草城と草田男
おおむねホトトギス俳人は、蕉風推讃者であり、俳句史の研究、とくに芭蕉を神聖化しているのが通常である。古句を鑑賞するのは良いが、自然と新路を開く点において弱い。いわゆる花鳥諷詠にとじこもることになる。このような中からも昭和初期のモダニズムの風潮に乗じて、ホトトギスでも若手の日野草城(1901-1956)が新精神と自由主義を標榜して、新興俳句運動をおこした。だが無季俳句や連作俳句のため草城は昭和7年には「ホトトギス」同人の除名処分をうける。
昭和9年、日野草城は「俳句研究第2号」に「ミヤコホテル」10作を発表した。
けふよりの妻と来て泊つる宵の春
夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手はふれしまま
失ひしものを憶へり花曇
室生犀星は「俳句は老人の文学ではない」として草城を激賞したが、久保田万太郎は「流行小唄程度の感傷」と評した。また守旧派の中村草田男(1901-1983)は「ミヤコホテルとは、厚顔無恥なしかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿であろう」と草城を激しく非難している。中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じている。
結局、草田男らの徹底した批判の中で、草城の風俗小説風の連作俳句はやがて消えていく。草城は一時俳句を中断し、戦後は闘病生活で54歳という若さで亡くなる。一方の草田男もやがてホトトギスを離れていく。草田男は「私は所謂昨日の伝統に眠れる者でもなければ、所謂今日の新興に乱れる者でもない」といい、新鮮な象徴的観点から、観念や思想を詠う現代俳句への道を開く。
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