徳山璉と波岡惣一郎
「ヒゲの徳さん」 徳山璉
テノール歌手秋川雅史が平成18年の「紅白歌合戦」で「千の風になって」を歌って俄かにクラシック系歌手が大衆にも注目されるようになった。男性歌手がシングルチャートで第一位となるのはクラシック系では初の快挙であった。ただし、これはオリコンという調査ができてからのことであり、戦前の大衆歌謡といえば、むしろクラシック系歌手が大勢を占めていた。佐藤千夜子、徳山璉、四家文子、中村淑子、長門美保、増永丈夫(藤山一郎)、波岡惣一郎、滝田菊江、東海林太郎などなど。
徳山璉(1903-1942)は東京音楽学校を出て武蔵野音楽学校で教えたり、ベートーベンの「第九交響曲」のバリトンを歌ったり、「侍ニッポン」「ルンペン節」「歩くうた」「かんかん蟲は唄う」「悲しきジンタ」「夜の酒場に」「ブン大将」などのヒット曲を飛ばす。「♪トントントンカラリンと隣組」という国民歌謡「隣組」は一代の人気歌手徳山璉の最後のヒット曲となった。
昭和17年に徳山が38歳の若さで亡くなっため、波岡惣一郎(1910-1951)がビクターのトップ歌手となった。昭和20年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」のトップバッターは紅組の小夜福子「小雨の丘」、白組の波岡惣一郎「春雨小唄」である。
戦前・戦後を通じてレコード歌手があまた現われたが、徳山璉ほどの豪快で幅の広い歌手は他にいない。三省堂の「コンサイス日本人名事典」に徳山璉が収録されていないのは残念である。岩波書店の「広辞苑」でも物故者を追加して収録いるが、徳山のような偉大な歌手を再評価してもいいのではないだろうか。徳山抹殺の背景にはクラシック界における歌謡曲を歌うことへの嫌悪や戦時軍歌への抵抗感があったのだろうが、これも戦後の呪縛の一つかもしれない。
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