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2008年12月31日 (水)

歌謡界この一年

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   昨晩、日本レコード大賞を見ていて妻から「エグザイルって何という意味」ときかれたが知らなかった。英単語に弱いのでネットで調べると、「追放された者」「亡命者」「放浪の身」を意味するらしい。カッコいいグループ名だ。アメリカに1963年から活動しているカントリー・ミュージック・バンド「エグザイル」という本家がある。日本のエグザイルはヴォーカル&ダンス・ユニットとして2001年頃から売れ出したが、これで名実ともに歌謡界の頂点に立った。最優秀新人賞はジェロ「海雪」だったが、新人賞の千紗(ちさ)という可愛い女性が気になった。「ガール・ネクスト・ドア」のボーカルだが、9月3日デビューでわずか3ヵ月でレコード大賞、紅白出場をはたした。「偶然の確率」がそれほどの大ヒットなのだろうか。やはりエイベックスの力が大きいのだろう。そういえば、SPEED、東方神起などの紅白当選もエイベックスの力か。浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未を擁するエイベックスはレコード業界の一大勢力なのだそうだ。こんな業界の裏話よりも、音楽は1人のリスナーとして楽しんで聞くことにしょう。これから「年忘れ!にっぽんの歌」「紅白歌合戦」を見る。大橋のぞみちゃんの「崖の上のポニョ」を楽しみにしてます。これで今年のブログの書き納めとします。一年間記事を読んでいただいた方々に感謝申し上げます。では、良いお年をお迎えください。

フランス映画この一年

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  クロード・ルルーシュ、ジャン・リック・ゴダール、フランソワ・トリュフォ。映画といえばフランス映画というのは、ずいぶんと昔のはなしとなった。今では、現代フランス映画は、ほとんど話題にならない地味な作品ばかり。でもやはり少し気になる。今年1年、日本で公開された映画をリバイバル作品も含めて総決算。

ドキュメンタリー作家ニコラ・フィリベール監督の「かつて、ノルマンディーで」(2007)。

ジョエル・セリア監督が思春期の少女の不安定に生と死を描いた「小さな悪の華」(1970)主演カトリーヌ・ヴァジュネール。

エリック・エマニュエル・シュミット監督の大人のラブ・コメディー「地上5センチの恋心」(2006)。主演カトリーヌ・フロ。

ジャック・リヴェット監督の19世紀の貴族社会の男女の恋を描いた「ランジェ公爵夫人」(2006)。主演ギョーム・ドパルデュー、ジャンヌ・バリバール。

ジュリー・デルビー監督の「パリ、恋人たちの2日間」(2007)は、仲の良いカップルに突如訪れる別れの危機をユーモラスに描く。主演ジュリー・デルビー、アダム・ゴールドバーグ。

ドゥニ・デルクール監督の「譜めくりの女」(2006)は、ピアニストへの夢を絶たれた少女の絶望、時を隔てた愛憎を描く。主演はカロリーヌ・フロ、デボラ・フランソワ。

クリストファー・トンプソン監督の「モンテーニュ通りのカフェ」(2006)は、パリの一軒のカフェに集まる人々を描いたヒューマン・コメディー。主演はセシル・ド・フランス、ヴァレリー・ルメルシエ。

同性への淡い恋を描いたセリーヌ・シアマ監督の「水の中のつぼみ」(2007)。主演ポーリーヌ・アキュアール、アデル・ヘネル。

誕生日のパーティで美術商のフランソワは、祝福どころかそれまで友人だと思っていた人々から「君には友達がいない」という言葉を聞かされ、ショックを受ける。フランソワは偶然親切なタクシー運転手に出会う。人生の半ばを過ぎた男の孤独を描くパトリス・ルコント監督の「ぼくの大切なともだち」(2006)。主演はダニエル・オーターユ、ダニー・ブーン。

普通の女性が、ある日、理不尽な恐怖にさらされるホラー。ジュリアン・モーリー、アレクサンドル・バスティロ共同監督作品「屋敷女」(2007)。主演アリソン・パラディ、ベアトリス・ダル。

ジャン・ベッケル監督が、孤高の画家と庭師との交流を描く「画家と庭師とカンパーニュ」(2007)。主演はダニエル・オーターユ、ジャン・ピエール・ダルッサン。

ケヴィン・マクドナルド監督の「敵こそ、我が友」(2007)。元ナチスのクラウス・バルビーは戦後南米へ亡命。ボリビアに軍事政権を誕生させる黒幕となり、チェ・ゲバラ暗殺の首謀者となる

アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」(1956)。風船と友達になった少年の純真さを描く。主演パスカル・ラモリス。

ホウ・シャオシェン監督「ホウ・シャオシェンのレッド・バルン」(2007)。都会に暮らす母子の孤独な生活を中心に、古き良きパリの美しさをスケッチ風に描く。

フランスの美しい田園風景のなか、10歳の少女の不安と冒険心を描くジャン・ピエール・アメリス監督の「ベティの小さな秘密」(2006)。主演アルバ・ガイア・クラゲード・ベルージ。

奇妙な宿に迷い込んだ男女のサバイバルを描くザヴィエ・ジャン監督の「フロンティア」(2007)。主演カリーナ・テスタ、オルレアン・ウイイク。

しがない中年男たちがダンスによって輝きを取り戻す姿をユーモアと哀愁を織り交ぜて描くファビエン・オンテニエンテ監督の「ディスコ」(2008)。主演フランク・デュボスク、アベス・ザーマニ、サミュエル・ル・ビアン、エマニュエル・ベアール。「シャル・ウィ・ダンス」のフランス版か?

パリに暮らす人々の群像劇をセドリック・クラビッシュ監督が描く「パリ」(2008)。ロマン・デュリス、ジュリエット・ビノシュ。

アラン・コルノー監督の「マルセイユの決着」(2007)はジャン・ピエール・メルヴィルの「ギャング」のリメイク。主演はダニエル・オーターユ、モニカ・ベルッチ。

フランスで唯一の騎手の養成学校を舞台に、騎手になる子どもたちの姿をとらえたドキュメンタリー作品。バンジャマン・マルケ監督の「ジョッキーを夢見る子供たち」(2008)

港町シェルブールの傘屋の娘と自動車修理工は結婚を誓うが、男はアルジェリア戦争へ行く。数年後、クリスマスの日、偶然再会する。ジャック・ドミー監督「シェルブールの雨傘」(1964)。主演カトリーヌ・ドヌーブ、ニーノ・カステルヌオーヴォ。リバイバル作品

2008年12月30日 (火)

イケメン・パラダイス

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   イケメンとは、一般的に「イケてる+面」の略語で、顔がいい男性のことである。だが、最近では、顔だけでなく、体のパーツの美しさ、ファッション・センスの良さ(特に髪型)等に起因する表現として使われている。もともとは、ゲイ用語で、1990年代中頃からゲイ雑誌「G-men」などで使われた隠語であった。2000年頃からマスコミでも使われるようになり、「広辞苑」の第6版には「いけ面」という見出し語が収録されている。現在では日常会話としてしばしば使われる言葉と思われるが、流行語が日本語として定着している珍しい事例である。韓国語の「コッミナム(花美男)」「モムチャン(肉体美)」や英語の「Pin-up Boy」などの類語が世界的に生れる傾向にあるこを考えると、女性が男性美を観賞、賞賛する風潮が流行しているからであろう。

    では、女性からみた理想的な男性像とは具体的にはどのような要件を満たすのであろうか。SMAPの木村拓哉は雑誌「anan」の好きな男子ランキングで1994年に1位を獲得。以後2008年現在まで15年連続1位を獲得している。つまり「21歳から36歳までのキムタクを日本女性の理想的男性像」と解してよいだろう。だがキムタクの圧倒的人気は認めるとして、彼を「イケメン」と呼ぶにふさわしいかどうかは疑問が生じてきた。15年の歳月とともに、ますます魅力や風格がでてきて彼を軽薄さが伴う「イケメン」とは呼びにくくなってきた。むしろ当世風では、DAIGO、小栗旬、三浦春馬、生田斗真、山田涼介、佐藤健、溝端淳平、高木雄也ら次代を担う男子がイケメンと呼ぶにふさわしいように感じる。「anan」では部門別のアンケートもあり、「カッコいい大人の男」というランキングでは、佐藤浩市、堤真一、阿部寛、大沢たかお、近藤真彦となっている。「人は見た目が9割」という本も売れているというが、当世、髪型や服装のおしゃれに気をつけなければならない。当然のこと経費もかかる。「ボロは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」と水前寺清子が唄ったのは昔のこと。いまの男子もなかなか大変である。

切ナイ恋物語「恋空」

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    東宝映画「恋空」(2007)は興行成績39億円の大ヒットとなった。原作は美嘉の実話風ケータイ小説。大人からみると純愛物とは言い難い衝撃的な内容もあるが、映画を観たさわやかさは、すべて主演女優の新垣結衣の清潔感からくるものであろう。翌年にはテレビ版で水沢エレナが田原美嘉を演じた。新垣結衣が泣く表情、笑う表情、すべて天然のもので業とらしい演技ではない。素のままの表現が見る者を自然に感動させるのである。新垣結衣という魅力ある新人スターによってこの映画「恋空」は成功した。また小説も書き出しがすべてである。

 

もしもあの日君に出会っていなければ

 

こんなに苦しくて

 

こんなに悲しくて

 

こんなに切なくて

 

こんなに涙があふれるような想いはしなかったと思う。

 

けれど君に出会っていなければ

 

こんなにうれしくて

 

こんなに優しくて

 

こんなに愛しくて

 

こんなに温かくて

 

こんなに幸せな気持ちを知る事もできなかったよ…。

 

涙こらえて私は今日も空を見上げる。

 

空を見上げる。

2008年12月29日 (月)

ときには肩の力を抜いて

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   年の瀬、人々は買い物に忙しい。ケペルはやはり本を買いに行く。

年の瀬を忙しといひつ遊ぶなり 星野立子

「IKKO女の法則」、布川敏和・かおり「涙のち笑顔」、チ・スヒョン「私の名前はキム・サムスン」、鶴田黄珠「幸せになる赤ちゃんの名前」、サンドラ・マーツ「間違ってもいい、やってみたら」、岩永加奈子「女性の結婚式スピーチ」、よしたに「ぼく、オタリーマン」、「花ざかりの君たちへ イケメン・パラダイス」、「出産&産後大全科」購入。

2008年12月28日 (日)

天璋院篤姫フィナーレ

    NHK大河ドラマ「篤姫総集編」3夜連続見る。主演の宮崎あおいは大河史上最年少ながら、12歳から49歳までを見事に演じきった。朝日新聞のある欄には、このドラマ「篤姫」を日本版「風と共に去りぬ」と、まで高い評価をしている。

    ところでナレーションでもあった篤姫の享年49歳とは陰暦で数えた場合であり、今日の満でいうと47歳9ヵ月である。そしてドラマにはなかったが、篤姫が亡くなる数ヵ月前に岩倉具視(片岡鶴太郎)が57歳で亡くなっている。病死であれ、天寿であれ、このドラマの登場人物は皆短命である。徳川家定34歳、徳川家茂20歳、坂本龍馬31歳、和宮32歳、小松帯刀36歳、木戸孝允44歳、西郷隆盛49歳、大久保利通47歳。幕末維新の動乱にそれぞれの役割を果たして夭折したのであろう。

    維新後、徳川家達の教育に専念した天璋院は、ひとつの時代の終わりを告げるかのように、明治16年11月12日、千駄ヶ谷の徳川宗家の邸宅で静かに死去した。自宅の風呂場で倒れたそうで、死因は脳卒中だった。墓所は上野寛永寺。夫・家定の墓の隣に眠る。

2008年12月26日 (金)

曹操と文姫

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   「三国志演義」では曹操は悪役なので、あまりいい逸話はない。わずかに「文姫帰漢」(文姫漢に帰る)という曹操の美談が残されている。

    文姫は、後漢末の女流詩人蔡琰(さいえん)の字。博学で音曲にも精通していた彼女は、16歳で仲道に嫁いだのち、群雄割拠の動乱に巻き込まれ、匈奴の左賢王の妻となる。辺境に暮らすこと12年、その間に二子をもうけた。しかし、曹操はその才を惜しみ、また彼女の亡父蔡邕(さいよう)とよしみだったため、左賢王に金銀彩錦を贈って文姫を買い戻し、董祀(とうし)と再婚させた。

   ブックオフへ行く。王樹村・立間祥介「年画・三国志」、江國香織「がらくた」「なつのひかり」「いつか記憶からこぼれおちるとしても」、「面白いほどよくわかる聖書のすべて」購入。

ダビデの星

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    リサとガイは同棲して5年目になるカップル。お互いに相手への気持ちはとっくに冷めていたけれど、居心地のいい関係に満足していた。ある日、親友ケリーの別れ話を聞いたリサは、さっそく彼女に同僚のジョジュを紹介する。一方、ガイは友人のグラハムとヘレンを引き合わせることに。これをきっかけに、揺るぎないはずのリサとガイの関係があやしくなり、6人の関係はシャッフルされてゆく…。ウイリアム・サトクリフの描く男女6人のハッピーなラブ・ストーリー「恋するヘキサゴン」。HEXAGONとは六角形のこと。そういえば「クイズヘキサゴン」も最初は解答者が6角形状に坐っていた。現在はその形状をとっていないが、番組名称はそのまま残っている。ちなみに5角形のことはペンタゴン。

  ヘキサゴンとは、もともと中世ヨーロッパでは最もパワーある魔方陣(ヘキサグラム)「六茫星」のこととして考えられた。正三角形と逆正三角形を組み合わせた形で、上向きの三角形が陰、下向きの三角形が陽。この二つの陰と陽が調和し安定を表わし、すべてを清め、幸運を招く力があるとされる。本来、ヘキサゴンは「ダビデの星」といわれ、ユダヤ教のシンボルとしてイスラエルの国旗に採用されている。

Rokubousei

2008年12月23日 (火)

ツンデレのルーツは石坂文学である

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    むかし家族団らんで見たテレビ番組は、それぞれの人たちの思い出がいっぱい詰まっているようです。このブログでは懐かしいデレビ番組、それもかなり個人的な思いいれのある番組をとりあげるのですが、何人かの方からも共感のお便りをいただき、うれしく思っています。いま多チャンネルの時代で、懐かしい番組に偶然に出会うことがあります。先日、松原智恵子主演の「雨の中に消えて」を放送していました。共演に広瀬みさが出ていて懐かしかったです。

 

    ところで、舟木一夫が歌う「あいつと私」の主題歌の歌いだしはこんなんでしたっけ。

  愛していると いったら負けで

 愛してないと いったら嘘で

 どうにもならずに

 蹴とばす 小石

 昭和40年代、松原智恵子は、日活のスターでありながら、日本テレビの一時間ドラマに出演し常に高視聴率をマークしていた。体が細くて瞳がきれいで男子はみんな憧れで見ていた。毎日ファンレターが山のように自宅に届けられ、風呂の焚き付けに使っていたとの伝説がある。「山のかなたに」「雨の中に消えて」「あいつと私」「ある日私は」「若い川の流れ」「颱風とざくろ」など。個人的には「ある日私は」が好きだ。これらの多くは石坂洋次郎の原作であり、すでに映画化されたものである。したがって、子どもながらにも、ある程度ストリーを知っているか、あるいは、凡そストーリーが予測できるものが多い。特徴を一言でいうと今でいう「ツンデレ」である。つまりヒロインはツンツンと澄ました態度をとり、主人公の男性とよくケンカをするうちに愛が芽生えるというパターンである。最近の韓国ドラマ、ソン・ヘギョとピの「フルハウス」などもケンカしながらも一つ屋根の下に住み契約結婚するというコメディだが、ピのツンデレぶりがたまらない魅力である。これら今やロマンチック・コメディーの王道ともいえる「ツンデレ」の生みの親は、石坂洋次郎(1900-1986)である。そして映画史上最高のツンデレ女優は、芦川いずみであろう。知性的な女性役がよく似合い、石原裕次郎といつも高尚な議論を交わす芦川いづみがたまらなくステキだった。先日NHKBSで「あいつと私」が放送されたところ、芦川を知らない若い世代からも21世紀にも通用する可愛いらしさと評判である。

 

 

昭和30年代の松本清張の文学的位置

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       松本清張と司馬遼太郎 昭和47年5月

    昭和33年、松本清張(1909-1992)の「点と線」「眼の壁」などが空前のベストセラーとなったとき、売れる作品に対して純文学と大衆文学との中間に位置する「中間小説」という言葉が流行した。これに反発して清張は「文学には純文学と通俗文学の二つしかない」と言ったという。当時、文芸評論家の間ではまだ純文学だけが文学であり、大衆小説は評価の対象とはなっていなかった。ただ伊藤整は「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功した」と松本文学を高く評価した。しかし、その伊藤整が編集委員を務める中央公論社創業80周年記念出版「日本の文学」が中央公論社から昭和39年2月5日、第1回配本されたが、全80巻の中に松本清張の名前は無かった。松本清張は処女短編「西郷札」を書いたのが41歳で遅い作家デビューだが、太宰治と同じ年で明治42年(1909)の生まれだ。大岡昇平(1909-1988)、長谷川四郎(1909-1987)、椎名麟三(1911-1973)、田村泰次郎(1911-1983)、武田泰淳(1912-1976)、田中英光(1913-1949)、杉浦明平(1913-2001)、木下順二(1914-2006)、深沢七郎(1914-1987)、梅崎春生(1915-1965)、野間宏(1915-1991)、小島信夫(1915-2006)、中村真一郎(1918-1997)、福永武彦(1918-1979)、安岡章太郎(1920生まれ)、遠藤周作(1923-1996)、吉行淳之介(1924-1994)、曽野綾子(1931生まれ)、阿川弘之(1920生まれ)、庄野潤三(1921生まれ)、井上光晴(1926-1992)、三島由紀夫(1925-1970)、北杜夫(1927生まれ)、なだいなだ(1929生まれ)、有吉佐和子(1931-1984)、石原慎太郎(1932生まれ)、開高健(1930-1989)、倉橋由美子(1935-2005)、大江健三郎(1935生まれ)、など全集には現代作家が多数収録されていた。つまり「日本の文学」に収録された最年少作家は大江健三郎と倉橋由美子だった。

   編集委員の顔ぶれを見ると、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンとなっている。谷崎・川端らはいずれも高齢で実際にどの程度選考にかかわったのか疑問である。伊藤は60歳代だったが病弱で昭和44年に亡くなっている。どうやら人選は若い三島とドナルド・キーンらが中心であったようにみえる。編集部では、人気作家の松本清張に一巻を与えたかったらしいが、一説によると、三島由紀夫が松本清張の作品を入れることに強く反対したとある。(橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』)。そして、この文学全集に入れてもらえなかった清張は、自分の文学が評価されなかったことに怒り、三島や中央公論社に対して長く恨みを抱いたという。だがこの「日本の文学」は、吉川英治、海音寺潮五郎、川口松太郎、江戸川乱歩、吉屋信子などの大衆作家は収録されていないのであるから、松本清張のような推理小説、歴史小説、ノンフィクションなど多様なジャンルの作家を入れるかどうかは論議のあったことは想像に難くない。昭和30年代の文学的状況として、三島由紀夫が松本清張を個人的に嫌ったという俗説よりも、松本清張を含めないほうが編集上の整合性からみて正統であったように思える。むしろ「死霊」の埴谷雄高(1909-1997)が無いのが不思議である。瀬戸内晴美(寂聴)は前年「夏の終り」で作家の地位を確立したと通常言われるが、文壇では未だ評価定まらずだったのだろうか。

秦始皇帝兵馬俑坑の謎

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    始皇帝陵(驪山陵)は陝西省の西安から北東へ約30㎞、臨潼区にある。紀元前247年、秦王政(後の始皇帝)は即位するとまもなく驪山陵の建設に着手し、以来その崩御ののちまで39年にわたって建設が続けられた。底辺約350㎞四方の封土を中心に、南北を長辺、東西を短辺とする長方形につくられている。この始皇帝陵の1.5㎞ほど東側で、1974年3月29日、近くの農民、楊志初が発見した。この地点は、驪山陵と近いことから、始皇帝のものと関係があるのでなかろうかと、県公署に報告された。文物事業管理局が調査したところ俑坑は全部で4つあり、武士俑が約8000体、馬俑が約6000体、馬車約100台、武器約4万点が発掘されている。20世紀最大の発見といわれる秦始皇帝兵馬俑坑である。1987年にはユネスコ世界文化遺産にも登録された。

   ところが近年、中国の学者の陳景元は、兵馬俑坑は秦始皇帝の陪葬品ではなく、恵文王の妻の宣太后の陵墓であるという説を主張している。司馬遷の『史記』にも、驪山陵に巨大な地下宮殿がつくられたという記載があるが、兵馬俑坑についての記載がないことに疑問を持つ学者は当初からいた。陳景元が兵馬俑坑が始皇帝の陪葬品でないとする理由は、①副葬坑としては位置が遠い、②青銅製の武器は始皇帝の時代のもにしては古すぎる、③軌道を統一したのに馬車の車軸がばらばらである。④始皇帝は黒を基調と定めたが、極彩色である、などを根拠としている。そして兵馬俑のまげが右側にずれていることから、楚の出身の宣太后であると推理している。ケペルには陳景元の新説が本当であるか、判断できる学識を持たない。ただこの新説は「アポロ11号の月面着陸はでっち上げ」という類のデマとは次元が異なる学術的な内容のものである。もちろん世界文化遺産にまで登録された中国の観光資源だけに、始皇帝のものだとする定説にゆるぎはなく、多くの学者たちは相手にしないトンデモ本扱いされるであろう。陳の説が本当だとしたら、秦恵文王から漢代の司馬遷の時代までに、何度か洪水があり、長い歳月のため、地中に眠る兵馬俑坑のことも人々から忘れさられ、『史記』に兵馬俑坑に関する記述がないことも納得できるような気がする。死後も皇帝として君臨することを夢見た始皇帝が、地下宮殿を護衛するために配属した近衛軍団が、実は始皇帝のものではなくて、一人の女性を護衛するものであったとすると、ますます古代中国の偉容は、現代のわれわれでは図りしれないほど巨大なものであることになる。

2008年12月20日 (土)

一厘事件

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    栃木県那須郡の葉タバコ耕作者が量目7分ほどを隠匿したところ、収税吏に訴えられた。一審は無罪。ところが検事が控訴、二審は被告に罰金10円を科し、今度は弁護団が上告、大審院長・横田秀雄(1863-1937)は「価格にして一厘の葉タバコを私的に消費したというような、ささいな反法行為は犯罪にならない」という判決を下した。世にいう「一厘裁判」である。(明治43年10月11日)

    この判例は、その法規が処罰を予想していない程度の軽微な違法行為は、一見その罰条に当たるようにみえるがそもそも犯罪構成要件に当たらない、との趣旨を示したものとして、可罰的違法性の理論のさきがけをなすものという観点から近時改めて見直されてきた。

  午前中、ブックオフへ行く。円屋榎英(まるやかえ)「恋は契約のあとで」、渋谷愛子、きたむらみほ「ドアのむこう」、萩原京子「最新冠婚葬祭とマナーの事典」、藤堂志津子「恋愛傑作選」、大和正樹「三四郎」、広岡球志「走れメロス、富嶽百景」、「日録20世紀1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 」

2008年12月17日 (水)

一発屋ではなかったアラジン・グレート高原

    今年のブームとして「おバカタレント」が上げられる。ケペルは民放のクイズ・バラエティ番組は見ないので何も知らなかったが、「クイズヘキサゴン」で珍回答をする若手タレントに人気が集った。羞恥心(上地雄輔、野久保直樹、つるの剛士)とPabo(木下優樹菜、里田まい、スザンヌ)がユニットを組み、さらに2つが結合したユニットを「アラジン」というそうだ。

   それにしても「アラジン」というグループは懐かしい名前である。「アラジン」といえば、昭和56年、「完全無欠のロックンローラー」がポプコンおよび世界歌謡祭でグランプリを受賞し、ヒットした。アラジンのボーカル・グレート高原(本名・高原茂仁)はシンガーソングライターだったが、奇妙な才能がうかがえた。楽曲は当時のツッパリブームを戯画化した風変わりなもので珍品に属するものだった。だがその後ヒットは続かず、アラジンは解散し、一発屋に終った。グレート高原は高原兄と改名して冨山で社長をしながら、地道な音楽活動を続けていたらしい。高原は羞恥心に「羞恥心」「泣かないで」「弱虫サンタ」などを作曲し、今年次々とヒットを連発した。高原はやはり才能豊かなビックでグレートな人だった。

2008年12月15日 (月)

中国の国学ブームに思う

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文化大革命のなか、批林批孔運動の壁新聞を読む市民たち

   孔子、老子の時代から現代まで4千年の歴史をもつ中国には脈々として流れている文化と思想がある。それはイデオロギーを超えた民族の深い英知の表現であり、人類の遺産である。儒教文化を中心とした中国の伝統的学問は、中国はもとより、朝鮮、日本にも古典として深く根付いている。

    だが中国の近代化への動きが始まる時、呉虞(1871-1949)や陳独秀(1880-1942)ら知識人は痛烈に儒教を攻撃した。魯迅(1881-1936)の文学作品にも孔子や儒教への批判が多く見られる。さらに記憶の新しいところでは、1964年から10年間におよぶ中国文化大革命のなかで、批林批孔運動が巻き起こった。しかし、それは長い歴史からいえば、結局は一時期の特殊な現象にすぎなかったと見ることができる。近年、中国では「国学」と呼ばれる古典回帰の現象が起こっている。書店では「論語」「孟子」などの古典思想・文学・史書がよく売れている。テレビ番組でも古典の講座に関心が高いという。国学ブームの背景は、大国化した中国が自国の伝統文化に自信を持ち始めたことの現われであろうと分析している。

   では、中国の古代聖賢の教えの到達点とは何であろうか。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉に言い表されるように、実はこの到達点「大我」に至る道は、凡俗にはかなりハードルが高い。

   孟子がいった。「人間はだれでも魚はおいしい、熊の掌もおいしい。しかし、その魚と熊の掌とを二つ兼ねることはできないとすれば、だれでも魚を捨てて、熊の掌をとるだろう」それと同様に、「生きたいというものも己れの希望であるが、さりとて人の道、人の義を実現したいのも人の欲望である。もしこの二つを兼ねることができないという場合には、生を捨てても義をとるだろう」といっている。その場合、生を捨てて、仁を成し、義を取る「大我」に至ることが中国の伝統的聖賢の教えなのである。

裁判員制度と陪審制

   いよいよ2009年5月21日から裁判員制度が始まる。制度そのものをあまり理解していないから、この記事には誤りがあるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。裁判員制度とは「現代用語の基礎知識2009」に「法律の専門家でない一般国民が刑事裁判に参加し、裁判官とともに審理を進め、評決によって判決の内容を決める制度」とあり、つまりいわゆる陪審制と解釈する。広辞苑には「陪審(ばいしん)一般市民から選定された陪審員が審判に参与して、事実の有無などにつき評決する裁判制度。わが国では、1923年の陪審法によって刑事事件に関する審理陪審が認められたが、1943年停止」とある。日本にも陪審制度があったとは知らなかった。ただし、戦前の陪審法では、陪審員の答申には拘束力がなく、法律の適用や量刑は裁判官が行ったので、実際は「参審」というもので、つまり「狭義の陪審制」である。有罪の場合、被告は多額の陪審費用を請求されたり、陪審制度を利用すると控訴が許されないなどから、次第に利用件数が減り、昭和3年から昭和18年までの15年間で、陪審裁判は484件、無罪率は16.7%と制度導入実績は低調で失敗だったといえる。

    今回の裁判員制度導入の経緯は詳しくは知らない。裁判の短期化、裁判コストの削減などにその理由をあげられるが、その導入には問題点が多いように感ずる。社会の関心が集るような重大事件に限って導入するような背景には、「凶悪犯罪のショー化」という一面が見られる。また裁判官よりも選任された裁判員のほうが、「社会常識」がある、というのもウソ臭い話である。おそらく一般国民はメディアがつくった倫理や情緒に左右されやす傾向にあるだろう。「凶悪犯に死刑判決を」と煽られて、スピード判決で、数年後に真犯人が現われて、実は冤罪だったという事例が起こりうる可能性が高い。もちろん選任された裁判員は個々の良心に従って、真剣に審理するだろうが、素人に人を裁くことがほんとうにできるのだろうか。

   陪審制の起源は、ゲルマンのフランク時代に、事件が起こったとき村人たちに宣誓をさせて犯人を指名させる慣行ができた。これがノルマン・コンクェストによって、イギリスに伝えられたといわれる。イギリスでは12世紀に、これが起訴陪審の原型を形づくることになった。起訴陪審とは、被告人を審判にまわすかどうかを陪審できめる制度である。はじめは、この起訴陪審で審判にまわされた被告人は、いわゆる神裁(くがたち)であかしを立てないかぎり有罪とされたが、13世紀に神裁が禁止されてのち、その同じ起訴陪審の人たちによって裁かれることになった。しかし、起訴した者が自分で裁判するのでは不公平のおそれがある。そこで、やがて裁判するときには、新しいメンバーを加えるようになり、さらにのちには、新しいメンバーだけで裁判するようになった。このようにして起訴陪審のほかに審判陪審ができた。前者は一般に大陪審といわれ、後者は小陪審といわれる。大陪審はうまく機能しないことが多いが、小陪審のほうは人権を保障するための制度として、世界で多く採用されている。日本の裁判員制度の性格は、被告の人権を保障するという点よりも、一般国民という法の素人によるリンチ刑という色彩が濃い。古代日本には、「盟神探湯(くがたち)」といって、真偽正邪を裁くのに神に誓って手で熱湯を探らせたことが知られているが、ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」や「くがたち」など古代の律法は苦痛を与えるというある種の拷問の性格をもっていたと考えられる。裁判員制度導入による厳罰主義で死刑が増えることによる見せしめ的効果を図り、凶悪犯罪を抑止することが本当の狙いなのだろうか。

   もちろん裁判員法では、「私刑(リンチ)」や「素人の暴走」にならないための配慮が加えられている。裁判員と裁判官とがそれぞれ最低1人ずつは有罪に賛成していなければ被告人を有罪にできない。例えば、裁判官3人が無罪、裁判員6人が有罪として場合には、多数意見は有罪だが、裁判官が1人も賛成していないので無罪となる。なお、裁判官と裁判員とで一票の価値に差はない。このような法文があること事体、「裁判員の暴走」という懸念があるという証左であろう。

2008年12月13日 (土)

自己実現

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   女性に「あなたにとって大事な人は誰ですか」とたずねたら何と答えるだろうか。両親と答える人もいれば、恋人、夫、あるいは子供という人もいるだろう。その大事な人のためなら、女の一生を捧げつくしても悔いなし、と本当に思っているだろうか。とくに最近は、高齢の両親の介護で人生を費やしている人も多いだろう。でも人には誰でも「自己実現の欲求」という強い心がある。それには一番大事な対象を、親や夫、子供たちではなく、自分自身にしてみることだ。自分にとってもっとも大事なのは「自分自身」なのだ。自分が幸福になることを最優先に考える。けっして他人のために犠牲になってはいけない。「女性の書斎」で、きっと自分だけの生き方のヒントがきっと見つかるはずです。

 櫻井秀勲「女が20代で後悔しない生きかた」、横森理香「35歳からの女道」、ジングル・マ「星願 あなたにもういちど」、M・ボンド「パディントンとどうぶつえん」、リチャード・P・エヴァンズ「クリスマス・ボックス」、ジミー「君のいる場所」、キャスリーン・メドウス「クリスマスの奇跡」購入。

伝説のセックスシンボル・ベティ・ペイジ

   第二次大戦中、米軍兵士たちに一番人気のあった女優はベティ・グレイブル(1916-1973)であった。その後、ジェーン・ラッセル(1921-  )やマリリン・モンロー(1926-1962)が登場して、いわゆるセックス・シンボルとして人気を集めた。モンローの全盛期にモンローに匹敵する人気があり、黒髪でボンデージやランジェリー、そしてキュートな笑顔で、裏マリリン・モンローと呼ばれたベティ・ペイジ(1923-2008)が85歳で亡くなったことが大きく報道されていた。ベティは7年間活躍したが、ある上院議員のポルノ追放キャンペーンのため、表舞台から姿を消した。しかし1978年頃からベティの再評価が起こり、近年ではメアリー・ハロンという女性監督によってグレッチェン・モル主演で伝記映画が製作され、その名前は再び世に知られるようになった。映画公開当時、日本でベティ・ペイジの写真を調査研究しようとしたところ、日本の公共図書館にはほとんどベティに関する資料を所蔵するところが無かった。マリリン・モンローの膨大な情報量に比べ、ベティに関する資料の少なさに日本の図書館の選書に疑問をいだいたものである。

   日本では、日活ロマンポルノの衰退以後、映画や図書に対する規制は社会的に強化される傾向にあるといえる。しかし性風俗に関する著作物の蒐集保存は、これまで軽視されがちであるが、公的な保存機関である図書館に期待することはほとんど不可能なため、個人的コレクションの対象としては「稀少性」と「再評価の気運がある」ことからも文化史的価値は高いものがある。江戸の浮世絵版画が高価なのと同じであろう。最近、ポルノなどを規制する法律を強化する動きがあるようだが、個人的に所有することまで規制することには、少なからず疑問をもっている。

    1950年代、マリリン・モンローは日本でもすごい人気であった。その出演作品の多くは話題となり、今日でもDVDで見ることができる。モンローのほかにもダイアナ・ドース、ジェーン・マンスフィールドなどお色気女優が映画界に現われた。だが、ピンナップ主体であるベティ・ペイジのことは日本の芸能雑誌で紹介されることはほとんどなかったであろうし、プレイボーイ日本語版は当時まだ無かったので知られることはなかっただろう。その頃、初期のプレイボーイ誌を輸入して購読していた日本人はどれくらいいるのだろうか。ベティ・ペイジよりもむしろエレン・ストラットン、リサ・ウィンターズ、リンネ・ナネット・アルストランド、マリリン・ワルツ、マーガレット・スコット、ジャッキー・レインボウ、アーリン・ハンター、マルゲリーテ・エムビー、アン・フレミングなど初期のプレイメイトの名前が残されている。

2008年12月11日 (木)

ユーラシア農耕史と比較文明学

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      ビジュアルワイド図説世界史 東京書籍

 ユーラシアは、オリエント、ヨーロッパ、インド、チベット、モンゴル、中国、日本など諸文明が興出した人類史最大の舞台である。それは砂漠や草原が温帯・熱帯の森林に至るまで多様な風土で構成されている。中尾佐助などの研究によると、ユーラシアにおける農耕文化の発生地と伝播は図のように、地中海農耕文化、サヴァンナ農耕文化、根栽農耕文化などに区分される。

   戦後新設された世界史では、これまでの西欧中心主義を超えて、地球上のさまざまな文明の相対的価値を平等に認め、それを比較文化史的な立場からみていこうとする文明史観が現われた。トインビーは、「歴史の研究」(1924-1961)において21個(後に23個に修正)の文明社会を認め、それらがいずれも発生、成長、挫折、解体の四段階を経るものとしている。東京大学の伊東俊太郎(1930年生まれ)は、トインビーなどの研究をもとに、比較文明学の立場から17の基本文明圏を提唱している。(「都市と古代文明の成立」講談社、昭和49年刊)。そして人類史の時代区分を、人類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命の五つの転換点を考えることによって、地球上のあらゆる文明を比較史的な視点からグローバルにみなおす新しい世界史観をさぐってきた。もちろんこれは伊東の独創ではなく、カール・ヤスパース(1883-1969)などの人類史区分を参考にしているのであろう。ヤスパースは「歴史の起源と目標」(1949年)の中で、枢軸時代という概念を提出している。しかしながら伊東の独創的アイデアも随所にみられ、科学史と比較文明を結びつけた研究業績は精読すべき価値があると考える。

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古畑鑑定と科学捜査の信頼性

    化学や血液鑑定などの科学的な方法で犯罪捜査をすることを科学捜査という。我が国では東京大学教授の古畑種基(1891-1975)が法医学の草分けとして知られ、かって「古畑鑑定」には絶対的な信頼性が存在した。しかし古畑の死後、弘前事件、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件などについて、古畑鑑定はことごとく間違っていたことが明らかとなった。東大の権威と科学的という信頼性に基づく鑑定であったが、今日では専門家から多数の疑義が上がり、一部には捏造も指摘されているという。

    帝銀事件について化学屋さんから興味ある新刊書のご紹介のコメントをいただいたが、残念ながら未読で申し訳なく思っている。ただし、戦後の一時期、警察の捜査は犯人をでっち上げるためには証拠の捏造などは平気でやったことは事実であろう。そして帝銀事件にも関与している古畑鑑定というのは、つねに警察よりのものであったことは言うまでもない。文化勲章を受章した東大名誉教授であるが、無実の冤罪者の苦しみを知らずに死んだエリートの人生もまた悲しいものを感じる。

石原莞爾とライカ

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   「カメラには二種類ある。すなわちライカとライカ以外のカメラだ」

   ライカは1913年にドイツのエルンスト・ライツ社の映画撮影機の設計技師オスカー・バルナック(1879-1936)が制作した映画撮影時の露出を決める試し撮り用カメラ「ウイル・ライカ」を原型とする小型カメラ。1925年4月、35ミリのフィルムを使用する小型カメラ「ライカⅠ(A)型」が発売されたが、ドイツでもまだ誰も見向きもしないカメラだった。

   ナポレオン1世とフリードリッヒ大王の研究のためドイツに留学していた陸軍軍人・石原莞爾(1889-1949)は、帰国間近になったこの年の8月、行きつけの写真店フォト・ザクセンに立ち寄った。そこでライカを見つけた。石原は、一目でこの新型カメラが気に入った。だが店員は「お求めになるのは見合わせた方がいいですよ。このカメラは距離計を売るために作られたもので、大したものではありません」という。それでも石原は購入した。帰国して石原が持ち込んだカメラが日本でのライカ第1号だった。

2008年12月 9日 (火)

土足厳禁

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   今では図書館に入館するときスリッパに履き替えるところは公共図書館ではほとんど見かけなくなったと思われるが(現実には小さな図書館にはまだあるらしい)、いわゆる土足厳禁は昭和戦前期はまだ一般的なスタイルであった。では西洋式の靴履きのままで入館が可能にした最初の図書館はどこか、というと手元にある二、三冊の書物を調べてみたが見当たらなかった。

    土足入店ということなら商売だけにデパートが早かった。通説では、大正12年の関東大震災後、銀座松坂屋が土足での入店を可能にしたところ、繁昌したので、他店も追随したことが土足入店の始まりとされる。また一説によると銀座の三越が11月に改装オープンして全館土足入店にしたといわれる。だがそれより以前に、白木屋(現在の東急百貨店)は大正12年5月15日から神戸出張所で土足入店を始めたとあるし、大丸ではそれよりもずっと前の大正5年5月15日に下足番をなくして、履物のまま入店できるようにした、というデパート各社の競い合いの歴史があるので、なかなか最初を決めることは難しい。

  このブログは一応は図書館系ブログとなっているので、話を図書館の土足入館にもどすと、アメリカ留学から帰国した毛利宮彦(1886-1956)は大正5年、6年ころ、早稲田大学の図書館の新館建設設計に当たっていたが、その図書館はおそらく床をアスファルトにして全館土足入館を考えていたであろうと推測する。毛利宮彦の計画自体は中止され、まぼろしとなったが、日本最初の土足入館の図書館はおそらくいずれかの大学図書館ではないだろうか。

2008年12月 8日 (月)

仁科芳雄と石原純

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アインシュタイン来日の記念写真/アインシュタイン夫妻を中心に、穂積陳重、岡野敬次郎、長岡半太郎、北里柴三郎などがみえる

    益川敏英、小林誠、南部陽一郎(欠席)の3人がスウェーデンのストックホルムで10日、ノーベル物理学賞を受ける。朝日新聞朝刊によると、日本理論物理学の源流は仁科芳雄(1879-1955)にあるという。仁科は昭和6年春に京大で量子力学の特別講義をした。聴衆の中には20代の湯川秀樹と朝永振一郎がいた。湯川の精神は坂田昌一、益川敏英、小林誠らに受け継がれる。一方、朝永のもとには、東大の木庭二郎、西島和彦、山口嘉夫らが学んだ。その系譜は南部陽一郎、小柴昌俊、戸塚洋二に受け継がれる。また阪大の菊池正士の流れは熊谷寛夫、西川哲治に受け継がれている。

   だが日本の物理学ブームの発端はアインシュタイン(1879-1955)来日にある。大正11年、改造社の招待でアインシュタインは日本を訪れた。日本への航海中、船上でノーベル賞の受賞の知らせを受け、このことは日本にも伝えられ、アインシュタインの各地での講演は大盛況となった。11月19日、慶大講堂での「特殊および一般相対性理論について」の講演を皮切りに、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡など会場は聴衆で溢れた。ちなみに、通訳は石原純(1881-1947)がつとめたが、難解な理論をだれにも理解できる言葉で伝える、見事な通訳だった。前年、原阿佐緒との恋愛事件で失職していた石原の学者人生は総じて不遇だったといえるが、日本の理論物理学の発展に影で支えていた。

2008年12月 6日 (土)

吉野作造と中沢臨川

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   吉野作造記念館(宮城県古川市)に「サイン入りのうちわ」が所蔵されている。吉野作造(1878-1933)の友人である文芸評論家・中沢臨川(1878-1920)は大正9年8月9日に41才の若さで結核により亡くなったが、吉野ら友人たちが翌年の一周忌に集ってサインしたものである。

   中沢臨川は長野県伊那郡南方村(現・中川村)で生まれ、第二高等学校を経て東京帝国大学工科を卒業した異色の文芸評論家である。中沢と吉野とは大正4年結成された大学普及会という、大学の社会化を目的とする国民教育運動で共に活動した。うちはには、同じく大学普及会で活躍し、戦後初代最高裁判所長官となった三淵忠彦(1880-1950)、中沢の松本中学時代の一級下で詩人の吉江喬松(吉江孤雁1872-1950)、龍土会で交流した田山花袋(1871-1930)、島崎藤村(1872-1943)の名前が見える。中沢は大正期論壇ではトルストイやニーチェの紹介など新理想主義者として活躍し、自然主義文学にも好意的な立場をとった。

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                       中沢臨川

2008年12月 2日 (火)

描かれた花、ゴッホとルドン

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             ゴッホ   花瓶の赤いグラジオラス 1886

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            ゴッホ      ケシとヒナギクとバラ  1886

    ゴッホ(1853-1890)といえば、ひまわりを思い浮かべるかもしれないが、花の静物画はいろいろな種類の花を描いている。カーネーション、バラ、グラジオラス、ヒナギク、ケシ、夾竹桃、シネラリア、アスター、フロックス、サルビア、ライラック、百日草、ゼラニウム、ビスカリア、コリウス、菊、芍薬、アイリス、桃など花の王国オランダの画家らしく多彩な花々を描いている。

    花の画家としてはルドン(1840-1916)も一連の花瓶に挿した鮮烈な色彩の花を数多く描いた画家として知られるが、それは50歳を過ぎてからのことである。

    「花」という共通のモチーフで表現される、多様で個性的な美の世界を観賞するのも楽しいものである。

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   ルドン  野の花  1912年 オルセー美術館

重要性を増すインド洋

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   「西欧の没落」のオスヴァルト・シュペングラー(18880-1936)は、「エジプトはなにひとつ忘れることができなかった。だが、インドはいっさいを忘れた」と記している。

    エジプト、中国、インドは古代文明の栄えた地域であるが、エジプト・中国が自国の歴史を語ることを好んだのに対して、インドはほとんどまとまった歴史・記録を残さなかった。インド亜大陸は中国と共に世界の大国であることは言うまでもないが、インドは海洋国家でもある。北のヒマラヤを除けば、東、西、南の三方は海に囲まれている。いま、世界はインド洋時代に入りつつあると考える。19世紀までは大西洋の周囲が世界史の主要舞台であり、20世紀は太平洋が主要舞台に加わったが、21世紀はインド洋に注目が集っている。海上自衛隊のインド洋の補給活動も、インド洋におけるテロリスト及び関連物資の海上移動の阻止、抑止を目的として行なわれている。11月26日、インド西部の商都ムンバイの中心部で発生した同時多発テロ事件は、イスラム過激派による「テロの脅威」が拡散している現実を改めて浮き彫りにした。その撲滅のため国際社会の一致した長期にわたる取り組みが必要である。

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