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2009年3月28日 (土)

美智子さまと三島由紀夫のお見合いは本当にあったのか

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   軽井沢のテニストーナメントで皇太子明仁親王が日清製粉社長令嬢・正田美智子(昭和9年生まれ)を見初めたテニスコートの恋から半世紀。昭和34年4月10日のご成婚から50年ということで今週号の雑誌各誌は美智子さまの記事が豊富である。なかでも週刊新潮4月2日号の記事「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」は本当だろうか。

 毎日新聞の元記者・徳岡孝夫が三島由紀夫(1925-1970)から「僕は美智子さんとお見合いしたことがあるんですよ」と聞いたことがネタになっている。銀座の小料理屋「井上」の2階で2人は見合いした(井上つる江・談)とある。時期は不明だが、おそらく昭和30年か31年ころであろう。三島は昭和33年に日本画家杉山寧の長女瑤子と結婚しているし、同年11月27日、美智子と皇太子との婚約発表があった。昭和30年といえば、美智子は聖心女子大学の2回生で、三島由紀夫は前年に刊行した『潮騒』がベストセラーとなり人気作家としての地位は確固たるものがあった。お見合いという正式なものなのかは怪しいが、おそらく両家の家族一緒に歌舞伎見物をしたあと食事をしたのであろう。その時の思い出をあとで三島は徳岡に面白おかしく話したのではないだろうか。

2009年3月17日 (火)

プレンダーガストとジ・エイト

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        ボストン、チャールス通り  1895年

  モーリス・プレンダーガスト(1859-1924)は英国領ニューファンドランドに生まれの米国人で、少年時代にボストンに移住した。1892年にパリに留学し、ナビ派の影響をうけ、独自の画風を確立する。プレンダーガストはジ・エイト(8人の会)の一員であった。この会は、当時の美術界の伝統主義や、感傷的な道徳主義の傾向に立ち向かい、現実に即した絵を描こうとする集団だった。彼の他にロバート・ヘンリ、ジョン・スローン、ジョージ・ラクス、ウィリアム・グラッケンズなどがいた。プレンダーガストの作品も身近な都会生活を題材としたモダニズム的な現代風俗画が多い。油絵も版画も描くが、水彩画家として著名である。彼は病弱で生涯独身だった。

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       セントラル・パーク  1910年頃

1895

        サウス・ボストン埠頭  1895年

1897

          リベアビーチ   1897年

1901

             五月祭  1901年

2009年3月15日 (日)

悪ふざけ好きの少年皇帝

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   第26代ローマ皇帝へリオガバルス(203-222)の宴会に招待された者はだれでも、不愉快な一夜を覚悟しなくてはならなかった。この短い期間皇帝だった少年は(在位218-222、一説にカラカラの庶子)、その在位中、ただひたすらに、臣下に対する悪ふざけだけを心がけからである。彼のとりわけ好んだ悪ふざけは、ローマでもっとも肥満している男を選んで開く宴会だった。あわれな男たちは空気袋の上にすわらされ、奴隷が袋を破裂させるたびに、床に転がらなくてはならなかった。ガラスや大理石、象牙で作った料理を食べさせられた客もあった。本物の料理が出たからといって、油断はならない。料理の中にクモや、ライオンの糞がはいっているのはいつものことだったからである。 

   食べ過ぎてうっかり寝込みでもしてしまったら、ライオンやヒョウのいる部屋で目を覚まさなければならなかった。あるとき、宴会の客に頭上から薔薇の花をまくという、一見優雅な思いつきを実行したこともある。だが、その量が多過ぎ、客の何人かが、薔薇の花に埋まって死んだ。彼はまた大浪費家で、1度だけはいるために壮麗な大浴場を建設させ、すぐ壊させてしまったこともある。 

    結局、このネロも顔負けの暴君は祖母の命令で近衛兵に殺され、体を切り刻まれてテベレ川に投げ込まれた。わずか18歳になったばかりだった。(「世界不思議物語」日本リーダーズダイジェスト社)

2009年3月11日 (水)

江戸幕府の農民統制

   江戸時代、幕府や藩は、農民が負担する年貢や労役を経済的基盤としていたので、村や農民にはさまざまな統制を加えた。寛永20年(1643年)には、前年の飢饉で土地を手放すものが多く、幕府はこれを防ぐために、田畑永代売買禁止令をだした。延宝元年(1673年)には分地制限令をだして、農民経営の細分化と、本百姓の没落を防ごうとした。そのほか、年貢米の確保と農民が貨幣経済にまきこれないようにするため、本田畑にたばこや木綿などの商品作物を栽培することを禁じた(田畑勝手作りの禁)、また慶安2年(1648年)に幕府がだした慶安の御触書では、領主は農民の没落や逃散を防ぐために、倹約や労働を督励し、農民の日常生活にまで細かい規制を加えた。(参考:「高等学校日本史B」第一学習社、平成14年版)

2009年3月 3日 (火)

風樹の嘆

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    孔子が天下を周遊していたとき、道端で声を上げて泣いている皐魚という人物にであった。泣いているわけを訊ねると、自分が親元を離れて遊学している間に、親が死に、孝養を尽くせなくなったことを悲しんでいるのだと答え、次のような詩句を口ずさんだ。

 樹、静かならんと欲すれども、風止まず

 子、養わんと欲すれども、親待たず

樹木が静かにしていようと思っても、風が吹き止まない。子どもが親に孝養を尽くそうと思っても、親はいつまでも待ってはくれない。(だから、親が存命なうちに、せいぜい親孝行しなさい、という意味である。)(「韓詩外伝」9)

風樹とは風に吹かれて揺れる木のことであるが、転じて死んだ親を思うことを意味する。

2009年3月 1日 (日)

しょうべんするの由来

    売買契約後に、売り方・買方のいずれかが不当にその契約を破ることを俗に「しょうべんする」という。これは「商変」つまり「あきない」を変更することから出たという説と、江戸の小便組に由来するという説がある。

   明和・安永(1764-1781)の頃、妾奉公に出た女がわざと寝小便をして暇をだされる、一種の詐欺行為が流行した。暇を出された女は素知らぬ顔をして、また新しい主人の床で寝小便をする。そしてまた追い出される。こうした稼業が実際にあり、江戸名物となって、小便組と呼ばれた。

 ここで三両かしこで五両とって垂れ

へなちょこ商売が面白い

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   世界経済が不況で大企業も個人経営者も厳しい状況にある。そんなときに素人が珍商売をすることは無謀といえるかもしれない。文明開化の明治にはいろいろ変わった商売が登場したそうだ。戦後の焼け跡のバラックにも珍商売があった。いつの時代も都会の片隅に時代に取り残されたような店がある。これから小さな店をいろいろ調べてまわることも楽しい。本の世界でいえばサブカルチュアーを扱うことが面白い。古美術でなくて、古道具のほうが面白い。村松友視の「時代屋の女房」の映画版をみて、その世界に興味を持つ。大正時代の扇風機、古い小型ミシン、SP用のラッパ付き蓄音機、手動式の電話機、煤っぽいランプ、貧乏徳利と盃、日露戦争の勲章など。

    夏の盛りに銀色の日傘をさし、ピンクのTシャツを着た若い女が店に入ってくる。「これは・・・・」女がめずらしそうに取りあげたのは、美大の友だちからあずかった物だった。「なみだ壺っていうらしいですよ」「なみだ壺って・・・」「イランだかトルコだか忘れたけど、兵士が戦場へ出ていったあと、女房がこのなみだ壺を目にあてて悲しい涙をためておくんだって」「で、亭主が帰ってきたら、こんなに泣いて待ってましたって見せるわけね」「そうだろうね」「こうやるのかしら」女は、なみだ壺の先端を片目に当てた。なみだ壺はその女に似合っているように思えた。

夏目雅子の有名な映画のワンシーンである。

   ところで「へなちょこ」の言葉の由来がまた面白い。日露戦争の戦勝祝いのために12、13人の文人、学者が神田明神境内の開花楼の一室に集った。その席で、某氏が昌平橋近くの工事現場でもらってきた粘土で手づくりの盃をつくったところ、皆、妙な形のものばかりできあがってしまった。ヘナ土(粘土)でつくった猪口だからヘナチョコだが、おかしな形のものばかりだったので、未熟なものをヘナチョコというようになった。

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