏は1万4500石という大名なみの知行をもらい、さらに幕府の指導もあって淡路城代に任ぜられた。いらい稲田氏は淡路米や阿波の藍を大坂に出荷して経済力をたくわえるとともに、公卿とも縁組みして地位の向上をはかった。しかし、身分は家老で、その家臣は陪臣として蜂須賀家臣団からつねに軽視されていた。幕末をむかえて公武合体派の蜂須賀氏、尊王攘夷派の稲田氏とが対立するようになると家臣団の対立も表面化する。維新後稲田家臣を士族の下の卒族に入れようとする蜂須賀側、士族編入の嘆願から新藩独立運動へとすすむ稲田側、これにたいする蜂須賀側のいかりが稲田騒動となって爆発した。稲田氏の菩提所・江国寺には、この事件でちった稲田関係者の招魂碑がある。また尊抄寺には、事件の首謀者として切腹を命ぜられた新居与一郎、小倉富三郎、平瀬伊右衛門、大村純安、多田禎吾、南竪夫、小川錦司、三木寿三郎、藤岡次郎太夫、滝直太郎ら10人の供養碑「庚午志士之碑」がたっている。稲田家旧家臣に対しては、士族となることを認めたかわりに蝦夷地開拓を命じた。稲田家の北海道静内町への移住開拓という苛酷な運命は近年、映画「北の零年」でよく知られるようになった。(参考:「兵庫県の歴史散歩」)

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「日本史」カテゴリの記事

コメント

幕末維新の動乱期には蚊帳の外の安全地帯にいた蜂須賀藩が、明治維新後に「弱い者虐め」をした事件に、蜂須賀家臣団の鬱屈した感情がにじみ出ていて、嫌な気分にさせられる。確か徳島藩士は最初、「死罪」だったところを「減刑」されて、「切腹」になったと思う。ここまで書いて、ケペル先生が、その事実をご存じないはずがない。この「減刑」について敢えて触れなかったのが、ケペル先生の武士の情けと言うことかと思い至るしだいである。蜂須賀藩士にケペル先生のような武士のたしなみがあれば、防げた事件であったろう。

6月7日は変なコメントになったと反省しています。実は私は、四国の生まれなのです。おそらく四国の「士族」なるものを知っている最後の世代でしょう。四国の「士族」なるものの・・・を知っているのです。
これ以上書くと迷惑をかけますので、今後は自分でブログを立ち上げて、この問題を自分なりに整理してゆきたいと思います。今後のご発展をお祈りします。

稲田です
正直言うと憤りを感じます。

みんな頑張ったのにあれはないですよ。
自分のルーツを知りたくて少し調べたら日本海側と北海道にも生き根付いているようなので安心はしました。

小生が言うまでもなく、皆が知っていることですが、「稲田家」はもとは「織田家」の家臣、「蜂須賀家」は所詮は一土豪(本当を言えば、一野党集団)、しかも幕末の頃にはその藩祖蜂須賀小六の血統も絶えていた。その蜂須賀の家臣団が、稲田家を急襲すること自体が武士としての筋に反するといわざるを得ない。自分は、もとは四国の「卒族」の出で、四国の所謂「士族」の理不尽さは良くわかるつもりだ。四国の士族は歴史を理解しない。

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