儒教における喪礼
日本人にとって儒教は宗教ではなく儒学という学問、あるいは「論語」に代表される倫理道徳として理解している人がほとんどであろう。だが加地伸行は「儒教は生命の連続を最も大切にする、家の宗教である」と儒教の宗教性を強調している。(『儒教とは何か』)
数年前、「千の風になって」がブームとなってから、「亡くなった人はお墓にいない」「風になってそばにいる」という霊魂がみなおされてくるようになった。だが仏教は火葬にして、成仏するか、成仏しない場合、その霊魂は生の時間から、(中陰という)別の時間に入る。死者を成仏させるためお経を唱える仏教では、霊魂がただようことを否定するため、仏教界からは「千の風」ブームを批判する声はつよい。
儒教の場合は遺体は家に安置しておく。これを殯(もがり)という。今日、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、儒教における殯の残影なのである。そして儒教では、殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続く。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。儒教的には死者の肉体は焼くべきではない。死とともに脱けでた霊魂が再びもどってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する意味である。
つまり日本の仏式葬儀の中に、儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。さらに言うと、インドにおける本来の仏教には、焼いたあとの骨を拝むなどということは、なかったはずである。シャカが亡くなってのち、その骨を納めた塔が建てられたのは例外である。つまりインド仏教とはなんの関係もない儒教の喪礼を多く取り入れたのが、日本で普及したといえる。日本人は儒教を真に理解するには倫理道徳だけではなく、その宗教性から根本的に理解しなければならない。
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