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2008年12月23日 (火)

秦始皇帝兵馬俑坑の謎

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    始皇帝陵(驪山陵)は陝西省の西安から北東へ約30㎞、臨潼区にある。紀元前247年、秦王政(後の始皇帝)は即位するとまもなく驪山陵の建設に着手し、以来その崩御ののちまで39年にわたって建設が続けられた。底辺約350㎞四方の封土を中心に、南北を長辺、東西を短辺とする長方形につくられている。この始皇帝陵の1.5㎞ほど東側で、1974年3月29日、近くの農民、楊志初が発見した。この地点は、驪山陵と近いことから、始皇帝のものと関係があるのでなかろうかと、県公署に報告された。文物事業管理局が調査したところ俑坑は全部で4つあり、武士俑が約8000体、馬俑が約6000体、馬車約100台、武器約4万点が発掘されている。20世紀最大の発見といわれる秦始皇帝兵馬俑坑である。1987年にはユネスコ世界文化遺産にも登録された。

   ところが近年、中国の学者の陳景元は、兵馬俑坑は秦始皇帝の陪葬品ではなく、恵文王の妻の宣太后の陵墓であるという説を主張している。司馬遷の『史記』にも、驪山陵に巨大な地下宮殿がつくられたという記載があるが、兵馬俑坑についての記載がないことに疑問を持つ学者は当初からいた。陳景元が兵馬俑坑が始皇帝の陪葬品でないとする理由は、①副葬坑としては位置が遠い、②青銅製の武器は始皇帝の時代のもにしては古すぎる、③軌道を統一したのに馬車の車軸がばらばらである。④始皇帝は黒を基調と定めたが、極彩色である、などを根拠としている。そして兵馬俑のまげが右側にずれていることから、楚の出身の宣太后であると推理している。ケペルには陳景元の新説が本当であるか、判断できる学識を持たない。ただこの新説は「アポロ11号の月面着陸はでっち上げ」という類のデマとは次元が異なる学術的な内容のものである。もちろん世界文化遺産にまで登録された中国の観光資源だけに、始皇帝のものだとする定説にゆるぎはなく、多くの学者たちは相手にしないトンデモ本扱いされるであろう。陳の説が本当だとしたら、秦恵文王から漢代の司馬遷の時代までに、何度か洪水があり、長い歳月のため、地中に眠る兵馬俑坑のことも人々から忘れさられ、『史記』に兵馬俑坑に関する記述がないことも納得できるような気がする。死後も皇帝として君臨することを夢見た始皇帝が、地下宮殿を護衛するために配属した近衛軍団が、実は始皇帝のものではなくて、一人の女性を護衛するものであったとすると、ますます古代中国の偉容は、現代のわれわれでは図りしれないほど巨大なものであることになる。

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コメント

トンデモの類いにしては信憑性があるような…

古墳の被葬者はわからないことが多いですね。堺市にある仁徳天皇陵。最近の研究で古墳の造られたのは5世だとわかってきました。大仙陵古墳と呼ぶようになっています。そもそも仁徳天皇は実在したのでしょうか。

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