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2009年5月 9日 (土)

二重スパイ・ライテクの正体

Photo シンガポールの夜景

  今は昔、浪路はるかなる南洋の地に、確実に存在した日本軍政による昭南特別市。昭和16年12月から始まった日本軍のマレー侵攻という状況下、マラヤ共産党の書記長として最高指導者であり、また日本とイギリスの二重スパイでもあったライテクという謎の人物がいたことは以前にもこのブログに書いた。彼の出身、素性、そして死まで謎である。事典やウィキペディアにも項目がない。
   中島みち「若きコミュニスト・ライテクの正体」によれば、その風貌は色白で、やさしげで、なよなよした感じの若い男だったとある。およそ権謀術数に長けたゲリラの指導者というイメージではない。
    出身は、当時フランス領であったベトナムの生まれで(安南人、安南生まれの華僑など諸説あり)、そもそもフランス当局からコミンテルンに送りこまれたスパイではないかという説もある。
    名前は、普通ライテク(Lai Tek)と呼ばれる。かつてのマラヤ共産党書記長(1939年から1947年まで)は、Wright(ライト)とも書かれる。黄紹東、黄金玉、黄金泉、亜烈など別名を使う。ベトナム人の間では、黄阿岳の名で知られる。日本軍はライテクを萊特、萊徳などと書いた。
    ともかくライテクはシンガポール・マニラ全域のコミュニストを指導する最高幹部でありながら、昭和17年4月頃には、英軍が敗北するや、日本軍から巨額の金をもらい仲間の情報を漏らした。そして日本が敗色濃厚になるや再び英軍に情報を売った。戦後は英軍の協力者として遇されたが、国民や党幹部を裏切ったことが知れると、査問委員会の前に、党の金を持ち逃げして、海外逃亡を図る。バンコクでマラヤ共産党キラー団によって殺されたという。
    (参考:中島みち「日中戦争いまだ終らず」文芸春秋)

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