英仏抗争史
西洋史の流れをみると、その本流には絶えずイギリスとフランスとの抗争の歴史がある。イギリス、フランスの関係は北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン王朝(1066-1154)を開いたのにはじまる。12世紀、ノルマン家の断絶によってフランスのアンジュー伯がイングランド王家を継いだため、イングランド王は同時にフランスの封建諸侯としてフランスに広大な領土を有することとなった。これが英仏百年戦争(1339-1453)の原因となる。百年戦争は断続的に続いたが、概してイングランドが優勢であった。百年戦争の結果、英仏の封建社会の崩壊が急速に進み、中央集権の機運が大いに促進された。フランスはルイ11世(在位1461-1483)、チャールズ8世(在位1483-1498)、イギリスではヘンリー8世(在位1509-1547)のときにいたり、強力な絶対主義国家が確立された。
17、18世紀のフランス・ブルボン家とドイツのハプスブルク家がヨーロッパ大陸の支配を争ったが、イギリスはその間に介在しつつ、植民地支配をフランスと争そった。7年戦争(1756-1763)も英仏抗争の一環であり、イギリスの国務相ウィリアム・ピット(大ピット、1708-1778)はプロシアに経済支援をしたものの、軍隊を派遣せず、海外でフランスの植民地攻撃に主力を注いだ。そのためプロシアのフレデリック大王は守勢を続け、1760年、一時はベルリンがロシア軍に占領された。しかし、1762年ロシアでかねてフレデリック大王の賛美者であったピーター3世が即位すると、急にオーストリアと絶って大王と同盟した。そのうえ翌1763年には英仏間の植民地戦争が終り、パリ条約に従ってフランス軍ばドイツから撤兵した結果、形勢が一変して1763年フベルトゥスブルクの和約が成立した。
イギリスはフランス革命に対しては対仏同盟を指導してその波及を阻止した。トラファルガーの海戦(1805年)などのナポレオン戦争(1799-1815)はフランスのイギリスに対する反撃の意味をもつが、ワーテルローの戦(1815年)のフランス軍の大敗でついに成功しなかった。(Battle of Trafalger)
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