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2008年11月29日 (土)

枕草子・冬はつとめて

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冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし、昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。

(口訳)冬は早朝があわれふかい。雪の降っているときの面白さはいうまでもない。霜などがたいへん白く、またそうでなくても、非常に寒い朝、火などをいそいでおこして、炭火を持ってゆくなど、冬の情感にぴったりである。もっとも、昼になって、寒さがやわらいでくると、火鉢の火も白く、灰がちになっている、などというのは、つまらないけど。

    「枕草子」という名称が今日もっとも流布しているが、そのはじめは、はっきりした題名がなかった。中古文学の権威である田中重太郎(1917-1987)などはその著書のほとんどは「枕草子」ではなくて「枕冊子」と題している。

枕草子参考文献:北村季吟「枕草子春曙抄」、武藤元信「枕草子通釈」「清少納言枕草子別記」、金子元臣「枕草子評釈」、関根正直「枕草子集註」、小西甚一「通訳枕草子新釈」、井上慎二「清少納言伝記攷」(畝傍書房)「枕草子」(研究社)、池田亀鑑「枕草子に関する論考」(目黒書店)、田中重太郎「清少納言枕冊子の研究」(1947)、「新講枕冊子」(むさし書房)、「校本枕冊子」(古典文庫)、「枕冊子本文の研究」(初音書房)、「枕草子評解」、「清少納言枕冊子研究」(笠間書院)、「枕冊子全注釈」全5巻(角川書店)、「校注枕冊子」(笠間書院)、伴久美「枕草子要解」。

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

2008年11月25日 (火)

天地はどのようにしてつくられたか

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    子どものために書かれた聖書物語には、山室静「児童世界文学全集24 聖書物語」(偕成社)、小出正吾「世界児童文学全集15 聖書物語」(あかね書房)、高津春樹他訳「少年少女新世界文学全集1 聖書物語」(講談社)、坪田譲治「子ども聖書」(実業之日本社)、犬養道子編「少年少女世界の文学5 聖書物語」(河出書房)、ヴァン・ルーン「聖書物語」などがある。なかでも山室静「聖書物語」は偕成社文庫にもあり、最も入手しやすい書物である。一度ゆっくりと読んでみたい。

    ところで山室静は北欧文学や神話を主とした研究家として知られるが、聖書をギリシア神話やローマ神話と同じように神話として考えておられるようだ。つまり本書を読むかぎりクリスチャンではないようにおもわれる。ケペルも天地創造の話など今日そのままの形では通用しないので「聖書は神話」と認識しているが、ファンダメンリストの考えのクリスチャンやエホバの証人の方からは、高踏批評だと批判されたことがある。やはり聖書は神の霊感を受けて書かれたものですべて真実のこととして受けとめられるかどうかが、クリスチャンと関心のある人との差なのかもしれない。

    午前中、ブック・オフへ行く。 山室静「聖書物語」、益子昌一「指先の花」、銀色夏生「夕方らせん」「ミタカくんと私」、安野モヨコ「美人画報」、ドロシー・バトラー「子ども・本・家族」、ブリジット・バルドー「怒りと絶望」、「ちくま文学の森5 おかしい話」、さのようこ「だってだってのおばあさん」、しみずみちを「はじめてのおるすばん」、ギョウ・フジカワ「えいごであそぼう」、「日録20世紀1931,32,33,34,35,36,37,38」

2008年11月23日 (日)

石の民間信仰

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                   滝尾神社の子種石

    日本では石に神霊がこもるという信仰は、古来から顕著なものである。現在でも民間信仰で石を依代としている神々が多い。出産の時の産神、塞の神、エビス神など多数あり、氏神の中にも石を神体とするものがある。大きな神社の中には御神体は石であると伝えられてきたものがある。石は単に神の依代として神聖視されるばかりでなく、石そのものも霊異あるものと信ぜられ、小さな石が急に大きくなったり、子生石といって石がわれて子石を生み出す伝説が語られている。

   日光ニ荒山神社の別院で女峯山の女神である田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る滝尾神社の奥の境内には、「子種石」と名付けられた大きな岩がある。子宝安産の石として知られ、無数の小石が積まれている。

    巨石への信仰は古代からイギリス、フランスはじめ、インド、中国、朝鮮にも巨石記念物として多数見られる。とくに朝鮮では支石墓をコインドルと呼ばれ、その数は最も多い。

    巨石への信仰とは別に小石を積み重ねる積石、小石を並べる置石の習俗も世界各地でみられる。神社の鳥居の上ある小石など日本では一般的である。また山頂とか登山道の傍らなどに小石が積み上げられていることがある。もともとはアイルランド語でケルン(cairn)といい、本来は「石に築いた塚」という意味であったが、近代の登山の普及によって山頂標識、登頂記念、あるいは登降路を示すためにつくられる積み石をさすようになった。映画「シンドラーのリスト」では、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼の墓前に小さな石を積み上げていた場面がある。ユダヤ人にとっても石は不変不滅の象徴で石を積むという行為は、信仰や希望と深く結びついている。

三峡ダム

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    湖北省宣昌市の三峡ダムは1994年11月8日着工し、2009年には第三期工事も完了し、竣工する予定である。完成すれば、1820万kwの発電が可能な世界最大の水力発電ダムとなる。

   午前、ブックオフへ。「雄大な三峡ダムプロジェクト」(黄河水利出版社)、キャサリン・エリソン「なぜ女は出産すると賢くなるのか」、山岡有美「10歳若く見える姿勢としぐさ」、倉田真由美「ラブラブ中」購入。

ポリアンナの幸せゲーム

    ポリアンナは、孤児だがどんなことでも喜びにかえてしまう明るい性格の11歳の少女である。そして周りの人々にも幸せを感じる心、喜ぶ気持ちを広めていく。

  ある日、ハリントン家のお手伝いのナンシーはポリアンナに訊ねた。「ねぇ、おじょうさま。なぜそんなに喜んでばかりいるのですか」

「あらね、それはゲームだからよ」

「えっ、ゲームですって」

「そう、しあわせゲームなの。おとうさまが教えてくれたの」

「まあ、どんなゲームなんですか」

「とてもかんたんよ。だってね、うれしいことをさがしだせばいいの。そう、このゲームをはじめたのは、足の不自由な人が使う松葉づえが、あたしのところに届いたときからよ」

    ポリアンナは、そのときのことを思い出すように、ゆっくりと話をはじめた。

「あたし、そのころお人形がとてもほしかった。それで、お人形をくださいって手紙を書いて、教会の本部へ送ったのよ。そしたら、いま、杖しかないので、杖を送ります、って返事がきて、杖が送られてきたの。それで、あたし、泣きだしたわ。すると、おとうさまが、ポリアンナ、杖をもらって喜ばなくちゃいけないよ、っていうの」

「まあ、どうして、杖をもらって、喜ぶんですか」

ナンシーがあきれ顔で、ポリアンナをみつめた。

「あたしも、はじめはわからなかったわ。そこで考えていると、おとうさまが、杖を使わなくてすむからうれしいだろ、っていったの」

「へぇ、変な考え方ですね」

「いいえ、ちっともへんじゃないわ」

ポリアンナは言った。

「すばらしいことなの。だって、どんなことからだって、うれしいことがみつけだせることがわかったんですもの。うれしいことが見つけだせたときは、とっても幸せな気持ちになることがわかったんですもの」

2008年11月22日 (土)

関帝廟の祭神・周倉

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  関帝廟では、主神の関羽を正面に、その左には子の関平が荊州の牧の印を捧げ、右には部将の周倉が関羽愛用の青竜偃月刀(大薙刀)を捧げて侍立しているのが普通である。これは三人が荊州敗戦のときともに死んだことに講談や小説、芝居でなっているからだ。正史の「三国志」では、関羽は呉の孫権に荊州の臨沮で捕らえられ、子の関平とともに斬られたことになっている。しかし、もう一人の周倉のことは何も書かれていない。それどころか、「三国志」のどこを見ても周倉という人物の名はない。つまり周倉は「三国志演義」に取り入れられて定着し、ついには実在の関羽親子とともに神にまで祭り上げられた、架空の人物なのである。

   「三国志演義」による彼の経歴は次のようなものである。関西の出身。もと黄巾の賊張宝配下の大将。臥牛山で山賊をしていたところ、崇拝する関羽に出会って部下にしてもらう。腕力が強く、胸板厚く、髯がはね上がり、見るからに強そうな男。以来、関羽のボディーガードとして身辺につかえ、関羽が殺されたとき、付近の支城にいてこれを聞き、自ら首をはねて殉死、ともに亡霊となる。

隋唐時代の洛陽

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                         白馬寺

  大唐の都といえば、すぐに長安を思い浮かべるが、陪都洛陽のことは資料もすくなくてあまり歴史書には書かれていない。しかし、則天武后は洛陽がたいへんお気に入りで始終ここに入り浸っていたので一時期は洛陽が首都のようなぐあいであった。現在の洛陽市周辺から唐三彩が伴出する墓葬が多い。

    そもそも洛陽が中国の歴史に現われるのは周代・洛邑からであるが、もちろんその位置は隋唐代の洛陽とは大きく異なる。後漢の都であり、三国の魏、西晋とそれを受け継いだが、493年に北魏の孝文帝が都を大同から洛陽に遷都した。次の隋の煬帝は605年に漢魏以来の洛陽城の西10キロのところに、まったく新しい都市計画によって9キロ四方の都市を建設した。運河はすべて洛陽を中心として計画され、天下の物資はみなここに集められた。町の中には豊都市、通遠市、大同市という三つの市場をおき、とくに豊都市には西域の商人を誘致して、そこを外国貿易の中心とした。

    世界遺産ともなっている龍門石窟や中国仏教の発祥地・白馬寺は古都洛陽観光の人気スポットになっている。

2008年11月21日 (金)

ソロモンと野のユリ

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   ドバイの超高級ホテル「アトランティス・ザ・パーム」のオープニング・セレモニーが20日に行なわれた。その名の通り椰子の木をかたどった人工の島パーム・ジュメイラに建てられた世界一の豪華ホテルで、最上階にあるスイートルームは1泊250万円の部屋があるという。

   だが贅沢をしたいと思うのは人間のあさはかで哀れな欲望かもしれない。「マタイの福音書」に次の有名な一節がある。

「野のユリは、いかに育つかを思へ。労せず、紡かざるなり。されど、われ汝らに告ぐ、ソロモンの栄華だに、この花の一つにも如かざりき」

   人間の手にする最高の繁栄、贅沢も、ただ1本の野の花の美しさに及ばない。

2008年11月19日 (水)

神の言葉によって道を照らす

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       茨城キリスト教学園 サンタ・キアラ館

あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。

             (詩篇119-105)

  足のともしびは、すぐそばにある危険を明らかにし、通り道の光は前方を照らします。神の言葉は、生涯を通じてわたしたちが安全に歩めるよう導くことができます。

2008年11月18日 (火)

イカケの語源

    夫婦づれで仲よく散歩しているのを「イカケ」というようになったのは、江戸時代のすえ、文化年間に大坂の市中を「土瓶のイカケイカケ」と呼びながら、鍋、釜、鉄器などの修繕をして歩いた老夫婦があった。これが目立って睦まじかったので噂の種となり、それから仲のよい夫婦づれのことをイカケと洒落て呼ぶようになった。この評判を耳にした名優三代目中村歌右衛門が「これは面白い」というので文政7年3月に大阪角の芝居で上演し、みずからイカケ屋の親爺に扮し、お婆さんの顔を描いたウチワをもって、夫婦連れの睦まじい所作を踊って大喝采を博した。そしてイカケ屋の老夫婦へは自分が舞台でつかったおなじ揃いの単衣をあたえたので宣伝効果は百パーセントであったという。(参考:日置昌一「ことばの事典」)

2008年11月17日 (月)

沈魚落雁

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    「忘れじの午後8時13分」の川上康子

    「広辞苑」によると、沈魚落雁(ちんぎょらくがん)とは、「(荘子に、人間が見て美しい人でも魚や鳥はこれを恐れて逃げるとあるのを、後世、魚や鳥も恥じらってかくれる意に転用して)美人の容貌のすぐれてあでやかなこと」をいうようになった。

    例えば、「情婦の一笑は千金以上だ。花もしぼみ、月も隠れ、魚も沈み、雁も落ちるような美女は、もたれなくても心を奪われるものだ」という。羞花閉月、閉月羞花、羞月閉花、閉花羞月も、美女の形容に用いる。

    ところで「花も恥らうような女性」といえば、女優でいえば誰であるのか、なかなか思い浮かばない。山本富士子のようなゴージャスな感じよりも、折原啓子、宮城野由美子、川上康子のような清楚な感じの女性をイメージする。当世風であれば、「イノセント・ラヴ」の堀北真希だろうか。

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                     宮城野由美子

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                       折原啓子

スカーレット・オハラの対象喪失

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    喉の渇きが水によって満たされるように、愛情は愛する者の存在によって満たされる。対象喪失とは、欲求を満たす対象が突然目の前から消えてしまうことによって起こるストレスである。家族の死や離散は最も強いストレスをもたらす対象喪失であるが、そのほかにも、資産の喪失や定年退職などによる職場の喪失などもストレスをもたらす。1969年、イギリスのパークスが、54歳以上で配偶者を失った夫または妻が、配偶者の死去から6ヵ月以内に死亡する死亡率は、同じ年代の対照群の人びとに比べて40%も高い、その原因を調べたところ、原因の4分の3は心臓病、とくに心筋梗塞であった。

   愛する人を失い、悲嘆のうちに病いの床について死んでゆく。このことは古くから周知の事実ではあったが、医学的認識が実証されたのは、1970年代になってからである。ストレスとなる出来事は、別表のように、配偶者の死、離婚、配偶者との別れ、拘禁、家族の死、怪我や病気、結婚、退職、昇進、引退、失恋、進学、転校など多数の環境の変化が人に精神的ストレスをもたらす。

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    ここでは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの例で考えてみる。スカーレットは、恋人アシュレーが、メラニーと結婚してしまうことで、外的対象喪失をおこす。そしてこの悲しみに打ち勝つためにスカーレットは、軽率な結婚を繰り返すが、アシュレーへの思慕の情はつのるばかりである。やがてアシュレーの妻メラニーの死によって、アシュレーを自分のものにできる期待に一瞬胸をおどらすが、亡き妻を慕って悲しむアシュレーを見て、スカーレットは心から絶望する。つまりスカーレットの心に内的な対象喪失(ある種の幻滅感)がおこったのである。(参考:小此木啓吾「対象喪失」)

ああ、拝啓カアチャン俺は行く

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                  大東亜の共栄双六

    ある新聞に若い女性教師の投書が載った。新しく赴任した小学校のそばに自衛隊の演習場があった。戦車が走り、迷彩服の隊員が見え隠れする。教育の場にはふさわしくないと感じた彼女は「子どもに戦車なんて見せたくない」と率直な感想を書いて話題となった。だが戦後60年が経過すると、実際には国民の多くは自衛隊容認派が増えてきているという。海外派遣や人道支援、阪神大震災をはじめ災害のたびに派遣される自衛隊の活躍も影響しているかもしれない。

  今回の田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」が政府の見解(村山談話)と異なる内容であることで大きな問題となったが、国民に自衛隊そのものの印象がどのように変わったのかという正確な調査やデータはまだ知らない。だがブログなどを読むと田母神の堂々とした発言態度から、すべての国民は日本のことを真剣に考えていかねばならないと感じた人が大勢いるということだけは明らかである。

    「正しい歴史認識を持とう」という論議であるが、歴史学者と一般庶民とでは歴史認識には違いがあるのを感じる。マスコミもミスリードしているように見える。戦後から10年、20年経過したころは、まだ軍隊経験者が多かったので、生々しい記録や問題意識のあるものが多く生れた。野間宏「真空地帯」や大岡昇平「俘虜記」「レイテ戦記」、テレビドラマ「私は貝になりたい」など多数の作品があろう。だがこのような文芸作品よりも、一般大衆はもっと軍隊コメデイを娯楽として楽しんでいた観がある。梁取三義の「二等兵物語」や棟田博「拝啓、天皇陛下様」「拝啓カアチャン様」、前谷惟光「ロボット三等兵」など挙げてみても、映画、テレビ、漫画などの世界では軍隊生活を揶揄した喜劇調のものが多い。つまり被害者意識はあっても、アジア諸国への加害者意識は希薄なところがあった。家永教科書裁判(1965-1997)あたりから、日本の戦争責任が自省されるようになってきたといえる。

   子どもたちの学習で平和教育というのがある。残虐な場面を見せ、多くの人々が戦争で死んだことを教え、戦前の日本は悪いことをしたという気持ちを持たせるだけで終ることがおおい。こういった教育で育った戦争を知らない世代は、田母神論文問題の報道記事を読めば「許せない」の大合唱をする。このような表面だけしかみない平和主義者たちが確実に増えてきたが、彼らは自分たちの偏狭な正義感に満足しているだけではないだろうか。もっと戦前社会を理解させる教育が必要である。

   ようやくPDFで田母神論文を読んだが、読後感は爽快であった。「国益を損なう」とか「日本がおかれている国際的政治的状況を考えろ」とか識者の批判はあるだろうが、ケペルとしてはそこまで考慮できる立場の人間ではないので、むしろ自衛隊のトップとしては当然の意見のように感じる。冒頭でアメリカ軍の駐留のこともふれており、短い文章の中に必要なことが要領よく盛り込まれている。愛国者ならではの憂国の至誠が自然に感ぜられる。いかにも軍人らしい文章もみられるが、それが即クーデーターに直結するようには感じられない。誇りある日本人として言うべきことを堂々と書いたまでであろう。

2008年11月16日 (日)

えっ!本当?女性が望む結婚条件って三高から三低へ

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  1980年代末のバブル全盛期に「三高」という言葉が流行った。「高学歴」、「高収入」、「高身長」の男性を結婚相手の条件に望むことである。このブームのためにケペルの婚期はずいぶんと遅れた。いま「現代用語の基礎知識2009」を購入して拾い読みすると、「三低」という言葉があるそうだ。今年の流行語ではなく、数年前から現われている言葉かもしれないが、ケペルは知らなかった。「低姿勢」、「低リスク」、「低依存」、つまり腰の低いこと、公務員のようなリスクの低い安定した職業に就く男性、束縛しない男性を意味する。働く女性が一般的になったこと、経済的にも共働きが必要になってきたことなど、時代の反映であろうか。医師やIT長者のヒルズ族がモテまくるという噂は聞かなくなった、音楽プロデュサーの小室哲哉は究極の三高の男性だったが、10億円の資産があっというまに女性たちにむしりとられたことなどを考えると、いま時代は急激に変わっているのかもしれない。

最澄と山林修行

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          比叡山延暦寺根本中堂の内庭

 

    伝教大師最澄(767-822)は、近江国滋賀郡古市郷の人。俗姓を三津首広野(みつのおびとひろの)という。12歳で出家し、14歳で得度して最澄と号した。19歳で東大寺の戒壇で具足戒をうけた。しかし、彼が奈良において眼のあたりに見たものは、内容の伴わない外形の盛儀と、寺院僧侶の腐敗堕落ぶりとであった。延暦4年、叡山に入り、草庵を結んで教学の研究に没頭し、発菩提心の願文をしたためた。延暦13年に鎮護国家の道場として根本中堂(一乗止観院)を建てた。

    平安時代の仏教の主流は、比叡山延暦寺や空海の高野山金剛峰寺を中心に展開された。人里は離れた山林は、その静寂さのなかで僧尼が神経を集中させ、時には苛酷な自然条件を絶え忍んで苦行を行なう修行の場として最適の条件を備えており、また中央権勢に接近して名利を得んとすることを拒むという利点があった。だが最澄を山林に導いたものは、奈良時代以来の山林修行の伝統であったと考えられる。たとえば天平6年、唐から来朝した道璿(どうせん、699-757)は、鑑真に先立って戒律を伝えた三論宗の高僧だが、天平勝宝3年、朝廷の優遇を嫌って吉野の比叡山に隠居し、持戒修禅につとめたという。最澄の師主、行表(722-797)は、この道璿の弟子であった。

 

 

2008年11月15日 (土)

平泉澄「少年日本史」

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   海軍少尉  黒木博司

   ケペルは少年時代、歴史物語が好きで中村孝也(1885-1970)の本を愛読していた。友人にはだいぶん非難されたが、ケペルはいまも好きで大切に所蔵している。しかし平泉澄(1895-1984)の「少年日本史」(時事通信社)は少し難解だったので読むことができなかった。大人になった今でも読むには骨が折れる。しかし南北朝の時代など流石に詳しくて参考になるところが多い。つまり、中村孝也や平泉澄は戦後も子供向けの歴史書を執筆し、かなりの影響力を与えていたのである。

    ただ残念ながらケペルの読書力では「少年日本史」を読破できなかったので、最終章「大東亜戦争」を読まずに終った。いま拾い読みして驚いた。なんと特攻の兵器である人間魚雷回天の話で締めくくっている。黒木博司(1921-1944)は回天の創案者だが、平泉澄の教え子だという。やはり皇国史観の歴史家にとって、憂国の至誠の教え子の死が強烈なものであったのだろう。もちろん後の世代の者たちが、偏狭な国家主義、危険思想、軍国主義者、クーデターが起こる、などといくらでも批判することはたやすいことである。だがその時代を生きた個人の真摯な声に耳を傾けることも必要だ。何故かウィキペディアの黒木博司の項目は詳細である。伝記も多数出版されている。黒木が指を切って血書した幕末の志士・佐久良東雄(1811-1860)の歌が「少年日本史」の末尾に掲載されている。

   皇(きみ)の為 命死すべき 武夫(もののふ)と なりてぞ生きる 験(しるし)ありける

   佐久良東雄は、桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士をかくまったとして囚われ、「徳川の粟を食わず」と獄中で絶食死した志士・歌人で戦時中は広く知られていた。

2008年11月14日 (金)

戦後育ちの歴史認識

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    最近「KY」は「空気よめない」の意味ではなくて、「漢字読めない」の略語だという。これは麻生太郎が漢字を読み間違える例が相次いでいるからだ。「未曾有」を「みぞうゆう」、「頻繁」を「はんざつ」と誤読した。最もひどいのは「村山談話を踏襲します」を「ふしゅう」と読んだことである。空幕長論文問題で政府の姿勢が問われる重要問題だけに、この件では支援していた流石の朝日新聞もズツコケたであろう。政治家の歴史認識がどの程度のものであるか疑わしいが、すくなくとも日本語の基礎である漢字くらいは勉強してほしいものである。

    先日、「ごろ寝の人」さんからうれしいコメントをいただいた。やはり同世代の人とはどこかで共感できるものがあるのだろう。少年誌が空前の戦記ブーム、プラモデルも全盛だった。九里一平「大空の誓い」、小沢さとる「サブマリン707」、ちばてつや「紫電改のタカ」、吉田達夫「少年忍者部隊月光」、辻なおき「〇戦はやと」、園田光慶「あかつき戦闘隊」など。さらに詳しく知りたくなって「丸」を読んだりしていた。また小学館の「ホーイズライフ」は子供心にもカッコイイ雑誌だった。ところで、麻生太郎(昭和15年生)や鳩山由紀夫(昭和22年生)はどうやら良家育ちで漫画好きというが、昭和30年代の戦記ブームで育ったようには思われない。唐沢の論文に「田母神のどこが悪いんだ」というブログが多いことを指摘していたが、いま50代に「侵略戦争ではなかった」という考えを持つ人が多い背景には、おそらく昭和37年から40年までの少年誌の戦記ブームやアニメ「決断」で育った影響力が強いためだと考えている。村山談話の踏襲がたとえ政府の基本方針だとしても、子供のころに読んだ少年誌の影響のほうがはるかに大きいのだ。だが政治家一家で育った御曹司たちはそのような単純なものではなく、一般国民とはかけ離れた感覚の持ち主であるので、彼らの歴史認識はとても理解できかねる。

空幕長論文問題とトンデモ本

    朝日新聞2008.11.13付「私の視点」で空幕長論文問題で三人の識者、北岡伸一、唐沢俊一、志方俊之の論説が掲載されている。なかでも唐沢俊一の「陰謀論にはまる危うさ」が図書館員としては気にかかる。肩書きによれば唐沢は「と学会」会員であるという。「世の中には荒唐無稽な主張を展開するトンデモ本があれている。私は、トンデモ本を研究すると学会会員として、数多くのトンデモ本を読んできたが、田母神論文にはトンデモ陰謀論の典型的なパターンが表れているように感じる」と書き出しの8行を引用すれば、論文の趣旨はだいたいおわかりいただけると思う。このブログでも「孝明天皇は毒殺だった」「明治天皇は替え玉だ」「広開土王は仁徳天皇だ」などドンデモ論を過去記事にしている。歴史の世界でいえば、江上波夫の騎馬民族征服説は学校の授業ではトンデモ論として扱われてきたが、ケペルはかなり信憑性の高い学説だといまでも考えている。結論的にいえば、唐沢俊一の意見には全く反対である。「トンデモ本」の定義自体あいまいであるが、擬似科学だけでなく、最近では皇国史観の本やそれなりにマジメに書かれた本などもさすようである。だが「トンデモ本」というふざけたネーミングで、ラベリングすること自体問題であり、言論の自由を損なうものである。図書館の世界ではよく知られ事件であるが、船橋市立西図書館で女性司書が個人の判断で特定の図書107冊を廃棄して問題となった。特定の図書とは西部邁の本が36冊、渡部昇一の本が22冊である。いわゆる扶桑社の新しい歴史教科書をつくる会とか自由主義史観研究会、藤岡信勝、産経新聞社、日本文芸社、ワック、二見書房など一般によく流通している近現代史の歴史読物の類である。自分の家の蔵書の中からこれらの本を何十冊さがすことも容易である。ブックオフ100円で売られているからだろう。藤岡信勝「教科書が教えない歴史」、「渡部昇一の昭和史」など中味は田母神論文と共通している。ところで船橋の女性司書が何故これらの特定の本を除籍したのか、詳しい動機はわからないが、おそらく唐沢のいう「トンデモ本」であるという認識があったのだと考える。図書館の世界では「図書館の自由宣言」というのがあって、読者の自由を保証するという社会的使命が最も重要だとされている。したがって、「トンデモ本」となどいうラベリングで廃棄することこそ、とんでもないことである。また朝日新聞が言論の自由を否定するかのような論説を連日掲載していることも社会的に害悪を与えている。第ニ、第三の船橋の司書が出現しないともかぎらない。ケペルは一応は大学の史学科卒業で実証主義的な論文を書くことを教えられた。だが、その高名な実証主義的な教授が海外留学をした経験では「緻密な資料の考証の上にたって歴史研究をされ人もいるだろうが、ライターといって軽い読物をリライトして読みやすい歴史を書くこともあっていい」と教えてくれた。ブログはまさにその世界である。大雑把なようにみえても短文が案外と真をついていることのほうが多いのが歴史叙述である。

新薬ペニシリン

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  森永三島工場でペニシリンを培養

   第二次大戦中、戦死した兵士の直接の原因は銃弾によるものよりも、負傷による破傷風などの細菌感染で命を落とすことのほうが多かった。そのため、細菌を殺すことのできる新薬の研究が急務であった。現在、広く治療に用いられる抗生物質ペニシリンは、イギリスの細菌学者フレミングによって発見された。1940年になってアメリカで抽出法があみだされ、1943年から大量生産が始まったが、当時はペニシリンは高価で入手しにくい薬だった。

    韓国ドラマ「クッキ」(1999年)は戦後のお菓子職人クッキの波瀾万丈の人生を描いたドラマであるが、前半部分に「ペニシリン」の話が登場する。韓国独立運動の闘士ヨンジェ(クッキの父)とチェ・ミングォンが日本軍の病院からペニシリンを得る場面がある。当時の日本軍はペニシリンを瓶の中で培養できるため、牛乳プラントの設備で転用できた。昭和19年12月に、日本初のペニシリンの製造が森永三島工場で開始された。ペニシリンは敵国語であるため「碧素(へきそ)」と呼ばれた。チェ・ミングォンが奪ったペニシリンは、おそらく森永製薬の碧素だったのだろう。

2008年11月13日 (木)

木魚の割れ目で思い出す

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ローマの奴隷市場 ジャン=レオン・ジェローム画 1884年

   最近、街で見かける若い娘さんのぴったりとしたズボン姿に目のやり場に困る思いをされる男性もさぞかしおられることだろう。たとえば階段やエスカレーターなどで女性のお尻が目の前にくることもある。小心者のケペルはドキドキの通勤タイムである。「浮世を忘れた坊主でさえも木魚の割れ目で思い出す」という唄があるが、洗濯する女の白い脛に惑わされた久米の仙人の話や、旧約聖書のダビデ王がバテシバの入浴姿に欲心を生じた話など古来枚挙にいとまない。明治の教育家・狩野亨吉(1865~1942)は、死後、蔵書の中から多数の浮世絵、春画、芸妓などの資料が出てきた。生涯独身であった彼だが、学術的資料収集のためであるのか性的好奇心であるのはわからないが、女性への関心はいつの世も不滅であることを知らされる話である。

   本日の夕刊によると、女性のお尻を携帯電話のカメラで撮影したことに対して「下品でみだらな行為」として条例で禁ずる「みだらな言動」にあたる逆転有罪が確定した。これに対して、のぞき見などの行為とは質的に異なるとして卑猥との印象は抱けない、という反対意見もあったようだ。なにが「卑猥」であるかの一定のガイドラインが明らかではない。このように裁判官の判断も分かれるし、とくに性的犯罪に対しては個人個人の感情に左右されやすいものである。裁判員制度導入などでこの種の案件があれば司法判定にブレが生ずるかもしれない。スカートの中を盗撮したとか、トイレを撮影したとか明らかな犯罪行為であるが、今回の判決で、ズボン姿の1~3メートルの距離からの無断撮影が有罪となったことで、現代の男性には自分の弱い心と打ち勝たなければならない日々が続きそうだ。ケペルは携帯電話も持っていないが、とにかく女性のお尻にはご用心を!

長塚節と黒田てる子

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    ブログ記事「長塚節、愛と死を見つめて」(2007.6.25)の文中、黒田てる子の没年を誤記したために、いろいろご迷惑をかけたようです。正しくは、昭和37年7月24日没で、享年72歳です。出典は、石川義雄「長塚節と神田(下)」(日本古書通信第46巻第11号、昭和56年11月15日)、8~9頁です。長塚節の関係文献は多くても、黒田てる子の晩年を記述した文献はそうそう見当たらない。石川は黒田てる子の令息石田詮に面会し取材しています。黒田てる子の日記の最終頁に「亡き影に叫びて冷し夏木立」の一句がポツンと書き残されており、「それがいかにも意味シンである」と書いている。

晩年の母は、ある意味ではすべての責任を果し、亡父(石田貞一郎への義務感からも解放されていたようで、長塚氏にいだいた母の慕情がどのようであったか、また長塚氏がそれにどのように応えていたか判るような気がします。

   石田詮は晩年のてる子についてこのように語ったという。それにしても長塚節とてる子の愛の物語は美しい。

2008年11月11日 (火)

木枯らしの舗道

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  「秋深き隣は何をする人ぞ」 (芭蕉)

  秋もこう深まってくると物悲しくなります。朝夕の冷え込みも厳しく、エアコンの暖房を初めて入れました。深まる秋には自分にとってのお気に入りの一曲を聞くのが一番です。天地真理は軽やかなポップなヒット曲が多いですね。例えば「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「虹をわたって」「恋する夏の日」です。でもちょっぴり切ない感じの曲もなかなかいいです。「水色の恋」「若葉のささやき」「想い出のセレナーデ」。この季節に聞くなら、「木枯らしの舗道」が深まりゆく秋のムードにぴったりします。

 街の舗道に木枯らし吹きぬける

 さよならを言いましょう 次の角で

 いつか月日が 流れていったなら

 すばらしい青春と 思うでしょう

 山のぼり 魚つり いろんなことを

 教えてくれた あなた

 そんなことするだけで しあわせだった

 帰らない あの頃が とてもいとしい

貴族階級はいつも無定見である

    麻生首相が国会で、戦争責任に関する政府見解で「村山談話をふしゅう?する」という答弁を何度も繰り返した。「ふしゅう」とは「踏襲(とうしゅう)」の誤読だという。麻生はこれまでも、前場(ぜんば)を「まえば」、有無(うむ)を「ゆうむ」、詳細(しょうさい)を「ようさい」と誤読している。漫画が好きで漢字が苦手というのは分からぬでもないが、「村山談話を踏襲する」が正しく読めないようでは、本人がどこまで戦争責任を感じているか疑問である。かつて「小説の神様」とまで讃えられた志賀直哉は戦時中に「シンガポール陥落」という短文で時局に迎合する文章を書いたが、戦後はすぐに変節して、「国語問題」という一文を「改造」に載せている。「私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考えている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う。六十年前に森有礼が考えた事を今こそ実現してはどんなものであろう。不徹底な改革よりもこれは間違いない事である」と平気で言っている。麻生にしても志賀にしても貴族社会で育った人は現実離れしている。体制が変われば言説を変えることは平気である。

2008年11月 8日 (土)

徳山璉と波岡惣一郎

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         「ヒゲの徳さん」  徳山璉

    テノール歌手秋川雅史が平成18年の「紅白歌合戦」で「千の風になって」を歌って俄かにクラシック系歌手が大衆にも注目されるようになった。男性歌手がシングルチャートで第一位となるのはクラシック系では初の快挙であった。ただし、これはオリコンという調査ができてからのことであり、戦前の大衆歌謡といえば、むしろクラシック系歌手が大勢を占めていた。佐藤千夜子、徳山璉、四家文子、中村淑子、長門美保、増永丈夫(藤山一郎)、波岡惣一郎、滝田菊江、東海林太郎などなど。

   徳山璉(1903-1942)は東京音楽学校を出て武蔵野音楽学校で教えたり、ベートーベンの「第九交響曲」のバリトンを歌ったり、「侍ニッポン」「ルンペン節」「歩くうた」「かんかん蟲は唄う」「悲しきジンタ」「夜の酒場に」「ブン大将」などのヒット曲を飛ばす。「♪トントントンカラリンと隣組」という国民歌謡「隣組」は一代の人気歌手徳山璉の最後のヒット曲となった。

    昭和17年に徳山が38歳の若さで亡くなっため、波岡惣一郎(1910-1951)がビクターのトップ歌手となった。昭和20年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」のトップバッターは紅組の小夜福子「小雨の丘」、白組の波岡惣一郎「春雨小唄」である。

    戦前・戦後を通じてレコード歌手があまた現われたが、徳山璉ほどの豪快で幅の広い歌手は他にいない。三省堂の「コンサイス日本人名事典」に徳山璉が収録されていないのは残念である。岩波書店の「広辞苑」でも物故者を追加して収録いるが、徳山のような偉大な歌手を再評価してもいいのではないだろうか。徳山抹殺の背景にはクラシック界における歌謡曲を歌うことへの嫌悪や戦時軍歌への抵抗感があったのだろうが、これも戦後の呪縛の一つかもしれない。

2008年11月 5日 (水)

三国志ブーム

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   ブックオフへ買出しに行く。「三国志英雄伝」、三宮麻由子「鳥が教えてくれた空」「そっと耳を澄ませば」、松本清張「史観・宰相論」、「忍たま乱太郎へんてこなにんじゃの段」、「ふしぎな国のアリス」、「わんわん物語」、「古い住まいを美しくするインテリアテクニック」、「ミッケ6」、ピーター・コリントン「聖なる夜に」、「日録20世紀1939,40,41,42,44」購入。最近、アニメ劇場版三部作「三国志」(1992)を観る。勝間田具治監督。声優陣が豪華。横山光輝のアニメ版とも違った趣きがある。

歌笑と痴楽

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    ケペルは落語はほとんど聴かないが、子供の頃、好きだった落語家が一人いる。柳亭痴楽(1921-1991)だ。顔をくしゃくしゃにして、節を付けて話す。「柳亭痴楽はイイ男。鶴田浩二や錦之助、それよりずっとイイ男。上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃、外回り」と美文調が子供にはとても新鮮だった。有名な「痴楽綴り方教室」は、実は三遊亭歌笑(1917-1950)の「純情詩集」「歌笑綴り方教室」の影響によるものらしい。「七つ八つで帯解けて、十九二十は器量よし、世の移り変わりと共に怪異な容貌とはなりぬ…」とある。「怪異な容貌」とは、歌笑は強度の斜視で、エラの張った四角い顔だったからである。痴楽が「柳亭痴楽はイイ男」「破壊し尽された顔の持ち主」と顔をネタにするのも歌笑の影響によるものである。

    歌笑は、昭和25年5月30日、大宅壮一との対談を終え、銀座松坂屋前の電車通りを横断中、疾走してきたアメリカ軍のジープにはねられ死亡した。32歳の若さだった。翌日の新聞には小さい記事で掲載されていた。終戦直後の暗い世相を明るくした戦後最大の爆笑王の扱いとしてはひっそりしたものであったのは、加害者が占領軍の兵士であったためだろう。結局、ひき逃げ犯人はうやむやになったままであった。

2008年11月 3日 (月)

女性専用って、男性差別?

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   最近のニュースで「女性専用車両に反対する会」が、新宿駅で警察官ともみ合いになったと聞いた。会の活動は女性専用車両に乗り込んだり、反対の署名活動などである。平成13年以降、首都圏、関西圏で女性専用車両の導入は広がっていった。女性が安心して乗車することを目的としたものであるが、今年ころからネット上では女性専用車両は男性差別ではないかという指摘がかなりみられるようになった。この種の動きは、鉄道だけではなく、平成18年にJR函館駅構内に女性専用のパスタ店ができ、マスコミに取り上げられて物議をかもしてから、女性専用とする各種の店にも悪影響を及ぼしかねない情勢である。ケペルは女性専用の店がいけないとは思わない。大阪ミナミにこの秋、女性専用のネット・カフェがオープンしている。一万冊の少女コミックや骨盤矯正マシンやスチーム式美顔器などを備えている。カフェ難民のイメージを一新し、女性客の取り込みを図る動きも出ている。サービス業として女性専用とし重点的に行なうことは健全な営業活動だと思う。女性専用車両に関しては公共交通機関なのでいろいろ論議の余地はあるだろうが。

   では女性専用の図書館ってあるのだろうか。日本では唯一、「お茶の水図書館」がある。主婦の友社の創業者である石川武美(1887-1961)が昭和23年11月28日、「女性・生活・実用」をテーマに私立の女性専用図書館を開館し、現在も存続している。入館料は300円するが、保存雑誌のタイトル数は充実している。

2008年11月 1日 (土)

人馬は進む麦畑

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    航空幕僚長・田母神俊雄の「日本は侵略国家であったか」という論文が不適切であるとして、浜田靖一防衛相は田母神を更迭する、ということが朝から話題になっている。田母神論文を読んではいないが、新聞で要旨を見る限り、田母神が自衛隊の制服組としては至極、当然の意見のように思える。とくに「自衛隊は集団的自衛権も行使できない」「武器の使用も制約が多い」「攻撃的兵器の保有も禁止されている」「がんじがらめで身動きできない」という意見は、昭和53年の栗栖発言を思いだす。栗栖弘臣は「現行の自衛隊法では、奇襲侵略を受けた場合、内閣総理大臣による防衛出動が発令されるまでに時間的ズレがあることを指摘し、自衛隊が超法規的に行動せざるをえない」として物議をかもした。文民統制(政治が原則的に軍事に優先する)の観点から田母神と同様に更迭された。栗栖発言から30年も経過したが、「他国から侵略攻撃されたらどうするか」という防衛上の問題はそのままで、その後も何人もの人の更迭劇が繰り返されている。今回の論文では、過去の歴史認識での問題であるが、「我流史観」「極端発言」「事実を曲げた空想小説」という朝日新聞の誇張表現のオンパレードが冷静さを欠いているように感ずる。過去の歴史の評価や判断は事実の検証の仕方や立場などによって異なるのは当然のことである。たとえ政府の公式見解と異なる個人的意見をトップが持っていたとしても、即更迭ではなく、政府部内でもっと議論を交えるシステムがあってもいいのではないかと思う。もし仮に、ケペル一個人が「我が国は侵略戦争であったというのはぬれぎぬ」という主張してはいけないのだろうか。大東亜戦争肯定論を主張するといけないのだろうか。朝日新聞の論説委員と同じ考えや政府見解を国民すべてが共有しないといけないのだろうか。過去の戦争論議をタブー視にしたり、戦後の呪縛にとらわれることのほうが恐ろしい気がする。

 

    徐州 徐州と人馬は進む

    徐州居いよいか 住みよいか

    洒落た文句に 振り返えりゃ

    お国訛りの おけさ節

    ひげがほほえむ 麦畠

   東海林太郎の「麦と兵隊」が口からでてくる。昭和12年の盧溝橋事件をきっかけに泥沼の日中戦争がはじまった。その年の南京占領で、国民政府は首都を南京から重慶に移した。日本軍は進撃を続け、昭和13年10月までに徐州、広東、武漢三鎮を占領した。昭和15年3月、蒋介石と対立していた汪兆銘を助け、傀儡の南京政府を樹立した。西安事件の後、国民政府軍と共産党軍は統一戦線をつくり、各地で日本軍に抵抗した。国民政府は米英仏から物質的な援助をとりつづけ、共産党軍はソ連を指導者とするコミンテルンの全面的な支援のもとに戦っていた。日本の軍事的行動を支持する国際勢力はなく、あるとすればドイツのヒトラー政権のみであった。軍事的には広大な中国大陸を全面的に支配することなど土台むりな話である。にっちもさっちも行かなくなり、自ら招いたこととはいえ深い泥沼にはまっていった。このような歴史を語るとき、もしかりに「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」とか、「日本の安全のための戦いであり、侵略ではなかった」と発言すれば、朝日新聞をはじめとするマスコミは一斉に非難し、更迭や辞任に追い込まれるだろう。つまり「侵略戦争だった」といっておけば身の安全は保障される。現行の教科書では「侵略戦争」と明記されているだろうが、自ら歴史を綿密に検討することなく、「侵略戦争だった」ということが、ある種の処世術となっている世の風潮に義憤を感ずる。むしろ日本人の誇りをもって発言した田母神に清々しさを感じる。

 

 

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