17世紀オランダの繁栄とレンブラント
「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」で知られるデカルト(1596-1650)がオランダに隠棲したのは1628年の秋の頃である。どうしてデカルトが哲学的思索の場所として、オランダの地を選んだかというと、それはこの国には他の土地には見られないほどの「自由」があったからである。1579年のユトレヒト同盟によって宗教的自由を勝ち得たオランダは1585年アントワープをスペインに奪われたので、そこから逃れてきたユダヤ人のダイヤモンド商人や研磨士が、アムステルダムに仕事場をもった。哲学者スピノザ(1632-1677)は「この街ほどあらゆる国のあらゆる宗教の人間がうまく協調しあって生活しているところは、他に例を見ない」と述べている。
画家レンブラント(1606-1669)はレイデンの製粉業者の息子として生れた。レイデンは当時オランダ第2の都市で、彼が入学した大学はヨーロッパでもきわめて格が高かった。レンブラントは1631年頃アムステルダムへ移ってきたが、当時アムステルダムはヨーロッパの商業の中心地として繁栄していた。ネーデルランド南部からの移民やユダヤ人の移民も増加し、市の人口10万5000人に達した。レンブラントはユダヤ人との付き合いによって、旧約聖書の人物たちを描くための、インスピレーションを得た。
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