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2009年5月28日 (木)

雨の日でも楽しい

Amefuri

 

  退職したら健康診断はどうなるのかな?とちょっと不安だったが、先日きっちりと市役所から「健康診査受診券」が届いた。早速、昨日近所の柴田内科で見てもらった。数値的にはよくなっている。勤めていたときより健康であることは自覚して感じるし、医学的にも実証された。あとは適度の運動を実行する。今日は雨降りだが、往復1キロを歩いてブックオフに本の買出し。なんと「雨の日プレゼント30点券」2枚を貰った。ブックオフの成功したところは、さまざまな社員からのアイデアで実行しているところだろう。こんなところにもお客様を大切にする気持ちが現われている。

「近代日本文学12、13、14夏目漱石集」、「近代日本文学全集20武者小路実篤集」、「現代日本文学集18火野葦平」、「東京ディズニーリゾート完全ガイド」、ノ・ヒョギン「愛の群像上中下」購入。

    文学全集の夏目漱石など今更なぜ購入するのか、と思われるだろう。とても貴重な情報があるのだ。小泉信三「夏目漱石」(昭和23年)、片岡良一「漱石における二三の問題」、本多顕彰「夏目漱石」などが収録されている。これらは研究上不可欠だ。このことは岩城康隆先生から学んだ。最近、国文学を研究する学生は減ったらしい。学燈社の「国文学」も休刊するという。ケペルは史学だったが、文学研究の大切さを晩年になって発見した。「作家の戸籍調べ」「重箱の隅をつつく」などと言われようとも面白いことは面白い。政治家や芸術家よりも文学者がやはり一番人間的に興味がある。おそらく生涯研究しても興味はつきないだろう。

2009年5月27日 (水)

どこまで続く過剰反応

   今日の朝日新聞の「声」の欄に「過剰反応は余分な不安招く」という一文が掲載されている。まことに新型インフルエンザ騒動の本質を言いえている。「新型インフルエンザへの社会の反応は度を超している。過剰反応の原因は、感染予防というよりも責任回避の集団心理が感じられる」とある。この春まで教育委員会にいたケペルには、その指摘には頷くことが多い。役所は万一でも被害者が拡大したら管理者としての責任をとられることを一番に畏れる。国からの指示があれば、従うのが一番の安全策である。学校や保育所はもちろん、図書館までも休館したところがある。もちろん感染拡大を防止するためであり、自己保身というのは酷なことは分かっている。しかし、開館した図書館もある。「新型インフルエンザは毒性が比較的弱く、過剰な反応をすべきではない。市民サービスの低下もできるだけ避けた」という判断をした西宮市立中央図書館の館長、並びに職員にエールをおくりたい。

2009年5月23日 (土)

パンデミックの不安に宗教者のできること

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   ある感染症が世界的に流行することをパンデミックというらしい。もちろん病気を治すのは医者であるが、世界的に流行する感染病の場合、長期にわたれば、病そのものよりも社会病理とでもいうべき、精神不安や経済不況などさまざまな現象が起こるであろう。

   聖書ルカ21に「大地震が起こり、あちこちに疫病や飢饉が起こり、恐ろしい現象や著しい兆しが天に現われる」「イエスは言われた。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」とある。聖書の予言のようにいま地球的規模で大地震が疫病が流行している。各国政府は科学的に対策を講じているだろう。とくにWHOでは今回の新型インフルにおける日本の対策を評価しているそうだ。日本人のマスク着用率は世界一であろう。当然、マスクが不足するので台湾や中国から緊急輸入するそうだ。もちろんお金で解決できることもあるだろう。しかしマスクパニックという現象は逆に過剰反応として地元経済には大打撃となっている。それに最近ではウィルスは空気中を飛びまわらないので、あまりマスクは効果がない、むしろ手や身の回りのものを消毒することが必要だという情報が流されるようになっている。それでも集団マスク姿は花粉症やアスベスト防塵マスクのように日本人には一番好きなんだろう。西洋人はやはりキリスト教の影響があると思う。イエスはハンセン病の患者や疫病に対しても、手を差し伸べてその人に触れ、「清くなれ」と言った。医学的根拠はないかもしれないが、清めと癒しと愛が病を救うことがある。よくむかしから「病は気から」という。今回の騒動でも、熱が出た、という人は多い。ほとんどは新型インフルではない。気分的に病気になる患者が多数いるのだ。ほんとうに大切なのはお金で薬やマスクを世界中から買い集めることではなくて、日本が貧しい国や人々に援助することであろう。日本国内ですら貧しくてマスクを変えない路上生活者がたくさんいる。都会で働くエリートだけがマスクを着用しても感染病は根絶できまい。宝塚では清荒神のお坊さんがマスク5千枚を宝塚市に寄付していただいた。まことに有り難い話で感謝している。でも枚数に限りがある以上すべての人に行き渡るわけでない。ほんとうに貧しくて買えない人に渡せるのだろうか。それにマスク着用すれば安心というのではなくて、宗教者としてはもっと教えの本質を説いてほしい。たとえば一休が髑髏をかざして、京の街中を「ご用心めされ」と説いてまわったように。自分さえよければいいという「あさましい」自分の愚かな姿を日本人たちに気づかせることこそが宗教者の本当のつとめと信ずる。

2009年5月20日 (水)

マスク・パニック

   新型インフルエンザが20日現在で国内の感染者は兵庫・大阪・滋賀3府県で237人である。神戸に住む会社員の女性が大阪へ向かう通勤電車で自分だけがマスクをしていないことに気づき「非常識と思われているようでつらい。でも、品切れで手に入らない」と悩んでいる。関西ではまるで石油ショックでトイレット・ペーパーが無くなったときのような騒ぎだ。朝日新聞夕刊の山田明教授(臨床ウィルス学)によると「マスクは感染者がせきをしてウイルスを周囲にまき散らすのを防ぐのに一定の効果がある。外からの感染を防げるかどうかは意見がわかれる」と専門家が言う。とはいってもJR大阪駅ではおよそ8割の人はマスクを着用しているそうだ。まさか8割の人が感染者ではあるまい、きっとその人たちは自己防衛のためマスクを着用しているのだろう。ほとんどの人はマスクが疫防に効果があると信じているのだろう。だがマスクを手に入れることができない人は、マスク姿の集団を見れば、自分は感染して死ぬのではないかと恐怖心に襲われるかもしれない。まさに「マスク・パニック」である。群衆心理とは社会に様々な影響を及ぼす。マスクでこの程度だがワクチンが無いとなるとどうなるのか。医療の貧しい国ではワクチンが買えないで死んでいく子供達もいるのに、大国日本は金で買い占めて備蓄するのだろうか。現代は生きることがあさましくみえてくる。新型インフルエンザには冷静な対応が必要である。

 

 大正7年のスペイン風邪が流行したときの短歌を紹介する。

 

寝(い)ねがえしこの寝台にいくたりが死にけるやなど思ふ秋の夜
                                     西川百子

 

    西川百子は大阪毎日新聞社京都支局の記者、歌人として当時は有名だった。本名は西川正治郎といい男性である。明治21年生まれ。『無産者』の「病床語」の中の一首。「大正7年10月流行感冒を病みて京都府立病院に入る」と詞書されている。歌集『無産者』(弘文堂書房、大正8年)、『刀葉林地獄』(大正11年)、『婦女身』(昭和3年)。山本宣治とも交友があったが、昭和になり転向。生活派につながる歌人の一人であるが、歌壇に属してないためか忘れさられた歌人である。

電話の発明者ベル

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    アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)はいつも音に関して好奇心をもっていた。彼の父アレクサンダー・メルヴィル・ベルも祖父も、耳の不自由な人たちの先生をしていた。だから幼いベルは、音というものがとても重要なものだとわかっていた。彼は自然に音は当然聞えるべきものだとは思わないようになっていた。なぜなら彼は、聴力を失った子供をたくさん知っていたからだ。結局、彼が子供のころ発達させた好奇心のために、実験や研究をするようになった。1870年父とともにカナダのオンタリオ州に渡り、1872年ボストン大学の言語生理学教授となり、かたわら音波を電流によって伝播する研究をはじめた。その結果、電磁型送受話器によるアメリカ最初の有線電話を発明した。ベルは非常に幸運にも、彼に大変興味をいだかせるようなものを重要視する環境で育てられたのである。

2009年5月19日 (火)

新型インフルエンザ感染予防のためのマスクに関して

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   新型インフルエンザの水際対策に失敗した日本では、いま感染拡大期、あるいは蔓延期になって患者が日々増加しつつある。19日午前11時現在で173人(兵庫103人、大阪70人)いずれ京都、奈良へと拡大するのも時間の問題であろう。関西を中心とする修学旅行のキャンセルが相次いでいる。関西では神戸まつりの中止など、イベント、催しの自粛ムードで沈滞気味である。兵庫県と大阪府では一斉休校の措置がとられている。美術館、図書館でも臨時休館しているところがある。とくに目立つのはマスク姿の通勤客である。国も「マスクの着用」を要請しているし、マスクは会社でも常時着用しているところも多い。マスク製造販売業者の方からは叱られるだろうが、マスクという物に依存した対策に疑問があるように思う。
   われわれはふつう風邪をひいたときマスクをする。これは患者がくしゃみや咳で他人に感染したないための「咳エチケット」としてのマスク着用である。だが今回は感染予防としての自衛手段としてのマスク着用のように見受けられる。マスクはのどの保温保湿効果で抵抗力も高めることができる。ただし、街中での感染予防効果はどれほどあるかは、わからない。科学的根拠は明らかではないという。むしろ衛生の基本として、栄養や睡眠を十分とり、規則正しい日常生活を続けることこそ大切ではないだろうか。マスクも品切れ状態が続き、薬局で何十人も並んでやっと買ったが、人混みで感染したということにならないだろうか。感染者が推定5千人以上いるというアメリカでもマスクをしている人をほとんど見かけないという。世界的にみてもこれほどの人がマスクを着用しているのは日本だけだろう。もちろん官庁や会社でマスク着用を義務づけているところもあるだろうが、みずから進んでマスクをしている人も多い。日本人にマスク着用者がとくに多いのは、おそらく花粉症対策の習慣からくるもので、マスクをしておれば安心として、一種のマスク過信が存在するのではないだろうか。マスクをはずすとき、ひもをもってはずさないと、ガーゼの面にふれるとむしろ汚染するので、使い方を間違えばかえって感染することも多い。ともかくマスクは国民的風習なのか、行政指導なのか知らないが、マスクなしで街中を歩くと白い眼で見られるような状況である。休校で中・高校生は繁華街やカラオケボックスで遊んでいるし、母親やお父さんも家庭や職場でストレスがたまっている。長期戦になると思うし、感染よりも過剰な不安による社会マヒが悪影響を与えることをなにより懸念している。

2009年5月18日 (月)

チャイコフスキーの結婚生活

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   1877年4月末に、36歳のチャイコフスキー(1840-1893)は、アントニーナ・ミリューコワという音楽院のかつての教え子から愛の告白の手紙を受け取った。彼はミリューコワの顔すら思いだすことができなかったが、丁度、オペラ「エヴゲニー・オネーギン」を作曲している最中で、主人公タチアーナがオネーギンに愛を告白して、冷たく退けられる場面を作曲している途中であったので、創作と現実との符合におののき、彼女との結婚に踏み切ることにした。
   7月6日にモスクワの聖ゲオルギー教会で結婚式を挙げた二人は、その日の内にペテルブルグに向けて出発した。チャイコフスキーの父親などを訪問し、14日にモスクワに帰ってきた。しかし、二人の結婚生活は最初からうまくいかず、9月中頃、精神的痛手を負ったチャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るが失敗する。わずか3ヵ月で結婚生活は破綻し、10月には別居している。チャイコフスキーには同性愛的傾向があったというが、結局、離婚の真相は誰にもわからない。

鳩山一族は学者肌!?

Img 鳩山秀夫

    5月16日、鳩山由紀夫は民主党の新代表に選ばれた。政権交代をかけた総選挙にもしも勝利すれば次の首相となる可能性が極めて高い。鳩山由紀夫が政界入りを果たしたのは昭和61年7月、39歳のときである。それまでの彼は、東京工業大学助手を経て専修大学助教授という地位にあった。
   鳩山家は、言わずと知れた政界屈指の名門である。曽祖父の鳩山和夫(1856-1911)は衆議院議長、祖父の鳩山一郎(1883-1959)が首相、父の鳩山威一郎(1918-1993)が外相と直系で4代にわたる世襲議員である。鳩山一族の顔触れを見ると、政治家ファミリーとは別の、もうひとつの一面がある。学者一族という顔である。鳩山和夫は東京法律学校の学長も務めた法学博士、妻の薫は共立女子大学の創設者にあたる。和夫の次男で、一郎の弟、鳩山秀夫(1884-1946)は東大教授で、『日本債権法総論』は名著といわれる。秀夫の義父である菊池大麓(1855-1917)は、東大総長で、数学教育の振興に大きな足跡を残している。秀夫の妻千代子は大麓の次女だが、長女の多美は美濃部達吉(1873-1948)に嫁ぎ、三女の冬子は末弘巌太郎(1888-1951)の妻となっている。

Img_0001 秀雄とあるのは秀夫の誤り

2009年5月17日 (日)

草城と草田男

Hi02 日野草城

  おおむねホトトギス俳人は、蕉風推讃者であり、俳句史の研究、とくに芭蕉を神聖化しているのが通常である。古句を鑑賞するのは良いが、自然と新路を開く点において弱い。いわゆる花鳥諷詠にとじこもることになる。このような中からも昭和初期のモダニズムの風潮に乗じて、ホトトギスでも若手の日野草城(1901-1956)が新精神と自由主義を標榜して、新興俳句運動をおこした。だが無季俳句や連作俳句のため草城は昭和7年には「ホトトギス」同人の除名処分をうける。
  昭和9年、日野草城は「俳句研究第2号」に「ミヤコホテル」10作を発表した。

  けふよりの妻と来て泊つる宵の春

  夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ

  枕辺の春の灯は妻が消しぬ

  をみなとはかかるものかも春の闇

  薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

  妻の額に春の曙はやかりき

  麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

  湯あがりの素顔したしく春の昼

  永き日や相触れし手はふれしまま

  失ひしものを憶へり花曇

   室生犀星は「俳句は老人の文学ではない」として草城を激賞したが、久保田万太郎は「流行小唄程度の感傷」と評した。また守旧派の中村草田男(1901-1983)は「ミヤコホテルとは、厚顔無恥なしかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿であろう」と草城を激しく非難している。中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じている。
    結局、草田男らの徹底した批判の中で、草城の風俗小説風の連作俳句はやがて消えていく。草城は一時俳句を中断し、戦後は闘病生活で54歳という若さで亡くなる。一方の草田男もやがてホトトギスを離れていく。草田男は「私は所謂昨日の伝統に眠れる者でもなければ、所謂今日の新興に乱れる者でもない」といい、新鮮な象徴的観点から、観念や思想を詠う現代俳句への道を開く。

「知る権利」の誕生

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   第二次世界大戦の末期1945年1月23日、ニューヨーク・タイムズは、その社説の冒頭で次のように述べた。

   AP通信の常務ケント・クーパーは、日曜日の朝、当市のテンプル・イマーニュ・エルで行なった講演のなかで、古来の自由という文言に代えて、適切にも新しい表現を用いた。彼は「知る権利」について言及したのである。市民は、十分で正確に提供されるニュースを受ける権利がある。「国においても、世界においても「知る権利」の尊重なしに政治的自由はありえない。

   「知る権利」(Right to Know)という新語の創始者がケント・クーパー(1880-1965)であるかどうかは、断定できない。しかし、それから10年後の1955年10月、アメリカの新聞週間は、そのスローガンに「あなたの新聞はあなたの知る権利のために闘う」を採用した。つまり、このころまでには、知る権利という言葉は少なくとも新聞人のあいだで定着していた、とみなしていい。ケント・クーパーは翌年には『知る権利』(1956)を刊行している。彼は戦時中の言論支配の体験から、取材活動の自由を「知る権利」の名で主張したのだ。
  その後、アメリカでは、1966年に「情報自由法」が制定された。情報公開法を有する国は、北欧諸国やカナダ、オーストラリア、ベルギー、オランダなどに広がったが、1996年にはアジアで初めて韓国において情報公開法が制定された。我が国では1999年に情報公開法が制定された。

2009年5月14日 (木)

儒教における喪礼

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    日本人にとって儒教は宗教ではなく儒学という学問、あるいは「論語」に代表される倫理道徳として理解している人がほとんどであろう。だが加地伸行は「儒教は生命の連続を最も大切にする、家の宗教である」と儒教の宗教性を強調している。(『儒教とは何か』)

    数年前、「千の風になって」がブームとなってから、「亡くなった人はお墓にいない」「風になってそばにいる」という霊魂がみなおされてくるようになった。だが仏教は火葬にして、成仏するか、成仏しない場合、その霊魂は生の時間から、(中陰という)別の時間に入る。死者を成仏させるためお経を唱える仏教では、霊魂がただようことを否定するため、仏教界からは「千の風」ブームを批判する声はつよい。

    儒教の場合は遺体は家に安置しておく。これを殯(もがり)という。今日、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、儒教における殯の残影なのである。そして儒教では、殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続く。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。儒教的には死者の肉体は焼くべきではない。死とともに脱けでた霊魂が再びもどってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する意味である。

    つまり日本の仏式葬儀の中に、儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。さらに言うと、インドにおける本来の仏教には、焼いたあとの骨を拝むなどということは、なかったはずである。シャカが亡くなってのち、その骨を納めた塔が建てられたのは例外である。つまりインド仏教とはなんの関係もない儒教の喪礼を多く取り入れたのが、日本で普及したといえる。日本人は儒教を真に理解するには倫理道徳だけではなく、その宗教性から根本的に理解しなければならない。

2009年5月13日 (水)

政治家の品格

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  鴻池祥肇官房副長官が突然辞任した。なんと愛人同伴で2泊3日の熱海ゴルフ旅行を週刊誌にフォーカスされたことが理由らしい。まったく国民をバカにしたあきれた話だ。不倫は個人の問題であるとしても、とくにJR無料パスを使用したことは、国会議員の特権を悪用したものとして許せない。週刊新潮には「ボクは祖父からのDNAがあって女癖が悪い。あのタレントの草なぎと同じように失敗してきた。麻生政権の足を引っ張るようなことをやって申し訳ない」「浮気といえば浮気や。全部捨てて一緒になるわけやない」草なぎを持ち出して世間の同情をかおうとするし、祖父からのDNAのせいにする。自身を3代にわたる艶福家、つまり女にようもてる、10人の女がいた、とか自慢話のように聞える。週刊誌を読んだ印象では、反省の色なし。というより政治家としての責任感というか使命感が全く欠如している。4月28日といえば新型インフルエンザの対策本部を設置した当日のこと。危機感ゼロ。麻生首相は健康上の理由で辞任したのだから、任命責任は無しという。役職を辞任したといっても議員をやめるわけでないから、どうってことないわけだ。麻生にしても小沢にしても鴻池にしても、どうしてこのような人が政治家になるのだろうか。結局、その権力にむらがり、利権をあさる国民がいるからだ。すべて己の欲や利害関係で投票する人が多いのだろう。汚れた顔の日本人をみるのが辛く悲しい。

読書で経験すること

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    我々が意識していると否とにかかわらず、読書するたびに経験することが一つある。すなわち、作家の人格にふれるということである。

B・ドブレー(1891-1974) イギリスの文学者。「オックスフォード英文学史」の監修者として知られる。

「女性の書斎・ひとり好き」宝塚・阪急逆瀬川駅下車

2009年5月11日 (月)

国家権力と自然法との上下関係

Photo トマス・ホッブズ

    近代国家においては、すべての政治は原則として法によって行なわれる(法治国家の原則)。ところが古代においてはローマ帝国の場合、「君主は法に拘束されない」とか「君主の欲するところは法の効力をもつ」という法諺が示すように、イムペリウムは絶対的な権限として考えられていた。
    中世のローマ教会が支配する時代になると、トマス・アクィナス(1225-1274)が体系化した自然法は、「理性的被造物によって分有された永遠法」であり、神法的性格をもつ。ゆえに、自然法は実定法を制約する。そこで、かりに「君主の欲するところが法である」としても、その法は実定法にほかならないから、自然法による制約を受ける。したがって、君主もまた自然法の下位にあると考えられた。
   これに対してトマス・ホッブズ(1588-1679)は、自然法とは人間が快適に生きるための条件であり、自然権の確保のために人間が必要としする条件であるとした。そのため契約によって全権を主催者にゆだねて国家を造ったとする一種の社会契約説が生れるようになる。ホッブズは近代的法の支配の主唱者であるといえる。

2009年5月10日 (日)

田宮虎彦「足摺岬」

Photo_2     田宮虎彦(1911-1988)は、明治44年、東京医科大学付属病院で出生。船員であった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰り返しながら少年時代を過ごす。庶民的ヒューマニズム・正義感と清らかな詩情の漂う作風の私小説で才能を示した。

「物語の中」「末期の水」「菊の寿命」「悲運の城」「大盗余聞」「忠義物語」「ある女の生涯」「異端の子」「朝鮮ダリヤ」「幼女の声」「梅花抄」「土佐日記」「江上の一族」「三界」「異母兄弟」「S町の歴史とその住民たち」「琵琶湖疎水」「比叡おろし」「富士」「菊坂」「かるたの記憶」「父という観念」「暗い坂」「現身後生」「童話」「母の死」「銀心中」「ぎんの一生」「黄山瀬」「愛情について」、田宮虎彦論(渋川驍)

「現代日本文学22 田宮虎彦集」筑摩書房

2009年5月 9日 (土)

二重スパイ・ライテクの正体

Photo シンガポールの夜景

  今は昔、浪路はるかなる南洋の地に、確実に存在した日本軍政による昭南特別市。昭和16年12月から始まった日本軍のマレー侵攻という状況下、マラヤ共産党の書記長として最高指導者であり、また日本とイギリスの二重スパイでもあったライテクという謎の人物がいたことは以前にもこのブログに書いた。彼の出身、素性、そして死まで謎である。事典やウィキペディアにも項目がない。
   中島みち「若きコミュニスト・ライテクの正体」によれば、その風貌は色白で、やさしげで、なよなよした感じの若い男だったとある。およそ権謀術数に長けたゲリラの指導者というイメージではない。
    出身は、当時フランス領であったベトナムの生まれで(安南人、安南生まれの華僑など諸説あり)、そもそもフランス当局からコミンテルンに送りこまれたスパイではないかという説もある。
    名前は、普通ライテク(Lai Tek)と呼ばれる。かつてのマラヤ共産党書記長(1939年から1947年まで)は、Wright(ライト)とも書かれる。黄紹東、黄金玉、黄金泉、亜烈など別名を使う。ベトナム人の間では、黄阿岳の名で知られる。日本軍はライテクを萊特、萊徳などと書いた。
    ともかくライテクはシンガポール・マニラ全域のコミュニストを指導する最高幹部でありながら、昭和17年4月頃には、英軍が敗北するや、日本軍から巨額の金をもらい仲間の情報を漏らした。そして日本が敗色濃厚になるや再び英軍に情報を売った。戦後は英軍の協力者として遇されたが、国民や党幹部を裏切ったことが知れると、査問委員会の前に、党の金を持ち逃げして、海外逃亡を図る。バンコクでマラヤ共産党キラー団によって殺されたという。
    (参考:中島みち「日中戦争いまだ終らず」文芸春秋)

ブロンテ姉妹

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   もし一冊の書物を何回も読み返してその楽しみを味わいえないならば、それは読むに値しないものである。

          オスカー・ワイルド(1856-1900)

       *  *  *  *  *  *

快晴。ブックオフへ行く。シャーロット・ブロンテ「シャーリー(上)ブロンテ全集3 みすず書房、キム・ヘスク「今だから話せる冬のソナタ」、「もっと愛したいペ・ヨンジュン真実の感動」、奥田実紀「赤毛のアンA to Z」、「狭き門・田園交響楽」、「ジェイン・エア」、「阿部知二集」「井上光晴集・高橋和巳集」「中山義秀集」「開高健・大江健三郎集」(筑摩書房)購入。

2009年5月 6日 (水)

瀬戸内晴美「あふれるもの」

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埴谷雄高「虚空」
安部公房「時の崖」
中村真一郎「恋の重荷」
藤枝静男「欣求浄土」
森茉莉「気違いマリア」
小沼丹「汽船」
小島信夫「返照」
井上光晴「眼の皮膚」
三浦朱門「セミラミスの園」
近藤啓太郎「赤いパンツ」
曽野綾子「海の御墓」
石原慎太郎「完全な遊戯」
城山三郎「メイド・イン・ジャパン」
有吉佐和子「海鳴り」
開高健「パニック」
深澤七郎「南京小僧」
北杜夫「霊媒のいる町」
小川國夫「枯木」
なだ・いなだ「帽子を」
倉橋由美子「パルタイ」
星新一「ボッコちゃん」
瀬戸内晴美「あふれるもの」
水上勉「蜘蛛飼い」
河野多恵子「幼児狩り」
三浦哲郎「初夜」
山口瞳「昭和の日本人」
池田得太郎「家畜小屋」
山川方夫「最初の秋」
永山一郎「皮癬蛼の唄」

「日本文学全集66、現代名作集4」(筑摩書房、1970年)収録作品の一覧である。
永山一郎(1934-1964)という作家は知らなかった。略歴を記す。昭和9年8月11日、山形県最上郡金山町に生れる。金山中学、新庄高を経て、昭和30年、山形大学教育学部卒業。金山町金山小学校勤務。31年、詩集『地の中の異国』を刊行。32年、飽海郡八幡町青沢小学校に転任。33年、庄内児童文化研究会に参加。35年、「夢の男」を「教師の文芸」に発表。金山町明安小学校に転任。36年、最上郡戸沢村古口小学校に転任。37年、「配達人№7に関する日記」を「教師の文芸」に、「雨期の唄」(「皮癬蛼の唄」の第一稿)を「文芸広場」に発表。39年3月26日、新庄市福田の側溝にモーターバイクのまま転落、死亡。

23人の現代作家たち

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   ブックオフで「日本文学全集65、現代名作集3」(筑摩書房、1970年)購入。知らない作家も多数収録されている。選りすぐりの23の短編小説が105円とは安い。

稲垣足穂「黄漠奇聞」
深田久弥「あすなろう」
坪田譲治「お化けの世界」
伊藤永之介「鶯」
中村地平「南方郵信」
北原武夫「雨」
石坂洋次郎「やなぎ座」
田村泰次郎「肉体の悪魔」
原民喜「夏の花」
芹澤光治良「死者との対話」
田中英光「野狐」
十和田操「戸の前で」
神西清「少年」
小山清「落穂拾い」
川崎長太郎「鳳仙花」
石上玄一郎「黄金分割」
由起しげ子「女中ッ子」
松本清張「石の骨」
山本周五郎「その木戸を通って」
藤原審爾「賭金」
丸岡明「薔薇いろの霧」
木山捷平「山陰」
結城信一「湖畔」

  宝塚・逆瀬川駅下車・「女性の書斎・ひとり好き」

2009年5月 5日 (火)

ジョン・レイ

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 学ぶに老いすぎていることはない。

          ジョン・レイ(イギリスの博物学者)

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   ジョン・レイ(1627-1705)は植物および動物分類学の基礎をなした最初の人といわれる。「学ぶに老いすぎることはない」この生涯学習時代にふさわしい言葉は、ジョン・レイの創見ではなく、イギリスのことわざだそうだ。

2009年5月 4日 (月)

セントラルパークの四季

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   マンハッタン島のほぼ中央に位置するセントラルパークはニューヨーカーにとつて大切な憩いの場所。最初の渡り鳥が羽ばたく春から、冬の雪がふたたび訪れるまで四季折々の表情が美しい。

   アメリカには19世紀半ばころまでは、どんな都市に行ってもまともな公園はなかった。1840年代にイギリスからピクチャレスクの建築と庭園が導入され、アンドルー・ジャクソン・ダウニング(1815-1852)が現われてアメリカ独自の木造住宅様式および自然と人工の融合というラウドン流の造園を提唱し、また各都市に公園が必要なことを説いた。これに刺激されて1851年にニューヨークにセントラルパークを建設する企画が立てられ、委員会はフレデリック・ロー・オルムステッド(1822-1903)の設計案(1858年)を採用し、1862年に一応の完成をみた。オルムステッドは340ヘクタールの長方形の敷地を二つに分け、自然の地形を生かし、変化の多い南側の地形に多くのレクリェーション施設を設け、東西に走る4つの横断路は園内の遊歩路と立体交差させるという独創性を示した。セントラルパークの成功によってアメリカ各地に公園が盛んに新設されるようになり、19世紀末にはほとんどすべての都市が公園をもつようになった。

2009年5月 3日 (日)

趙雲の死の謎

   趙雲、字は子竜。蜀の武将のなかでは関羽、張飛に比べ、性格はつつましく、分をわきまえる存在で、孔明の命令に忠実であり、三国志のなかでは比較的地味に存在であった。ところがテレビゲームや映画「レッドクリフ」などの影響でこのところ人気は急上昇中である。映画ではフー・ジュン(胡軍)扮する趙雲が単騎で魏軍の中に斬り込み、穈夫人と阿斗を救出するシーンが延々と続く。ほんとうの歴史の上でも、この趙雲、70歳過ぎ、北伐の頃まで活躍している。

    ところで諸葛孔明の「後出師表」では、「趙雲など喪(うしな)えり」と物故した将軍となっているが、陳寿の『三国志』の「蜀志」趙雲伝では、趙雲の死は建興7年(229年)となっている。孔明は建興6年11月に「後出師表」を奉ったとされる。つまり趙雲の死の記述が「後出師表」の真偽を疑わせる根拠となっている。(参考:章映閣『史伝諸葛孔明』「後の出師の表は偽作」徳間書店)

諸葛孔明「後出師表」偽作説

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  いまや我が国では何度目かの「三国志」ブーム到来である。とくに今回の特徴は若い女性たちの間でブームになっている。やはり人気のトップは諸葛孔明で、理知的で美男子の孔明像が映画のイメージで作られた観がある。現実の歴史の上では北伐作戦に失敗したのに、武侯祠がつくられるほど人気があるのか。諸葛孔明人気の千古不滅の理由は名文「出師表」によるところが大である。ところで孔明の作とされる「出師表」には「前出師表」と「後出師表」がある。だが「後出師表」は、正史『三国志』、『諸葛武侯集』、『文選』に記載がない。また「前出師表」に比べると風格、内容、語調を取って見ても見劣りがする。「後出師表」を蜀の人々が読むと、おそらく戦意喪失するか、反戦気分が高まるであろう、等の理由から、古来から「後出師表は他人の偽作」とする説がある。とくに何故蜀の人である陳寿が「後出師表」を採録しなかったのか疑問が残る。陳寿は正史の編纂に当たって、蜀・魏・呉三国の大量の資料を参考にしたが、その選別作業は大変厳格であった。「後出師表」に関して、最初に記載したのは裴松之が『三国志』につけた注であり、その付記には「後出師表」の出典を呉の張儼『黙記』に見えると記している。陳寿が「後出師表」を黙殺したのか、散逸して入手できなかったのかは明らかではないが、ほぼ同時代に「後出師表」の存在が呉によって確認されていたことになる。それは孔明の兄諸葛謹が呉の要職に仕えていたことによるものかもしれない。いずれにしても「後出師表」は三国時代の早い時期に流布していたものであることは明らかである。(参考:植村清二『諸葛孔明』、貫井正「諸葛孔明、後出師表の真偽」、しにか133号)

2009年5月 2日 (土)

蔵書1万冊

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  書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。

                            トーマス・フラー

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   トーマス・フラー(1608-1661)はイギリスの聖職者、歴史家。この名言は「書物は友人と同様、数少なくあるべきであり、そしてよく選択すべきである」と書かれたものもある。原典を調べることはできなかったが、思考するに書物と友人を並べているところからすれば、信頼できる数人の友がよいと思えるが、「よく選択すべき」と続くことを考えると、「数多く」とするほうが収まりがいいように思えた。

    宝塚「女性の書斎・ひとり好き」は蔵書1万冊と言っているが、実際にはそれを若干下回っているだろう。場所は阪急逆瀬川駅徒歩5分。宝塚消防本部、神戸屋、万代近く。とくに歴史の好きな女性にはオススメです。

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織田秀信

   織田秀信(1580-1605)は信長の孫、信忠の長男として生れた。彼が3歳のとき、天正10年、本能寺の変がおこり、信長、信忠を明智光秀に殺された。その後、急をかけつけた秀吉に清洲会議で織田家の後継にまつり上げられたが、元服しても岐阜の十三万石余りしかもらえなかった。やがて秀吉が死に、徳川家康と石田三成の対立が表面化し、三成は西国大名と結んで豊臣秀頼をもりたてた。この時、秀信は西軍石田方につき、東軍の先鋒の福島治則らと戦い、敗れて降伏した。秀信は命を助けられて、剃髪して高野山に入り、そこで慶長10年、26歳の若さで生涯を終えた。妻子はいない。今日、フィギアスケートで有名な織田信成は信長の七男信高の子孫にあたる。

2009年5月 1日 (金)

読者の時間を浪費させないためには

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人生は非常に短かく、その中でも静かな時間は余りにも少ない。われわれはつまらない本を読むことによってその貴重な時間を浪費すべきではない。

  ジョン・ラスキン(イギリスの著述家・美術評論家)

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   ラスキン(1819-1900)のいうようなつまらない本は、19世紀よりも21世紀の現在大量に出版されている。大型書店で本を探す時、何十万冊の中から本当に自分が求めている本をさがすことは至難である。店頭に平積みされている本は、あくまで大量に出版して、大々的な宣伝をして売ろうとしている本であって、中味が本当にいいかどうかはわからない。ブックオフにある本の多くも、大量出版された残骸が安く売られているだけである。かりに岩波新書の名著があるとしても、読者がそれを読んで受け入れられる状態であるかはわからない。良書よりも適書が大切だ。あくまで読者の自発的な関心が何であるかが大切なのだ。人と本とを結びつけることはたやすいことではない。充分に吟味して、手にとりやすく興味のある分野ごとに並べて、本の背を見て、何か手にとってみたくなって、パラパラとめくって読み始める。自分に合いそうだという直感が沸いてくる。そして精読してみる。共感、あるいは反発を覚える。でも著者の言うことに納得させられる。そのような著者との対話が生れればいい。

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