最澄と山林修行
比叡山延暦寺根本中堂の内庭
伝教大師最澄(767-822)は、近江国滋賀郡古市郷の人。俗姓を三津首広野(みつのおびとひろの)という。12歳で出家し、14歳で得度して最澄と号した。19歳で東大寺の戒壇で具足戒をうけた。しかし、彼が奈良において眼のあたりに見たものは、内容の伴わない外形の盛儀と、寺院僧侶の腐敗堕落ぶりとであった。延暦4年、叡山に入り、草庵を結んで教学の研究に没頭し、発菩提心の願文をしたためた。延暦13年に鎮護国家の道場として根本中堂(一乗止観院)を建てた。
平安時代の仏教の主流は、比叡山延暦寺や空海の高野山金剛峰寺を中心に展開された。人里は離れた山林は、その静寂さのなかで僧尼が神経を集中させ、時には苛酷な自然条件を絶え忍んで苦行を行なう修行の場として最適の条件を備えており、また中央権勢に接近して名利を得んとすることを拒むという利点があった。だが最澄を山林に導いたものは、奈良時代以来の山林修行の伝統であったと考えられる。たとえば天平6年、唐から来朝した道璿(どうせん、699-757)は、鑑真に先立って戒律を伝えた三論宗の高僧だが、天平勝宝3年、朝廷の優遇を嫌って吉野の比叡山に隠居し、持戒修禅につとめたという。最澄の師主、行表(722-797)は、この道璿の弟子であった。
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