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2008年12月15日 (月)

中国の国学ブームに思う

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文化大革命のなか、批林批孔運動の壁新聞を読む市民たち

   孔子、老子の時代から現代まで4千年の歴史をもつ中国には脈々として流れている文化と思想がある。それはイデオロギーを超えた民族の深い英知の表現であり、人類の遺産である。儒教文化を中心とした中国の伝統的学問は、中国はもとより、朝鮮、日本にも古典として深く根付いている。

    だが中国の近代化への動きが始まる時、呉虞(1871-1949)や陳独秀(1880-1942)ら知識人は痛烈に儒教を攻撃した。魯迅(1881-1936)の文学作品にも孔子や儒教への批判が多く見られる。さらに記憶の新しいところでは、1964年から10年間におよぶ中国文化大革命のなかで、批林批孔運動が巻き起こった。しかし、それは長い歴史からいえば、結局は一時期の特殊な現象にすぎなかったと見ることができる。近年、中国では「国学」と呼ばれる古典回帰の現象が起こっている。書店では「論語」「孟子」などの古典思想・文学・史書がよく売れている。テレビ番組でも古典の講座に関心が高いという。国学ブームの背景は、大国化した中国が自国の伝統文化に自信を持ち始めたことの現われであろうと分析している。

   では、中国の古代聖賢の教えの到達点とは何であろうか。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉に言い表されるように、実はこの到達点「大我」に至る道は、凡俗にはかなりハードルが高い。

   孟子がいった。「人間はだれでも魚はおいしい、熊の掌もおいしい。しかし、その魚と熊の掌とを二つ兼ねることはできないとすれば、だれでも魚を捨てて、熊の掌をとるだろう」それと同様に、「生きたいというものも己れの希望であるが、さりとて人の道、人の義を実現したいのも人の欲望である。もしこの二つを兼ねることができないという場合には、生を捨てても義をとるだろう」といっている。その場合、生を捨てて、仁を成し、義を取る「大我」に至ることが中国の伝統的聖賢の教えなのである。

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