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2008年12月23日 (火)

昭和30年代の松本清張の文学的位置

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       松本清張と司馬遼太郎 昭和47年5月

    昭和33年、松本清張(1909-1992)の「点と線」「眼の壁」などが空前のベストセラーとなったとき、売れる作品に対して純文学と大衆文学との中間に位置する「中間小説」という言葉が流行した。これに反発して清張は「文学には純文学と通俗文学の二つしかない」と言ったという。当時、文芸評論家の間ではまだ純文学だけが文学であり、大衆小説は評価の対象とはなっていなかった。ただ伊藤整は「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功した」と松本文学を高く評価した。しかし、その伊藤整が編集委員を務める中央公論社創業80周年記念出版「日本の文学」が中央公論社から昭和39年2月5日、第1回配本されたが、全80巻の中に松本清張の名前は無かった。松本清張は処女短編「西郷札」を書いたのが41歳で遅い作家デビューだが、太宰治と同じ年で明治42年(1909)の生まれだ。大岡昇平(1909-1988)、長谷川四郎(1909-1987)、椎名麟三(1911-1973)、田村泰次郎(1911-1983)、武田泰淳(1912-1976)、田中英光(1913-1949)、杉浦明平(1913-2001)、木下順二(1914-2006)、深沢七郎(1914-1987)、梅崎春生(1915-1965)、野間宏(1915-1991)、小島信夫(1915-2006)、中村真一郎(1918-1997)、福永武彦(1918-1979)、安岡章太郎(1920生まれ)、遠藤周作(1923-1996)、吉行淳之介(1924-1994)、曽野綾子(1931生まれ)、阿川弘之(1920生まれ)、庄野潤三(1921生まれ)、井上光晴(1926-1992)、三島由紀夫(1925-1970)、北杜夫(1927生まれ)、なだいなだ(1929生まれ)、有吉佐和子(1931-1984)、石原慎太郎(1932生まれ)、開高健(1930-1989)、倉橋由美子(1935-2005)、大江健三郎(1935生まれ)、など全集には現代作家が多数収録されていた。つまり「日本の文学」に収録された最年少作家は大江健三郎と倉橋由美子だった。

   編集委員の顔ぶれを見ると、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンとなっている。谷崎・川端らはいずれも高齢で実際にどの程度選考にかかわったのか疑問である。伊藤は60歳代だったが病弱で昭和44年に亡くなっている。どうやら人選は若い三島とドナルド・キーンらが中心であったようにみえる。編集部では、人気作家の松本清張に一巻を与えたかったらしいが、一説によると、三島由紀夫が松本清張の作品を入れることに強く反対したとある。(橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』)。そして、この文学全集に入れてもらえなかった清張は、自分の文学が評価されなかったことに怒り、三島や中央公論社に対して長く恨みを抱いたという。だがこの「日本の文学」は、吉川英治、海音寺潮五郎、川口松太郎、江戸川乱歩、吉屋信子などの大衆作家は収録されていないのであるから、松本清張のような推理小説、歴史小説、ノンフィクションなど多様なジャンルの作家を入れるかどうかは論議のあったことは想像に難くない。昭和30年代の文学的状況として、三島由紀夫が松本清張を個人的に嫌ったという俗説よりも、松本清張を含めないほうが編集上の整合性からみて正統であったように思える。むしろ「死霊」の埴谷雄高(1909-1997)が無いのが不思議である。瀬戸内晴美(寂聴)は前年「夏の終り」で作家の地位を確立したと通常言われるが、文壇では未だ評価定まらずだったのだろうか。

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