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2009年4月30日 (木)

信長vs忍者軍団

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    昨夜NHK「歴史秘話ヒストリア」を見る。忍者がテーマであるが表面的、観光的な内容でものたらない。忍者の生活や悲惨さがリアルに伝わらない。もし製作者が白土三平の「忍者武芸帳」を読んでいたら視点が変わっただろう。

    忍者が最も歴史の舞台に現われ、華やかな活躍を見せるのは戦国時代であろう。諸大名の抗争が激化すると、夜間行動を中心とする忍びの専門的技術も考案され、忍者たちはそれぞれ大名にかかえられ、特別の任務を帯び活躍するようになった。伊賀流、甲賀流のほか、扶桑流、甲陽流、根来流、戸隠流など諸流が生れた。徳川家の服部半蔵、北条家の風魔小太郎、毛利家の佐田兄弟、村上家の相部次郎左衛門、武田家の富田郷左衛門、上杉謙信の使った担猿(のきざる)らは有名である。とくに伊賀と甲賀は600~700人の忍者集団がいて一大勢力となっていた。天下統一の野望に燃える織田信長は禍根を絶つため、天正9年、残虐な殲滅作戦を展開した。これを天正伊賀の乱という。

   白土三平の「忍者武芸帳」はこの時代を背景にしているものの、その非情で虚無的な唯物史観(??)は衝撃であった。白土三平の父が画家岡本唐貴というプロレタリア美術なのでおそらく影響があるのだろう。兄が近所の貸本屋から借りてきた「忍者武芸帳」、記録によると昭和34年12月に三洋社から発売されたとあるから、おそらく昭和35年頃のことであろう。それまで時代劇の漫画といえば、堀江卓の「つばくろ頭巾」や武内つなよしの「赤銅鈴之助」であったから、のちに劇画といわれるリアルで残虐な絵柄は子ども心に強烈であった。百姓の首が飛ぶ。女、子どもが飢え死にをする。われわれの祖先がどんな悲惨な生活をして生きてきたか、こどもにも恐ろしいほど伝わる。小学校低学年だったケペルには白土漫画はすこしハードすぎた。今、この年になって読むと、人生や世の中を庶民の「生」の強さをペンで見事に表現している。筋や構成もスケールが大きく、歴史を考えさせられる。良い子のみなさん、忍者の実態を知るには「忍たま乱太郎」や「歴史秘話ヒストリア」を見るより白土三平のマンガを読むべし。

本日の食事

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連休には読書を

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 読書のほんとうの喜びは、

 なんどもそれを読み返すことにある

                D・H・ロレンス

  *  *  *  *  *  *  *  *

  岩波書店「図書」 1984年2月 目次

「庭から風景」 富士川義之

「地獄化した書斎」 杉浦明平

「ファウストとドン・ファン」 淮陰生

「書簡体一面」 三國一朗

「祭りの声から地平線へ」 新藤兼人

「新歳時記・試験」 林一

「青年の環をめぐって」 野間宏・菅野昭正

「タミルの慣習と日本」 大野晋

「比べるということ」 荒松雄

「カルパチアの月」 千野栄一

「日本の数学百年の流れ」 彌永昌吉

「こぼればなし」

心の病気と現代

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   心の病気は、身体的心理的原因のみでなく、社会的原因によってもひきおこされる。五月病といってこの季節は新しい環境に適応できずに心の病気にかかる人も多い。宝塚女性の書斎ひとり好きでは、本に囲まれた書斎という落ち着いた雰囲気で癒しの空間を用意しています。名作と出会うことも良し、雑誌のパラパラめくりでも良い。ゆったりとした時間を見つけることで、自分らしさを発見できる場となればと願っています。

 女性の書斎「ひとり好き」

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        *    *   *   *   *   *    *

 岩波書店「図書」1977年1月 目次

「唯物論政府」 梅棹忠夫

「文法ぎらい」 大野晋

「南原繁の戦時下の書簡」 氷上英廣

「最後の言葉」 淮陰生

「山本覚馬のこと」 鶴見俊輔

「森有正君のこと」

「虹の上をとぶ船との再会」 いぬいとみこ

「濃密な戦争像、日露戦争の軍事史的研究」 司馬遼太郎

「ニューヨーカーの五十年続」

「大書物目録浮言」 杉村武

「茂原市木納徂徠遺蹟」 吉川幸次郎

こぼればなし

2009年4月29日 (水)

裸の文化史

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               東京都港区檜町公園

    裸体は、人間の日常生活では普通は見られないものである。現代人は、ほとんどが何んらかの衣服を着用している。いわゆる文明社会では裸体は性的興奮を催させるため、もし人前で全裸になれば公然わいせつ罪(刑法第174条)として逮捕されることになる。ただし欧米ではヌーディズムの習慣が社会的認知を得ていることもあって海岸や湖などのリゾートの特別な場所においては認められるケースがある。むかしルイ・ド・フィネス演ずる警部がヌーディスト村を警護するというフランスのコメディ映画をみたことがある。現在のところ日本国内においては、自治体公認のヌーディスト村、ヌーディスト・ビーチは存在しない。

   裸体の歴史を考えるとき、まずギリシア彫刻を思い浮かべるであろう。古代ギリシア人は精神と肉体はひとつであるという考えをもっていた。古代オリンピックは全裸で競技が行われたが、不正防止の意味もあるであろうが、裸体がわいせつであるという意識はなかったこともある。アポロン神を完全無欠な美からなる人間のごときものだと信じて疑わないように、競技者は自らの裸体の美を猥褻どころか美の極致として自信をもって人前で全裸をさらけだしていたであろう。

    日本においても戦前のころまでは、農村の子供達は上半身が裸であることはそれほどみぐるしいものとはおもわれなかった。母親の赤ん坊への授乳においても、社会的認知を得ていた自然な行為と認められていた。公衆浴場(銭湯)の利用は都会では昭和30年代までは一般的であった。裸が人間本来の姿であることは当たり前のことであるが、欧米のナチュラリストの運動のような衣服を着用する義務を課せられていることに対する抗議の声はあまり日本では聞いたことはないし、ストリーキングも最近はあまり話題にあがってこないようである。

   しかしながら日本民族は本来、海洋民族であり、ふんどし一本が普段着であったはずだ。はるか神代の昔、天照大神が弟である素戔鳴尊の乱暴なふるまいに怒って天岩戸に姿をかくした時、天鈿女命が裸になって俳優(わざおき)すると、高天原がどよめき、神々もおおいに笑いさわいだ。そのさわぎに天照大神は天岩戸を細めに開き、そのすきに天手刀男神が大神の手をとって外へ連れ出したので、天地はふたたび明るくなったという。

   天鈿女命はストリッパーの元祖でもあるが、芸能の神様でもある。このような大らかな神話を生んだのが日本民族であったが、いつのまにやらこの民族は大らかな心をなくしたような気がしている。

本日の食事

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本との出会いの場をつくる

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  わたくしが人生を知ったのは

     人と接触した結果ではなく、

        本と接触した結果である。

                    アナトール・フランス

      *   *   *   *   *   *   *   *

    久しふりにブック・オフに本の買出し。ゴールデン・ウィークなので恒例の抽選をしている。銀色の玉がでたと思ったら、なんと2000円分の感謝券である。初めての大当たりの日。2000円と100円と50円が5枚、計2350円也。

「ウェブスター英英和辞典」、キム・ヨンチャン「誰にでも秘密がある」、孔枝泳著、蓮池薫訳「私たちの幸せな時間」、パク・チョンウ「ファースト・キス」、きたやまようこ「ぼくとポチのおかしな12人のともだち」購入。

宝塚の家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」

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  インドの財宝を挙ぐるも、

  読書の楽しみにはかえがたし

                 ギボン

   *  *  *  *  *  *  *

岩波書店「図書」1976年12月 目次

「漢和辞典」 山辺健太郎

「世界の河・ドイツの河=ライン」 松田智雄

「左千夫に関する質疑に答えて、アララギ夏期短歌会」 土屋文明

「不安な西ドイツ人」

「茂吉書簡拾遺、発見までと若干の注」 岡部康幸

「反語逆説辞典のあれこれ」 淮陰生

「ニューヨークでつくった子どもの図書館」 関千枝子

「森有正さんの思い出」 成瀬治

「ニューヨーカーの五十年」

「日本の酒学2」 坂口謹一郎

こぼればなし

2009年4月28日 (火)

女性の書斎・ひとり好き

  きみが最善をのぞむなら

  自分だけの力をたのまず

  先人の感覚に従いながら

  ともに迷ってみることだ

             ゲーテ

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岩波「図書」1976年11月 目次

「読む人」 なだいなだ

「ポサダと全体の表現」 大江健三郎

「ハンガリーの結婚と離婚」 潮見俊隆

「円盤結晶の思い出」 樋口敬二

「美とはなにか」 淮陰生

「手紙の歴史拾遺」 小松茂美

「毛沢東と孤独な修道僧」 筧文生

「動揺する心」 陳舜臣

「名言一つ」 開高健

「斎藤茂吉全集補遺」 柴生田稔

「アビゲイルとジョン続」

「日本の手と足、その運動と律動性」 小倉朗

こぼればなし

片岡源五右衛門高房

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   片岡源五右衛門は尾張藩士熊井重次郎の子で、叔父の赤穂藩士片岡六左衛門の養子となり、片岡姓を名乗って浅野家に仕えた。元禄13年、主君浅野内匠頭に従って江戸に下向、翌年の殿中刃傷のときは江戸城大手下馬先で供待ちしていた。網打ち駕籠に乗せられて田村右京大夫邸(港区新橋3-3)に入った内匠頭は酒や煙草などの好みの物も与えられず、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。ただ検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の庭にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、片岡源五右衛門のみが拝領することができた。互いに無言のまま今生の別れをかわしたが、源五右衛門も断腸の思いで主君の最後を見送ったのである。

  風さそふ花よりもなほ我はまた

         春の名残をいかにとかせん

   内匠頭は哀切な辞世を残して三十五年の生涯を閉じた。

本日の食事

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ロリータ

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    ロシア貴族の亡命作家ウラジーミル・ナボコフ(1899-1977)と喜劇王チャールズ・チャップリン(1889-1977)とはおそらく2人は面識はないだろうが、「ロリータ」(Lolita)という一語で繋がっている。

   ナボコフの小説は、中年男ハンバート・ハンバートが12歳の少女ロリータに惹かれてその母親と結婚し、彼女の死後ロリータを手に入れるが、やがてハンバートは逮捕され、獄死するという話である。この背徳的な小説は最初アメリカでは出版されず、1955年パリで出されたが発売禁止となるが、デンマーク、スウェーデン、イタリア、ドイツ、オランダと各国語に訳され世界的ベストセラーとなるや、1958年になってニューヨークでパトナム社から出版されるにいたった。主人公ハンバート・ハンバートという奇妙な名前はさておき、ロリータというのはラテン語Doloresの変化したものである。ドロレスとは「悲しみ」「悲哀」の意味で、キリスト教の「マリアの悲しみ」に由来するといわれている。ところが、ロリータの本当の由来はチャップリンの2番目の幼な妻リタ・グレイから来ていると映画評論家の町山智治は記事に書いている。ナボコフは1940年にアメリカに亡命したが、1943年に有名なチャップリン裁判があった。ジョーン・バリーという無名の女優の赤ん坊の認知訴訟であったが、チャップリンの過去が取り沙汰され、2番目の妻との離婚も1927年のことだがむしかえされる羽目になった。そしてナボコフはリタ・グレイという女優の本名であるリリータからロリータを借用したというのである。真偽のほどは定かではないが、少女を崇拝するような習癖、ニンフエットだけを一生求めるところがチャップリンにはあったことは事実である。最初の妻ミルドレッド・ハリスは16歳、2度目の妻も16歳、3度目の妻ウーナ・オニール(劇作家ユージン・オニールの娘)は18歳である。ちなみに「モダンタイムス」のポーレット・ゴダードは日本に新婚旅行に来たが入籍はなかった。大人の男が未成熟の少女に執着する愛は当時のアメリカではタブーであったため、たとえ合法に結婚したといえども、チャップリンは世論から陰で非難されたようだ。小説『ロリータ』の出版から半世紀以上が経つが、社会道徳としては、大人の男にとっては依然少女は禁断の実であることには変わらない。(参考:週刊新潮2009.5.7.14号)

2009年4月27日 (月)

本日の食事

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中江藤樹の嫁選び

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  中江藤樹(1608-1648)は少年の頃から学問に心惹かれるようになった。そのころの学問というと、朱子学が主流であり、あえてそれに異を唱えるものはなかった。たが藤樹は37歳のとき王陽明の学問を知った。静かに瞑想して知る知ではなく、行動することによって知る知なのである。こうして彼は、陽明学に辿りつき、陽明学者として、わが国における最初の祖述者となった。

   あるとき、藤樹は帰宅途中、数人の盗賊にとりかこまれた。彼らは「身ぐるみぬいでおいていけ」と藤樹にせまった。藤樹は少しもあわてず、しばらく考えていたが、ややあってから、「着物はわたすことができん。ここでわしが着物を渡してやると、おまえさんたちは、ますます図にのって悪事をかさねるにちがいない。よって、このわしが成敗してくれる」というやいなや、持っていた刀の柄に手をかけ、あわや抜かんというすがたをみたが、盗賊たちは、その人がかねてから人々に慕われている藤樹先生と知り、無礼をわびただけではなく、これを機縁に門人になったという。

   また藤樹は結婚も30歳のときであるから、当時としてはずいぶんと晩婚だった。律義にも「三十にして室(妻)有り」という礼記にならったものであろう。しかも、この妻にした女性は高橋某の娘だが、これがもう二目とは見られぬほどのひどい醜女だった。母親のほうでも「おまえ、弟子の出入りも多いことだし、なにも好き好んで、あのようなひどい面相の女をそばに置くこともないではないか。いまからでも遅くはない。離縁しなさい」と申し出たほどだったが、日ごろ母親のいうことはなんでも聞く親孝行息子の藤樹であるが、このときばかりは頑として母親の言を容れなかった。「あんな醜女のどこがいいんだ」母親があきれるように言うと、「女は顔ではありませぬ」藤樹はきっぱりと答えた。「たしかに、あの女は見てくれは悪い。しかし、性格がとてもいいんです。非常に利口で、気くばりもきき、考え方にまちがいがありません」息子にこういわれては、それ以上母親も口出しはできない。ついに、嫁を追い出すことをあきらめた。この藤樹と13歳年下の妻は、はじめの4年間に3人の子を生んだ。いずれも育たず、5年目に産んだ男の子がようやく無事に成長した。これが嗣子の直伯。ついで9年目に次男の仲樹を産んだが、産後の肥立ちが悪かったのだろう、26歳の若さで他界した。藤樹もそれから2年後の慶安元年8月に死んでいる。享年41歳だった。(参考:歴史読本29-1、負目聖人「近江聖人のブス・ワイフ)

2009年4月26日 (日)

貝の日本文化史

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    彼岸から4、5月にかけては、潮干狩の季節である。日本列島は世界でも有数の貝産国であり、貝は昔から食生活の中心であった。貝塚は縄文人が貝をとり、食べて捨てた場所であり、その膨大な量から重要な食料であったことがわかる。「古事記」には蚶貝姫(きさがいひめ)と蛤貝姫(うむがいひめ)との介抱で、大国主命を大やけどから救った話があり、「日本書紀」には景行天皇の東国巡幸のとき、白蛤のなますを献じたなどの記事がある。平安時代には、貝を集めて美を競い、歌や絵として楽しみ、貝覆いで遊び、あるいは恋忘れ貝として憂さを貝に託したり、棘だらけのホネガイは悪魔よけにするなど、心理的な面でのかかわりも多くなった。中世、山岳仏教では修験道の山伏がほら貝を吹き鳴らし、悪魔退散諸善神を呼ぶ。そのほか貝から真珠や紫の染料を得るなど、貝は日本人の暮らしの中でなくてはならないものと言える。

本日の食事

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戦国の梟雄、松永久秀

   松永久秀(1510-1577)はもともと山城国西岡付近の商人だったという説もあるが、その氏素性は明らかでない。久秀が織田信長に仕えていたときの話である。徳川家康が信長に謁見した際、その席に一人の老人がいた。家康がその老人に、すこぶる慇懃に挨拶すると、信長がこう言ったという。

「この男は松永弾正という者で、そんなに丁重に挨拶する相手ではない。もともと小身であったのを、三好長慶に取り立てられたのに、主家に叛いたような、心のゆるせない男である。だいたいこの男は他人のまねのできないことを三つやってのけた。一つは主家の三好氏を倒したこと、二つは将軍足利義輝を殺したこと、三つは奈良の大仏を焼き払ったことである」

   この信長の紹介を聞いて、さすがの久秀も赤面して、頭から烟を立てるた。天正5年の信長の石山本願寺攻めのとき、謀反した理由の一つは、この信長の侮蔑の言にあったという。信貴山城にこもった久秀は、織田信忠軍に攻められ、城に火をかけて自害した。この日、10月10日は、10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったその同日、同時刻だったため、人々は春日明神の祟りだと噂しあった。(参考文献:「備前老人物語」)

孟姜女と万里の長城

    月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、東西8851.8キロの総延長を持つ。長城は2500年も以前の春秋戦国時代から、つい500年前の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。

   秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。

ブルジョワとプロレタリアの階級制度は今も健在である

    自民党の若手議員の勉強会で国会議員の世襲制限が話題になっている。もちろん党内実力者から批判が相次いだ。鳩山邦夫は21日の会見で「世襲は一切認めない、直系の両親どちらかが国会議員だったら選挙に出ないという規則が決まったら、私も総理も出られない。潔く従うことはありうる」と述べた。

    鳩山邦夫の祖父・鳩山一郎は元首相、父・鳩山威一郎は元外相。戦前、鳩山一郎が文部大臣だったとき、学問の自由の弾圧で知られる京大滝川事件があった。(昭和8年)

    有島武郎(1878-1923)の名作「或る女」(大正8年)でヒロイン早月葉子は、アメリカにいる許婚の木村のもとへおもむく途中、船の事務長倉地と恋仲になる。そこで葉子をスキャンダル記事で追い込む田川法学士夫人のモデルは、鳩山一郎の母・鳩山春子(1861-1938)だといわれている。社会主義運動の昂揚期にあって、ブルジョワとプロレタリアとで苦悩した有島武郎は、鳩山ファミリーをブルジョワの代表として描いた。100年後も鳩山ファミリーは健在だ。ただ酔っぱらっただけの草なぎ剛を「最低の人間」と罵倒しえるのは、自分は名門の出身で偉い人間と思っている傲慢さから出た言葉である。金があり権勢のある者が、人を死刑をできる権限が与えられ、マスコミの会見で人間を評価できる、ということに、この国の民主主義制度の怪しいものを感じる。

2009年4月25日 (土)

アイドルを探せ

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   60年代フレンチポップスの「シンボル・ガール」「イエ・イエ娘」「レナウン娘」のシルヴィ・バルタンは何人だろうか?バルタン星人。いいえ、父はフランス人だが母はハンガリー人。生れはブルガリア西部の村イスクレッツ。つまり琴欧洲とは同郷人。(ヴェリコ・タルノヴォ)ブルガリアは第二次世界大戦は三国同盟に加盟(1941年3月1日)したので日本とは同盟国であり、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしている。戦後、ソ連軍進駐により、シルヴィ・バルタン一家はパリに移ったと思われる。

  シルヴィ・バルタン(「初恋の二コラ」)に限らずシャンソン歌手には外国生まれの人が多い。イヴ・モンタン(「枯葉」)はイタリア。アンリ・サルヴァドールはフランス領ギアナ。アニー・コルディ(「バナム」)はベルギー。エディ・コンスタンチーヌはアメリカ。アダモ(「雪が降る」)はイタリア生れのベルギー育ち。ミッシェル・ポルナレフ(「愛の休日」)はパリ生まれのロシア系。シャルル・アズナブールはパリ生れのアルメニア人。ダリダ(「あまい囁き」)はエジプト生れのイタリア人。ペチュラ・クラーク(「恋のダウンタウン」)はイギリス。ナナ・ムスクーリ(「日曜日はダメよ」)はギリシア。エンリコ・マシアス(「恋心」)はアルジェリア。つまり皆コスモポリタンなのだ。

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本日の食事

糖尿病対策のため担当栄養士から食事指導を受けている。そのため毎日の食事をデジカメで記録し、一日の適正な摂取エネルギーを量り、バランスのとれた食事内容にするように心がける。

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ガンバレ欽ちゃんファミリー

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    萩本欽一の番組から売り出したタレントたちを「欽ちゃんファミリー」というそうだ。風見しんご、黒部幸英、見栄晴、斉藤清六、はしのえみ、車だん吉、高部知子、倉沢淳美、高橋真美、中原理恵、CHA-CHA、山口良一、西山浩司、長江健次、鳥居かほり、香坂みゆき、気仙沼ちゃんなどたくさんいる。細川たかし、前川清のような大物歌手まで数える場合もある。むかし「欽ちゃんバンド」という番組のコーナーで、演奏の途中でキーボードのゆっこ(清水由貴子)がミスをする。すると佐藤B作が厳しく叱責する。それを見かねたハンサムな清水善三が由貴子を庇う。それを見てB作が「ゆっこと善三はアぁチチだぁ~」と囃したてるというギャグがあった。なぜこんな古い番組をおもいだしたかというと、「お元気ですか」の清水由貴子が母親の介護疲れのために自らの命を絶つという悲しい報せがあったからだ。明るいキャラクターだっただけによけいに悲しい。「スター誕生」をよく見ていたが、甲斐智枝美とともにアイドルの悲報はやるせない気持ちになる。ところで「欽ちゃんファミリー」というと草なぎ剛も含まれるそうだ。草なぎはSAMP以前に木村拓也と共に茶々隊のオーデションに合格した。これが芸能界入りのきっかけである。「この子たちはお笑いの世界ではない」と感じた萩本欽一は2人を解雇してジャニーズ事務所の社長に預けた。草なぎはSMAPの中では控えめな存在ながら、「いい人」「やさしそう」「草食系」というイメージで好感度は高かった。ドラマ「バカヤロー」(平成11年)では細川直美、三浦理恵子らOLからセクハラの苦情処理を求められ板ばさみになるサラリーマンをコミカルに演じていた。(3本オムニバスの一つ「セクハラでから騒ぎするな」)この役柄と同じように草なぎ剛にはストレスを酒で紛らすしか方法がなかったのだろう。酒を飲みすぎて公園で全裸になったという一件で公然わいせつ容疑として逮捕されというニュースが話題となっている。鳩山邦夫が「最低の人間」とか「絶対に許さない」と発言したことから、むしろ騒ぎが大きくなった。石原慎太郎は「騒ぎすぎ」と草なぎに同情を示すや、橋下徹も「ほめられた行為ではないが、僕なんか知事になる前に山ほどやっている。かわいそうで仕方がない」と同情論が趨勢をしめた。ケペルの店でも、若い女性がSMAPの写真集を見ながら、「草なぎくん、かわいそう」という声が聞かれた。このようなSMAPファンを敵にまわすと選挙に悪影響を及ぼすと判断したのか、鳩山邦夫はすぐさま発言を撤回した。財務相・中川昭一のG7へべれけ会見では自民党の恥を棚にあげて、タレントを「最低の人間」と罵倒したあと、すぐさま発言を撤回することに対して国民はあきれ果てている。むしろ草なぎが「若者よ、我が道を行け」と謎の言葉を残したことに興味を覚える。34歳という立派なお金もちのスターが、孤独な王子様のように苦悩を秘めていることに悲哀を感じる。幸せはお金では買えない。かってアメリカの人気俳優だったモンゴメリー・クリフトも同じような奇行があったことを聞いたことがある。スターというのは一般人が思う以上にストレスの多い仕事であろう。繊細に草なぎもその細い体で必死になって格闘しているのだろうな、と自分流に想像している。

   話を欽ちゃんファミリーに戻すと、ケペルは斉藤清六が好きだった。ギャグは「バイナラ」だけで、あまり芸がない。最近、朝のNHK連続テレビ小説「つばさ」で詐欺師の役でひさしぶりに彼をみたのでうれしかった。「つばさ」のガイドブックで確認したかったが、なんと彼の名前がでていない。せめて全出演者リストくらいは掲載してほしいものだ。欽ちゃんファミリーの今後の活躍を期待したい。

2009年4月24日 (金)

瀧井孝作「美しい大和の寺々」

岩波書店「図書325号」1976年9月、目次。

「日本語のむつかしさ」金達寿

「大和古寺大観」の先蹤」 田澤坦

「師との出会い 私の奈良学事始め」太田博太郎

「古建築の撮影をめぐって」渡辺義雄、太田博太郎

「いかるが三井」幸田文

「奈良六大寺大観と私」 鈴木敬

「美しい大和の寺々」 瀧井孝作

「ミュゾットもラロンも(万物流転)」

「ツィターの魅力、続」 河野保人

「中学教師赴任当初の漱石」 才神時雄

「メリメの未発表の手紙」 江口清

「話し言葉の音の運動2」 小倉朗

(宝塚「女性の書斎・ひとり好き」(女性読書支援施設)に所蔵しています。閲覧は女性のみ可。年中無休)

   作家の瀧井孝作は大正末年から昭和の初年までの5年間、奈良の上高畑に住んでいた。その思い出を綴っている。「佐保村の麦秋」(昭和13年)も再録している。

野口英世

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  志を得ざれば再び此地を踏まず

   これは、明治29年、野口英世(1876-1928)が大志を抱いて単身上京する折、家の床柱にナイフで刻みつけた19歳の時の言葉である。猪苗代湖畔にある茅葺の粗末な生家には、今でもそのまま残されている。

   野口英世は明治33年に渡米し、明治44年に梅毒の病原体であるスピロへータを発見し、大正2年に麻痺性痴呆と脊髄癆の患者からトレポネーマを発見し、世界第一級の業績を上げた。大正4年9月から11月まで日本に帰省し、故郷で大歓迎を受けた。19歳の時、柱に刻んだ志を果たしたのである。

東西文学雑談

Oshima1 伊豆大島

「図書302号」1974年10月、目次。

今野一雄「秋に思う」

生島遼一、野間光辰、吉川幸次郎「東西文学雑談(座談会)」

淮陰生「余財ありて清節あり」

飯沢匡「笑わない人々」

中村一明「伊豆大島・火山島の自然2」

寺田透「郎女その人柄は」

桑原万寿太郎「動物のコミュニケーション生体と情報」

   例によって目次の紹介。本号の特集「東西文学雑談」は吉川幸次郎を中心として京都学派の話など面白い読物となっている。

宝塚「女性の書斎・ひとり好き」(ケペル研究室)で閲覧可能(女性のみ)。逆瀬川駅下車。有料読書支援施設

2009年4月23日 (木)

桓武朝の光と影

Img_0009 青色は天智系、赤色は天武系。なお紫色は、天智に生れるが、天武系の意識をもって行動した天皇をさす。

    第50代・桓武天皇(737-806)は歴代天皇125人の中でも稀にみる英傑であった。遷都を敢行したのは、仏教勢力を統制するため、大寺院の勢力が強い平城京を離れたといわれているが、そのほかにも理由があったであろう。それは天智系である桓武にとって天武系の皇族子孫とそれを支持する貴族たちの多い平城京を去ることであった。桓武は学問もすぐれていたらしく、政務も自ら行っていた、遊猟とくに勇壮な鷹狩を好み、しばしば郊外に馬を馳せ、晩年まで止めなかった。また、英雄色を好む、の喩えどおり、寵愛する女性も多く、子女が35人いたという。後宮は奢侈をきわめ財政難に苦しんだ。政府は財政難を補うために、人民に課税を重くとりたてた。皇位をめぐる権力闘争は桓武の即位のはじめからみられ、みずから進んで臣籍に下ったりするものも少なくなく、その多くは源氏の姓を賜い、なかには平氏その他の姓を賜ったものもいた。

美術館展示図録集

   公共図書館では美術館の図録など網羅的に収集しているところは案外に少ない。なかには優れた図録も多くあり美術史研究の資料的価値は高いが入手が困難である。そこで「女性の書斎・ひとり好き」所蔵の美術館展示図録を掲載する。女性の方なら閲覧は可能である。

19世紀フランス巨匠名品展 ポール・ユエとその周辺 ギャラリー・サンモトヤマ 1969

古代オリエント・ギリシア展 ドイツ民主共和国ベルリン国立博物館所蔵 日本経済新聞社 1973

ゴヤからピカソ スペイン版画の全貌展 兵庫県立近代美術館 1973

ヴァン・ゴッホ展 オランダ国立ヴァン・ゴッホ美術館 1976

マチスとその周辺 20世紀美術の巨匠たち 西宮市大谷記念美術館 1981

クールベとフランス19世紀絵画展図録 大丸神戸店 1981

パキスタン・ガンダーラ美術展 西武美術館 1984

オルセー美術館 印象派・後期印象派名品集 1984

18-19世紀フランス絵画展 ヴァトーからバルビゾン派 大丸神戸店 1984

キスリング展 アート・ライフ 1984

大楠公展 御殉節650年記念 神戸新聞社 1985

シスレー展 奈良県立美術館 1985

岸田劉生と白樺派の時代展 読売新聞大阪本社 1985

中国五千年の秘宝展 中国天津市文物展 神戸市スポーツ教育公社 1985

ラファエロ前派とその時代 東京新聞 1985

モダン・パリ展 印象派から世紀末まで 兵庫県立近代美術館 1985

オランダ・コレクションによるヴァン・ゴッホ展 国立国際美術館 1986

ゴッホ「ひまわり」解説図録 安田火災東郷青児美術館 1987

なら・シルクロード博公式ガイドブック なら・シルクロード博協会 1988

銅版画江戸川乱歩の世界 多賀新 春陽堂 1988

気球があがった 近代京都の一世紀 京都文化博物館 1988

タゴール展 偉大なる生涯とその芸術 西武美術館 1988

ヴァチカン美術館特別展 国立西洋美術館 1989

近代日本画家が描いた歴史とロマンの女性美展 朝日新聞社 1989

マリー・ローランサン展 薔薇色のソネット 神戸市立博物館 1996

煌めくガラス芸術 ヴェネツィアガラスからエミール・ガレまで サントリー・ミュージアム(天保山) 1997

デザインの世紀 サントリー・ミュージアム(天保山) 1998

ミレー、コロー、バルビゾンの巨星たち展図録 姫路市立美術館 1999

キヨッソネー東洋美術館所蔵浮世絵展 兵庫県立近代美術館 2001

ゴッホ展 北海道立近代美術館 2002

岩波書店「図書」1973年6月の目次

    宝塚・逆瀬川にある「女性の書斎・ひとり好き」で所蔵しています。閲覧可。

「図書」1973年6月、柴田翔「文学の変化」、生島遼一「奈良の仏たち」、太田博太郎・西川新次・長谷川誠・町田甲一・水野敬三郎「奈良六大寺大観」刊行を終って、村田治郎「奈良六大寺大観・法隆寺」に寄す」、野上彌生子「春閑」、吉野源三郎「かけがえのない人、阿部知二氏葬儀にあたって」、稲垣真美「阿部知二先生の遺志」、淮陰生「早々と棄てられていた沖縄」、石井桃子「1972年初夏イギリスへの旅」、羽仁進「私の見た志賀直哉」、内藤濯「横井小南と私の父」。

「ひとり好き」蔵書目録抄

岩波書店のPR誌「図書」は貴重な論文が満載。そこでケペル研究室所蔵の中から古いものを目次を記載する。

図書1975年2月「茂吉二十三回忌」柴生田稔、「地球と人」和達清夫、「さようならテレビ」真鍋博、「自然の中に生きる人びとへの感情、ローラ・インガルス・ワイルダーの作品をよんで」いぬいとみこ、「男断ち、但三ヶ年間之事」淮陰生、「岩波古語辞典と私」大野晋、「小児医療をはばむものは」荒井良、「史記会注考証の著者瀧川亀太郎先生を偲ぶ」水沢利忠、「母性型・娼婦型」寺田透。

図書1976年10月「木版本を読む会」森銑三、「日本の酒学1」坂口謹一郎、「ヨハンネスの絵(ヘントの祭壇画)」前川誠郎、「近藤勇と賤民身分解放」淮陰生、「小さな世界の発見」金井美恵子、「謀反論のこと」福田歓一、「菅野すがのこと」絲屋寿雄、「宮沢俊義の横顔」吉田洋一、「難聴児教育について」入谷仙介。

2009年4月22日 (水)

「ひとり好き」蔵書目録抄

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「女性の書斎・ひとり好き」(ケペル研究室)の蔵書目録です。

エレガントな宇宙 ブライアント・グリーン 草思社

兵器の常識・非常識 空軍・ミサイル兵器篇 江畑謙介 並木書房

日本の教育9 社会教育 五十嵐顕 城丸章夫編 新日本出版社

西洋美術史 村田数之亮編 創元社

現代の社会科学 高島善哉編著 春秋社

概説西洋政治思想史 中谷猛・足立幸男編著 ミネルヴァ書房

西洋史 杉村貞臣 学術図書出版社

秋風五丈原 大場弥平 中央公論社

中国古代の学術と政治 顧頡剛 大修館書店

支那史籍上の日本史 大日本史講座17 中山久四郎 雄山閣

千利休 その生涯と茶湯の意味 村井康彦 日本放送出版協会

親魏倭王 大庭脩 学生社

美術 町田甲一編 武蔵野美術大学

明治の漢学者と中国 陶徳民 関西大学出版部

第二の知識の本 藤川正信 新潮社

昭和文学史 平野謙 筑摩書房

現代の世界(世界の歴史7)中山治一・猪木正道 人文書院

文化システム論 タルコット・パーソンズ 丸山哲央訳 ミネルヴァ書房

飛鳥展 その謎をさぐる 朝日新聞社 1973年

フランス近代絵画 女性美の饗宴 読売新聞社 1983年

西洋美術史 瀬戸慶久 武蔵野美術短期大学

日本の喜劇人 中原弓彦 晶文社

政治における人間性 グレーアム・ウォーラス著 石上良平・川口浩共訳 創文社

女性の書斎・ひとり好き蔵書目録抄

Photo  特別に珍しい本ではなくて、普通のものばかり集めて見ました。(ケペル研究室)

天皇制研究 守屋典郎 青木書店

日本とアジア 竹内好評論集3 筑摩書房

新編日本イデオロギイ 竹内好評論集2 筑摩書房

都市の語る世界の歴史 井上泰男 そしえて

日本古代文化の探求 馬 森浩一郎 社会思想社

古代東アジアの国際交流 江上波夫・松本清張編 読売新聞社

ブリューゲル 土方定一編 美術出版社

埋れた謎のピラミッド M.Z.ゴネイム著 矢島文夫訳 山本書店

東洋政治思想 室伏高信 日本評論社

生活文化史入門 柳洋子 学陽書房

戦後五十年日本の死角 宇野正美 光文社

新講座地理と世界の歴史 原随園 雄渾社

諸葛孔明と日本人

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    いま映画「レッドクリフ」連作の上映で再び三国志ブームだという。三国志の中で誰に人気があるのか?中国では、時代劇をする場合、登場人物を赤顔(善人)と白顔(悪人)に分ける。白顔の代表は曹操、映画ではチャン・フォンイーが演じていた。関羽は中国では一番人気だ。他に趙雲、呉の周瑜(トニー・レオン)なども人気だ。しかし金城武の美男すぎる孔明像により新たに「三国志」の女性ファンが急増したようだ。ケペルが経営している店(女性の書斎・ひとり好き)でも、難しい専門書の三国志関係を漁る女性客が目立ってきた。日本では昔も今も至誠の忠臣、稀代の軍師として諸葛孔明には絶大な人気がある。そもそも日本の文献で孔明の名が初見されるのは、かの弘法大師、空海(774-835)の「招提寺の達嚫文(だつしんぶん)」という文章においてである。これは唐招提寺に供物を捧げた際の文で、如宝(?-814)という人物を「法城の葛亮(諸葛孔明のことをさす)なり」とたたえている。つまり天皇と如宝との関係を「水魚の交わり」のようだといったのである。以来中世には『太平記』『義経記』などにも登場するが、江戸期の湖南文山の『通俗三国志』のベストセラーの影響が大きいであろう。

   諸葛孔明(181-234)。名は亮。孔明はその字。没後、忠武と名を贈られたので、諸葛武侯ともいう。諸葛孔明は日本人にとっては、おそらく孔子についでよくその名が知られている中国人ではないだろうか。明治期、とくに土井晩翠(1871-1952)の「星落秋風五丈原」(「帝国文学」明治31年11月号、『天地有情』明治32年4月刊行)によって愛唱され、ますますその人気は高まった。

  祁山悲秋の風更けて

  陣雲暗し五丈原

 零露の文は繁くして

 草枯れ馬は肥ゆれども

 蜀軍の旗光無く

 鼓角の音も今しづか

 丞相病篤かりき

 草盧にありて竜と臥し

 四海に出でて竜と飛ぶ

 千載の末今も尚

 名はかんばしき諸葛亮

   土井晩翠は、後年「無題録」(『雨の降る日は天気が悪い』所収)で次のように述べている。

「私は小学校時代から父に八犬伝、水滸伝、三国志に対する趣味を鼓吹された。孔明に対する崇拝はその頃からである。大学卒業後、星落秋風五丈原を書いたのも思えば父の教えからであった」

   明治から昭和戦前期にかけて大家も孔明に関する著作をのこしている。内藤虎次郎「諸葛武侯」(明治30年)、白河次郎「諸葛孔明」(明治42年)、猪狩又蔵「諸葛亮」(大正2年)、宮川尚志「諸葛孔明」(昭和15年)、そして吉川英治「三国志」が昭和15年に刊行されている。東洋史家の市村讃次郎も「諸葛亮伝」(教材講座第3巻1-2)を昭和3年に発表し、『支那史研究』(昭和14年)として刊行された。戦後、植村清二「諸葛孔明」(昭和39年)や狩野直禎らが多数の諸葛孔明関連の論文を著述している。

サンヨー夫人

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   戦後の日本社会を一口で言うと、電化時代である。この電化時代の旗手は、家電業界で、日立、東芝といった関東の重電機メーカーに対して関西の松下、三洋、シャープは、初めから家電一本槍で事業を展開をしてきた。三洋電機といえば、バドミントンのオグシオ(小椋久美子、潮田玲子)が有名であるが、かっては女優の木暮実千代(1918-1990)が「サンヨー夫人」として知られていた。

   昭和28年のことである。三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれていた。「洗濯機は主婦が使うものでして、その主婦代表として3人のスターの中からサンヨー夫人と命名して、当社の宣伝に使います」と亀山太一宣伝次長は述べた。その3人のスターとは、小桜葉子(上原謙夫人)、高杉早苗(市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人)であった。木暮は当時「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強かった。社内には木暮反対のムードが強かった。だが亀山はサンヨー夫人のイメージは木暮しかないと決断した。まもなく新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場した。宣伝キャンペーンは大成功だった。1年後には生産は月1万台とはねあがった。それに昭和29年には、ジュジュ化粧品は、CMタレントを、木暮実千代から新星・岡田茉莉子に切り替えていた。ある新聞の調査によると、あの大スターの木暮を、サンヨー夫人の広告をみて、木暮実千代と答えた人より、驚いたことに、サンヨー夫人と答えた人の方が多かった。広告の力たるや恐るべし。

2009年4月21日 (火)

宝塚に女性市長誕生

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   六甲・長尾の山々のふもとに広がる、宝塚市。武庫川がゆったりと流れ、自然があふれる街。この宝塚に少女歌劇が誕生したのは大正3年3月のことである。わずか20人の少女たちによる初演は桃太郎をモチーフにした「ドンブラコ」だった。以来、女性だけが出演する舞台は、昭和初期にはまだ目新しかったレビューを取り入れるなど、芝居あり、ショーあり、日舞ありと多彩な公演スタイルでタカラヅカが全国的に知られるようになった。このような宝塚市に19日、初の女性市長が誕生した。中川智子は唯一の女性候補であることを強調し、「汚職で逮捕された女性首長はいない。クリーンな女性市長を誕生させよう」と訴え、保守分裂の選挙のなか、他の5人の候補者(伊藤順一、芝拓哉、西田雅彦、菊川美善、中原等)を制して当選した。阪神間では平成になって、芦屋市、尼崎市と女性市長が誕生している。「宝塚を変える」という願いが投票になって現われたが、これから議会運営が課題となりそうだ。これまで無関心だった市政にもっと市民が積極的に参加することが求められているのではないだろうか。

2009年4月20日 (月)

富士山と芸術家

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    「不二霊峰」 横山大観 昭和11年頃

    富士山を描いた代表的名画としては葛飾北斎(1760-1849)の「富嶽三十六景」が有名である。36景というものの、じつは全部で46図もあるそうだ。近代美術でいうと、日本画家の横山大観(1868-1958)や洋画家の梅原龍三郎(18888-1986)が知られている。北斎、大観、龍三郎と何れも画風は大きくことなるものの、長命(北斎90歳、大観89歳、龍三郎98歳)であったことは共通する。霊峰富士を描くとご利益があるのだろうか。

2009年4月19日 (日)

フランスの産業革命

    フランスにおける産業革命は、ナポレオンの失墜のあとをつぐブルボン王政の復古期(1815-1830)、それに続く七月王国期(1830-1848)にその胎動が始まった。しかし19世紀前半をつうじて、フランスは本質的に農業国である。王政復古期のフランスは、農業人口が総人口の約7割を占める。フランス経済は産業革命を開始したイギリスとの競争にさらされて深刻な打撃を受け、アメリカ独立戦争の影響もあって危機的財政状況であった。だが復古王政末期になると、鉄道の建設をはじめとする交通機関の発達、株式会社の勃興による鋼鉄、繊維工業の発展がめざましく、このような産業の発展のなかから金融資本家層が誕生する。1848年までに産業国家となったフランスはイギリスから大きく遅れをとっていたが、第二共和制(1848-1851)、第二帝政(1852-1870)の頃には発展をとげ、追い着く状況をみたが、イギリスとの競争に打ち勝つには自分たちの幼稚な産業を保護するため、常に高率の関税という形で政府の援助を得る必要があった。

2009年4月18日 (土)

猿丸太夫と二荒山神社

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    二荒山(ふたらやま)の公式名は男体山。栃木県北西部、日光市域に入る日光火山帯の一つ。中禅寺湖北岸にそびえる円錐状成層火山。延暦元年(782年)、下野国の僧勝道が開山したときは、「補陀落山(ほたらやま)」と称したが、のち、二荒山と改めた。弘法大師が二荒山(にこうさん)とよんだことから、「日光」の名が出たといわれている。

   鎌倉時代以後は、幕府を初め武家の尊信をうけて天台系の修験が中心となって地方有数の名社となったが、豊臣秀吉のために社領の大部分を没収されたため一時まったく衰微した。そののち徳川家康から社領を安堵され、ついで天海僧正が山の貫首となったので復興しはじめた。ことに家康を日光に改葬して東照宮を建立するにおよび、二荒山の神は地主神として日光山内に重要な地位を占め、歴代将軍の殊遇をうけて、以前にもまさる盛運となった。

   二荒山神社と猿丸太夫との関係を探っていくと、小野氏が問題の中心となってくる。猿丸太夫は平安時代の歌人として、小倉百人一首に「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき」という有名な歌もあるが、その伝記は謎のところが多い。林羅山の文集に小野猿丸の名が見えるているが、朝日長者の子孫で二荒山の女神を助けて赤城の蜈蚣神(むかでがみ)を討った話を録し、二荒山の女体山の神は朝日姫、宇都宮明神は猿麿であると述べている。二荒山の神主小野氏は猿丸太夫の子孫であるともいわれる。また会津、新潟、山形にかけての伝説に猿丸は朝日長者の子であるといい、その猿丸の後裔が、小野氏で二荒山神社の神官をつとめたともいう。二荒の神の信仰を説き歩いた巫覡(ふげき)の徒が猿丸太夫と呼ばれた神職で、このために二荒の信仰が東北地方に相当強力におよんだ時代があったといわれている。(参考:丸山久子「平凡社・世界百科事典・猿丸太夫」)

ピレネー条約とベラスケス

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                                        フェザント島

   30年戦争(1618-1648)はハプスブルグ家とブルボン家の対立がからんだヨーロッパの国際的紛争であるが、1648年のウェストファリア条約で講和が成立した。だがその後もヨーロッパの覇権をめぐる争いは続き、スペインとフランスだけは戦争が継続していた。10年後の1659年11月7日、両国の間を流れるビダソア川にあるフェザント島で講和条約(ピレネー条約)が結ばれた。

   スペインの宮廷画家として知られるベラスケス(1599-1660)は1652年に王宮配室長に任命され、多忙な晩年であった。1660年、ピレネー条約で定められたマリー・テレーズとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備のため、フェリペ4世に同行してフェンテラビア(バスク地方)に行った。だが慣れない長旅と高齢のため、ベラスケスはマドリード帰還後約1月のち病が高じて、8月6日、61歳で没した。

2009年4月17日 (金)

17世紀、斜陽の帝国スペイン

   スペインの王権は15世紀末にイスラム教徒を追いだして国内統一をはかった。16世紀になると、相続関係によってオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、以後広大なるハプスブルク帝国の本拠としての役割を果たすことになる。16、17世紀スペインは「太陽の没することなき帝国」とか、「スペインが動けば世界がふるえる」といわれ世界一富裕で軍事大国であった。芸術文化でもセルバンテス(1547-1616)が「ドン・キホーテ」を著わし(1605)、絵画ではエル・グレコ(1541-1614)、ベラスケス(1599-1660)らが活躍した。だが17世紀には芸術文化が花咲く一方で、スペイン国家自体は衰退していた。スペインの繁栄を支えていたものは、銀と毛織物業である。1522年に王室はもっぱら貿易商人の利潤のみに着目して、いっさいの輸入制限を廃止したので、以後スペインの毛織物は外国との不利な競争に立たされることとなった。また、フェリペ2世のカトリック主義のため、新教徒の多い毛織物業者がネーデルランドなどに逃れていった。そのため、毛織物業が衰退しはじめ、そのうえにオランダの独立や、無敵艦隊アルマダがイギリスに敗れ(1588年)、スペインの衰退を促進させた。

   フェリペ4世は最後のスペイン黄金時代の王であった。芸術文化のパトロンとしては優れていたが、優柔不断な性格で統治者として不向きであった。フェリペ4世の治世には、ほとんど絶えることない戦争が続き、国土は疲弊し、スペインの黄金時代は終焉を迎えることとなった。

   フェリペ4世時代、権勢をほしいままにして30年近く宰相の座にいたのがオリバーレス伯ドン・ガスパール・デ・グスマン(1587-1645)である。彼は非凡な人物で、あらゆる点で王とは対照的だった。オリバーレス伯(フェリペより18歳年長だった)はスペインにかつての栄光を取り戻す決意であったが、フランスの宰相にはマザランがおり、ヨーロッパの覇権をめぐる争いに敗れた。1643年1月、オリバーレス伯は辞職を余儀なくされて田舎に引っ込み、敗残の人として数年後に世を去った。

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  「オリバーレス公・伯爵騎馬像」  ベラスケス

2009年4月15日 (水)

王莽の簒奪

   新王朝(AD9ー23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。

2009年4月14日 (火)

七難を背負いて競う春秋の五覇

   中国文明は周辺の諸民族に普及してその興起をうながすが、ときに異民族の侵入を受ける時代もある。周王朝は前770年、西夷、犬戎などの難をさけて、都を東の洛陽に移した。以後を東周と呼ぶ。周は弱体化し、諸侯は領土国家を形成し、互いに覇を争った。この同盟の盟主を覇者と呼ぶ。春秋の五覇とは、斉の桓公、晋の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王とする説と、宋襄、秦穆を除いて、呉王夫差、越王勾践を加える説とがある。

 春秋時代のはじまりは、周の平王が洛陽に遷都した前770年とする説と、孔子が編纂した『春秋』の記録に、魯の隠公元年、つまり周の平王の在位49年に始まることから、春秋時代の開始を前722年とする説がある。

七難を(しちなんを、前770年) 背負いて競う春秋の五覇

英仏抗争史

    西洋史の流れをみると、その本流には絶えずイギリスとフランスとの抗争の歴史がある。イギリス、フランスの関係は北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン王朝(1066-1154)を開いたのにはじまる。12世紀、ノルマン家の断絶によってフランスのアンジュー伯がイングランド王家を継いだため、イングランド王は同時にフランスの封建諸侯としてフランスに広大な領土を有することとなった。これが英仏百年戦争(1339-1453)の原因となる。百年戦争は断続的に続いたが、概してイングランドが優勢であった。百年戦争の結果、英仏の封建社会の崩壊が急速に進み、中央集権の機運が大いに促進された。フランスはルイ11世(在位1461-1483)、チャールズ8世(在位1483-1498)、イギリスではヘンリー8世(在位1509-1547)のときにいたり、強力な絶対主義国家が確立された。

   17、18世紀のフランス・ブルボン家とドイツのハプスブルク家がヨーロッパ大陸の支配を争ったが、イギリスはその間に介在しつつ、植民地支配をフランスと争そった。7年戦争(1756-1763)も英仏抗争の一環であり、イギリスの国務相ウィリアム・ピット(大ピット、1708-1778)はプロシアに経済支援をしたものの、軍隊を派遣せず、海外でフランスの植民地攻撃に主力を注いだ。そのためプロシアのフレデリック大王は守勢を続け、1760年、一時はベルリンがロシア軍に占領された。しかし、1762年ロシアでかねてフレデリック大王の賛美者であったピーター3世が即位すると、急にオーストリアと絶って大王と同盟した。そのうえ翌1763年には英仏間の植民地戦争が終り、パリ条約に従ってフランス軍ばドイツから撤兵した結果、形勢が一変して1763年フベルトゥスブルクの和約が成立した。

   イギリスはフランス革命に対しては対仏同盟を指導してその波及を阻止した。トラファルガーの海戦(1805年)などのナポレオン戦争(1799-1815)はフランスのイギリスに対する反撃の意味をもつが、ワーテルローの戦(1815年)のフランス軍の大敗でついに成功しなかった。

思いこんだら試練の道を

Img_0006  ONに次ぐ人気選手でありながら引退後なぜか不遇だった柴田勲 

    プロ野球ペナントレースが始まり、開幕ダッシュに成功したのは巨人と楽天だった。楽天はともかくとして、巨人軍はリーグV3で今季こそ日本一を目指す常勝球団だ。なぜ巨人が強いのか。一言でいえば伝統の力。球団の体質としては、まるで軍隊のように上下関係に厳しく、他球団には見られない古風な体質を維持し続けている。あくまで禁欲的なことを選手に強いる。武道を奨励したり、川上哲治が参禅したり、王貞治が真剣で合気道の特訓をうけた。ベースボールとは無縁のことに思われるが、そこは野球道を究める求道者集団、まさに侍ジャパンの原点がそこにある。その掟は選手の日常生活にまで及ぶ。目に悪いから映画は見るな。ポーカー、マージャンなどの賭博はするな(広岡が言うには肩と腰に悪い)。女遊びはするな。これらの戒律に違反した選手は一流選手といえどもクビになっている。昭和32年、藤本英雄、南村不可止ら麻雀一派は追放された。トランプ賭博の柴田勲や女性問題で日本ハムにトレードになったニ岡智宏など戒律違反の選手は枚挙にいとまない。川上哲治、長嶋茂雄、王貞治という輝く巨人の星となった選手を輩出した栄光の巨人軍は野球一筋に精進する完全無欠の優等生軍団なのである。

2009年4月13日 (月)

加藤清正の虎退治の謎

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   講談、武者絵、錦絵などで日本人にはお馴染みの加藤清正(1562-1611)の虎退治の逸話であるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、①武芸の訓練のため②領地の安全確保のため③豊臣秀吉の命令、の3点である。①の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、ありえない話であろう。②の説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。③の説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。

1096年、第1回十字軍

   西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀にひろまった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝は、ローマ教皇に救いを求めてきた。ローマ教皇ウルバン2世は、1095年11月27日、南フランスのクレルモンで宗教会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2009年4月12日 (日)

薩摩に亡命した豊臣国松?!

   「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)

2009年4月 9日 (木)

ジェンキンスの耳の戦争

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         パリ条約(1763年)後の世界

    戦争は、普仏戦争のように当事国の名前をつけたり、太平洋戦争のように主な舞台となった地名をつけたりするのが普通である。ところが、1739年にイギリスとスペインとの間で起こった戦争には、「ジェンキンスの耳の戦争」という、なんとも奇妙な名前がつけられている。

    1731年、ロバート・ジェンキンスというイギリスの船長が、西インドからの帰途、スペイン警備艦に捕らえられ、片方の耳を切り取られた。そのころイギリスとスペインは西インド諸島における奴隷貿易の利権をめぐって、抗争が激化していった。だが開戦するには、何か口実がいる。そこで、イギリスの下院で取り上げられたのが、8年前のジェンキンスの耳切り事件だったというわけである。

   この戦争は、やがて翌年のオーストリア継承戦争に合流する。ジェンキンスの耳1つがパリ条約(1763年)後のイギリスの覇権の確立に大いに役立ったのである。

女郎仏は上臈、あるいは遊女?

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    鋳物工業の町として知られる埼玉県川口市から日光街道を岩槻方面に向かい、鳩ヶ谷を過ぎてしばらく行くと「石神」というところがある。通称新町といって、赤山城関東郡代伊奈半右衛門の城下町であった。ここの妙法寺という寺に女郎仏(じょろうぼとけ)という流行仏がある。

    寛政2年3月1日、暴風雨があり、役人が見廻りをしていたところ、若くて美しい女のすすり泣く声が聞える。病重く、所持品もなく、どこの誰れともわからぬまま、5日後に亡くなった。この女性を葬ったのが女郎仏である。

    地元の観光課のパンフレットなどでは、川越あたりの上臈(じょうろう、身分や地位の高い女性)ということであるが(川越市は朝の連続テレビ小説「つばさ」の舞台。川越藩の城下町・宿場町)、おおかた川越宿の遊女ではなかろうか。梅毒に感染して重態となり、無惨にも捨てられてしまった。その女が、この村にたどり着いたとき、村人が哀れんで看護したが、とうとう死んでしまった。末期にあたって「自分は梅毒のために苦しんで死ぬようになったが、もし、わたしを祀って祈るならば、必ず梅毒をなおしてやろう」といい残して亡くなった。

   こうしたいわれから「女郎仏」という流行仏に祈願をこめれば腰から下の病に効果があるというので、大正期には祈願者が多く、「塔婆と額を納める者その数、数千あり、額は重ねて山なし、木の塔婆は垣として数千間、幾重にもさしてあり」と『新篇鳩ヶ谷の歴史』に記されている。ところが「女郎仏」は今では、梅毒治療ではなくて、安産祈願になっている。(参考:渋井三郎「女郎仏」歴史研究306)

2009年4月 8日 (水)

雑誌の楽しみはパラパラめくり

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    雑誌の休刊・廃刊が相次いでいる。インターネットや雑誌のデジタル版の普及で紙ベースの情報需要の低下が進行しているらしい。50年前の皇太子ご成婚とともに雑誌の創刊が相次ぎ、トップ屋という流行語も生れた。松本清張などの小説も雑誌の普及によるところが大きい。図書館では雑誌とはいわず遂次刊行物という。よく耳にする話として、「世界」や「中央公論」はどこでもバックナンバーはあるが、「女性セブン」「女性自身」「週刊女性」をみたくてもなかなか公共図書館で保存しているところかない、ということである。そこで大宅壮一文庫というのが非常に雑誌の保存に力を入れているところで、役に立つそうだ。大宅壮一とまでとはいかないが、確かに公共図書館とは違うユニークなコレクションをしたいとかねてから考えていた。お宝鑑定団で週刊テレビガイドを創刊から収集している人がいた。テレビ番組表などは一般には放送が済めば無価値に等しいが、テレビ史を研究する者には一級資料であろう。コレクションとしては、あまり経済的負担なしにユニークなコレクションができるであろう。ただし現在のように多チャンネル時代になり再放送ばかりとなって、テレビ番組表を保存する価値があるや、なしや、意見の分かれるところであろう。

   「将来的に価値がでそうだ」という見込みではなくて、いま収集すべき雑誌はなんだろうか。本屋での雑誌選びが楽しい。雑誌をうまく活用すれば3時間も会議するより、3分間のパラパラ読みで、けっこういいアイデアが浮かんだりする。とくに専門誌でなくても、ばくぜんと何かヒントをつかみたいとき、雑誌パラパラでも、偶然に目に止まったものから新しいアイデアが生れる。宝塚「女性の書斎・ひとり好き」では各種の女性雑誌を多数そろえています。

ゴンドラに揺られて

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              田村孝之介 「橋」   1976年

    ヴェネチアといえばゴンドラ。色はなぜか黒と決まっている。1630年の法律を今でも守っいるからだ。ゴンドラに貴賎の区別をつけぬというその法律により、それまでの奢侈を競ったカラフルなゴンドラは消えた。長さ11.5メートル、重さ約400キロ、吃水線が浅く、波や風がなくてもいつも揺れているが、それは船が左右非対称にできているからだ。

立身出世主義

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           村上華岳(昭和9年頃)

    小学生の頃、兄貴からこんな話を聞いたことがある。兄に言うには「今日、音楽の時間に仰げば尊し、という歌を習った。二番の歌詞に、身をたて名をあげやよはげめよ、というのがででくる。しかし音楽の先生は「名をあげなくていい」とおっしゃった」といたく感動して話す。ケペルもまだ幼いながらも、名利を求めない生き方も素晴らしい、と感心した。神戸市立本山第三小学校での思い出だが、子どもながらも先生の真意を汲み取ることはできるものである。

    だが、最近は社会的には拝金主義が横行し、やたら賞やら地位や名誉、名声を賞賛する風潮がある。韓国映画「八月のクリスマス」や黒沢明の「生きる」などを見るといろいろと人生について感じさせられる。ノーベル賞や国民栄誉賞などといってもこの世だけのものであろう。大金を貯めたところで、死後遺族たちの骨肉の争いの種となるだけである。財産、社会的地位、名声、権勢などがなんになろう。このことは誰しもわかっていながら、いつのまにやら人生の目的が蓄財となってしまうのは何故だろう。宗教なき悲しさでろう。村上華岳(1888-1939)に「名声について」という素晴らしい一編がある。

  予に名声といふものは一つもいらない。名声といふものをむしろ唾棄する。むしろそれは我々の勉強の上に精進の上に害のある事が多くなる。時間がなくなる。ものが欲しくなる。勉強にとって、無駄なエネルギーを消磨する。名声を駆逐しようと思へば思ふ程、煩悩の深きを知る。一日として安静の心持はないのだ。故に予は名声といふものに、絶えざる注意をする。自分が虚名を求むるのではないか。人を頼んでをるのではないか。何かうまいことを、世にしようとするのではないかを、自己の心中の内に探索し警戒するのだ。(大正13年)(『画論』所収)

2009年4月 7日 (火)

女性の書斎「ひとり好き」をオープン

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   ものしり博士ケペル先生は今春、女性の書斎「ひとり好き」をオープンした。アット・ホームな雰囲気の中で芸術・文化に親しみながら読書が楽しめる環境を提供していきます。興味のある方は是非一度ご来店をお待ちしています。

○女性専用です。ただし、土・日曜は男性も入館できます。

○入館料制(200円)ですが何時間いてもOK。小学生以下は無料です。

○営業時間は10時から20時まで。年中無休。

○場所は兵庫県宝塚市伊孑志3-16-26。最寄の駅は阪急逆瀬川。

    宝塚に住むようになって満8年。宝塚は阪上善秀市長が収賄容疑で逮捕され辞職した。先代の市長も汚職事件で辞職している。朝日新聞の本日の夕刊によると、「宝塚は無理にこしらえた都会である」という小林一三の言葉を引用して「人造都市」という性格が市民への無関心につながっていると指摘している。富裕層の多く住む街だが、地域への関心は確かに低い。地元の商業や文化振興も進めにくい街だ。阪急逆瀬川駅前の商業施設アピア1・2を管理・運営していた宝塚まちづくり株式会社が昨今の経済情勢の悪化を受け、破産した。アピア前の広場にある「からくり時計塔」も道行く人とてふりかえらず淋しげに見える。

   だが「人造都市」とは少し誇張した表現であろう。阪神間の多くの都市は江戸時代からそれぞれ農村の特色ある文化と伝統をもっていた。武庫川にかかる宝塚新大橋を渡ると、小浜(こはま)という所がある。江戸時代、小浜宿という宿場町だった。古寺や歴史的街並みなどが保存され、昔の風情が偲ばれる。

   このような宝塚の街に希望の光を灯したい。退職者の仕事は先ずは早起きして道路の清掃から一日が始まる。道路にはタバコのポイ捨てが多い。まずは街をキレイにする。そして知識をひろく人々に広めよう。自分の蔵書を一般に公開する。高度の専門書から赤ちゃん絵本まで揃えている。新刊書よりも刊行後20年、30年以上の本が多い。「昭和くさい」店である。ただし書物の世界は古いものが無価値だというものではない。基本的な古今の良書はだいたい揃っているつもりだ。若い人たちにも大いに利用してもらいたい。そこでどんな本があるか、少しでも紹介しよう。

女性の書斎・ひとり好き蔵書目録抄

漢初経書学の研究 内野熊一郎 清水書院 昭和17年

支那官制発達史 和田清 汲古書院 昭和17年

東洋思想における孤独と無情 太田悌蔵 法政大学出版局 昭和45年

漢代思想史 金春峰 中国社会科学出版社 1987

社会史上から見た漢代の思想と文学の基本的性格の研究 田所義行 中国学術研究会 昭和40年

漢魏詩の研究 鈴木修次 大修館書店 昭和41年

魏晋南北朝通史 岡崎文夫 弘文堂書店 昭和7年

日本文学の古典的構造 岡崎望久太郎 法律文化社 昭和33年

秦漢法制史の研究 大庭脩 創文社 昭和57年

唐才子傳之研究 布目潮渢、中村喬 大阪大学文学部内アジア史研究会 昭和47年

東洋史大綱 矢野仁一 目黒書店 昭和13年

文化と経済 村松恒一郎 東洋経済新報社 昭和52年

ディラン・トマス研究 川野美智子 山口書店 平成2年

昭和文学十四講 成瀬正勝編著 右文書院 昭和41年

ヨブ記の研究 浅野順一 創文社 昭和37年

国語学史 時枝誠記 岩波書店 昭和15年

西欧世界の形成 山中謙二 東海大学出版会 昭和43年

現代の旧約聖書研究概観 R.N.ワイブレイ著 村上達夫訳 教文館 昭和36年

福音書における奇跡物語 A.リチャードソン著 小黒薫訳 日本基督教団出版部 昭和33年

タルコット・パーソンズとアメリカ社会学 ギー・ロシェ著 倉橋重史・藤山照英訳 晃洋書房 昭和61年

エリア随筆 チャールズ・ラム著 平井正穂訳 八潮出版社 昭和53年

画論 村上華岳 中央公論美術出版 昭和37年

ヨーロッパの闇と光 高橋巌 イザラ書房 昭和52年

ローマ文明の跡を訪ねて 浅香正 吉川弘文館 昭和50年

英文学史概説 斎藤勇 研究社 昭和47年

近代派文学の輪郭 片岡良一 白楊社 昭和25年

映画芸術論 J.H.ロースン著 岩崎昶訳 岩波書店 昭和42年

   もちろん「アンアン」や「ノンノ」や「婦人之友」など女性誌もありますヨ。

2009年4月 6日 (月)

「清き白河」「濁れる田沼」どっちがいい?

    デレビの時代劇でお馴染み、「越後屋、お前も悪よのお~」と悪代官が御用商人と結託して小判(賄賂)をとるというシーンがある。政治家というのは、今も昔もそれほど変わらないようだ。田沼意次が下屋敷の池を見ながら「この池に魚を入れたら面白かろうな」とつぶやいて登城すると、その日の夕刻には多くの鯉や鮒が池の中で踊っていたという。何やら西松建設の献金事件のようである。田沼はかつては日本3大悪人の一人に数えられた。戦前の論壇では徳富蘇峰や辻善之助らの道義的に断罪する風潮が主流であった。ところが近年、大石慎三郎の実証的研究により田沼の積極的な経済政策や文化政策が評価されるようになった。(大石慎三郎『田沼意次の時代』1991)だが江戸時代にすでに「白河の清き流れに水絶えて、昔の田沼今は恋しき」という戯れ歌が残るように政治家の優劣を論評することは難しい。田沼意次か松平定信か、太郎か一郎か。どちらを選ぶか、それが問題だ。

舞い降りた天使・多部未華子

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    多部未華子。この春からのNHK連続テレビ小説「つばさ」のヒロインを務めている。まなざしは強く、たたずまいは可憐。かわいい系だがぶりっ子ではなくて、あくまで自然体なのがいい。初の平成生まれのヒロイン。進化した女性の容貌を感じるが、落ち着いた仕草にふしぎと「昭和の香り」がする。むかし内藤洋子(「その人は昔」)や仁科明子(「初恋」)に対していだいた清純な情感を抱かせてくれる稀有な人である。おそらく年輩の男性には人気があるであろう。彼女の存在はCMや女学生姿に早くから着目していたものの、朝ドラのヒロインに選ばれたとき、いささか不安があった。朝ドラは低視聴率が続いている状態であるし、演出にはマンネリ化がみられた。ところが「つばさ」のタイトルバックの新鮮さに魅かれた。静止画を基本とした落ち着きのある映像はまるで写真集を開いているようにな新鮮さがただよう。「あっ、天使が舞い降りた」と瞬間思った。ドラマは中村梅雀、高畑淳子らの演技派共演者に囲まれて快調なすべりだしだ。しかし見所は多部ちゃんの豊かな表情である。グラビアアイドル全盛の時代にあって本物の女優がでてきた。

あいまいな敵味方

   「荒野の決闘」のドク・ホリディ役で知られるビクター・マチュアは米ルイスビルの生まれだが、もともとはスイス移民で鋏とぎ師の息子。「心の旅路」のロナルド・コールマンはイギリス・リッチモンドの生まれ。「ポセイドン・アドベンチャー」のアーネスト・ボーグナインの両親はイタリア人。「タイタニック」のレオナルド・デカプリオの父はイタリア系アメリカ人で母はドイツ人。「荒野の七人」のユル・ブリンナーにいたってはサハリン生まれということだけで、両親のルーツは謎である。

   ざっとアメリカ人の映画スターをみても、容貌からもともと家系が何人であるか判断することはなかなか難しい。ヨーロッパ人は髪の色、眼の色、鼻の形などちがう人たちが共存し、お互いの違いをあまり気にしない。だからヨーロッパ人同士の戦争のときはたいへんである。たとえば、第二次世界大戦末期のとき、おもしろい事件があった。

    1944年春、ナチスは西部戦線最後の総攻撃を計画し、英語の達者なドイツ兵がアメリカ兵の制服を着用し、ジープに分乗し、アメリカ兵にまんまとなりすました。アメリカは要所要所に憲兵を配置して、少しでも怪しいと思われる人物をかたっぱしからとり調べた。憲兵はアメリカ人なら当然知っていそうな常識を質問の題材とした。スラングの意味をたずねたり、ネブラスカ、イリノイなどの州都を答えさせたりした。なかには、「ベーブルースのホームランの本数は?」とか「オーバー・ザ・レインボーを歌え」というユニークな質問もあった。ところが、困ったことに、ほんもののアメリカ人であっても、これらの質問に答えられない者も少なくなかった。彼らは何時間もの間拘置されて、やっと釈放される始末だった。(参考:鯖田豊之「ヨーロッパ中世」)

2009年4月 5日 (日)

宗教は悲しみを癒す手助けとなるか?

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   どんなに健康に気をつけても、人は老化し、病気になり、ついには死ぬ。葬式のあるたびに、死はすべてのものを征服する王であるかのように思える。もっとも、死後にも命があると信じる人はいつの時代にもいる。古代エジプト人やギリシアの哲学者プラトンは、肉体が朽ちても不滅の魂がある、いわゆる霊魂不滅を信じていた。

  数年前、「千の風になって」がヒットしたが、仏教界からすると歌詞に対して異論があった。「亡くなった人はお墓にはいない」「風になってそばにいる」という考え方は、死者を成仏させ、霊魂の存在を否定する仏教の教えにはなじまないものであった。米アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」もテーマが死なのに宗教が描かれていないことに仏教界では疑問の声がある。これまで死は宗教が取り扱ってきた大きな問題なのに、現代の葬儀の多くは葬儀屋に任せるようになり、「葬式仏教」にもなれない。いまこそ僧侶は悲しみと癒しを手助けをしなければならない、と松長有慶(高野山真言宗)管長は語る(朝日新聞夕刊2009.4.4)

立志と読書

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    ものしり博士ケペルは助手の上原ゆかりと2人で「女性の書斎ひとり好き」(兵庫県宝塚市)を経営している。読書は単に趣味や娯楽ではない。そういう要素もあるけれど、根本的にいえば読書は人間一生の大事であって、その方針を樹てるということは、生涯の精神プランを樹てることに他ならない。つまり読書は立志とともに始まる。「何でも考え、何でも知って、何んでもかんでもやってみよう」という精神で、知識を広く求めようとする志を立てることだ。むろん何事でもそうであるが、誰か他人の意見を聞いて、その他人の読書方針通りやっていればいいというわけにはゆかない。与えられた本にだけかじりついていればいいというわけではない。人は各々様々の問題を懐いているのであるから、たとえ迷っても自発的な求道心に第一の基礎を置かねばならない。と同時に長い間かかってたゆみなく勉強するつよい忍耐力を養う必要がある。多くの人の中には齢とってから学問をやる人もあるだろうし、閑暇の少ない人もあるだろう。また知的水準の低さを嘆いている人もあると思う。しかし、そういう一切のハンディキャップを克服する勇気、永続的な努力によって克服する意志が第一である。要するに、今すぐどういう本を読んだらいいかという目先のことだけでなく我々が一生かかって読む本、それに出合うことが読書の妙諦であろう。先人の書との出会い、さらにその持久的な研鑽、これによって我々の生涯は決定されるといってもいい。それほど読書は重大である。

2009年4月 4日 (土)

八月のクリスマス

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    ジョンウォン(ハン・ソッキュ)は小さな写真館を経営する青年。ある夏の日、若い駐車違反取締員の女性タリム(シム・ウナ)と知り合う。やがて、タリムは毎日のように彼の店に姿を見せるようになる。死期が迫ったジョンウォンにとって彼女の存在が唯一の慰めとなる。季節は夏から秋、そして冬へ。数週間、ジョンウォンは入院した。退院したものの彼に残された時間はわずかだった。写真館に戻ると表の窓ガラスが割れている。入るとタリムからの手紙があった。

大好きなおじさんへ

   おじさん、お元気ですか。私は今、あまり元気じゃありません。この間の日曜日、とても楽しかった。遊園地でおじさんとソフトクリームを食べたこと、銭湯に行って帰りに食べたミカンの味、歩きながらおじさんが話してくれた幽霊のおならの話。私、あの日から自分はおじさんの特別な人になれたのだと思っていました。今年のクリスマスはおじさんと一緒に過ごせるんだと、そんなふうに考えていました。おじさんは私のことどう思っていますか?少しだけでも会いたいです。    タリム

                       *      *

タリムへ

   突然、姿を消してごめんなさい。手紙を読みました。あれから僕は、持病が悪化して入院していました。君には話していませんでしたが、僕は以前から重い病を抱えていたのです。おそらく僕は、今年のクリスマスを生きて迎えることはできそうにないのです。君と知り合って数ヶ月、僕はとても幸せでした。最後まで言えなかった言葉を言います。君を愛しています。けれども僕にはもう君と分かち合える人生の時間が残っていません。君のそばにいて元気づけてあげることができないのは本当に残念です。だからせめて、僕のことで悩んだり気に病んだりすることだけはしないでください。あの夏の日、君と出会えたことは、神様が最後に僕に与えてくれた最高のプレゼントだったと思っています。僕にはあの八月に、人より早いクリスマスがやってきたのだと。  ジョンウォン

ヒーローの疲労

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   マリナーズのイチローが胃潰瘍のため開幕戦を欠場することとなった。さすがのイチローも人の子でWBCの日の丸の重圧、大黒柱としての責任感による肉体疲労、精神疲労は想像をこえるものだったろう。医学博士の岡田三郎の研究によれば、野球選手の疲労蓄積は次のような現象がみられるという。①選球眼が鈍くなる②守備範囲が狭くなり失策が多くなる③バッティングが鈍くなり、打撃が低下する④ランナーとしての動作が鈍くなる(「スポーツと疲労」不昧堂出版、昭和37年)全9試合フルイニング出場したものの通算打率は2割7分3厘とイチローらしからぬ成績だった。結局、日本を連覇に導いたのはイチローのバットであったが、ヒーローは疲労に悩まされていた。今は充分に「戦士の休息」をとって回復することを祈っている。

2009年4月 3日 (金)

17世紀オランダの繁栄とレンブラント

   「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」で知られるデカルト(1596-1650)がオランダに隠棲したのは1628年の秋の頃である。どうしてデカルトが哲学的思索の場所として、オランダの地を選んだかというと、それはこの国には他の土地には見られないほどの「自由」があったからである。1579年のユトレヒト同盟によって宗教的自由を勝ち得たオランダは1585年アントワープをスペインに奪われたので、そこから逃れてきたユダヤ人のダイヤモンド商人や研磨士が、アムステルダムに仕事場をもった。哲学者スピノザ(1632-1677)は「この街ほどあらゆる国のあらゆる宗教の人間がうまく協調しあって生活しているところは、他に例を見ない」と述べている。

    画家レンブラント(1606-1669)はレイデンの製粉業者の息子として生れた。レイデンは当時オランダ第2の都市で、彼が入学した大学はヨーロッパでもきわめて格が高かった。レンブラントは1631年頃アムステルダムへ移ってきたが、当時アムステルダムはヨーロッパの商業の中心地として繁栄していた。ネーデルランド南部からの移民やユダヤ人の移民も増加し、市の人口10万5000人に達した。レンブラントはユダヤ人との付き合いによって、旧約聖書の人物たちを描くための、インスピレーションを得た。

勝利の陰に夫婦愛あり

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  「青春の勲章はくじけない心だと」歌った青春の巨匠、森田健作は前回の選挙(2005年)では僅差で落選したが、3月29日、千葉県知事に見事当選した。だがこの4年間、光のあたらない健作を陰で懸命に支えたのは妻の美子夫人だ。また全国を感動の渦に巻きこんだWBC連覇。29人の侍たちを束ねた原辰徳監督を陰で支えた6歳年上の明子夫人の献身的な愛があったからであろう。朝カレーのイチローの弓子夫人(43歳)、必勝祈願スープの松坂大輔の倫世夫人(34歳)も年上女房の実力をいかんなく発揮した。だが陰のMVP妻は岩隈久志のまどか夫人だろう。夫人は楽天の広橋公寿2軍コーチの長女で岩隈とはプロ3年目のオフに結婚し、一男一女をもうけた。近鉄球団の移籍騒動やその後の肩の故障と、夫人に苦労をかけてきた。松坂も認めた陰のMVP男を支えたのは夫婦愛だったのだ。やっぱし男は家族の支えがあっていい仕事ができるんだね。

2009年4月 2日 (木)

新しい船出

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    本日、「女性の書斎・ひとり好き」のプレ・オープン。ご近所の皆様が来館。みな一様に蔵書の多さ、ジャンルの広さに驚いていた様子。滞在時間も皆30分以上の方ばかり。今日、来られた方は明日から有料制になるが、続けて来ていただけると思う。

    お客様との会話もはずんで楽しい一日だった。ある女性はアメリカのメアリー・カサット(1844-1926)の画集をさがしていた。「女性の書斎」には「世界美術全集・印象派の画家たち9巻カサット」(千趣会、1978年)を所蔵している。また室内に俳優のモンゴメリー・クリフト(1920-1966)の写真を飾っていたら、「あら、モンティね、いいわね~」と喜ばれた。たいそうお店が気に入ってもらえたのが嬉しい。まずは順調なオープン初日といえるだろう。

  女性の書斎 ひとり好き

 アット・ホームな雰囲気の中で芸術・文化に親しみながら読書が楽しめる環境を提供します。美術・歴史から趣味・生活まで魅力ある蔵書構成です。

○女性専用なので安心。ただし土・日曜は男性も入館できます

○入館料制(200円)ですが何時間いてもOK。小学生以下は無料。 

○明日より開館(年中無休)

○蔵書数:1万冊以上あります。

○営業時間:10時から20時

○場所:兵庫県宝塚市・阪急逆瀬川駅下車

 お近くにお住まいの女性の方は是非一度お立ち寄りください。きっとあなただけの物語が見つかります。

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2009年4月 1日 (水)

開高健と立原正秋

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   「まったりとした味わい」などという「まったり」は今日よく使用される言葉である。意味を広辞苑第4版(1991年)で引くが見当たらない。不思議に思いながら第6版(2008年)で引くと次のような説明がある。「①味わいがまろやかでこくのあるさま。②人間が落ちついているさま。転じて、ゆっくりとくつろいでいるさま。」

   「まったり」という言葉はこの20年間で日本語として定着してきた新語なのだ。美食家の開高健(1930-1989)が①の意味で最初に使ったといわれる。味覚の表現が②の意味にまで広がったのは「おじゃる丸」の影響が大きいのだろうか?

    開高健は大阪市天王寺区の生まれだが、父の開高正義は福井県坂井郡高椋村一本田福所(現・坂井市)の出身。美食家の健が最も好んだ食材は越前ガニだ。昭和52年2月、同じ鎌倉に住み食通で知られる作家・立原正秋(1926-1980)と2人で蟹を食べに行っている。立原は「まことに美味だった。まず足のつけ根の肉を食べ、つぎは甲羅のなかの味噌をほめ、それからそこに熱燗の酒をそそぎ、これまた微妙な味にしたつづみを打ち、最後に足の肉を賞味したのである。私達はただひたすらに食べた。まるで女の躯を愛撫している感じだった」(「夢幻のなか」)と書いている。

昭和くさい顔って、どんな顔?

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    選抜高校野球大会に出場の利府高校(宮城)の選手が、自身の携帯サイト上のブログに対戦相手校について「変な顔のやつばかり。(笑)昭和くさい」と書き込んでいたことが問題となっている。ことの是非はさておき、平成生まれの若者たちが「昭和くさい」という言葉を侮蔑するために使用していることにショックを受けた大人たちは多いだろう。「昭和くさい」という若者言葉を調べていくうちに、次のような意味もあることを知った。「いわゆるチャラチャラしていない。まじめ、硬派、地に足が付いている、素朴な感じ」というニュアンスが含まれているらしい。今日、利府は、皮肉にも「昭和くさい」花巻東(岩手)に敗れた。明日の決勝は清峰と花巻東の対決となる。「昭和くさい」ほうが勝つような気がする。

   ところで朝日新聞社では「昭和といえば思い浮かぶ人物は?」という世論調査を行った。(2009.3.30紙上発表)コテコテの「昭和くさい顔」がズラリと並んでいる。

  第1位はもちろん昭和天皇。続いて田中角栄、美空ひばり、吉田茂、東条英機、佐藤栄作、長嶋茂雄、松下幸之助、中曽根康弘、ダグラス・マッカーサー、石原裕次郎、山本五十六、池田勇人、美智子皇后、竹下登、小泉純一郎、湯川秀樹、王貞治、千代の富士、山口百恵、三島由紀夫、手塚治虫の順であった。

   平成生まれの若者たちはこれら著名人の顔写真を見ても何をした人かわからないかもしれない。自分自身との関わりも感じないだろう。本当は歴史の渦のなかで深い関わりがあるのはもちろんである。著名人でなくとも、若者の両親あるいは祖父母は昭和を生きた人であろう。「先人を尊敬せよ」と言わぬまでも、自分のアイデンティティを確立するためには昭和という時代と対峙していかなければならないのだ。このままでは、おそらく平成生れの若者たちは「偉大な昭和」という時代と自身との関係を見出せないまま、人生を生きていくことになるのだろう。「昭和くさい」という言葉は使い方によって両義性のある言葉だが、単に侮蔑として使うならばそれは自分自身の存在をも否定することになることに気づかせるべきである。

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