猿丸太夫と二荒山神社
二荒山(ふたらやま)の公式名は男体山。栃木県北西部、日光市域に入る日光火山帯の一つ。中禅寺湖北岸にそびえる円錐状成層火山。延暦元年(782年)、下野国の僧勝道が開山したときは、「補陀落山(ほたらやま)」と称したが、のち、二荒山と改めた。弘法大師が二荒山(にこうさん)とよんだことから、「日光」の名が出たといわれている。
鎌倉時代以後は、幕府を初め武家の尊信をうけて天台系の修験が中心となって地方有数の名社となったが、豊臣秀吉のために社領の大部分を没収されたため一時まったく衰微した。そののち徳川家康から社領を安堵され、ついで天海僧正が山の貫首となったので復興しはじめた。ことに家康を日光に改葬して東照宮を建立するにおよび、二荒山の神は地主神として日光山内に重要な地位を占め、歴代将軍の殊遇をうけて、以前にもまさる盛運となった。
二荒山神社と猿丸太夫との関係を探っていくと、小野氏が問題の中心となってくる。猿丸太夫は平安時代の歌人として、小倉百人一首に「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」という有名な歌もあるが、その伝記は謎のところが多い。林羅山の文集に小野猿丸の名が見えるているが、朝日長者の子孫で二荒山の女神を助けて赤城の蜈蚣神(むかでがみ)を討った話を録し、二荒山の女体山の神は朝日姫、宇都宮明神は猿麿であると述べている。二荒山の神主小野氏は猿丸太夫の子孫であるともいわれる。また会津、新潟、山形にかけての伝説に猿丸は朝日長者の子であるといい、その猿丸の後裔が、小野氏で二荒山神社の神官をつとめたともいう。二荒の神の信仰を説き歩いた巫覡(ふげき)の徒が猿丸太夫と呼ばれた神職で、このために二荒の信仰が東北地方に相当強力におよんだ時代があったといわれている。(参考:丸山久子「平凡社・世界百科事典・猿丸太夫」)
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