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2009年5月31日 (日)

本日の食事

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2009年5月30日 (土)

本日の食事

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本日の食事

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2009年5月29日 (金)

本日の食事

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2009年5月28日 (木)

雨の日でも楽しい

Amefuri

  退職したら健康診断はどうなるのかな?とちょっと不安だったが、先日きっちりと市役所から「健康診査受診券」が届いた。早速、昨日近所の柴田内科で見てもらった。数値的にはよくなっている。勤めていたときより健康であることは自覚して感じるし、医学的にも実証された。あとは適度の運動を実行する。今日は雨降りだが、往復1キロを歩いてブックオフに本の買出し。なんと「雨の日プレゼント30点券」2枚を貰った。ブックオフの成功したところは、さまざまな社員からのアイデアで実行しているところだろう。こんなところにもお客様を大切にする気持ちが現われている。

「近代日本文学12、13、14夏目漱石集」、「近代日本文学全集20武者小路実篤集」、「現代日本文学集18火野葦平」、「東京ディズニーリゾート完全ガイド」、ノ・ヒョギン「愛の群像上中下」購入。

    文学全集の夏目漱石など今更なぜ購入するのか、と思われるだろう。とても貴重な情報があるのだ。小泉信三「夏目漱石」(昭和23年)、片岡良一「漱石における二三の問題」、本多顕彰「夏目漱石」などが収録されている。これらは研究上不可欠だ。このことは岩城康隆先生から学んだ。最近、国文学を研究する学生は減ったらしい。学燈社の「国文学」も休刊するという。ケペルは史学だったが、文学研究の大切さを晩年になって発見した。「作家の戸籍調べ」「重箱の隅をつつく」などと言われようとも面白いことは面白い。政治家や芸術家よりも文学者がやはり一番人間的に興味がある。おそらく生涯研究しても興味はつきないだろう。

本日の食事

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2009年5月27日 (水)

どこまで続く過剰反応

   今日の朝日新聞の「声」の欄に「過剰反応は余分な不安招く」という一文が掲載されている。まことに新型インフルエンザ騒動の本質を言いえている。「新型インフルエンザへの社会の反応は度を超している。過剰反応の原因は、感染予防というよりも責任回避の集団心理が感じられる」とある。この春まで教育委員会にいたケペルには、その指摘には頷くことが多い。役所は万一でも被害者が拡大したら管理者としての責任をとられることを一番に畏れる。国からの指示があれば、従うのが一番の安全策である。学校や保育所はもちろん、図書館までも休館したところがある。もちろん感染拡大を防止するためであり、自己保身というのは酷なことは分かっている。しかし、開館した図書館もある。「新型インフルエンザは毒性が比較的弱く、過剰な反応をすべきではない。市民サービスの低下もできるだけ避けた」という判断をした西宮市立中央図書館の館長、並びに職員にエールをおくりたい。

本日の食事

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2009年5月26日 (火)

本日の食事

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『大菩薩峠』お浜のモデルは謎の女教師

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「お銀どの」
「はい」
「あの、ここは何村というのであったかな」
「ここは東山梨の八幡村」
「東山梨の八幡村」
「八幡村の大字は江曽原と申すところでございます」
「八幡村の江曽原!」

   人間のもつ業を流転輪廻のなかに描いた中里介山(1885-1944)畢生の大河小説『大菩薩峠』(第6巻慢心和尚の巻)に「八幡村江曽原」という山梨の地名がてでくる。

    中里介山、本名中里弥之助は東京西多摩郡の羽村で生れた。学歴は小学校だけだが、独学で小学校教員となった。15歳の弥之助に大きな影響を与えたと思われる謎の女性がいる。久保川喜世子といい、弥之助と同じ小学校の教員をしていた当時24、25歳の美しい女教師である。髪が黒く、クリスチャンであった。弥之助は彼女と青年クラブの討論会で知り合い、二人はすぐに共鳴しあった。意気投合した二人は羽村に教会を作ろうということになった。坂本という旧家の一室を借りて教会とし、東京から次々と牧師を呼んだ。小学校では弥之助を非難して、「身、教職にあるものが、婦人と同席して、へんな歌をうたう」と騒いだが、弥之助は頑として、きかなかった。教会は西川光次郎のような社会主義者までも講演に呼んだ。このためか弥之助は郡視学ににらまれて、羽村から多摩川の対岸の五日市小学校に転勤させられたが、彼は一日だけで辞職してしまった。ほとんど時を同じくして、久保川喜世子も職を辞して山梨のある医者のもとへ嫁にいってしまう。弥之助はこの久保川喜世子に失恋したのだろうか。介山の実弟中里幸作の談によれば、彼がはるばる大菩薩峠を越えて彼女の実家八幡村江曽原まで追っかけて一泊したことがあったという。小説『大菩薩峠』に登場する宇津木文之丞の妻お浜の出身地も江曽原である。おそらくお浜のモデルは久保川喜世子であろう。これまで『大菩薩峠』は大逆事件の2年後、大正元年に起稿され、翌年に「都新聞」に連載されたことでもわかるように、鬱屈した心情を仮託した思想小説といわれるが、介山自身の苦い失恋体験も投影されているようである。

2009年5月25日 (月)

隠れたる勤皇僧・宇都宮黙霖

Img_0001 宇都宮黙霖

   下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。

    宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)

本日の食事

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2009年5月24日 (日)

本日の食事

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2009年5月23日 (土)

本日の食事

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パンデミックの不安に宗教者のできること

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   ある感染症が世界的に流行することをパンデミックというらしい。もちろん病気を治すのは医者であるが、世界的に流行する感染病の場合、長期にわたれば、病そのものよりも社会病理とでもいうべき、精神不安や経済不況などさまざまな現象が起こるであろう。

   聖書ルカ21に「大地震が起こり、あちこちに疫病や飢饉が起こり、恐ろしい現象や著しい兆しが天に現われる」「イエスは言われた。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」とある。聖書の予言のようにいま地球的規模で大地震が疫病が流行している。各国政府は科学的に対策を講じているだろう。とくにWHOでは今回の新型インフルにおける日本の対策を評価しているそうだ。日本人のマスク着用率は世界一であろう。当然、マスクが不足するので台湾や中国から緊急輸入するそうだ。もちろんお金で解決できることもあるだろう。しかしマスクパニックという現象は逆に過剰反応として地元経済には大打撃となっている。それに最近ではウィルスは空気中を飛びまわらないので、あまりマスクは効果がない、むしろ手や身の回りのものを消毒することが必要だという情報が流されるようになっている。それでも集団マスク姿は花粉症やアスベスト防塵マスクのように日本人には一番好きなんだろう。西洋人はやはりキリスト教の影響があると思う。イエスはハンセン病の患者や疫病に対しても、手を差し伸べてその人に触れ、「清くなれ」と言った。医学的根拠はないかもしれないが、清めと癒しと愛が病を救うことがある。よくむかしから「病は気から」という。今回の騒動でも、熱が出た、という人は多い。ほとんどは新型インフルではない。気分的に病気になる患者が多数いるのだ。ほんとうに大切なのはお金で薬やマスクを世界中から買い集めることではなくて、日本が貧しい国や人々に援助することであろう。日本国内ですら貧しくてマスクを変えない路上生活者がたくさんいる。都会で働くエリートだけがマスクを着用しても感染病は根絶できまい。宝塚では清荒神のお坊さんがマスク5千枚を宝塚市に寄付していただいた。まことに有り難い話で感謝している。でも枚数に限りがある以上すべての人に行き渡るわけでない。ほんとうに貧しくて買えない人に渡せるのだろうか。それにマスク着用すれば安心というのではなくて、宗教者としてはもっと教えの本質を説いてほしい。たとえば一休が髑髏をかざして、京の街中を「ご用心めされ」と説いてまわったように。自分さえよければいいという「あさましい」自分の愚かな姿を日本人たちに気づかせることこそが宗教者の本当のつとめと信ずる。

2009年5月22日 (金)

シェイクスピアと徳川家康

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   シェイクスピア(1564-1616)の時代の芝居の女役は、まだ声変わりしていない少年が演じていた。従って女性の登場人物の台詞はどれもあまり長くない。女優のオフィーリアが見れるようになるのは1660年から後のことである。

   ところで戯曲「ハムレット」の出版は1603年であるが、上演初演は1600年から1601年にかけての頃であろう。「ハムレット」に似たストーリーの劇は1598年頃からなんらかの形で行なわれていたらしく、それは通常「原ハムレット」と呼ばれていて、1594年に上演されたという記録が残っている。シェイクスピアがそれをもとにして「ハムレット」を書いたことはまちがいない。おそらく1600年のことであろう。そうすると、日本で言えば慶長5年(1600年)、あの関ヶ原の戦の年である。
   シェイクスピアと徳川家康(1542-1616)とは他にも共通点がある。卒年が同じだ。シェイクスピアは1616年4月23日、52歳で世を去っている。家康は元和2年4月17日(太陽暦5月22日)、73歳で亡くなっている。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。

本日の食事

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2009年5月21日 (木)

本日の食事

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モーニング娘の過去と現在

  最近のテレビは面白くないので昔のゴチャ撮りビデオを深夜見ている。かなり前のハロープロジェクトの夏のコンサート。もちろんメインはモーニング娘。メロン記念日、カントリー娘、ココナッツ娘、太陽とシスコムーンの稲葉貴子など。モーニング娘の人気はやはり後藤真希の加入後が全盛期だったな、と思っていた。だが今日、オリコンの動画で新曲「しょうがない夢追い人」を聞く。切ない歌詞とメロディー、そしてダンスが最高。9人のメンバー、バランスがとれていてとてもいい。最近、テレビでの露出は少ない。女性アイドルグループとしては秋元康のプロデュースの渡り廊下走り隊に押されぎみだろう。でもアイドルとしての実力はモーニング娘のほうが格段と上だ。やはり先輩から後輩へ伝えられた伝統の力だろうか。現在のメンバーは高橋愛、新垣里沙、亀井絵里、道重さゆみ、田中れいな、久住小春、光井愛佳、ジュンジュン、リンリン。とくに高橋、新垣は成長が著しい。

 モーニング娘の結成は、つんくの番組「アサヤン」の企画「シャ乱Qロックボーカリストオーデション」の落選者の中から選ばれ、1998年1月、中澤裕子(24歳)、石黒彩(19歳)、安倍なつみ(16歳)、飯田圭織(16歳)、福田明日香(13歳)の5人グループ「モーニング・コーヒー」でデビュー。幾多のメンバーの加入と卒業を繰り返し、現在は9名で活動している。初期のメンバーでは安倍と福田が人気があった。なつみの魅力は笑顔。イタズラっぽい目で笑ったり、のぞきこむ表情でふわっとほほえんだり、その表情豊かな笑顔がモーニング娘の楽しい雰囲気を生み出していた。雑誌のインタビューに安倍なつみは次のように答えている。「ほかのメンバーに会ったとき、みんなコワかった。裕ちゃんを中澤さんって呼んでいた。関西弁じゃないですか。裕ちゃん、コワかったなぁ~。でもって茶髪じゃないですか。声、でかいし。あやっぺ(石黒)も茶髪だったし、3歳ぐらい上だったし。当時の3歳上って、結構おっきいんです。だから、コワくて、コワくて」これはたぶん本当の話だろう。中澤裕子と稲葉貴子が酒を飲みながら芸のことで関西弁で激論していたのをテレビでみた。コワかった。あの真剣さの中にこそモーニング娘の現在があるような気がする。つんくはバラバラの個性の女の子(中澤は24歳で福田は13歳という年の差に注目)で、あまり美少女でない子を集めて、全体に新しい魅力をひきだすということにチャレンジしている。秋元康とは対照的なのがとても面白い。

貧乏の歌

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  吾れ遂に
  飢ゑて死ぬとも今の世に
  反逆の子となりて倒れむ
                                   渡辺順三

    渡辺順三(1894-1972)は明治27年、富山県生まれ。13歳で父に死別し、14歳の夏、母とともに上京し、家具屋の徒弟となる。少年順三は歌を作り、読書をする。そして啄木の歌を知り、哀果の歌を知り、漸次社会主義思想を自らのものとする。

「大正12年の春、私は小僧時代から働いていた家具屋を出た。そしてその時の退職手当を資本にして池袋で小さな印刷屋を開業した。ところが間もなく9月1日の大震災にあい、これからの数年間が貧乏と病気の連続で、文学どころではなかった」と『自選歌集』の「あとがき」で語る。昭和3年、新興歌人連盟、プロレタリア歌人同盟などに加わり、プロレタリア短歌運動の中心的存在となった。戦後は「新日本歌人協会」を主宰して活躍する。

2009年5月20日 (水)

マスク・パニック

   新型インフルエンザが20日現在で国内の感染者は兵庫・大阪・滋賀3府県で237人である。神戸に住む会社員の女性が大阪へ向かう通勤電車で自分だけがマスクをしていないことに気づき「非常識と思われているようでつらい。でも、品切れで手に入らない」と悩んでいる。関西ではまるで石油ショックでトイレット・ペーパーが無くなったときのような騒ぎだ。朝日新聞夕刊の山田明教授(臨床ウィルス学)によると「マスクは感染者がせきをしてウイルスを周囲にまき散らすのを防ぐのに一定の効果がある。外からの感染を防げるかどうかは意見がわかれる」と専門家が言う。とはいってもJR大阪駅ではおよそ8割の人はマスクを着用しているそうだ。まさか8割の人が感染者ではあるまい、きっとその人たちは自己防衛のためマスクを着用しているのだろう。ほとんどの人はマスクが疫防に効果があると信じているのだろう。だがマスクを手に入れることができない人は、マスク姿の集団を見れば、自分は感染して死ぬのではないかと恐怖心に襲われるかもしれない。まさに「マスク・パニック」である。群衆心理とは社会に様々な影響を及ぼす。マスクでこの程度だがワクチンが無いとなるとどうなるのか。医療の貧しい国ではワクチンが買えないで死んでいく子供達もいるのに、大国日本は金で買い占めて備蓄するのだろうか。現代は生きることがあさましくみえてくる。新型インフルエンザには冷静な対応が必要である。

 大正7年のスペイン風邪が流行したときの短歌を紹介する。

寝(い)ねがえしこの寝台にいくたりが死にけるやなど思ふ秋の夜
                                     西川百子

    西川百子は大阪毎日新聞社京都支局の記者、歌人として当時は有名だった。本名は西川正治郎といい男性である。明治21年生まれ。『無産者』の「病床語」の中の一首。「大正7年10月流行感冒を病みて京都府立病院に入る」と詞書されている。歌集『無産者』(弘文堂書房、大正8年)、『刀葉林地獄』(大正11年)、『婦女身』(昭和3年)。山本宣治とも交友があったが、昭和になり転向。生活派につながる歌人の一人であるが、歌壇に属してないためか忘れさられた歌人である。

電話の発明者ベル

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    アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)はいつも音に関して好奇心をもっていた。彼の父アレクサンダー・メルヴィル・ベルも祖父も、耳の不自由な人たちの先生をしていた。だから幼いベルは、音というものがとても重要なものだとわかっていた。彼は自然に音は当然聞えるべきものだとは思わないようになっていた。なぜなら彼は、聴力を失った子供をたくさん知っていたからだ。結局、彼が子供のころ発達させた好奇心のために、実験や研究をするようになった。1870年父とともにカナダのオンタリオ州に渡り、1872年ボストン大学の言語生理学教授となり、かたわら音波を電流によって伝播する研究をはじめた。その結果、電磁型送受話器によるアメリカ最初の有線電話を発明した。ベルは非常に幸運にも、彼に大変興味をいだかせるようなものを重要視する環境で育てられたのである。

本日の食事

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2009年5月19日 (火)

新型インフルエンザ感染予防のためのマスクに関して

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   新型インフルエンザの水際対策に失敗した日本では、いま感染拡大期、あるいは蔓延期になって患者が日々増加しつつある。19日午前11時現在で173人(兵庫103人、大阪70人)いずれ京都、奈良へと拡大するのも時間の問題であろう。関西を中心とする修学旅行のキャンセルが相次いでいる。関西では神戸まつりの中止など、イベント、催しの自粛ムードで沈滞気味である。兵庫県と大阪府では一斉休校の措置がとられている。美術館、図書館でも臨時休館しているところがある。とくに目立つのはマスク姿の通勤客である。国も「マスクの着用」を要請しているし、マスクは会社でも常時着用しているところも多い。マスク製造販売業者の方からは叱られるだろうが、マスクという物に依存した対策に疑問があるように思う。
   われわれはふつう風邪をひいたときマスクをする。これは患者がくしゃみや咳で他人に感染したないための「咳エチケット」としてのマスク着用である。だが今回は感染予防としての自衛手段としてのマスク着用のように見受けられる。マスクはのどの保温保湿効果で抵抗力も高めることができる。ただし、街中での感染予防効果はどれほどあるかは、わからない。科学的根拠は明らかではないという。むしろ衛生の基本として、栄養や睡眠を十分とり、規則正しい日常生活を続けることこそ大切ではないだろうか。マスクも品切れ状態が続き、薬局で何十人も並んでやっと買ったが、人混みで感染したということにならないだろうか。感染者が推定5千人以上いるというアメリカでもマスクをしている人をほとんど見かけないという。世界的にみてもこれほどの人がマスクを着用しているのは日本だけだろう。もちろん官庁や会社でマスク着用を義務づけているところもあるだろうが、みずから進んでマスクをしている人も多い。日本人にマスク着用者がとくに多いのは、おそらく花粉症対策の習慣からくるもので、マスクをしておれば安心として、一種のマスク過信が存在するのではないだろうか。マスクをはずすとき、ひもをもってはずさないと、ガーゼの面にふれるとむしろ汚染するので、使い方を間違えばかえって感染することも多い。ともかくマスクは国民的風習なのか、行政指導なのか知らないが、マスクなしで街中を歩くと白い眼で見られるような状況である。休校で中・高校生は繁華街やカラオケボックスで遊んでいるし、母親やお父さんも家庭や職場でストレスがたまっている。長期戦になると思うし、感染よりも過剰な不安による社会マヒが悪影響を与えることをなにより懸念している。

本日の食事

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自己啓発

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   図書館に勤めていた頃、夏になると子どもたちから「自由研究の本はない?」とよく聞かれたことがある。夏休みに毎年自由研究という宿題がだされる。子どもも親もこれが一番悩まされるらしい。自由なんだから、本人がなんでも興味のあることを研究したり、調査したりすればいい。ところが特になんにも興味がないけど、とりあえず宿題だからしなければいけない。世の中には、この問題のために「自由研究○年生用」という本がででいる。自分自らのアイデアではなくて過去の人が創意工夫したアイデア集、つまりアンチョコである。利用者は『自由研究』と書かれた本であれば、中味の良し悪しにかかわらず納得する。もっと他に理科や工作や社会科の本でもユニークな自由研究のヒントになる本はいっぱいあるのに、それらの本には見向きもしない。そういう子どもはたいてい親がついてきて、親自らが「自由研究」のサンプル集でないと気に入らないことが多い。

   これと似たことは、大人にもある。「自己啓発の本はないですか」とたずねられる。企業向けの自己啓発といわれる本は世の中にたくさんでているだろう。そういう人もやはり本の題名に「自己啓発」という文字がないと気にいらないようだ。学ぶ心、というよりも、なんでも簡単にマニュアル本で済ましてしまおうとする現代人の安易な姿勢がみえてくる。松下幸之助に次の言葉がある。

学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらのすべてに学びたい

                       *

  1万冊蔵書 家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」阪急宝塚・逆瀬川駅下車

2009年5月18日 (月)

チャイコフスキーの結婚生活

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   1877年4月末に、36歳のチャイコフスキー(1840-1893)は、アントニーナ・ミリューコワという音楽院のかつての教え子から愛の告白の手紙を受け取った。彼はミリューコワの顔すら思いだすことができなかったが、丁度、オペラ「エヴゲニー・オネーギン」を作曲している最中で、主人公タチアーナがオネーギンに愛を告白して、冷たく退けられる場面を作曲している途中であったので、創作と現実との符合におののき、彼女との結婚に踏み切ることにした。
   7月6日にモスクワの聖ゲオルギー教会で結婚式を挙げた二人は、その日の内にペテルブルグに向けて出発した。チャイコフスキーの父親などを訪問し、14日にモスクワに帰ってきた。しかし、二人の結婚生活は最初からうまくいかず、9月中頃、精神的痛手を負ったチャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るが失敗する。わずか3ヵ月で結婚生活は破綻し、10月には別居している。チャイコフスキーには同性愛的傾向があったというが、結局、離婚の真相は誰にもわからない。

鳩山一族は学者肌!?

Img 鳩山秀夫

    5月16日、鳩山由紀夫は民主党の新代表に選ばれた。政権交代をかけた総選挙にもしも勝利すれば次の首相となる可能性が極めて高い。鳩山由紀夫が政界入りを果たしたのは昭和61年7月、39歳のときである。それまでの彼は、東京工業大学助手を経て専修大学助教授という地位にあった。
   鳩山家は、言わずと知れた政界屈指の名門である。曽祖父の鳩山和夫(1856-1911)は衆議院議長、祖父の鳩山一郎(1883-1959)が首相、父の鳩山威一郎(1918-1993)が外相と直系で4代にわたる世襲議員である。鳩山一族の顔触れを見ると、政治家ファミリーとは別の、もうひとつの一面がある。学者一族という顔である。鳩山和夫は東京法律学校の学長も務めた法学博士、妻の薫は共立女子大学の創設者にあたる。和夫の次男で、一郎の弟、鳩山秀夫(1884-1946)は東大教授で、『日本債権法総論』は名著といわれる。秀夫の義父である菊池大麓(1855-1917)は、東大総長で、数学教育の振興に大きな足跡を残している。秀夫の妻千代子は大麓の次女だが、長女の多美は美濃部達吉(1873-1948)に嫁ぎ、三女の冬子は末弘巌太郎(1888-1951)の妻となっている。

Img_0001 秀雄とあるのは秀夫の誤り

本日の食事

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2009年5月17日 (日)

草城と草田男

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  おおむねホトトギス俳人は、蕉風推讃者であり、俳句史の研究、とくに芭蕉を神聖化しているのが通常である。古句を鑑賞するのは良いが、自然と新路を開く点において弱い。いわゆる花鳥諷詠にとじこもることになる。このような中からも昭和初期のモダニズムの風潮に乗じて、ホトトギスでも若手の日野草城(1901-1956)が新精神と自由主義を標榜して、新興俳句運動をおこした。だが無季俳句や連作俳句のため草城は昭和7年には「ホトトギス」同人の除名処分をうける。
  昭和9年、日野草城は「俳句研究第2号」に「ミヤコホテル」10作を発表した。

  けふよりの妻と来て泊つる宵の春

  夜半の春なほ処女なる妻と居りぬ

  枕辺の春の灯は妻が消しぬ

  をみなとはかかるものかも春の闇

  薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ

  妻の額に春の曙はやかりき

  麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく

  湯あがりの素顔したしく春の昼

  永き日や相触れし手はふれしまま

  失ひしものを憶へり花曇

   室生犀星は「俳句は老人の文学ではない」として草城を激賞したが、久保田万太郎は「流行小唄程度の感傷」と評した。また守旧派の中村草田男(1901-1983)は「ミヤコホテルとは、厚顔無恥なしかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿であろう」と草城を激しく非難している。中野重治も「いい加減な男が、女を浅くたのしんで見ている様子が感ぜられて愉快ではない」と断じている。
    結局、草田男らの徹底した批判の中で、草城の風俗小説風の連作俳句はやがて消えていく。草城は一時俳句を中断し、戦後は闘病生活で54歳という若さで亡くなる。一方の草田男もやがてホトトギスを離れていく。草田男は「私は所謂昨日の伝統に眠れる者でもなければ、所謂今日の新興に乱れる者でもない」といい、新鮮な象徴的観点から、観念や思想を詠う現代俳句への道を開く。

ゆきて還らず、人間魚雷回天の出撃

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Img_0006 仁科関夫中尉

  レーダーの発達は、日本潜水艦にとって不利な状況となっていった。昭和18年秋ごろ、黒木博司大尉(1921-1944)と仁科関夫中尉(1923-1944)は、戦勢を挽回するため潜水艦、とくに特殊潜航艇は必死必中の特攻あるべしとし、93式魚雷を人間が操縦する回天を考案した。すぐに採用にはならなかったが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦、続くマリアナ失陥と、戦局が重大な転機に立ち、海軍首脳部は回天の使用を決定した。
    最初の回天攻撃は、昭和19年11月20日ウルシーに対して行われた攻撃である。伊号第47潜水艦(折田善次艦長)から4基(仁科関夫中尉、福田斉中尉、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉)、伊号第36潜水艦(寺本巌艦長)から1基が発信して、油槽船ミシシネワ1隻を撃沈。ミシシネワは23000トンの大型タンカーで約70名の戦死者がでた。日本の新兵器に震撼した米海軍は被害の公表を隠蔽したが、未発表戦果があるらしい。伊号47の艦長であった折田善次元少佐は「米空母を撃沈した」と証言している。回天による攻撃は終戦まで続いた。有形の戦果はさほど多くなかったかも知れない。しかし戦の中に散っていった89名とも80名とも言われる若き回天搭乗員のことを忘れない。回天の考案者の黒木博司大尉は昭和19年9月6日、徳山湾にて訓練中殉職した。仁科関夫中尉は黒木大尉の遺骨を胸にウルシーに突撃自爆した。

「知る権利」の誕生

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   第二次世界大戦の末期1945年1月23日、ニューヨーク・タイムズは、その社説の冒頭で次のように述べた。

   AP通信の常務ケント・クーパーは、日曜日の朝、当市のテンプル・イマーニュ・エルで行なった講演のなかで、古来の自由という文言に代えて、適切にも新しい表現を用いた。彼は「知る権利」について言及したのである。市民は、十分で正確に提供されるニュースを受ける権利がある。「国においても、世界においても「知る権利」の尊重なしに政治的自由はありえない。

   「知る権利」(Right to Know)という新語の創始者がケント・クーパー(1880-1965)であるかどうかは、断定できない。しかし、それから10年後の1955年10月、アメリカの新聞週間は、そのスローガンに「あなたの新聞はあなたの知る権利のために闘う」を採用した。つまり、このころまでには、知る権利という言葉は少なくとも新聞人のあいだで定着していた、とみなしていい。ケント・クーパーは翌年には『知る権利』(1956)を刊行している。彼は戦時中の言論支配の体験から、取材活動の自由を「知る権利」の名で主張したのだ。
  その後、アメリカでは、1966年に「情報自由法」が制定された。情報公開法を有する国は、北欧諸国やカナダ、オーストラリア、ベルギー、オランダなどに広がったが、1996年にはアジアで初めて韓国において情報公開法が制定された。我が国では1999年に情報公開法が制定された。

本日の食事

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2009年5月16日 (土)

本日の食事

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2009年5月15日 (金)

人生とはペルシア絨毯の絵模様のようなものだ

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    サマーセット・モーム(1874-1965)の代表作である『人間の絆』に、「人生とはペルシア絨毯の絵模様のようなもので、何の意味もないものだ」という名文句がある。主人公フィリップは無数の無意味な人生体験から、できるだけ美しい意匠を織りなそうと努力するが、だが、考えてみると、世にも単純な絵模様、つまり人が生まれ、働き、結婚し、子どもを持ち、そして死んでいく、というこも完璧な意匠であることに気がつく。幸福に身を委ねることはある意味で敗北の承認かもしれない。だがそれこそは多くの勝利よりもはるかに立派な敗北だったのだ。これがフィリップの結論であった。

   ところで「人間の絆」の中に「人間というものは愛が得られないためよりも、金が得られないために自殺することが多い」ともある。どうやら統計的にみても事実だ。警察庁の発表によると、2008年中の自殺者は32,249人だが、自殺の理由は健康問題が最も多く、経済・生活問題、家庭問題、勤務問題の順だという。それにして毎年3万人以上の人が自殺しているとは驚きである。実は変死はこの中に含まれていない。変死など原因不明を入れた実質的年間自殺者は10万人を超えるという推測がなされている。

   時代的にみると、明治末期の10年間は、自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は16から19で20を超えたことはなかったが、大正時代では17から20とやや増加した。昭和初期の10年間はさらに増加して20から22となった。戦後は逐年増加の傾向を示し、昭和33年から35年には20から25と記録的上昇を示した。その後は減少傾向を示し、昭和42から43年には13と低下した。その後は漸増傾向にあったが、昭和49年末のインフレ不況のなかで自殺率が急増した。平成18年の自殺率は23.7である。平成10年から11年連続で自殺者が3万人を超えるという深刻な状況が続いている。諸外国と比較しても日本は自殺率が高い国である。自殺の原因は複雑であり、一概には言えないが、神経衰弱、生活苦、将来不安、事業の失敗、家庭不和、厭世、失恋、病苦などいろいろある。複雑な条件がからみあっているだけに、真相を解明することは難しい。とくに平成10年以降の自殺者の増加には社会的経済的な要因が影響していることは明らかであり、格差社会という競争原理社会の一面がうきぼりにされている。

戦艦陸奥生存者たちの悲惨な運命

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   昭和18年6月8日、午後12時10分過ぎ、広島港内の柱島泊地で、戦艦陸奥の第3砲塔付爆薬庫が突然原因不明の爆発を起こした。その日は雨で、乗員のほとんどは艦内にいた。急速な沈没のため逃げ遅れ、乗員1474名のうち救助されたのはわずか353名だった。

   そして生存者353名には悲惨な運命が待っていた。家族との面会も許されず、そのまま最前線へと送られていったのだ。事故で戦艦陸奥が大爆発したという一大不祥事を、隠蔽するためだった。海軍の徹底した情報隠しは功を奏した。国民は陸奥爆沈のことを戦後まで知らなかったし、アメリカにも事実は漏れなかった。終戦後、日本に進駐した米軍は、海軍関係者に「陸奥はどこだ?」としつこく尋ねたという。

   当時、陸奥と扶桑は柱島沖に並んで停泊していた。扶桑の艦長であった鶴岡信道(1894-1984)の証言がある。

「あのとき陸奥では、乗員の中でひんぴんと窃盗事件があって、特務少佐がその日、ちょうど呉の軍法会議に、処置を相談に行ってるんですよね。彼(陸奥艦長・三好輝彦)はそれで助かったんですね。そこで嫌疑をうけたものが弾庫で自決するため自爆したのではないか、という説が出てくるわけですが、これも死んだので、永久に真相はナゾのまになっているわけですな」と語る。

    陸奥の沈没は極秘とされ、秘密裏に原因調査が進められ三式弾の自爆、乗員による爆破、スパイの陰謀など種々の説が浮かんだが、ついに「戦艦陸奥、謎の爆沈」として今日にいたっている。
昭和35年の新東宝映画「太平洋戦争、謎の戦艦陸奥」は天知茂と女間諜・小畑絹子の恋物語も絡んでいたが、陸奥爆沈の直接的原因はアメリカ工作員の時限爆弾によるものであった。時刻は12時ちょうどとなっていた。歴史的証言から、12時をだいぶん過ぎた時間なので時限爆弾説は信憑性を欠くものといえるだろう。

本日の食事

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2009年5月14日 (木)

本日の食事

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石川啄木の大衆性

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  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば

   石川啄木(1886-1913)が妻子を盛岡に、老母を渋民に残し、妹の光子と津軽海峡を越えたのは、明治40年5月4日であった。その時の心境を啄木は日記に記している。

「夜九時半頃青森に着き、ただちに陸奥丸に乗り込みぬ。夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海黒し」

    新しい運命を切り開くべく、北海道・函館の地を踏んだのは、翌日の5月5日であった。

    啄木の歌の特徴を挙げるとすれば、先ず第一にその庶民性、大衆性であろう。歌はいずれも平明であり、その点が広く大衆性を受け入れられ、日本近代文学史上、最も有名な国民詩人といわれるゆえんであろう。

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたわむる

    啄木は北海道に渡って函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活を送ったが、明治41年の春、上京して小説家を志すが、その小説が売れないために悩み多い日々を送っていた。啄木「東海の歌」は『一握の砂』巻頭の歌で、啄木の作品中最も有名なものである。

  頬につたふ
  なみだにごわず
  一握の砂を示しし人を忘れず

        *

  砂山の砂に腹這ひ
  初恋の
  いたみを遠くおもひ出づる日

        *

  いたく錆びしピストル出でぬ
  砂山の
  砂を指もて堀りてありしに

   こうして啄木の歌を並べて見ると、津軽海峡、函館、小樽、釧路など流行歌の舞台となる所が多い。石原裕次郎の「錆びたナイフ」(萩原四郎・作詞)がある。

  砂山の砂を 指で掘ってたら
  まっかに錆びた
  ジャックナイフが出て来たよ
  どこのどいつが 埋めたか
  胸にじんとくる 小島の秋だ

   この歌謡曲を聞く一般大衆の胸中に漂白の悲しみが沸き起こるのは、たぶん啄木の愛唱歌を想起するからではないだろうか。

儒教における喪礼

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    日本人にとって儒教は宗教ではなく儒学という学問、あるいは「論語」に代表される倫理道徳として理解している人がほとんどであろう。だが加地伸行は「儒教は生命の連続を最も大切にする、家の宗教である」と儒教の宗教性を強調している。(『儒教とは何か』)

    数年前、「千の風になって」がブームとなってから、「亡くなった人はお墓にいない」「風になってそばにいる」という霊魂がみなおされてくるようになった。だが仏教は火葬にして、成仏するか、成仏しない場合、その霊魂は生の時間から、(中陰という)別の時間に入る。死者を成仏させるためお経を唱える仏教では、霊魂がただようことを否定するため、仏教界からは「千の風」ブームを批判する声はつよい。

    儒教の場合は遺体は家に安置しておく。これを殯(もがり)という。今日、お通夜をしたり告別式がすむまで柩を安置しているのは、儒教における殯の残影なのである。そして儒教では、殯の儀式を経て、遺体を地中に葬り、さらにその後の儀式が続く。遺体を埋める「葬」は「喪礼」の一段階にすぎない。儒教的には死者の肉体は焼くべきではない。死とともに脱けでた霊魂が再びもどってきて、憑りつく可能性を持つものとされる。だから、死後、遺体をそのまま地中に葬り、墓を作る。それがお骨を重視する意味である。

    つまり日本の仏式葬儀の中に、儒式葬儀の儀礼が取り込まれているのである。さらに言うと、インドにおける本来の仏教には、焼いたあとの骨を拝むなどということは、なかったはずである。シャカが亡くなってのち、その骨を納めた塔が建てられたのは例外である。つまりインド仏教とはなんの関係もない儒教の喪礼を多く取り入れたのが、日本で普及したといえる。日本人は儒教を真に理解するには倫理道徳だけではなく、その宗教性から根本的に理解しなければならない。

2009年5月13日 (水)

本日の食事

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政治家の品格

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  鴻池祥肇官房副長官が突然辞任した。なんと愛人同伴で2泊3日の熱海ゴルフ旅行を週刊誌にフォーカスされたことが理由らしい。まったく国民をバカにしたあきれた話だ。不倫は個人の問題であるとしても、とくにJR無料パスを使用したことは、国会議員の特権を悪用したものとして許せない。週刊新潮には「ボクは祖父からのDNAがあって女癖が悪い。あのタレントの草なぎと同じように失敗してきた。麻生政権の足を引っ張るようなことをやって申し訳ない」「浮気といえば浮気や。全部捨てて一緒になるわけやない」草なぎを持ち出して世間の同情をかおうとするし、祖父からのDNAのせいにする。自身を3代にわたる艶福家、つまり女にようもてる、10人の女がいた、とか自慢話のように聞える。週刊誌を読んだ印象では、反省の色なし。というより政治家としての責任感というか使命感が全く欠如している。4月28日といえば新型インフルエンザの対策本部を設置した当日のこと。危機感ゼロ。麻生首相は健康上の理由で辞任したのだから、任命責任は無しという。役職を辞任したといっても議員をやめるわけでないから、どうってことないわけだ。麻生にしても小沢にしても鴻池にしても、どうしてこのような人が政治家になるのだろうか。結局、その権力にむらがり、利権をあさる国民がいるからだ。すべて己の欲や利害関係で投票する人が多いのだろう。汚れた顔の日本人をみるのが辛く悲しい。

読書で経験すること

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    我々が意識していると否とにかかわらず、読書するたびに経験することが一つある。すなわち、作家の人格にふれるということである。

B・ドブレー(1891-1974) イギリスの文学者。「オックスフォード英文学史」の監修者として知られる。

「女性の書斎・ひとり好き」宝塚・阪急逆瀬川駅下車

2009年5月12日 (火)

本日の食事

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ことわざで見る諸葛孔明

   日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同様のことわざが中国にもある。「平凡な靴屋でも、三人集れば諸葛亮の知恵」という。智謀の軍師・諸葛孔明は兵法だけでなく、知恵の象徴でもある。
    日本では孔明といえば劉備との理想的な君臣関係(「三顧の礼」「水魚の交わり」)として知られ、至誠至忠の臣、南朝の忠臣・楠木正成に比せられることが多い。俗諺に「楠も孔明も跣足」というのがあった。「跣足(せんそく)」とは、はきものをはかない、すあしのこと。智謀の優れたことをいい、よい智恵の出た時などに使う言葉だった。

織田信長の上洛(永禄11年)

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  永禄10年、織田信長(1534-1582)は美濃の斎藤龍興(1548-1573)の本拠井ノ口城を陥れた。信長はここを岐阜と改めるとともに、僧沢彦に撰ばせた「天下布武」の印をつくって、武力統一に対する抱負を示した。翌年9月7日、美濃・尾張を平定した信長は、大軍を率いて岐阜城を出発した。そうして、その途中、六角義賢の支城箕作、その他の城々を一蹴し、義賢の居城観音寺山を陥れた。9月28日、信長は足利義昭(1537-1597)を擁して京都に入った。上洛を遂げた信長は東寺に陣し、義昭は清水寺に入った。信長が入京するというので、一時京都市中はパニック状態となったが、入京した信長は、細川藤孝に御所の警備を命ずる一方、軍勢を厳格な軍規統制のもとにおき、市中の動揺もまもなく鎮静した。京都周辺では、三好長逸、三好政康、岩成友通の三好三人衆や篠原長房らに擁立された足利義栄が摂津富田城(高槻市)に、三好三人衆がそれぞれ山城勝竜城(長岡京市)、摂津芥川城(高槻市)、越水城(西宮市)に拠って信長に抵抗していたが、勝竜寺城は29日に、他の諸城も数日のうちに攻略され、三好党は阿波へ敗走した。10月18日、足利義昭は室町幕府15代将軍に就任した。

2009年5月11日 (月)

本日の食事

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陶器コレクター久志卓真

   戦前戦後、陶器コレクター、研究家として知られた久志卓真。その著書は十数冊に及ぶ。戦時中にもかかわらず高価な美術書を次々と出版している。いまでも古書の世界で高価で流通している。ケペルは久志の「支那上代史」を所蔵しているが、この本は漢代までの概説書であるが、専門の東洋史家と遜色ない学識であることがわかる。久志はもともと新進のバイオリニストで作曲家であった。音楽、歴史、美術と多彩な才能を持った資産家らしいが、詳しいことはわからない。以下、その著書を記す。

「現代音楽論」(新鋭哲学叢書18) 高陽書院 昭和12年
「図説朝鮮美術史」 文明商店 昭和16年
「朝鮮名陶図鑑」 文明商店 昭和16年
「支那の陶器」 宝雲舎 昭和17年
「支那上代史」 宝雲舎 昭和18年
「朝鮮の陶器」 昭和19年
「仏教美術の鑑賞」 太和堂 昭和22年
「工芸の古典と新精神」 宝雲舎 昭和22年
「中国陶磁1」 元々社 昭和29年
「世界陶磁全集10」 河出書房 昭和30年
「骨董遍歴」 昭森社 昭和38年
「明初陶磁図鑑」 雄山閣 昭和43年
「乾山」 雄山閣 昭和47年
「朝鮮の陶磁」 雄山閣 昭和49年

国家権力と自然法との上下関係

Photo トマス・ホッブズ

    近代国家においては、すべての政治は原則として法によって行なわれる(法治国家の原則)。ところが古代においてはローマ帝国の場合、「君主は法に拘束されない」とか「君主の欲するところは法の効力をもつ」という法諺が示すように、イムペリウムは絶対的な権限として考えられていた。
    中世のローマ教会が支配する時代になると、トマス・アクィナス(1225-1274)が体系化した自然法は、「理性的被造物によって分有された永遠法」であり、神法的性格をもつ。ゆえに、自然法は実定法を制約する。そこで、かりに「君主の欲するところが法である」としても、その法は実定法にほかならないから、自然法による制約を受ける。したがって、君主もまた自然法の下位にあると考えられた。
   これに対してトマス・ホッブズ(1588-1679)は、自然法とは人間が快適に生きるための条件であり、自然権の確保のために人間が必要としする条件であるとした。そのため契約によって全権を主催者にゆだねて国家を造ったとする一種の社会契約説が生れるようになる。ホッブズは近代的法の支配の主唱者であるといえる。

女たちの本能寺の変

    NHK大河ドラマ「天地人」では今回「本能寺の変」であった。織田信長(吉川晃司)は天下を目前にしながら、明智光秀(鶴見辰吾)の謀反にあい本能寺にて自害する。
    本能寺の変のドラマでいつも気になるのが信長の正室の濃姫と光秀の正室の凞子の存在である。とくに濃姫の没年は不詳であるが、一説には本能寺の変で信長とともに死んだといもいわれている。数年前の大河ドラマ「功名が辻」では、明智光秀(坂東三津五郎)と濃姫(和久井映見)とのラブロマンスが全面的に描かれており興味深かった。今回の「天地人」では信長の女忍者(愛人?)として初音(長澤まさみ)が登場するが、イマイチ不自然な気がする。次回の大河ドラマでは濃姫と凞子との女のバトルを見たいと思うのはケペルだけだろうか。

「お大師さん」は「賭博」の隠語

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   御大師とは弘法大師空海の敬称である。しかし、本来の意味ではなく隠語として別の意味で使われることがある。真言宗の開祖である空海の名前がなんと「サイコロ賭博」を意味するのである。

   サイコロと言えば、表裏になっている面の数の合計が7になり、すべての合計は21になる。これを、弘法大師の縁日が21日であることにひっかけたのである。双六がもともと密教の教材に使われたものであることを考えると、空海とサイコロはなにやら因縁があるようである。

高見順「故旧忘れ得べき」

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    高見順(1907-1965)は明治40年2月、福井県坂井郡三国町平木に生れた。後の枢密顧問官にまでなった阪本釤之助(1857-1936)が福井県知事として赴任していたとき、美人として評判の高間古代との間に高見順、本名高間芳雄が生れたのである。「私は歓迎されない者として生れた」といって高見順は出生について生涯苦しんでいた。

「今ひとたびの」「わが胸の底のここには」「この神のへど」「都に夜のある如く」「乾燥地帯」「インテリゲンチア」「甘い土」、高見順の人と作品(山本健吉)
「現代日本文学19 高見順集」筑摩書房

2009年5月10日 (日)

あれはナイチンゲール、ヒバリじゃないわ

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    ロミオはジュリエットと一夜を過ごす。夜明けが近づいてヒバリが鳴き始めて、やがてロミオとの別れが近づく。ジュリエットは別れがつらくて「あれはヒバリじゃなくて(夜に鳴いている)ナイチンゲールよ」と言う。
    羽は赤ちゃけた色をしており、腹は灰白色で、姿は美しいとはいえないが、声はもっとも美しい鳥としてイギリスでは詩にしばしば登場する。
    英詩でナイチンゲールがうたわれるようになったのは13世紀の後半からである。この鳥は季節からいえば春と夏とにまたがっている。イギリスの夏は暦の上では夏至(6月21日)から秋分(9月22日あるいは9月23日)までをいうが、実際には5月半ばから8月下旬までをいう。イギリスの夏は涼しく、花も美しい。6月、7月が夏のさかりといってよい。ところでジャズの名曲「スターダスト」の歌詞にもナイチンゲールがでてくる。子どもの頃からザ・ピーナッツの唄で何百回となく聴いた。日本人にも結構お馴染みの鳥なのだ。

本日の食事

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田宮虎彦「足摺岬」

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    田宮虎彦(1911-1988)は、明治44年、東京医科大学付属病院で出生。船員であった父の転勤のため、姫路・神戸・高知間で移転を繰り返しながら少年時代を過ごす。庶民的ヒューマニズム・正義感と清らかな詩情の漂う作風の私小説で才能を示した。

「物語の中」「末期の水」「菊の寿命」「悲運の城」「大盗余聞」「忠義物語」「ある女の生涯」「異端の子」「朝鮮ダリヤ」「幼女の声」「梅花抄」「土佐日記」「江上の一族」「三界」「異母兄弟」「S町の歴史とその住民たち」「琵琶湖疎水」「比叡おろし」「富士」「菊坂」「かるたの記憶」「父という観念」「暗い坂」「現身後生」「童話」「母の死」「銀心中」「ぎんの一生」「黄山瀬」「愛情について」、田宮虎彦論(渋川驍)

「現代日本文学22 田宮虎彦集」筑摩書房

中山義秀

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    中山義秀(1900-1969)は明治33年、福島県岩瀬郡大屋村字下小屋に生れる。人間の孤独の寂寞の底をくぐり、人生の悲苦に立ちむかう姿を描いて絶妙である。戦後は戦国武将や戦国史記に筆を致し、数多く発表した。

「テニヤンの末日」「魔谷」「少年死刑囚」「散りゆく花の末に」「古老譚」「闇に浮く睡蓮」「霧にゆらぐ藤浪」「寂光の人」「高野詣」「月魄」「原田甲斐」「寿永の春」「春雨秋雨」「天保の妖怪」「相学奇談」「平手造酒」「根岸菟角」「北条早雲」「松永弾正」「物ぐるい」「戦国史記」、中山義秀(河上徹太郎)「現代日本文学5 中山義秀集」筑摩書房。

2009年5月 9日 (土)

二重スパイ・ライテクの正体

Photo シンガポールの夜景

  今は昔、浪路はるかなる南洋の地に、確実に存在した日本軍政による昭南特別市。昭和16年12月から始まった日本軍のマレー侵攻という状況下、マラヤ共産党の書記長として最高指導者であり、また日本とイギリスの二重スパイでもあったライテクという謎の人物がいたことは以前にもこのブログに書いた。彼の出身、素性、そして死まで謎である。事典やウィキペディアにも項目がない。
   中島みち「若きコミュニスト・ライテクの正体」によれば、その風貌は色白で、やさしげで、なよなよした感じの若い男だったとある。およそ権謀術数に長けたゲリラの指導者というイメージではない。
    出身は、当時フランス領であったベトナムの生まれで(安南人、安南生まれの華僑など諸説あり)、そもそもフランス当局からコミンテルンに送りこまれたスパイではないかという説もある。
    名前は、普通ライテク(Lai Tek)と呼ばれる。かつてのマラヤ共産党書記長(1939年から1947年まで)は、Wright(ライト)とも書かれる。黄紹東、黄金玉、黄金泉、亜烈など別名を使う。ベトナム人の間では、黄阿岳の名で知られる。日本軍はライテクを萊特、萊徳などと書いた。
    ともかくライテクはシンガポール・マニラ全域のコミュニストを指導する最高幹部でありながら、昭和17年4月頃には、英軍が敗北するや、日本軍から巨額の金をもらい仲間の情報を漏らした。そして日本が敗色濃厚になるや再び英軍に情報を売った。戦後は英軍の協力者として遇されたが、国民や党幹部を裏切ったことが知れると、査問委員会の前に、党の金を持ち逃げして、海外逃亡を図る。バンコクでマラヤ共産党キラー団によって殺されたという。
    (参考:中島みち「日中戦争いまだ終らず」文芸春秋)

開高健と大江健三郎

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 筑摩書房「現代日本文学34」
開高健集「パニック」「巨人と玩具」「裸の王様」「二重壁」「なまけもの」「一日の終りに」「流亡記」「見た」「岸辺の祭り」「告白的文学論」
大江健三郎集「奇妙な仕事」「他人の足」「死者の奢り」「飼育」「人間の羊」「芽むしり仔撃ち」「不意の唖」「戦いの今日」「後退青年研究所」「下降生活者」 大江健三郎論(渡辺広士)

   むかしの文学全集は開高健と大江健三郎はいつもセットになっていた。2人は、ほぼ同じ時期に文壇にデビューした。開高健は昭和5年、大阪の下町に生まれ、昭和32年に「パニック」(「新日本文学」8月)でデビュー。大江健三郎は昭和10年、愛媛の農村で生れ、昭和32年に「東京大学新聞」五月祭賞受賞作として「奇妙な仕事」を発表し、選者であった荒正人や平野謙らの注目を呼んだ。
   ちなみに2人の芥川賞受賞は、開高が昭和32年下半期に「裸の王様」で、大江が昭和33年上半期に「飼育」で受賞している。

本日の食事

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アンドレ・ジード

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   私は書棚から一冊の本を抜き出して、それを読んだ。そしてその場所に納めた。私はその本を読んだことさえ忘れていた。しかしそれを読んだ後の私は、もはやそれを読む以前の私ではなかった。

                            アンドレ・ジード

  *  *  *  *  *  *  

   アンドレ・ジード(1869-1951)は早くからマラルメ、ヴァレリーと知り合い、象徴派風の作品を書くが、すぐに脱し、生命の歓喜、自由を追求した多くの小説を発表、簡潔明快な文章は美的完成度が高い。

ブロンテ姉妹

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   もし一冊の書物を何回も読み返してその楽しみを味わいえないならば、それは読むに値しないものである。

          オスカー・ワイルド(1856-1900)

       *  *  *  *  *  *

快晴。ブックオフへ行く。シャーロット・ブロンテ「シャーリー(上)ブロンテ全集3 みすず書房、キム・ヘスク「今だから話せる冬のソナタ」、「もっと愛したいペ・ヨンジュン真実の感動」、奥田実紀「赤毛のアンA to Z」、「狭き門・田園交響楽」、「ジェイン・エア」、「阿部知二集」「井上光晴集・高橋和巳集」「中山義秀集」「開高健・大江健三郎集」(筑摩書房)購入。

2009年5月 8日 (金)

面白いタイトルの洋画

   グレゴリー・ペック主演の「日曜日には鼠を殺せ」(1964年)という変わったタイトルの映画があった。「日曜日に鼠を殺した猫が、月曜日には人間に殺されてしまう」という意味があるそうだ。この映画に限らず、往年の名画には面白いタイトルの作品は多い。思いつくままに挙げると、「赤いトタン屋根の猫」(1958年)、「欲望という名の電車」(1951年)、「灰色の服を着た男」(1956年)、「イヴの総て」(1950年)、「エデンの東」(1955年)、「お茶と同情」(1956年)、「ティファニーで朝食を」(1961年)、「下り階段をのぼれ」(1967年)、「バージニア・ウルフなんかこわくない」(1967年)などなど。タイトルからどんな映画が想像できるでしょうか?わりと近年の作品ではレベッカ・デ・モーネーの「ゆりかごを揺らす手」(1992)とか二コール・キッドマンの「冷たい月を抱く女」(1993)などサスペンス系に興味をそそられるタイトルのものがあります。

本日の食事

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毛利元就「三本の矢」のルーツは?

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  農夫の子どもたちが、おたがいにけんかばかりしていました。農夫はいろいろいって聞かせても、子どもたちの心もちを変えさせることができなかったので、実際のもので教えなければためだと考え、子どもたちに棒のたばをもってこさせました。子どもたちが持ってきますと、農夫はまず、棒をいっしょにしばって、それを折れといいました。いっしょうけんめいやっても、折ることができなかったので、つぎにそのたばをほどいて、子どもたちに1本ずつ渡しました。子どもたちは、それはらくに折りましたので、農夫は、「いいかね、おまえたちも心をあわせていれば、悪いやつのおもうようにはされないが、たがいにけんかしていると、すぐにひどいめにあわされる」と、いいました。仲よくしていれば、強くなりますが、けんかをしていると、ひどいめにあわされるものです。

   これは「イソップのお話」(河野与一編訳)に出てくる「棒のおしえ」である。戦国時代の武将・毛利元就(1497-1571)の「三本の矢の教え」の逸話の原型とみられる。実際に元就が嫡男の当主隆元、次男吉川元春、3男小早川隆景に、毛利家発展のために力をあわせるように述べた「三子への教訓状」が現存している。このような話がもとになり、「前橋旧蔵聞書」に「三矢の教え」の故事が生れた。イソップの話がどのようにして毛利元就の逸話となったか経緯については明らかではないが、「イソップ」が『伊曽保物語』として文禄2年(1593年)には和訳され刊行されているので、江戸時代初期の人が毛利元就の故事として創作したことは充分に考えられることである。

2009年5月 7日 (木)

本日の食事

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変わったタイトルの洋画

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    退職して、早寝早起きの習慣は健康に良いが、あまりにも朝起きるのが早い。10時に寝ると5時には目が覚める。何もすることがなく時間をもてあます。そこで夜、妻と昔に録画しておいたビデオを見る。何百本の中からどれを選ぶか。変わったタイトルの洋画を選ぶ。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)と「愛しのシバよ帰れ」(1952年)の2本。
    映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はジェームズ・M・ケインというアメリカの作家の同名小説をルキノ・ヴィスコンティが北イタリアに舞台を移してリアリズムで描いている。もちろん映画に郵便配達など登場しない。映画を見たが、タイトルと内容がどう結びつくのか意味不明。
    「愛しのシバよ帰れ」のタイトル中の「シバ」という愛犬も映画に登場しなかった。かつて可愛がっていた愛犬が失踪した。妻は過去のことばかり追い求める。過去の自分との決別がテーマになっているという解説があったが、シバがその象徴といわれてみればなんとなくわかる気がする。ケペルはこのころのアメリカ映画は大好きである。テーマがはっきりしていて人間がよく描かれている。シナリオ重視がいい。大スターになる以前のバート・ランカスターが見れるのも楽しい。

2009年5月 6日 (水)

瀬戸内晴美「あふれるもの」

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埴谷雄高「虚空」
安部公房「時の崖」
中村真一郎「恋の重荷」
藤枝静男「欣求浄土」
森茉莉「気違いマリア」
小沼丹「汽船」
小島信夫「返照」
井上光晴「眼の皮膚」
三浦朱門「セミラミスの園」
近藤啓太郎「赤いパンツ」
曽野綾子「海の御墓」
石原慎太郎「完全な遊戯」
城山三郎「メイド・イン・ジャパン」
有吉佐和子「海鳴り」
開高健「パニック」
深澤七郎「南京小僧」
北杜夫「霊媒のいる町」
小川國夫「枯木」
なだ・いなだ「帽子を」
倉橋由美子「パルタイ」
星新一「ボッコちゃん」
瀬戸内晴美「あふれるもの」
水上勉「蜘蛛飼い」
河野多恵子「幼児狩り」
三浦哲郎「初夜」
山口瞳「昭和の日本人」
池田得太郎「家畜小屋」
山川方夫「最初の秋」
永山一郎「皮癬蛼の唄」

「日本文学全集66、現代名作集4」(筑摩書房、1970年)収録作品の一覧である。
永山一郎(1934-1964)という作家は知らなかった。略歴を記す。昭和9年8月11日、山形県最上郡金山町に生れる。金山中学、新庄高を経て、昭和30年、山形大学教育学部卒業。金山町金山小学校勤務。31年、詩集『地の中の異国』を刊行。32年、飽海郡八幡町青沢小学校に転任。33年、庄内児童文化研究会に参加。35年、「夢の男」を「教師の文芸」に発表。金山町明安小学校に転任。36年、最上郡戸沢村古口小学校に転任。37年、「配達人№7に関する日記」を「教師の文芸」に、「雨期の唄」(「皮癬蛼の唄」の第一稿)を「文芸広場」に発表。39年3月26日、新庄市福田の側溝にモーターバイクのまま転落、死亡。

23人の現代作家たち

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   ブックオフで「日本文学全集65、現代名作集3」(筑摩書房、1970年)購入。知らない作家も多数収録されている。選りすぐりの23の短編小説が105円とは安い。

稲垣足穂「黄漠奇聞」
深田久弥「あすなろう」
坪田譲治「お化けの世界」
伊藤永之介「鶯」
中村地平「南方郵信」
北原武夫「雨」
石坂洋次郎「やなぎ座」
田村泰次郎「肉体の悪魔」
原民喜「夏の花」
芹澤光治良「死者との対話」
田中英光「野狐」
十和田操「戸の前で」
神西清「少年」
小山清「落穂拾い」
川崎長太郎「鳳仙花」
石上玄一郎「黄金分割」
由起しげ子「女中ッ子」
松本清張「石の骨」
山本周五郎「その木戸を通って」
藤原審爾「賭金」
丸岡明「薔薇いろの霧」
木山捷平「山陰」
結城信一「湖畔」

  宝塚・逆瀬川駅下車・「女性の書斎・ひとり好き」

本日の食事

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2009年5月 5日 (火)

ジョン・レイ

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 学ぶに老いすぎていることはない。

          ジョン・レイ(イギリスの博物学者)

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   ジョン・レイ(1627-1705)は植物および動物分類学の基礎をなした最初の人といわれる。「学ぶに老いすぎることはない」この生涯学習時代にふさわしい言葉は、ジョン・レイの創見ではなく、イギリスのことわざだそうだ。

2009年5月 4日 (月)

セントラルパークの四季

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   マンハッタン島のほぼ中央に位置するセントラルパークはニューヨーカーにとつて大切な憩いの場所。最初の渡り鳥が羽ばたく春から、冬の雪がふたたび訪れるまで四季折々の表情が美しい。

   アメリカには19世紀半ばころまでは、どんな都市に行ってもまともな公園はなかった。1840年代にイギリスからピクチャレスクの建築と庭園が導入され、アンドルー・ジャクソン・ダウニング(1815-1852)が現われてアメリカ独自の木造住宅様式および自然と人工の融合というラウドン流の造園を提唱し、また各都市に公園が必要なことを説いた。これに刺激されて1851年にニューヨークにセントラルパークを建設する企画が立てられ、委員会はフレデリック・ロー・オルムステッド(1822-1903)の設計案(1858年)を採用し、1862年に一応の完成をみた。オルムステッドは340ヘクタールの長方形の敷地を二つに分け、自然の地形を生かし、変化の多い南側の地形に多くのレクリェーション施設を設け、東西に走る4つの横断路は園内の遊歩路と立体交差させるという独創性を示した。セントラルパークの成功によってアメリカ各地に公園が盛んに新設されるようになり、19世紀末にはほとんどすべての都市が公園をもつようになった。

本日の食事

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死と生について

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   昨晩、テレビで映画「象の背中」(2007年)を放送していた。48歳のエリートサラリーマン(役所広司)が末期の肺がんで余命半年と医師から宣告される。残された日々をいかに過ごすかがテーマとなる。初恋の人にあったり、ケンカ別れした旧友に会ったり、仕事で迷惑かけた人に偶然にあって謝罪したりする。ホスピスで家族と充分にふれあいの日々を過ごしたり、愛人ともいい関係で別れる。重いテーマを秋元康ならではのトレンディー風に描いている。リアリティはない感じだった。同日、BSで綾瀬はるか版「世界の中心で、愛をさけぶ」を見た。片山恭一の原作とテレビ版とはだいぶん違うようだ。小説では祖父が朔太郎に大きな影響を与える人物として扱われている。朔太郎とアキとの会話にこんなのがある。

   「人の死にも理由があると思う?」「思うわ。わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、アキは言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるもんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからでもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからでもきっとありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。「ええ、そう」アキは頷いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」

2009年5月 3日 (日)

本日の食事

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趙雲の死の謎

   趙雲、字は子竜。蜀の武将のなかでは関羽、張飛に比べ、性格はつつましく、分をわきまえる存在で、孔明の命令に忠実であり、三国志のなかでは比較的地味に存在であった。ところがテレビゲームや映画「レッドクリフ」などの影響でこのところ人気は急上昇中である。映画ではフー・ジュン(胡軍)扮する趙雲が単騎で魏軍の中に斬り込み、穈夫人と阿斗を救出するシーンが延々と続く。ほんとうの歴史の上でも、この趙雲、70歳過ぎ、北伐の頃まで活躍している。

    ところで諸葛孔明の「後出師表」では、「趙雲など喪(うしな)えり」と物故した将軍となっているが、陳寿の『三国志』の「蜀志」趙雲伝では、趙雲の死は建興7年(229年)となっている。孔明は建興6年11月に「後出師表」を奉ったとされる。つまり趙雲の死の記述が「後出師表」の真偽を疑わせる根拠となっている。(参考:章映閣『史伝諸葛孔明』「後の出師の表は偽作」徳間書店)

諸葛孔明「後出師表」偽作説

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  いまや我が国では何度目かの「三国志」ブーム到来である。とくに今回の特徴は若い女性たちの間でブームになっている。やはり人気のトップは諸葛孔明で、理知的で美男子の孔明像が映画のイメージで作られた観がある。現実の歴史の上では北伐作戦に失敗したのに、武侯祠がつくられるほど人気があるのか。諸葛孔明人気の千古不滅の理由は名文「出師表」によるところが大である。ところで孔明の作とされる「出師表」には「前出師表」と「後出師表」がある。だが「後出師表」は、正史『三国志』、『諸葛武侯集』、『文選』に記載がない。また「前出師表」に比べると風格、内容、語調を取って見ても見劣りがする。「後出師表」を蜀の人々が読むと、おそらく戦意喪失するか、反戦気分が高まるであろう、等の理由から、古来から「後出師表は他人の偽作」とする説がある。とくに何故蜀の人である陳寿が「後出師表」を採録しなかったのか疑問が残る。陳寿は正史の編纂に当たって、蜀・魏・呉三国の大量の資料を参考にしたが、その選別作業は大変厳格であった。「後出師表」に関して、最初に記載したのは裴松之が『三国志』につけた注であり、その付記には「後出師表」の出典を呉の張儼『黙記』に見えると記している。陳寿が「後出師表」を黙殺したのか、散逸して入手できなかったのかは明らかではないが、ほぼ同時代に「後出師表」の存在が呉によって確認されていたことになる。それは孔明の兄諸葛謹が呉の要職に仕えていたことによるものかもしれない。いずれにしても「後出師表」は三国時代の早い時期に流布していたものであることは明らかである。(参考:植村清二『諸葛孔明』、貫井正「諸葛孔明、後出師表の真偽」、しにか133号)

2009年5月 2日 (土)

本日の食事

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蔵書1万冊

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  書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。

                            トーマス・フラー

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   トーマス・フラー(1608-1661)はイギリスの聖職者、歴史家。この名言は「書物は友人と同様、数少なくあるべきであり、そしてよく選択すべきである」と書かれたものもある。原典を調べることはできなかったが、思考するに書物と友人を並べているところからすれば、信頼できる数人の友がよいと思えるが、「よく選択すべき」と続くことを考えると、「数多く」とするほうが収まりがいいように思えた。

    宝塚「女性の書斎・ひとり好き」は蔵書1万冊と言っているが、実際にはそれを若干下回っているだろう。場所は阪急逆瀬川駅徒歩5分。宝塚消防本部、神戸屋、万代近く。とくに歴史の好きな女性にはオススメです。

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未発の気象

   中国の思想の大きな流れは、前漢に国教となった儒教であるが、後漢には訓詁学として盛んとなるが、次第に儒教は魅力を失い、仏教がひろく普及していく。とくに禅宗は、宋代に入って儒教、老荘思想とも結びついていた。南宋の朱子も若い頃は禅へ傾倒していた。進士となった朱子は、24歳のとき延平(福建省南平市)の李侗(1092-1163)の教えを受けた。李侗は、禅理をまくしたてる朱子に向かって「おまえは、宙に浮いた理屈ばかりをいうが、眼前の事実についてはなにもわかっていない。道は玄妙なものではない。ただ日用の間に着実に工夫することによって自然に会得できるのだ」と説く。それには「未発の気象」を養うことだという。「未発の気象」とは『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節にあたる。これを和という」という言葉に基づくもので、感情の動く以前の、澄みきった、偏りのない心である。この心は「黙座して心を澄ます」ことによって体認される。禅理と共通するものをもちながら、しかも現実への着実な取り組みを説くこの教えは、朱子の学問の方向を決定するようになった。

織田秀信

   織田秀信(1580-1605)は信長の孫、信忠の長男として生れた。彼が3歳のとき、天正10年、本能寺の変がおこり、信長、信忠を明智光秀に殺された。その後、急をかけつけた秀吉に清洲会議で織田家の後継にまつり上げられたが、元服しても岐阜の十三万石余りしかもらえなかった。やがて秀吉が死に、徳川家康と石田三成の対立が表面化し、三成は西国大名と結んで豊臣秀頼をもりたてた。この時、秀信は西軍石田方につき、東軍の先鋒の福島治則らと戦い、敗れて降伏した。秀信は命を助けられて、剃髪して高野山に入り、そこで慶長10年、26歳の若さで生涯を終えた。妻子はいない。今日、フィギアスケートで有名な織田信成は信長の七男信高の子孫にあたる。

消えたマレーの指導者ライ・テック

   マレーシアは多民族、多言語、多宗教の国。多数派のマレー人がわずかに過半数を超える程度で、あとは中国系やインド系、ボルネオ島などの先住民族など30以上の民族からなる。22年間にわたるマハティール首相のもとで東南アジア有数の経済発展をとげている。

    ところで1941年から始まる日本軍のマレー侵攻では、マラヤ人民抗日軍が組織され植民地政府から弾圧を受けていたマラヤ共産党(主に中国人からなる)の指導軍は敵の敵は味方の論理で英軍と協力し日本軍にゲリラ戦を展開していた。そのマレー共産党の指導者でライ・テックという人物がいた。「ライト氏」とか「クアラルンプールの不思議な商人」とか呼ばれていたが、その正体はよくわからない。戦後もマレー共産党の書記長に推され、ゲリラ活動をしていたらしい。だが1948年英保護領マラヤ連邦、1957年ラーマン首相のマラヤ連邦が独立し、マレー人優先のプミプトラ政策のなかで、ライ・テックはどのような立場にいたのか謎である。

2009年5月 1日 (金)

本日の食事

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人生を半分降りる

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   中島義道の『人生を半分降りる』(新潮社)という本がある。「あなたはまもなく死んでしまう」と題された章に始まり、「そして、あなたはまもなく死んでしまう」という章で終る。ローマの哲学者セネカの話に始まり、ペシミズムの人生論とでもいうべき内容。退職後のセカンドライフの本は色々と出ているがいきいきと充実した老後を過ごしたいとおもうのが普通であろう。そしていつから現役を退き、第二の人生をスタートするかが問題であろう。ケペルは今春から公職を辞し、「女性の書斎」という店を開いた。そして一ヶ月があっという間に過ぎた。一言でいえば平穏無事である。この商売はなかなか楽しい。ただし年中無休なので、店番をしなければならない。旅行はしない。(近所への散歩はよくする。)映画館、遊園地、盛り場へも行かない。(お金もない)宴会、パーティーには行かない。(お酒が飲めない、糖尿病予備軍だ)講演、著述はしない(依頼もないし、掲載してくれない、ただしブログは別)、さらに年賀状は出さないつもりだし、昔の知人、友人とも会わない。「人生半分降りる」ということはこの本を読む以前から自分も考え抜いた末の結論でもあった。もちろん完全に隠遁生活はできない。孤独で淋しいのはやはりつらい。お店を開いていれば、たまにはお客さんがやって来る。なかにはシム・ウナ(「八月のクリスマス」)や夏目雅子(「時代屋の女房」)のような美人もいる。「おじさん、昔、どんな商売やってたの?」と聞いてくる。たいていはまともには答えずにはぐらかすことにしている。こうして10年、20年すれば、やがては私も死ぬだろう。あんまり儲からない商売で、退職金の食いつぶしになるだろう。終身型の保険年金や公的年金もしているが切り詰めた生活をしていこう。飽食だったのでむしろ健康にもよい。

   あまり株や投資などの財テクや社会的に有益なことをしようとムリするのはやめよう。夏目漱石の小説『三四郎』に広田先生という一風変わった脱俗の趣ある人物が登場する。三四郎の友人与次郎はその先生に「偉大なる暗闇」という渾名をつけている。モデルは岩元禎とも粟野健次郎とも狩野享吉ともいわれている。広田先生には及びもつかないが、自分の時間を大切にして、平穏に過ごすことにする。

読者の時間を浪費させないためには

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人生は非常に短かく、その中でも静かな時間は余りにも少ない。われわれはつまらない本を読むことによってその貴重な時間を浪費すべきではない。

  ジョン・ラスキン(イギリスの著述家・美術評論家)

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   ラスキン(1819-1900)のいうようなつまらない本は、19世紀よりも21世紀の現在大量に出版されている。大型書店で本を探す時、何十万冊の中から本当に自分が求めている本をさがすことは至難である。店頭に平積みされている本は、あくまで大量に出版して、大々的な宣伝をして売ろうとしている本であって、中味が本当にいいかどうかはわからない。ブックオフにある本の多くも、大量出版された残骸が安く売られているだけである。かりに岩波新書の名著があるとしても、読者がそれを読んで受け入れられる状態であるかはわからない。良書よりも適書が大切だ。あくまで読者の自発的な関心が何であるかが大切なのだ。人と本とを結びつけることはたやすいことではない。充分に吟味して、手にとりやすく興味のある分野ごとに並べて、本の背を見て、何か手にとってみたくなって、パラパラとめくって読み始める。自分に合いそうだという直感が沸いてくる。そして精読してみる。共感、あるいは反発を覚える。でも著者の言うことに納得させられる。そのような著者との対話が生れればいい。

宝塚の街をもっと美しくしよう

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  書物は一冊一冊が一つの世界である。

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   今日から五月。気持ちのよい天気だ。散歩がてらブック・オフへ行く。テニスコートの前の公園の並木を通る。だが途中、宝塚市クリーンセンターの前にくると、たくさんの落葉やゴミが捨ててある。施設の前にコンビニがあるので食べたあと容器をほかしているのだ。落葉やゴミをそのままにしておくからますます捨てる人がいるのだろう。退職後、ケペルも店の前の道路に捨てられたタバコの吸殻やゴミを掃除するが、公共施設の前はお掃除する職員はいないのだろうか。職員の任務分担として周辺道路の掃除はないだろうか。だがクリーンセンターの前が一番汚れているといのはなんともみっともない話だ。中川新市長は「宝塚市をクリーンな街にする」という公約だったはずだが・・・。えっ?、「クリーン」の意味が違う?こらまた失礼しました。

  「四月の雪ビジュアルブック」、「ユトリロとヴァラドン展」、「ゴッホ展 孤高の画家の原風景」(2005)、「赤い糸オフィシャルブック」「ウィーン古都物語」田中長徳、グラフィック社、購入。

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