2009年12月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月28日 (土)

美智子さまと三島由紀夫のお見合いは本当にあったのか

Img_0006

Img_0008

   軽井沢のテニストーナメントで皇太子明仁親王が日清製粉社長令嬢・正田美智子(昭和9年生まれ)を見初めたテニスコートの恋から半世紀。昭和34年4月10日のご成婚から50年ということで今週号の雑誌各誌は美智子さまの記事が豊富である。なかでも週刊新潮4月2日号の記事「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」は本当だろうか。

 毎日新聞の元記者・徳岡孝夫が三島由紀夫(1925-1970)から「僕は美智子さんとお見合いしたことがあるんですよ」と聞いたことがネタになっている。銀座の小料理屋「井上」の2階で2人は見合いした(井上つる江・談)とある。時期は不明だが、おそらく昭和30年か31年ころであろう。三島は昭和33年に日本画家杉山寧の長女瑤子と結婚しているし、同年11月27日、美智子と皇太子との婚約発表があった。昭和30年といえば、美智子は聖心女子大学の2回生で、三島由紀夫は前年に刊行した『潮騒』がベストセラーとなり人気作家としての地位は確固たるものがあった。お見合いという正式なものなのかは怪しいが、おそらく両家の家族一緒に歌舞伎見物をしたあと食事をしたのであろう。その時の思い出をあとで三島は徳岡に面白おかしく話したのではないだろうか。

2009年3月25日 (水)

ナスカの魔女マリア・ライヘ

Nasuka

    1932年ヒトラーにより自由が失われていく祖国ドイツをあとに、28歳の女性マリア・ライヘ(1903-1998)がたった一人ペルーにやってきた。1939年リマで開かれた考古学の国際会議でアメリカの考古学者ポール・コソック(?-1959)が「ナスカの地上絵は世界最大の天文書だ」という発表を聞き、ライへは1941年初めてナスカを訪れる。箒と図面を持った彼女を見て、地元の子どもたちは魔女と囃し立てた。それでも彼女は黙々と研究に没頭した。こうしてライヒの情熱によって、ナスカの地上絵は世界中に知れ渡るようになった。現在、地上絵近くの「マリア・ライヘ博物館」の庭にある墓に、妹とともに埋葬されている。

   地上絵の大部分は直線あるいは滑走路のような幅広い帯であるが、ハチドリ、コンドル、サル、キツネ、シャチなどの動植物を表わしたものもある。それにしても2000年ほど前に、誰が何の目的で描いたのか?これまでライへの天文暦法説、ザウデマやイスベルの社会事業説、ホヌエやランチョなどの雨乞い儀式説など諸説あるが、いまだ謎に包まれている。

2009年3月24日 (火)

驕れる平家、久しからず

Img_0006

    屋島から逃れ下関の彦島に布陣した平氏であったが、1185年3月24日、壇ノ浦でついに滅亡した。

    これにさきだち源義経(1159-1189)は伊予の河野水軍を主力として壇ノ浦に迫り、決戦の意を固めた平氏は源氏と30余町(約3㎞)の距離に船陣をかまえていた。この日早朝、東に源氏の白旗、西に平氏の赤旗が翻った。初め潮流は源氏の側へ向けて流れ、午後になると逆に流れた。潮の流れを知らせたのはいるかの群れであった。

    「いるかが源氏側に泳いで行けば平家が勝つのだが・・・」との平氏側の願いはかなえられず、迫る源氏の矢に平氏の水夫はつぎつぎと倒れた。

    平知盛は安徳天皇の船に飛び乗り、見苦しいものを捨て始めた。女房たちにも不安が広がった。清盛の妻二位尼平時子は、8歳の安徳天皇を抱いて船端から海中に身を投じた。このとき、三種の神器の一つである、宝剣が海中に没している。後を迫った天皇の母后建礼門院は、源氏方の熊手に髪をかけられ、引き上げられた。

    能登守平教経は、これを最期と義経を追いつめるが、義経は、天狗に習ったという身軽さ、八艘飛びでかわしたという。教経が源氏の武士2人と組み合い、海中に没したあと、一門ことごとく滅ぶのを見た知盛は、「いまや見るべきものは見届けた」と、入水した。

    午後5時ころ、戦いは終わり、ここに平氏は滅び去った。

2009年3月22日 (日)

斎藤道三と岐阜城

Photo

    斎藤道三(1494-1556)の出自に関しては、正確なことはわかっていない。父松浪基宗は「北面の武士」だったといわれ、のちに山城国乙訓郡に帰農したとされる。道三は11歳のときに日蓮宗の京都・妙覚寺に預けられた。その後、還俗して松浪庄九郎を名乗り武芸に励むが、突如、商家に婿入りして山崎屋庄九郎と改名し、油屋を開業。京都とその周辺で行商し、たちまち財をなした。やがて美濃にも販路をのばすようになると、稲葉山城主長井長弘の目に留まり、長井家に仕えるようになる。その縁をたどって守護・土岐盛頼の弟頼芸のもとに士官し、深く信頼されるようになった。1527年、頼芸をたきつけて盛頼を追放させ、頼芸を守護に据える。また、かつて恩を受けた長井長弘を殺害して長井家を強奪し、長井規秀と名乗った。その後、病死した守護代斎藤利良の跡を継いで斎藤道三と称し、権勢を振るう。1542年、突如兵を挙げと、主君頼芸を改めて国外に追放し、ついに美濃国主の地位についたのである。1548年、道三は家督を長男義龍に譲り、隠居する。しかし、のちに義龍と不和になり、義龍に攻められて捕らえられ、殺された。

   濃尾平野の北端に屹立する金華山上に築かれた岐阜城は古くは井ノ口城、稲葉山城とよばれた。1201年、二階堂行政がここにはじめて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏の守護代斎藤利永が修築して居城としたとされるが、この城が名城とされるのは斎藤道三によってである。ところが道三は義龍に討たれ、義龍の子の龍興が城主になったとき、尾張の織田信長によって落城。信長は、山上・山麓に本格的な城を築き、あらたに岐阜と命名した。信長が安土に移ったあと、岐阜城主は織田信忠・信孝、池田元助・輝政、羽柴秀勝、織田秀信とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後、西軍に味方した秀信は東軍に惨敗し、翌年、廃城となった。

2009年3月20日 (金)

荷風の放蕩三箇条

Img_0020

   永井荷風(1879-1959)といえば若い女性たちに囲まれた写真が印象的だ。売春婦イデス、清純なロザリン、吉野こう、藤枝静枝、芸者八重次など女性関係は多彩である。だがそんな遊び人の荷風も女性に騙された経験がある。

    荷風が関根歌に逢ったのは、昭和2年のこと。荷風48歳、歌21歳。歌は麹町の鈴竜と名乗り芸者をしていた。荷風は千円で彼女を身請けする。歌に店を持たせてから3年後に突然、歌が病気になった。中州病院に2ヶ月入院。医師の診断は「将来、発狂することになるだろう」と。回復する見込みなしと考えた荷風は歌と別れる。「お歌との関係今夕にてひとまず一段落を告ぐ、悲しいかな」と日記に書いている。しかし、荷風は歌にだまされていたようだ。歌は若い男と一緒に酒ををのんでいたことを隠すため、精神病のふりをして医師をだましたのである。

   僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている

   騙されたとわかっても、さすがに荷風は通の遊び人である。へべれけ大臣の記者会見や不倫発覚の芸能人など、昨今の日本人醜態ぶりを見ると、荷風の放蕩人生から学ぶことは多い。

2009年3月17日 (火)

エミリーに恋して

Phot000000000001a2cc_500_0

              愛

  一時間 待つことは長い

  もし 愛がすぐ向こうにあるならば

  永遠に 待つことは短い

  もし 愛が終りにあるならば

          ディキンソン  安藤一郎訳

    エミリー・ディキンソン(1830-1886)はアメリカの女流詩人。厳格な清教徒の家に生まれ、1847年マウント・ホリヨーク女子学院に入学したが1年で中退、詩作を始めた。1855年妻子あるワーズワース牧師を知って以来、その詩的才能は堰を切ったようにあふれ出た。1755篇にのぼる作品はあまりに斬新な詩風のため生前は認められなかったが、死後次々に詩集が出版された。エミリーは生涯、家のなかにひきこもり勝ちに、きわめて孤独な日々をおくったといわれる。

プレンダーガストとジ・エイト

Photo

        ボストン、チャールス通り  1895年

  モーリス・プレンダーガスト(1859-1924)は英国領ニューファンドランドに生まれの米国人で、少年時代にボストンに移住した。1892年にパリに留学し、ナビ派の影響をうけ、独自の画風を確立する。プレンダーガストはジ・エイト(8人の会)の一員であった。この会は、当時の美術界の伝統主義や、感傷的な道徳主義の傾向に立ち向かい、現実に即した絵を描こうとする集団だった。彼の他にロバート・ヘンリ、ジョン・スローン、ジョージ・ラクス、ウィリアム・グラッケンズなどがいた。プレンダーガストの作品も身近な都会生活を題材としたモダニズム的な現代風俗画が多い。油絵も版画も描くが、水彩画家として著名である。彼は病弱で生涯独身だった。

Img_0017

       セントラル・パーク  1910年頃

1895

        サウス・ボストン埠頭  1895年

1897

          リベアビーチ   1897年

1901

             五月祭  1901年

2009年3月16日 (月)

新聞小説家山本有三

Img_0017

      山本有三青少年文庫の閲覧室風景

  真実一路の旅なれど

  真実、鈴ふり、思い出す

                白秋「巡礼」

   北原白秋の詩で始まるこの有名な山本有三(1887-1974)の小説「真実一路」をはじめ「路傍の石」「波」「生きとし生けるもの」を文庫本で読んだのは中学生ころだっただろう。もちろん主人公の義夫や吾一などの正義感やヒューマニズムに共感を覚えた。だが長じて高校生になる頃、彼が戦時中、近衛文麿と親しい関係にあることや、戦後保守政治家になったことなどを知ると、熱も急速に冷めてしまった。宮本百合子は山本の諸作品を、社会問題を扱うとみせかけて、根本的な問題を棚上げしている、という鋭い指摘をしている。おそらくこれが今日的な作家山本有三に対する一般的な評価であろう。しかし彼の小説の多くは新聞の連載小説として発表されたものが多く(「生きとし生けるもの」「波」「風」「女の一生」「路傍の石」)、いかに大衆に指示され、大きな影響を与えたかはいうまでもない。昭和33年、東京都三鷹の旧居が「有三青少年文庫」として開館されたことは夙に知られている。ケペルが蔵書を一般に開放して文庫を開くことも、つまりは少年期に読んだ山本有三への共感があったからかもしれない。

   勇気を自慢しあって、鉄橋にぶらさがった吾一を次野先生にやさしく諭す。「愛川、おまえは自分の名前を考えたことがあるか。吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかないという意味だ。世界に、なん億の人間がいるかもしれないが、おまえというものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。そのたったひとりしかいないものが、汽車のやってくる鉄橋にぶらさがるなんて、そんなむちゃなことをするんじゃない」

    山本有三は、「光をもとめることが生あるものの本性である」という根本思想にたって、人間いかに生きるべきかを一貫してテーマとした作家であった。

第10代将軍徳川家治

Photo

    徳川幕府の将軍15人の中で徳川家治(1735-1786)は将軍在職26年という長期にわたる割に何故かその人物像は知られていない。家斉50年、吉宗30年、家綱29年、綱吉29年、家光28年と第6位である。

    その性質は温和であり、文武両道を嗜み、壮時は快活であり、力持ちでことに記憶がよかった。射礼を復興し、ことさらに絵を描き、書画の鑑定にまさったと伝えられる。将棋も好んだ。しかし、旧慣を重んじ異風・珍味・華美は嫌いであり、妓女などが舞曲を奏するというので山王祭も見物せず、筝三絃も好まなかった。どうも時間厳守など几帳面であった。また、知識欲も旺盛で、海外の情勢に留意し、物価の高低も知り、流行病や大名旗本の病気の有無をも尋ねた。ところで、病には下々をおもい、特に関心をもった。それらのために医書の出版も心がけたのである。蘭学を奨励し、解体新書が出版されたのも家治の時代である。

   家治は田沼意次を側用人に重用したため、かつては暗愚と見なされていたが、田沼の評価が上がった今、家治の再評価もすべきか。ともかく泰平の将軍としては明君といえるだろう。

2009年3月15日 (日)

悪ふざけ好きの少年皇帝

Photo

   第26代ローマ皇帝へリオガバルス(203-222)の宴会に招待された者はだれでも、不愉快な一夜を覚悟しなくてはならなかった。この短い期間皇帝だった少年は(在位218-222、一説にカラカラの庶子)、その在位中、ただひたすらに、臣下に対する悪ふざけだけを心がけからである。彼のとりわけ好んだ悪ふざけは、ローマでもっとも肥満している男を選んで開く宴会だった。あわれな男たちは空気袋の上にすわらされ、奴隷が袋を破裂させるたびに、床に転がらなくてはならなかった。ガラスや大理石、象牙で作った料理を食べさせられた客もあった。本物の料理が出たからといって、油断はならない。料理の中にクモや、ライオンの糞がはいっているのはいつものことだったからである。

   食べ過ぎてうっかり寝込みでもしてしまったら、ライオンやヒョウのいる部屋で目を覚まさなければならなかった。あるとき、宴会の客に頭上から薔薇の花をまくという、一見優雅な思いつきを実行したこともある。だが、その量が多過ぎ、客の何人かが、薔薇の花に埋まって死んだ。彼はまた大浪費家で、1度だけはいるために壮麗な大浴場を建設させ、すぐ壊させてしまったこともある。

    結局、このネロも顔負けの暴君は祖母の命令で近衛兵に殺され、体を切り刻まれてテベレ川に投げ込まれた。わずか18歳になったばかりだった。

(「世界不思議物語」日本リーダーズダイジェスト社)

ローマ帝国とキリスト教公認

    ローマ帝国は、国家の神々の尊崇を人民の義務とはしたが、諸宗教に寛容なことが統治の良策であると考え、国家宗教を外形的に認めるならば、これとならんで他宗教を崇拝することは妨げなかった。キリスト教は、その特異な性格のため異教徒の民衆のあいだで早くから憎悪されていたが、はじめユダヤ教の一派と認められていたから、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウスなどの皇帝たちはおおむね寛容に取り扱っていた。国家による迫害はきわめてまれで、64年のネロの迫害も、ローマ市の大火災の責任を民衆に憎悪されているキリスト教徒に転嫁しようという特殊事情にもとづくものであり、迫害の範囲もローマ市に限られていた。エルサレム陥落後、キリスト教とユダヤ教の対立、キリスト教の独立の存在が明らかとなり、つづいて皇帝崇拝が強化されていく時代にキリスト教徒が皇帝崇拝を拒絶するにおよんで、ドミティアヌス、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウスなどの治下に、やや大規模な迫害がおこなわれた。しかしこれらも全帝国にわたるものではなく、また継続的なものでもなかった。迫害されたキリスト教徒は、地下に深く迷路のように掘られたカタコンベなどに逃れて信仰を続けた。303年、伝統的なローマの神々への信仰を重んじ、皇帝崇拝を強制したディオクレティアヌス帝が大迫害を行ったが、ますます増える信者の勢いに、迫害より懐柔と、313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令によってキリスト教を公認。たちまち教会組織が整えられ、聖職者の身分が生れた。

2009年3月12日 (木)

テレビ開発とヒトラー

   昨年テレビ東京の番組「よろセン!」でアイドル・タレントがアドルフ・ヒトラーを「ヒトラーおじさん」と親しみを込めて呼び、偉人として取り上げたことに対して、ネット上で抗議が殺到したことがあった。

   ヒトラーは忌まわしい独裁者に違いないが、功績も一つもないわけではない。アウトバーン(高速道路)の建設、国民車フォルクスワーゲンの開発、ロケットⅤ1、Ⅴ2の開発、それにテレビの開発である。ドイツでは1935年に世界で初めてテレビの定期放送が開始され、翌年開催されたベルリン・オリンピックはテレビ中継された。つまり現在の情報伝達の中心的存在であるテレビの開発・普及に大きく貢献したのはヒトラーなのである。ヒトラーとローマ皇帝ネロはどこか似ている。彼らはオペラハウスでやることを国家の歴史の中で演じてしまったという「場ちがい」をしてしまったのである。

2009年3月11日 (水)

江戸幕府の農民統制

   江戸時代、幕府や藩は、農民が負担する年貢や労役を経済的基盤としていたので、村や農民にはさまざまな統制を加えた。寛永20年(1643年)には、前年の飢饉で土地を手放すものが多く、幕府はこれを防ぐために、田畑永代売買禁止令をだした。延宝元年(1673年)には分地制限令をだして、農民経営の細分化と、本百姓の没落を防ごうとした。そのほか、年貢米の確保と農民が貨幣経済にまきこれないようにするため、本田畑にたばこや木綿などの商品作物を栽培することを禁じた(田畑勝手作りの禁)、また慶安2年(1648年)に幕府がだした慶安の御触書では、領主は農民の没落や逃散を防ぐために、倹約や労働を督励し、農民の日常生活にまで細かい規制を加えた。(参考:「高等学校日本史B」第一学習社、平成14年版)

社会文化的進化の考え方

Ny1

   社会文化的進化とは、長期にわたってどのように文化や社会が発展したのかを究明する包括的用語である。ダニエル・ベルは、人類史を産業革命以前、産業革命、産業革命以後と大きく三区分した。(『脱工業社会の到来』1974)つまり工業社会の終焉がやってきて、産業と商品よりも、サービスと情報がいっそう重要になると指摘した。アルビン・トフラーは『第三の波』(1980)で、人類史の大きな変化を波という比喩をつかって、前8000~前1650年ごろの農耕と定住開始を「第一の波」として「農業革命」とよび、「第二の波」を18世紀後半に起こった「産業革命」、そして「第三の波」を20世紀後半に起こった「情報革命」であるとした。我が国の梅棹忠夫も農業の時代、工業の時代、情報産業の時代とすでに1960年代に三区分して、情報産業の出現を強調している。

   しかし、このような単純な時代区分に対して歴史家の立場からは批判もある。産業革命と科学革命とは関係があるし、情報革命は科学革命の延長線にあるものである。むしろ現代において人類がかかえている最大の課題は環境問題であり、工業化による環境破壊が地球の危機をもたらすという点のほうが人類史の転換であろう。1900年から2000年までに世界の人口は3倍となり、エネルギーの消費は15倍、GDPは21倍となった。伊東俊太郎はこれを「文明のアヘン効果」と呼んでいる。大量生産、大量消費は人のはてしなき物欲の証拠で、まるでアヘン中毒のようなものである、という。いま人類の社会生活の全体を簡素なものに戻すシステムが必要だ。

2009年3月 9日 (月)

ブルートゥスは誰だ

Photo

   「ブルートゥス、お前もか?」

   シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で有名なこの台詞は、もともとスエトニウスの「ローマ皇帝伝」から来ている。前48年にポンペイウスを倒し、終身の独裁官となると、シーザーの勢いは並ぶ者がなくなった。元老院のカッシウス、ブルートゥスらはシーザー暗殺を極秘に計画していた。前44年3月15日、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊でシーザーは殺された。そしてこの暗殺者の中にブルートゥスという名前の者は2人いた。マルクス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前42)とデキムス・ユニウス・ブルートゥス(前85-前43)である。通説では母セルウィリア・カルピオスがかつてシーザーと恋仲だったため、マルクスを自分の子どもではないかと思い、目をかけていたのでマルクス・ブルートゥスを指すことが多い。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」でもマルクスになっている。だが彼の従兄弟にあたるデキムス・ユニウス・ブルートゥスであったとする説も有力で、本当のところは今だにわからない。

2009年3月 8日 (日)

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

数字がもたらす偶然の一致

123

 7月4日といえばアメリカ独立記念日。この祝祭日に2代大統領ジョン・アダムス、3代大統領トマス・ジェファーソン、5代大統領ジェームズ・モンローはいずれも同日の7月4日亡くなっている。

   誕生日と死亡日が一致することはある。よく知られる人物では坂本龍馬(1835-1867)だ。旧暦天保6年11月15日に生まれ慶応3年11月15日に亡くなっている。これを「生没同日」というそうだ。映画監督の小津安二郎(1903-1963)12月12日、イングリッド・バーグマン(1915-1982)8月29日で生没同日である。

   人の運命も時として数字と深くかかわることがある。長嶋茂雄と背番号3は縁起のいい数字の代表例であろう。逆に獣の数字といわれる666は不吉な数字として嫌われている。ヨハネの黙示録に記述される数字666はローマ皇帝ネロとも関係するといわれる(ネロのギリシア語表記をヘブライ語に置き換え、これを数値化すると合計が666になる)が、一般にも適用されることがある。阪神大震災は1月17日だったが、1+17=18は獣の数字(6+6+6=18)と一致する。キリスト教では6と666は不吉に数であるが、他の民族でもだいたい悪い意味をもつ。マヤ族においても、6日目は雨と嵐の神々に属する不吉な数である。仏教においても「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは「南無阿弥陀仏」が6文字であるためらしい。

   おおむね奇数は縁起の良い数字、偶数は不吉な数字という考え方が古代からどの国や民族にもあるようだ。男は奇数、女は偶数という考えも一般的である。女性は子どもを生むため、2でわれる偶数という考え方があるためという。

   3と7の奇数信仰は顕著にみられる。「三度目の正直」「三度目は定の目」「三度目はみんなうまく行く」(イギリスの諺)など数字にまつわることわざは多数伝えられている。アジア文化圏では古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)に由来するものも多い。「七・五・三」「三三九度の盃」「七福神」「七色の虹」「ラッキーセブン」など3・5・7など奇数は縁起がよいものとしている。

    昨日、注目のWBCで侍ジャパンが韓国に大勝した。そしてイチローの活躍。イチローの本名は鈴木一朗でもちろん「1」の数字と深くかかわる運勢がある。そして3月7日。つまり「1,3,7」と奇数が並んだ日本が勝利したのは単なる偶然の一致だろうか。

   ちなみに太平洋戦争開戦日、昭和16年12日8日、山本五十六。つまり16、12、8、56と偶数並びで日本建国以来の大敗北。やはり数字には科学では説明できない魔力のようなものが潜んでいるのではないだろう。

2009年3月 7日 (土)

ルソーの死

Photo

         エルムノンヴィルのポプラ島

    ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は1778年5月20日、身体の衰えを感じ、パリから30キロ離れたジラルダン侯爵(1735-1808)の領地エルムノンヴィルに移った。ここで6月初旬、ヴォルテールの訃報を聞いた。そのときルソーは「わたくしの存在はかれに結びつけられていた。かれが死んだ今、わたくしは、かれに続いて早くゆかねばならない」と語ったという。

   ここでルソーは楽譜を写すことや植物採集をして過ごした。そして7月2日、午前11時、妻テレーズに見取られながら亡くなった。彼はテレーズに「気をおとさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいることだろう。わたしはあそこへ行くんだよ」といった。享年67歳だった。

   彼の遺体は、この地の湖にあるポプラ島に一端は埋葬されたが、1794年、パリのパンテオンの偉人墓地にヴォルテールと共に埋葬されている。

風呂とキリスト教

Phot000000000001afd1_500_0

   風呂好きの日本人からみると少し信じられないことだが、ヨーロッパで風呂を使う習慣ができたのは意外と新しく、19世紀になってからのことである。フランス革命のマラーは入浴中に殺されたことはよく知られているし、ナポレオンは毎日、温水で入浴していた。入浴を嫌う理由はどうやらキリスト教と関係があるらしい。「聖女アグネスは13歳で死ぬまで体を洗わなかった」「ヨーロッパ洗わずじまいで一千年」とまで言われている。古代ローマでは公共浴場が普及したが、キリスト教では他人に肌を見せることをきらうことと公共浴場が退廃的であることから、中世以降もヨーロッパでは風呂は普及しなかった。

    久しぶりにブックオフへ行く。柏木博「ファッションの20世紀」、佐々木正美「子どもへのまなざし」「続子どもへのまなざし」、レオ・ブスカーリア、倉橋由美子「クリスマス・ラブ」、J.K.ローリング「ハリー・ポッターと秘密の部屋」「ハリー・ポッターとアズガバンの囚人」購入。

2009年3月 6日 (金)

春は恋の季節

   今年の桜(ソメイヨシノ)の開花は平年よりかなり早いという。桜の予想開花日は高知で3月14日、宮崎で18日、広島で19日、大阪で22日、東京都心で21日、八王子で23日と発表された。

    ところで、古代中国では春は愛の季節、喜びの季節と考えられた。春は女性が男性をしたって物を思う季節、それに対して、秋は男性が悲哀に沈む季節とされた。『詩経』の「七月」の詩に「春の日は遅遅たり、繁を取ること祁祁たり、女心傷悲す、殆めて公子と同に帰らん」、毛萇はここに注して「春は女悲しみ、秋は士悲しむ。その物に感じて化せるなり」といい、鄭玄はさらに敷衍して「春は女の陽気に感じて男を思い、秋は士の陰気に感じて女を思う。是り其の物に化せられて悲しむゆえんなり」という。「春は女悲しみ、秋は士悲しむ」というのは、漢代にはことわざのように使われていたことばらしく、『淮南子』にも「春は女思い、秋は士哀しむ」とある。

   そういえば3月は卒業シーズン。いま卒業式でよく歌われる曲は何か?「旅立ちの日に」(1991)「大地讃頌」「流れゆく雲を見つめて」「大切なもの」「明日のために」「旅立ちの今たしかめあって」「巣立ちの歌」「この地球のどこかで」などが人気があるそうだ。

   毎年この季節になると多くの歌手も卒業ソングをリリースする。「制服の胸のボタンを下級生たちにねだられ、頭をかきながら逃げるのね、ほんとは嬉しいくせして」(斉藤由貴「卒業」)のように女性が別れを哀しむ卒業ソングが多い。柏原芳恵「春なのに」、松田聖子「制服」、菊池桃子「卒業」、沢田聖子「卒業」など80年代女性アイドルたちによって卒業ソングが確立された。このほか代表的な卒業ソングは荒井由美「卒業写真」(1974)、海援隊「贈る言葉」(1979)、尾崎豊「卒業」(1985)、渡辺美里「卒業」(1991)、GLAY「卒業まで、あと少し」、A-JARI「卒業」、長渕剛「卒業」、アンジェラ・アキ「手紙、拝啓15の君へ」、レミオロメン「3月9日」、ドリーム・カム・トゥルー「グッド・バイ・マイ・スクール・デイズ」、スピッツ「チェリー」、森山直太朗「さくら」など。ケペルとしては倉田まり子「グラジュエイション」(1979)が最高の卒業ソングだ。卒業式の気持ちを少し優等生タイプの女の子風に歌っていたがそこがまたイイ。アイドル活動はあの投資ジャーナル事件で芸能界から身を引くことになるが(無実の罪でかわいそうだった)、彼女のひたむきな努力によって坪田まり子として実業家として成功されたことは賞賛されよう。まり子ちゃん、陰ながらご活躍を祈ってます。

Img_0017

2009年3月 3日 (火)

太平洋のキャプテン・クック

Photo

    ジェームズ・クック(1728-1779)はイギリス・ヨークシャー県マートンにスコットランド出身の農場労働者の息子として生れた。食料品と小間物を扱っている商人のところへ見習い奉公に出された。しかし、逃げ出して、18歳のときホイットビの船主ジョン・ウォーカーのところで働くようになった。東海岸で石炭船やその他の船に乗り、何年もの経験を積んだあと、1755年、海軍に志願して有能な水夫となり、ついで一等航海士に昇進した。1766年、王立協会はクックを金星の日面通過(トランシット)の観測を目的に南太平洋へ派遣する。1768年7月30日、エンデヴァ号でイギリスを発したクックは翌年タヒチ島に達し金星のトランシットの観測を行なった。1772年からレゾリューション号とアドヴェンチャー号を指揮してニュージーランドを周航、測量しこれが南北両島よりなることを明らかにし、さらにオーストラリア東海岸を探検した。1776年には南インド洋を経て、ニュージーランドから北上の途上クリスマス島・サンドウィッチ(ハワイ)島を発見。継いで北アメリカの太平洋沿岸をアラスカまで探査し、カナダのヌートカ入江を発見。アリューシャン列島・ベーリング海峡を探索したが失敗におわる。1779年、帰途ハワイで原住民とのトラブルに巻き込まれ、そこで惨殺される。

風樹の嘆

Phot0000000000011e17_500_0

    孔子が天下を周遊していたとき、道端で声を上げて泣いている皐魚という人物にであった。泣いているわけを訊ねると、自分が親元を離れて遊学している間に、親が死に、孝養を尽くせなくなったことを悲しんでいるのだと答え、次のような詩句を口ずさんだ。

 樹、静かならんと欲すれども、風止まず

 子、養わんと欲すれども、親待たず

樹木が静かにしていようと思っても、風が吹き止まない。子どもが親に孝養を尽くそうと思っても、親はいつまでも待ってはくれない。(だから、親が存命なうちに、せいぜい親孝行しなさい、という意味である。)(「韓詩外伝」9)

風樹とは風に吹かれて揺れる木のことであるが、転じて死んだ親を思うことを意味する。

桜田門外の変

Img_0019

   彦根藩主井伊直弼(1815-1860)は安政5年4月大老に就任するや、修好条約調印を勅許を得ずに強行し、南紀派が推す徳川慶福を将軍継嗣に決定した。さらに徳川斉昭や松平慶永、山内豊信らを隠居・謹慎とし、一橋派の活動家や攘夷志士の橋本左内・頼三樹三郎そして吉田松陰らを逮捕・処刑した。世に言う「安政の大獄」である。この弾圧に激昂した水戸浪士たち(一人は薩摩脱藩士)18人は、安政7年3月3日、季節外れの雪の降りしきる桜田門外で登城中の井伊直弼を襲撃、その首を刎ねた。

    ここに桜田十八士を記す。関鉄之介、岡部三十郎、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之次郎、黒沢忠三郎、斎藤監物、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介、杉山弥一郎、広木松之介、増子金八、有村次左衛門。

2009年3月 2日 (月)

リヴィングストンのアフリカ探検

Img_0017

   リヴィングストン(1813-1873)は宣教師及び医師として最初中国に向うつもりであったが、1840年ロンドン伝道教会からアフリカ・ベチュアナランドにおもむくよう命ぜられた。さらに1849年この地を発した彼は北へカラハリ砂漠を縦断ヌガミ湖に達し、また1852年にはザンベジ川を中流からさかのぼりカタンガにおいてコンゴ川の支流カサイ川に達し大西洋岸に出た。さらに彼は同じ道を経てザンベジ上流におもむきヴィクトリア瀑布発見の後1856年5月インド洋岸に達し、史上最初のアフリカ大陸横断を達成した。1866年彼はニヤザ、タンガニーカを経て遂にコンゴ川上流のルアラバ川を発見しているが、これをナイル川の上流と見なしている。(のちスタンレーによってヴィクトリア湖がナイルの源流であるとほぼ確定された。その後の調査によると、ルヴィロンザ川やカゲラ川などが源流といわれる。)以後一時彼の消息は不明となるがその探索のため、1871年ニューヨーク・ヘラルド社からスタンレー(1841-1904)が派遣された。彼はタンガニーカ湖畔のウジジで病めるひとりの白人の衰えた姿をみとめた。「リヴィングストン先生ではありませんか」スタンレーの感動にふるえる一声に、老人はうなずき、しっかりとスタンレーの手をにぎった。若きスタンレーとアフリカに一生をささげた老雄の劇的な出会いの一瞬であった。しかしその2年後の1873年5月、リヴィングストンは60年の波瀾の生涯をおえた。

2009年3月 1日 (日)

しょうべんするの由来

    売買契約後に、売り方・買方のいずれかが不当にその契約を破ることを俗に「しょうべんする」という。これは「商変」つまり「あきない」を変更することから出たという説と、江戸の小便組に由来するという説がある。

   明和・安永(1764-1781)の頃、妾奉公に出た女がわざと寝小便をして暇をだされる、一種の詐欺行為が流行した。暇を出された女は素知らぬ顔をして、また新しい主人の床で寝小便をする。そしてまた追い出される。こうした稼業が実際にあり、江戸名物となって、小便組と呼ばれた。

 ここで三両かしこで五両とって垂れ

へなちょこ商売が面白い

Img_0019

   世界経済が不況で大企業も個人経営者も厳しい状況にある。そんなときに素人が珍商売をすることは無謀といえるかもしれない。文明開化の明治にはいろいろ変わった商売が登場したそうだ。戦後の焼け跡のバラックにも珍商売があった。いつの時代も都会の片隅に時代に取り残されたような店がある。これから小さな店をいろいろ調べてまわることも楽しい。本の世界でいえばサブカルチュアーを扱うことが面白い。古美術でなくて、古道具のほうが面白い。村松友視の「時代屋の女房」の映画版をみて、その世界に興味を持つ。大正時代の扇風機、古い小型ミシン、SP用のラッパ付き蓄音機、手動式の電話機、煤っぽいランプ、貧乏徳利と盃、日露戦争の勲章など。

    夏の盛りに銀色の日傘をさし、ピンクのTシャツを着た若い女が店に入ってくる。「これは・・・・」女がめずらしそうに取りあげたのは、美大の友だちからあずかった物だった。「なみだ壺っていうらしいですよ」「なみだ壺って・・・」「イランだかトルコだか忘れたけど、兵士が戦場へ出ていったあと、女房がこのなみだ壺を目にあてて悲しい涙をためておくんだって」「で、亭主が帰ってきたら、こんなに泣いて待ってましたって見せるわけね」「そうだろうね」「こうやるのかしら」女は、なみだ壺の先端を片目に当てた。なみだ壺はその女に似合っているように思えた。

夏目雅子の有名な映画のワンシーンである。

   ところで「へなちょこ」の言葉の由来がまた面白い。日露戦争の戦勝祝いのために12、13人の文人、学者が神田明神境内の開花楼の一室に集った。その席で、某氏が昌平橋近くの工事現場でもらってきた粘土で手づくりの盃をつくったところ、皆、妙な形のものばかりできあがってしまった。ヘナ土(粘土)でつくった猪口だからヘナチョコだが、おかしな形のものばかりだったので、未熟なものをヘナチョコというようになった。

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »