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2008年10月26日 (日)

真理探究の精神

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  「人生において最も有害な錯覚は、肉体的な生活が一時間ごとに死に近づきつつあることだ、ということの忘却である」と、トルストイは言っている。われわれは、やがて死ななければならないもの。人の命ははかないもの。今日は元気だとて、誰が明日を保証できよう。人生も晩年になるとなおさら、孔子の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の語が、切実な意味を持ったものとして受け入れられよう。数ある孔子の言葉の中でも真理探究の精神の厳しさを示した言葉として、白眉である。一句に漂う一種の潔さが人をひきつけるのであろう。

    漢の夏候勝は、黄覇とともにある事件に連座して獄に送られた。その獄中でのこと、黄覇が「私は書経を読みたいと思う。なにとぞ講義していただきた」と夏候勝に申し出た。夏候勝は「いずれわれわれは刑死する身ではないか、今さら書経の勉強でもあるまいに」といって断った。すると黄覇はいった。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と。夏候勝は黄覇の言い分を「賢なり」として、書経を読み始めたという。

    京の町を引き回しにされた石田三成が、途中でのどがかわいたといって一杯の白湯を所望したという逸話があるが、案外、夏候勝と黄覇のこの話あたりが種かもしれない。

    なお、「道」の解釈については、魏の何晏ら古注は「正しい政道」とあるが、南宋の朱熹の新注では「事物当然の理」とあり、求道への情熱の吐露と解している。

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