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2009年4月30日 (木)

信長vs忍者軍団

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    昨夜NHK「歴史秘話ヒストリア」を見る。忍者がテーマであるが表面的、観光的な内容でものたらない。忍者の生活や悲惨さがリアルに伝わらない。もし製作者が白土三平の「忍者武芸帳」を読んでいたら視点が変わっただろう。

    忍者が最も歴史の舞台に現われ、華やかな活躍を見せるのは戦国時代であろう。諸大名の抗争が激化すると、夜間行動を中心とする忍びの専門的技術も考案され、忍者たちはそれぞれ大名にかかえられ、特別の任務を帯び活躍するようになった。伊賀流、甲賀流のほか、扶桑流、甲陽流、根来流、戸隠流など諸流が生れた。徳川家の服部半蔵、北条家の風魔小太郎、毛利家の佐田兄弟、村上家の相部次郎左衛門、武田家の富田郷左衛門、上杉謙信の使った担猿(のきざる)らは有名である。とくに伊賀と甲賀は600~700人の忍者集団がいて一大勢力となっていた。天下統一の野望に燃える織田信長は禍根を絶つため、天正9年、残虐な殲滅作戦を展開した。これを天正伊賀の乱という。

   白土三平の「忍者武芸帳」はこの時代を背景にしているものの、その非情で虚無的な唯物史観(??)は衝撃であった。白土三平の父が画家岡本唐貴というプロレタリア美術なのでおそらく影響があるのだろう。兄が近所の貸本屋から借りてきた「忍者武芸帳」、記録によると昭和34年12月に三洋社から発売されたとあるから、おそらく昭和35年頃のことであろう。それまで時代劇の漫画といえば、堀江卓の「つばくろ頭巾」や武内つなよしの「赤銅鈴之助」であったから、のちに劇画といわれるリアルで残虐な絵柄は子ども心に強烈であった。百姓の首が飛ぶ。女、子どもが飢え死にをする。われわれの祖先がどんな悲惨な生活をして生きてきたか、こどもにも恐ろしいほど伝わる。小学校低学年だったケペルには白土漫画はすこしハードすぎた。今、この年になって読むと、人生や世の中を庶民の「生」の強さをペンで見事に表現している。筋や構成もスケールが大きく、歴史を考えさせられる。良い子のみなさん、忍者の実態を知るには「忍たま乱太郎」や「歴史秘話ヒストリア」を見るより白土三平のマンガを読むべし。

連休には読書を

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 読書のほんとうの喜びは、

 なんどもそれを読み返すことにある

                D・H・ロレンス

  *  *  *  *  *  *  *  *

  岩波書店「図書」 1984年2月 目次

「庭から風景」 富士川義之

「地獄化した書斎」 杉浦明平

「ファウストとドン・ファン」 淮陰生

「書簡体一面」 三國一朗

「祭りの声から地平線へ」 新藤兼人

「新歳時記・試験」 林一

「青年の環をめぐって」 野間宏・菅野昭正

「タミルの慣習と日本」 大野晋

「比べるということ」 荒松雄

「カルパチアの月」 千野栄一

「日本の数学百年の流れ」 彌永昌吉

「こぼればなし」

心の病気と現代

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   心の病気は、身体的心理的原因のみでなく、社会的原因によってもひきおこされる。五月病といってこの季節は新しい環境に適応できずに心の病気にかかる人も多い。宝塚女性の書斎ひとり好きでは、本に囲まれた書斎という落ち着いた雰囲気で癒しの空間を用意しています。名作と出会うことも良し、雑誌のパラパラめくりでも良い。ゆったりとした時間を見つけることで、自分らしさを発見できる場となればと願っています。

 女性の書斎「ひとり好き」

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        *    *   *   *   *   *    *

 岩波書店「図書」1977年1月 目次

「唯物論政府」 梅棹忠夫

「文法ぎらい」 大野晋

「南原繁の戦時下の書簡」 氷上英廣

「最後の言葉」 淮陰生

「山本覚馬のこと」 鶴見俊輔

「森有正君のこと」

「虹の上をとぶ船との再会」 いぬいとみこ

「濃密な戦争像、日露戦争の軍事史的研究」 司馬遼太郎

「ニューヨーカーの五十年続」

「大書物目録浮言」 杉村武

「茂原市木納徂徠遺蹟」 吉川幸次郎

こぼればなし

2009年4月29日 (水)

本との出会いの場をつくる

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  わたくしが人生を知ったのは

     人と接触した結果ではなく、

        本と接触した結果である。

                    アナトール・フランス

      *   *   *   *   *   *   *   *

    久しふりにブック・オフに本の買出し。ゴールデン・ウィークなので恒例の抽選をしている。銀色の玉がでたと思ったら、なんと2000円分の感謝券である。初めての大当たりの日。2000円と100円と50円が5枚、計2350円也。

「ウェブスター英英和辞典」、キム・ヨンチャン「誰にでも秘密がある」、孔枝泳著、蓮池薫訳「私たちの幸せな時間」、パク・チョンウ「ファースト・キス」、きたやまようこ「ぼくとポチのおかしな12人のともだち」購入。

2009年4月28日 (火)

ロリータ

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    ロシア貴族の亡命作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)と喜劇王チャールズ・チャップリン(1889-1977)とはおそらく2人は面識はないだろうが、「ロリータ」(Lolita)という一語で繋がっている。

   ナボコフの小説は、中年男ハンバート・ハンバートが12歳の少女ロリータに惹かれてその母親と結婚し、彼女の死後ロリータを手に入れるが、やがてハンバートは逮捕され、獄死するという話である。この背徳的な小説は最初アメリカでは出版されず、1955年パリで出されたが発売禁止となるが、デンマーク、スウェーデン、イタリア、ドイツ、オランダと各国語に訳され世界的ベストセラーとなるや、1958年になってニューヨークでパトナム社から出版されるにいたった。主人公ハンバート・ハンバートという奇妙な名前はさておき、ロリータというのはラテン語Doloresの変化したものである。ドロレスとは「悲しみ」「悲哀」の意味で、キリスト教の「マリアの悲しみ」に由来するといわれている。ところが、ロリータの本当の由来はチャップリンの2番目の幼な妻リタ・グレイから来ていると映画評論家の町山智治は記事に書いている。ナボコフは1940年にアメリカに亡命したが、1943年に有名なチャップリン裁判があった。ジョーン・バリーという無名の女優の赤ん坊の認知訴訟であったが、チャップリンの過去が取り沙汰され、2番目の妻との離婚も1927年のことだがむしかえされる羽目になった。そしてナボコフはリタ・グレイという女優の本名であるリリータからロリータを借用したというのである。真偽のほどは定かではないが、少女を崇拝するような習癖、ニンフエットだけを一生求めるところがチャップリンにはあったことは事実である。最初の妻ミルドレッド・ハリスは16歳、2度目の妻も16歳、3度目の妻ウーナ・オニール(劇作家ユージン・オニールの娘)は18歳である。ちなみに「モダンタイムス」のポーレット・ゴダードは日本に新婚旅行に来たが入籍はなかった。大人の男が未成熟の少女に執着する愛は当時のアメリカではタブーであったため、たとえ合法に結婚したといえども、チャップリンは世論から陰で非難されたようだ。小説『ロリータ』の出版から半世紀以上が経つが、社会道徳としては、大人の男にとっては依然少女は禁断の実であることには変わらない。(参考:週刊新潮2009.5.7.14号)

2009年4月26日 (日)

貝の日本文化史

    彼岸から4、5月にかけては、潮干狩の季節である。日本列島は世界でも有数の貝産国であり、貝は昔から食生活の中心であった。貝塚は縄文人が貝をとり、食べて捨てた場所であり、その膨大な量から重要な食料であったことがわかる。「古事記」には蚶貝姫(きさがいひめ)と蛤貝姫(うむがいひめ)との介抱で、大国主命を大やけどから救った話があり、「日本書紀」には景行天皇の東国巡幸のとき、白蛤のなますを献じたなどの記事がある。平安時代には、貝を集めて美を競い、歌や絵として楽しみ、貝覆いで遊び、あるいは恋忘れ貝として憂さを貝に託したり、棘だらけのホネガイは悪魔よけにするなど、心理的な面でのかかわりも多くなった。中世、山岳仏教では修験道の山伏がほら貝を吹き鳴らし、悪魔退散諸善神を呼ぶ。そのほか貝から真珠や紫の染料を得るなど、貝は日本人の暮らしの中でなくてはならないものと言える。

ブルジョワとプロレタリアの階級制度は今も健在である

    自民党の若手議員の勉強会で国会議員の世襲制限が話題になっている。もちろん党内実力者から批判が相次いだ。鳩山邦夫は21日の会見で「世襲は一切認めない、直系の両親どちらかが国会議員だったら選挙に出ないという規則が決まったら、私も総理も出られない。潔く従うことはありうる」と述べた。

    鳩山邦夫の祖父・鳩山一郎は元首相、父・鳩山威一郎は元外相。戦前、鳩山一郎が文部大臣だったとき、学問の自由の弾圧で知られる京大滝川事件があった。(昭和8年)

    有島武郎(1878-1923)の名作「或る女」(大正8年)でヒロイン早月葉子は、アメリカにいる許婚の木村のもとへおもむく途中、船の事務長倉地と恋仲になる。そこで葉子をスキャンダル記事で追い込む田川法学士夫人のモデルは、鳩山一郎の母・鳩山春子(1861-1938)だといわれている。社会主義運動の昂揚期にあって、ブルジョワとプロレタリアとで苦悩した有島武郎は、鳩山ファミリーをブルジョワの代表として描いた。100年後も鳩山ファミリーは健在だ。ただ酔っぱらっただけの草なぎ剛を「最低の人間」と罵倒しえるのは、自分は名門の出身で偉い人間と思っている傲慢さから出た言葉である。金があり権勢のある者が、人を死刑をできる権限が与えられ、マスコミの会見で人間を評価できる、ということに、この国の民主主義制度の怪しいものを感じる。

2009年4月24日 (金)

瀧井孝作「美しい大和の寺々」

岩波書店「図書325号」1976年9月、目次。

「日本語のむつかしさ」金達寿

「大和古寺大観」の先蹤」 田澤坦

「師との出会い 私の奈良学事始め」太田博太郎

「古建築の撮影をめぐって」渡辺義雄、太田博太郎

「いかるが三井」幸田文

「奈良六大寺大観と私」 鈴木敬

「美しい大和の寺々」 瀧井孝作

「ミュゾットもラロンも(万物流転)」

「ツィターの魅力、続」 河野保人

「中学教師赴任当初の漱石」 才神時雄

「メリメの未発表の手紙」 江口清

「話し言葉の音の運動2」 小倉朗

(宝塚「女性の書斎・ひとり好き」(女性読書支援施設)に所蔵しています。閲覧は女性のみ可。年中無休)

   作家の瀧井孝作は大正末年から昭和の初年までの5年間、奈良の上高畑に住んでいた。その思い出を綴っている。「佐保村の麦秋」(昭和13年)も再録している。

2009年4月23日 (木)

岩波書店「図書」1973年6月の目次

    宝塚・逆瀬川にある「女性の書斎・ひとり好き」で所蔵しています。閲覧可。

「図書」1973年6月、柴田翔「文学の変化」、生島遼一「奈良の仏たち」、太田博太郎・西川新次・長谷川誠・町田甲一・水野敬三郎「奈良六大寺大観」刊行を終って、村田治郎「奈良六大寺大観・法隆寺」に寄す」、野上彌生子「春閑」、吉野源三郎「かけがえのない人、阿部知二氏葬儀にあたって」、稲垣真美「阿部知二先生の遺志」、淮陰生「早々と棄てられていた沖縄」、石井桃子「1972年初夏イギリスへの旅」、羽仁進「私の見た志賀直哉」、内藤濯「横井小南と私の父」。

「ひとり好き」蔵書目録抄

岩波書店のPR誌「図書」は貴重な論文が満載。そこでケペル研究室所蔵の中から古いものを目次を記載する。

図書1975年2月「茂吉二十三回忌」柴生田稔、「地球と人」和達清夫、「さようならテレビ」真鍋博、「自然の中に生きる人びとへの感情、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品をよんで」いぬいとみこ、「男断ち、但三ヶ年間之事」淮陰生、「岩波古語辞典と私」大野晋、「小児医療をはばむものは」荒井良、「史記会注考証の著者瀧川亀太郎先生を偲ぶ」水沢利忠、「母性型・娼婦型」寺田透。

図書1976年10月「木版本を読む会」森銑三、「日本の酒学1」坂口謹一郎、「ヨハンネスの絵(ヘントの祭壇画)」前川誠郎、「近藤勇と賤民身分解放」淮陰生、「小さな世界の発見」金井美恵子、「謀反論のこと」福田歓一、「菅野すがのこと」絲屋寿雄、「宮沢俊義の横顔」吉田洋一、「難聴児教育について」入谷仙介。

2009年4月22日 (水)

「ひとり好き」蔵書目録抄

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「女性の書斎・ひとり好き」(ケペル研究室)の蔵書目録です。

エレガントな宇宙 ブライアント・グリーン 草思社

兵器の常識・非常識 空軍・ミサイル兵器篇 江畑謙介 並木書房

日本の教育9 社会教育 五十嵐顕 城丸章夫編 新日本出版社

西洋美術史 村田数之亮編 創元社

現代の社会科学 高島善哉編著 春秋社

概説西洋政治思想史 中谷猛・足立幸男編著 ミネルヴァ書房

西洋史 杉村貞臣 学術図書出版社

秋風五丈原 大場弥平 中央公論社

中国古代の学術と政治 顧頡剛 大修館書店

支那史籍上の日本史 大日本史講座17 中山久四郎 雄山閣

千利休 その生涯と茶湯の意味 村井康彦 日本放送出版協会

親魏倭王 大庭脩 学生社

美術 町田甲一編 武蔵野美術大学

明治の漢学者と中国 陶徳民 関西大学出版部

第二の知識の本 藤川正信 新潮社

昭和文学史 平野謙 筑摩書房

現代の世界(世界の歴史7)中山治一・猪木正道 人文書院

文化システム論 タルコット・パーソンズ 丸山哲央訳 ミネルヴァ書房

飛鳥展 その謎をさぐる 朝日新聞社 1973年

フランス近代絵画 女性美の饗宴 読売新聞社 1983年

西洋美術史 瀬戸慶久 武蔵野美術短期大学

日本の喜劇人 中原弓彦 晶文社

政治における人間性 グレーアム・ウォーラス著 石上良平・川口浩共訳 創文社

女性の書斎・ひとり好き蔵書目録抄

Photo  特別に珍しい本ではなくて、普通のものばかり集めて見ました。(ケペル研究室)

天皇制研究 守屋典郎 青木書店

日本とアジア 竹内好評論集3 筑摩書房

新編日本イデオロギイ 竹内好評論集2 筑摩書房

都市の語る世界の歴史 井上泰男 そしえて

日本古代文化の探求 馬 森浩一郎 社会思想社

古代東アジアの国際交流 江上波夫・松本清張編 読売新聞社

ブリューゲル 土方定一編 美術出版社

埋れた謎のピラミッド M.Z.ゴネイム著 矢島文夫訳 山本書店

東洋政治思想 室伏高信 日本評論社

生活文化史入門 柳洋子 学陽書房

戦後五十年日本の死角 宇野正美 光文社

新講座地理と世界の歴史 原随園 雄渾社

サンヨー夫人

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   戦後の日本社会を一口で言うと、電化時代である。この電化時代の旗手は、家電業界で、日立、東芝といった関東の重電機メーカーに対して関西の松下、三洋、シャープは、初めから家電一本槍で事業を展開をしてきた。三洋電機といえば、バドミントンのオグシオ(小椋久美子、潮田玲子)が有名であるが、かっては女優の木暮実千代(1918-1990)が「サンヨー夫人」として知られていた。

   昭和28年のことである。三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれていた。「洗濯機は主婦が使うものでして、その主婦代表として3人のスターの中からサンヨー夫人と命名して、当社の宣伝に使います」と亀山太一宣伝次長は述べた。その3人のスターとは、小桜葉子(上原謙夫人)、高杉早苗(市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人)であった。木暮は当時「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強かった。社内には木暮反対のムードが強かった。だが亀山はサンヨー夫人のイメージは木暮しかないと決断した。まもなく新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場した。宣伝キャンペーンは大成功だった。1年後には生産は月1万台とはねあがった。それに昭和29年には、ジュジュ化粧品は、CMタレントを、木暮実千代から新星・岡田茉莉子に切り替えていた。ある新聞の調査によると、あの大スターの木暮を、サンヨー夫人の広告をみて、木暮実千代と答えた人より、驚いたことに、サンヨー夫人と答えた人の方が多かった。広告の力たるや恐るべし。

2009年4月20日 (月)

富士山と芸術家

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    「不二霊峰」 横山大観 昭和11年頃

    富士山を描いた代表的名画としては葛飾北斎(1760-1849)の「富嶽三十六景」が有名である。36景というものの、じつは全部で46図もあるそうだ。近代美術でいうと、日本画家の横山大観(1868-1958)や洋画家の梅原龍三郎(18888-1986)が知られている。北斎、大観、龍三郎と何れも画風は大きくことなるものの、長命(北斎90歳、大観89歳、龍三郎98歳)であったことは共通する。霊峰富士を描くとご利益があるのだろうか。

2009年4月18日 (土)

猿丸太夫と二荒山神社

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    二荒山(ふたらやま)の公式名は男体山。栃木県北西部、日光市域に入る日光火山帯の一つ。中禅寺湖北岸にそびえる円錐状成層火山。延暦元年(782年)、下野国の僧勝道が開山したときは、「補陀落山(ほたらやま)」と称したが、のち、二荒山と改めた。弘法大師が二荒山(にこうさん)とよんだことから、「日光」の名が出たといわれている。

   鎌倉時代以後は、幕府を初め武家の尊信をうけて天台系の修験が中心となって地方有数の名社となったが、豊臣秀吉のために社領の大部分を没収されたため一時まったく衰微した。そののち徳川家康から社領を安堵され、ついで天海僧正が山の貫首となったので復興しはじめた。ことに家康を日光に改葬して東照宮を建立するにおよび、二荒山の神は地主神として日光山内に重要な地位を占め、歴代将軍の殊遇をうけて、以前にもまさる盛運となった。

   二荒山神社と猿丸太夫との関係を探っていくと、小野氏が問題の中心となってくる。猿丸太夫は平安時代の歌人として、小倉百人一首に「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」という有名な歌もあるが、その伝記は謎のところが多い。林羅山の文集に小野猿丸の名が見えるているが、朝日長者の子孫で二荒山の女神を助けて赤城の蜈蚣神(むかでがみ)を討った話を録し、二荒山の女体山の神は朝日姫、宇都宮明神は猿麿であると述べている。二荒山の神主小野氏は猿丸太夫の子孫であるともいわれる。また会津、新潟、山形にかけての伝説に猿丸は朝日長者の子であるといい、その猿丸の後裔が、小野氏で二荒山神社の神官をつとめたともいう。二荒の神の信仰を説き歩いた巫覡(ふげき)の徒が猿丸太夫と呼ばれた神職で、このために二荒の信仰が東北地方に相当強力におよんだ時代があったといわれている。(参考:丸山久子「平凡社・世界百科事典・猿丸太夫」)

2009年4月14日 (火)

英仏抗争史

    西洋史の流れをみると、その本流には絶えずイギリスとフランスとの抗争の歴史がある。イギリス、フランスの関係は北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン王朝(1066-1154)を開いたのにはじまる。12世紀、ノルマン家の断絶によってフランスのアンジュー伯がイングランド王家を継いだため、イングランド王は同時にフランスの封建諸侯としてフランスに広大な領土を有することとなった。これが英仏百年戦争(1339-1453)の原因となる。百年戦争は断続的に続いたが、概してイングランドが優勢であった。百年戦争の結果、英仏の封建社会の崩壊が急速に進み、中央集権の機運が大いに促進された。フランスはルイ11世(在位1461-1483)、チャールズ8世(在位1483-1498)、イギリスではヘンリー8世(在位1509-1547)のときにいたり、強力な絶対主義国家が確立された。

 

   17、18世紀のフランス・ブルボン家とドイツのハプスブルク家がヨーロッパ大陸の支配を争ったが、イギリスはその間に介在しつつ、植民地支配をフランスと争そった。7年戦争(1756-1763)も英仏抗争の一環であり、イギリスの国務相ウィリアム・ピット(大ピット、1708-1778)はプロシアに経済支援をしたものの、軍隊を派遣せず、海外でフランスの植民地攻撃に主力を注いだ。そのためプロシアのフレデリック大王は守勢を続け、1760年、一時はベルリンがロシア軍に占領された。しかし、1762年ロシアでかねてフレデリック大王の賛美者であったピーター3世が即位すると、急にオーストリアと絶って大王と同盟した。そのうえ翌1763年には英仏間の植民地戦争が終り、パリ条約に従ってフランス軍ばドイツから撤兵した結果、形勢が一変して1763年フベルトゥスブルクの和約が成立した。

 

   イギリスはフランス革命に対しては対仏同盟を指導してその波及を阻止した。トラファルガーの海戦(1805年)などのナポレオン戦争(1799-1815)はフランスのイギリスに対する反撃の意味をもつが、ワーテルローの戦(1815年)のフランス軍の大敗でついに成功しなかった。(Battle of Trafalger)

2009年4月 9日 (木)

女郎仏は上臈、あるいは遊女?

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    鋳物工業の町として知られる埼玉県川口市から日光街道を岩槻方面に向かい、鳩ヶ谷を過ぎてしばらく行くと「石神」というところがある。通称新町といって、赤山城関東郡代伊奈半右衛門の城下町であった。ここの妙法寺という寺に女郎仏(じょろうぼとけ)という流行仏がある。

    寛政2年3月1日、暴風雨があり、役人が見廻りをしていたところ、若くて美しい女のすすり泣く声が聞える。病重く、所持品もなく、どこの誰れともわからぬまま、5日後に亡くなった。この女性を葬ったのが女郎仏である。

    地元の観光課のパンフレットなどでは、川越あたりの上臈(じょうろう、身分や地位の高い女性)ということであるが(川越市は朝の連続テレビ小説「つばさ」の舞台。川越藩の城下町・宿場町)、おおかた川越宿の遊女ではなかろうか。梅毒に感染して重態となり、無惨にも捨てられてしまった。その女が、この村にたどり着いたとき、村人が哀れんで看護したが、とうとう死んでしまった。末期にあたって「自分は梅毒のために苦しんで死ぬようになったが、もし、わたしを祀って祈るならば、必ず梅毒をなおしてやろう」といい残して亡くなった。

   こうしたいわれから「女郎仏」という流行仏に祈願をこめれば腰から下の病に効果があるというので、大正期には祈願者が多く、「塔婆と額を納める者その数、数千あり、額は重ねて山なし、木の塔婆は垣として数千間、幾重にもさしてあり」と『新篇鳩ヶ谷の歴史』に記されている。ところが「女郎仏」は今では、梅毒治療ではなくて、安産祈願になっている。(参考:渋井三郎「女郎仏」歴史研究306)

2009年4月 8日 (水)

ゴンドラに揺られて

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              田村孝之介 「橋」   1976年

    ヴェネチアといえばゴンドラ。色はなぜか黒と決まっている。1630年の法律を今でも守っいるからだ。ゴンドラに貴賎の区別をつけぬというその法律により、それまでの奢侈を競ったカラフルなゴンドラは消えた。長さ11.5メートル、重さ約400キロ、吃水線が浅く、波や風がなくてもいつも揺れているが、それは船が左右非対称にできているからだ。

2009年4月 6日 (月)

舞い降りた天使・多部未華子

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    多部未華子。2009年度上半期NHK年連続テレビ小説「つばさ」のヒロインを務めた。まなざしは強く、たたずまいは可憐。かわいい系だがぶりっ子ではなくて、あくまで自然体なのがいい。初の平成生まれのヒロイン。進化した女性の容貌を感じるが、落ち着いた仕草にふしぎと「昭和の香り」がする。むかしの内藤洋子(「その人は昔」)や仁科明子(「初恋」)に対していだいた清純な情感を抱かせてくれる稀有な人である。おそらく年輩の男性には人気があるであろう。彼女の存在はCMや女学生姿に早くから着目していたものの、朝ドラのヒロインに選ばれたとき、いささか不安があった。朝ドラは低視聴率が続いている状態であるし、演出にはマンネリ化がみられた。ところが「つばさ」のタイトルバックの新鮮さに魅かれた。静止画を基本とした落ち着きのある映像はまるで写真集を開いているようにな新鮮さがただよう。「あっ、天使が舞い降りた」と瞬間思った。見所は多部ちゃんの豊かな表情である。「デカワンコ」や「ドS刑事」では時折「変顔」をみせる。キャラ路線で作品ごとに変化する「カメレオン女優」といわれる。多部ちゃんの憧れのスターはなんとレオナルド・デカブリオだという。

2009年4月 5日 (日)

宗教は悲しみを癒す手助けとなるか?

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   どんなに健康に気をつけても、人は老化し、病気になり、ついには死ぬ。葬式のあるたびに、死はすべてのものを征服する王であるかのように思える。もっとも、死後にも命があると信じる人はいつの時代にもいる。古代エジプト人やギリシアの哲学者プラトンは、肉体が朽ちても不滅の魂がある、いわゆる霊魂不滅を信じていた。

  数年前、「千の風になって」がヒットしたが、仏教界からすると歌詞に対して異論があった。「亡くなった人はお墓にはいない」「風になってそばにいる」という考え方は、死者を成仏させ、霊魂の存在を否定する仏教の教えにはなじまないものであった。米アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」もテーマが死なのに宗教が描かれていないことに仏教界では疑問の声がある。これまで死は宗教が取り扱ってきた大きな問題なのに、現代の葬儀の多くは葬儀屋に任せるようになり、「葬式仏教」にもなれない。いまこそ僧侶は悲しみと癒しを手助けをしなければならない、と松長有慶(高野山真言宗)管長は語る(朝日新聞夕刊2009.4.4)

立志と読書

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    ものしり博士ケペルは助手の上原ゆかりと2人で「女性の書斎ひとり好き」(兵庫県宝塚市)を経営している。読書は単に趣味や娯楽ではない。そういう要素もあるけれど、根本的にいえば読書は人間一生の大事であって、その方針を樹てるということは、生涯の精神プランを樹てることに他ならない。つまり読書は立志とともに始まる。「何でも考え、何でも知って、何んでもかんでもやってみよう」という精神で、知識を広く求めようとする志を立てることだ。むろん何事でもそうであるが、誰か他人の意見を聞いて、その他人の読書方針通りやっていればいいというわけにはゆかない。与えられた本にだけかじりついていればいいというわけではない。人は各々様々の問題を懐いているのであるから、たとえ迷っても自発的な求道心に第一の基礎を置かねばならない。と同時に長い間かかってたゆみなく勉強するつよい忍耐力を養う必要がある。多くの人の中には齢とってから学問をやる人もあるだろうし、閑暇の少ない人もあるだろう。また知的水準の低さを嘆いている人もあると思う。しかし、そういう一切のハンディキャップを克服する勇気、永続的な努力によって克服する意志が第一である。要するに、今すぐどういう本を読んだらいいかという目先のことだけでなく我々が一生かかって読む本、それに出合うことが読書の妙諦であろう。先人の書との出会い、さらにその持久的な研鑽、これによって我々の生涯は決定されるといってもいい。それほど読書は重大である。

2009年4月 4日 (土)

八月のクリスマス

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    ジョンウォン(ハン・ソッキュ)は小さな写真館を経営する青年。ある夏の日、若い駐車違反取締員の女性タリム(シム・ウナ)と知り合う。やがて、タリムは毎日のように彼の店に姿を見せるようになる。死期が迫ったジョンウォンにとって彼女の存在が唯一の慰めとなる。季節は夏から秋、そして冬へ。数週間、ジョンウォンは入院した。退院したものの彼に残された時間はわずかだった。写真館に戻ると表の窓ガラスが割れている。入るとタリムからの手紙があった。

大好きなおじさんへ

   おじさん、お元気ですか。私は今、あまり元気じゃありません。この間の日曜日、とても楽しかった。遊園地でおじさんとソフトクリームを食べたこと、銭湯に行って帰りに食べたミカンの味、歩きながらおじさんが話してくれた幽霊のおならの話。私、あの日から自分はおじさんの特別な人になれたのだと思っていました。今年のクリスマスはおじさんと一緒に過ごせるんだと、そんなふうに考えていました。おじさんは私のことどう思っていますか?少しだけでも会いたいです。    タリム

                       *      *

タリムへ

   突然、姿を消してごめんなさい。手紙を読みました。あれから僕は、持病が悪化して入院していました。君には話していませんでしたが、僕は以前から重い病を抱えていたのです。おそらく僕は、今年のクリスマスを生きて迎えることはできそうにないのです。君と知り合って数ヶ月、僕はとても幸せでした。最後まで言えなかった言葉を言います。君を愛しています。けれども僕にはもう君と分かち合える人生の時間が残っていません。君のそばにいて元気づけてあげることができないのは本当に残念です。だからせめて、僕のことで悩んだり気に病んだりすることだけはしないでください。あの夏の日、君と出会えたことは、神様が最後に僕に与えてくれた最高のプレゼントだったと思っています。僕にはあの八月に、人より早いクリスマスがやってきたのだと。  ジョンウォン

ヒーローの疲労

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   マリナーズのイチローが胃潰瘍のため開幕戦を欠場することとなった。さすがのイチローも人の子でWBCの日の丸の重圧、大黒柱としての責任感による肉体疲労、精神疲労は想像をこえるものだったろう。医学博士の岡田三郎の研究によれば、野球選手の疲労蓄積は次のような現象がみられるという。①選球眼が鈍くなる②守備範囲が狭くなり失策が多くなる③バッティングが鈍くなり、打撃が低下する④ランナーとしての動作が鈍くなる(「スポーツと疲労」不昧堂出版、昭和37年)全9試合フルイニング出場したものの通算打率は2割7分3厘とイチローらしからぬ成績だった。結局、日本を連覇に導いたのはイチローのバットであったが、ヒーローは疲労に悩まされていた。今は充分に「戦士の休息」をとって回復することを祈っている。

2009年4月 3日 (金)

17世紀オランダの繁栄とレンブラント

   「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」で知られるデカルト(1596-1650)がオランダに隠棲したのは1628年の秋の頃である。どうしてデカルトが哲学的思索の場所として、オランダの地を選んだかというと、それはこの国には他の土地には見られないほどの「自由」があったからである。1579年のユトレヒト同盟によって宗教的自由を勝ち得たオランダは1585年アントワープをスペインに奪われたので、そこから逃れてきたユダヤ人のダイヤモンド商人や研磨士が、アムステルダムに仕事場をもった。哲学者スピノザ(1632-1677)は「この街ほどあらゆる国のあらゆる宗教の人間がうまく協調しあって生活しているところは、他に例を見ない」と述べている。

    画家レンブラント(1606-1669)はレイデンの製粉業者の息子として生れた。レイデンは当時オランダ第2の都市で、彼が入学した大学はヨーロッパでもきわめて格が高かった。レンブラントは1631年頃アムステルダムへ移ってきたが、当時アムステルダムはヨーロッパの商業の中心地として繁栄していた。ネーデルランド南部からの移民やユダヤ人の移民も増加し、市の人口10万5000人に達した。レンブラントはユダヤ人との付き合いによって、旧約聖書の人物たちを描くための、インスピレーションを得た。

勝利の陰に夫婦愛あり

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  「青春の勲章はくじけない心だと」歌った青春の巨匠、森田健作は前回の選挙(2005年)では僅差で落選したが、3月29日、千葉県知事に見事当選した。だがこの4年間、光のあたらない健作を陰で懸命に支えたのは妻の美子夫人だ。また全国を感動の渦に巻きこんだWBC連覇。29人の侍たちを束ねた原辰徳監督を陰で支えた6歳年上の明子夫人の献身的な愛があったからであろう。朝カレーのイチローの弓子夫人(43歳)、必勝祈願スープの松坂大輔の倫世夫人(34歳)も年上女房の実力をいかんなく発揮した。だが陰のMVP妻は岩隈久志のまどか夫人だろう。夫人は楽天の広橋公寿2軍コーチの長女で岩隈とはプロ3年目のオフに結婚し、一男一女をもうけた。近鉄球団の移籍騒動やその後の肩の故障と、夫人に苦労をかけてきた。松坂も認めた陰のMVP男を支えたのは夫婦愛だったのだ。やっぱし男は家族の支えがあっていい仕事ができるんだね。

2009年4月 2日 (木)

新しい船出

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    本日、「女性の書斎・ひとり好き」のプレ・オープン。ご近所の皆様が来館。みな一様に蔵書の多さ、ジャンルの広さに驚いていた様子。滞在時間も皆30分以上の方ばかり。今日、来られた方は明日から有料制になるが、続けて来ていただけると思う。

    お客様との会話もはずんで楽しい一日だった。ある女性はアメリカのメアリー・カサット(1844-1926)の画集をさがしていた。「女性の書斎」には「世界美術全集・印象派の画家たち9巻カサット」(千趣会、1978年)を所蔵している。また室内に俳優のモンゴメリー・クリフト(1920-1966)の写真を飾っていたら、「あら、モンティね、いいわね~」と喜ばれた。たいそうお店が気に入ってもらえたのが嬉しい。まずは順調なオープン初日といえるだろう。

  女性の書斎 ひとり好き

 アット・ホームな雰囲気の中で芸術・文化に親しみながら読書が楽しめる環境を提供します。美術・歴史から趣味・生活まで魅力ある蔵書構成です。

○女性専用なので安心。ただし土・日曜は男性も入館できます

○入館料制(200円)ですが何時間いてもOK。小学生以下は無料。 

○明日より開館(年中無休)

○蔵書数:1万冊以上あります。

○営業時間:10時から20時

○場所:兵庫県宝塚市・阪急逆瀬川駅下車

 お近くにお住まいの女性の方は是非一度お立ち寄りください。きっとあなただけの物語が見つかります。

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2009年4月 1日 (水)

昭和くさい顔って、どんな顔?

    選抜高校野球大会に出場の利府高校(宮城)の選手が、自身の携帯サイト上のブログに対戦相手校について「変な顔のやつばかり。(笑)昭和くさい」と書き込んでいたことが問題となっている。ことの是非はさておき、平成生まれの若者たちが「昭和くさい」という言葉を侮蔑するために使用していることにショックを受けた大人たちは多いだろう。「昭和くさい」という若者言葉を調べていくうちに、次のような意味もあることを知った。「いわゆるチャラチャラしていない。まじめ、硬派、地に足が付いている、素朴な感じ」というニュアンスが含まれているらしい。今日、利府は、皮肉にも「昭和くさい」花巻東(岩手)に敗れた。明日の決勝は清峰と花巻東の対決となる。「昭和くさい」ほうが勝つような気がする。

   ところで朝日新聞社では「昭和といえば思い浮かぶ人物は?」という世論調査を行った。(2009.3.30紙上発表)コテコテの「昭和くさい顔」がズラリと並んでいる。

  第1位はもちろん昭和天皇。続いて田中角栄、美空ひばり、吉田茂、東条英機、佐藤栄作、長嶋茂雄、松下幸之助、中曽根康弘、ダグラス・マッカーサー、石原裕次郎、山本五十六、池田勇人、美智子皇后、竹下登、小泉純一郎、湯川秀樹、王貞治、千代の富士、山口百恵、三島由紀夫、手塚治虫の順であった。

   平成生まれの若者たちはこれら著名人の顔写真を見ても何をした人かわからないかもしれない。自分自身との関わりも感じないだろう。本当は歴史の渦のなかで深い関わりがあるのはもちろんである。著名人でなくとも、若者の両親あるいは祖父母は昭和を生きた人であろう。「先人を尊敬せよ」と言わぬまでも、自分のアイデンティティを確立するためには昭和という時代と対峙していかなければならないのだ。このままでは、おそらく平成生れの若者たちは「偉大な昭和」という時代と自身との関係を見出せないまま、人生を生きていくことになるのだろう。「昭和くさい」という言葉は使い方によって両義性のある言葉だが、単に侮蔑として使うならばそれは自分自身の存在をも否定することになることに気づかせるべきである。

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