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2008年10月30日 (木)

今年、引退する有名人

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   シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子(36)が引退会見を開いた。高橋尚子に限らず今年は何故か大物の引退宣言が目立つ。野球界では、桑田真澄、野茂英雄、清原和博、体操の鹿島丈博、陸上の朝原宣治、柔道の井上康生、サッカーの森島寛晃、レスリングの伊調馨・伊調千春などなど多彩な顔ぶれである。スポーツ選手は肉体的な限界もあるので、ある程度予測されることだが、この人の動向が今年一番騒がせたであろう。小泉純一郎の政界引退である。

    芸能界では、自然と消えていくケースが多いが、石田未来は20歳で「自分探しをします」と引退宣言した。グラビアアイドルの小向美奈子(23)と共に惜しまれる引退であろう。

   海外では「アンダーカヴァー」のホアキン・フェニックスが34歳の若さで俳優業を引退し、音楽活動に専念するという。ホアキンはリヴァー・フェニックス(1970-1993)の弟であり、2度のアカデミー助演男優賞にノミネートされた演技派である。

    ところで石田未来は、「いしだみく」と読む。「未来」という名を使う芸能人は多いが、「みらい」「みく」「みき」など読みが異なる。こういう場合、普通に「未来(みらい)」と読ませたほうが売れる可能性が高い。志田未来は「しだみらい」と読み、「14歳の母」「正義の味方」と好調だ。山本未來(やまもとみらい)、上野未来(うえのみく)、森山未来(もりやまみらい)、羽生未来(はにゅうみく)などがいる。

   このように、自ら表舞台を去っていく人もあれば、今年、有名人になった人もある。エドはるみ、山本モナ、スザンヌ、はるな愛、鳥居みゆき、木下優樹菜、DAIGO、上地雄輔などテレビはまた新しい有名人を生んでいる。最近の売れっ子の傾向として「おばかキャラ」が好まれる。ただし男性の場合、ルックスも重要視されるようだ。とくに「セレブと貧乏太郎」の上地雄輔は今いちばん旬な芸能人で将来性もありそうだ。

オードリー・ヘプバーンの離婚

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「戦争と平和」のため乗馬の訓練をするオードリー・ヘプバーン

   ケペルが映画雑誌を講読しはじめたころは、オードリー・ヘプバーンとメル・ファーラーは、おしどり夫婦として知られていた。昭和42年の二人の離婚は雑誌で大きく取り上げられた。ところが、すでに「映画の友」昭和30年7月号に「もろもろアルファベット帖」欄に次の記事がある。

【わからないもの】オードリー・ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚継続年数。ビング・クロスビーの毛髪。ジョン・ウェインのラテン系女好き。ジョン・クロフォードの年齢。アラン・ラッドの貯金高(新潟・石崎敬輔)

   むかしの雑誌には読者の投稿にもなかなか味のある記事が多い。「映画の友」を購読している層は若い人からかなりの年輩層まで幅が広かったようである。当時から、年輩の眼から見て、オードリーの結婚には疑問視していたファンもあったようだ。メル・ファーラー(1917-2008)は今年の6月2日、満90歳で亡くなった。才能豊かではあったが、女性関係は派手で、生涯に5度結婚している。オードリーは4番目の妻で、結局14年間も続いた。いまでは女性のお手本としてオードリー・ヘプバーンは伝説化されてしまったが、パラマウント時代のオードリーは、プリンセスのような気品であらゆる男性をとろけさせる魅力をもったアイドル女優だった。オードリーの結婚はウブで世間知らずで結婚願望の強い若い女性が、中年のプレイボーイの手に落ちたという感じがあって、メル・ファーラーへのやっかみは相当にアメリカでも強かったようだ。ブロードウェイの舞台「オンディーヌ」、「戦争と平和」、「緑の館」とオードリーと共演したときは順調であったが、離婚後のメル・ファーラーが十分な活躍できなかったのは、そのためではないだろうか。

オードリーとの離婚は、メルの女性関係が原因であると最近の雑誌にはある。相手はスペインの少女スターだったマリソルともフランスのカトリーヌ・ドヌーヴとも言われている。(「スクリーン2009.3」102頁)

2008年10月27日 (月)

生きものの記録

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    むかし「終着駅」(千家和也作詞)、「甘い生活」(山上路夫作詞)、「草原の輝き」(安井かずみ作詞)、「芽ばえ」(千家和也作詞) 、「バス・ストップ」(千家和也作詞)など歌謡曲の題名を洋画から借用すると何故かよくヒットした。城みちるの「イルカにのった少年」(杉さとみ作詞)も、ソフィア・ローレン、アラン・ラッドの「島の女」の主題歌「イルカに乗った少年」ではないか、と思っていたが、ある番組で城みちる自らが映画のパクリだったことを白状していた。

    これらは確信犯的なパクリだが、むかしは知らないで過去の作品と同じ題名になることもしばしばあった。黒澤明(1910-1998)の「生きものの記録」(昭和30)という映画も、題名が丸岡明(1907-1968)の小説「生きものの記録」と同一であることが制作段階で作家からの抗議で判明した。問題の小説は昭和10年に「三田文学」に発表され、芥川賞候補にもなり、翌年、沙羅書店から刊行されている純文学の名作である。大分、物議を醸したようだが、結局は示談となって、そのまま映画は公開された。

    ストーリーは、町工場の経営者、中島喜一(三船敏郎)は原水爆の実験に脅威を感じ、この地球上で安全な場所は南アメリカだと考える。しかし周囲の人々は彼の心配を理解せず、彼はついに発狂して、工場に放火していまう。当時35歳の三船が70歳の工場長をフケで熱演したが、興行的には失敗だった。半世紀のち、「生きものの記録」で検索すると、丸岡明には申し訳ないが、いまでは後発の映画作品のほうが有名になってしまったのも皮肉な話である。

下流にいて汚濁にまみれてはいけない

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    隋の煬帝はせっかく中国を統一しながら、たちまちにして崩壊した。だが、一王朝の歴史は次の朝代に書かれるので、書き手は自己正当化のために前代の失政を誇張する傾向がある。煬帝は運河の開削など功績は図り知れないが、暴君として天下の汚名をすべて背負わされる。

   隋の煬帝や殷の紂王を持ち出すのは大げさといわれるかもしれないが、現代のネット社会では、セレブのちょっとの発言から批判が噴出することがある。来年3月開催されるWBC監督問題がそうである。星野仙一は熱血漢とパフォーマンスでここ数年、星野ファンに支持されて絶大な人気者であった。だが奢りと高ぶりにご用心。北京五輪での「星野ジャパン」の惨敗とその後の言動で、OBや一部野球ファンからも星野批判が続出した。そこへスーパースター・イチローの「WBCは北京五輪のリベンジの場ではない」という発言が一石を投じる形となった。WBC体制検討会議は形のうえでは星野へ要請を決めたものの、星野の固辞で監督人事はさらに混迷を深めた。本日、開催された第2回会議で原辰徳に就任要請をすることが決まったが、今回の一連の騒動はこれまでの星野仙一の栄光を汚してしまったようだ。「下流に居ることを悪む」というのは、それほどの悪事を働いたわけでもないのに、騒ぎが大きくなって、天下(野球界全体の諸問題)の汚濁をすべて星野個人に背負わしてしまったことだ。星野の放言や言動に対してこれまで心よく思わぬ人が多くいることがその背景にあろうが、星野批判には過剰な面があるようにみえる。「敗軍の将、兵を語らず」というが、スポーツマンの多弁が禍の元凶である。若大将・原辰徳にはスポーツマンらしくさわやかな采配を期待したい。

2008年10月26日 (日)

ジェニーの肖像

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    貧しい画家のエブン・アダムス(ジョゼフ・コットン)は、ある日、偶然ひとりの少女と出会う。ジェニー(ジェニファー・ジョーンズ)といって不思議な魅力の持ち主だった。ほんの短い時間ではあったが、それは印象的な出会いで、風景画家だった彼を少女のスケッチへと向かわせる何かがあった。しばらくして、運命とも言うべき力が二人を再会に導くが、驚いた事にジェニーは、わずかな間に少女から大人へと成長を遂げていた。エブンは不思議に思うが、二人の間に強く運命を感じ、ジェニーの肖像画を描くようになる。ドイツ出身の表現主義の映画監督ウィリアム・ディターレ(1893-1972)が愛と幻想に満ちたストーリーをファンタジックに描く「ジェニーの肖像」(1948)はアカデミー特撮効果賞、ベネチア映画祭主演男優賞を受賞している。なお、ジョセフ・コットン&ジェニファー・ジョーンズの共演作品には、このほか「君去りぬ後」(1944)、「ラヴレター」(1945)がある。原作はロバート・ネイサン(1894-1958)

紅一点と紺一点

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「結婚期」(昭和29年)左から木匠久美子・岡田茉莉子・有馬稲子・浜田百合子・杉葉子・鶴田浩二

   「男性のなかにいる一人の女性」という意味で「紅一点」という語は、日常的にもしばしば使われる言葉であろう。これは宋の王安石が詠んだ「石榴の詩」のなかに、「万緑叢中に紅一点あり」(青葉の中に一輪の赤い花が咲いている)とあり、「唯一異彩を放つもの」から、転じて、多くの男性の中にただ一人女性がいることを「紅一点」というようになった。

   反対に多くの女性の中に男性が一人いる状態を表わす言葉は無いものだろうか。調べると、最近、「紺一点」(こんいってん)という言葉が使われだしているようだ。しかし、またまだ使用度、認知度も低く、「広辞苑」に収録されるほどには至っていない。

    映画、ドラマなどで新人スターを売り出す方法として「紅一点」「紺一点」は、昔から行なわれてきた。最近のドラマ「流星の絆」(戸田恵梨香、二宮和也、錦戸亮)や「花より男子」(井上真央、松本潤、小栗旬、松田翔太)でもみられるし、オードリー・ヘプバーンの「麗しのサブリナ」もハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンとの共演もそうである。紺一点では、アラン・ドロンの「お嬢さん、お手やわらかに」(ミレーヌ・ドモンジョ、ジャクリーヌ・ササール、パスカル・プティ)やイ・ビョンホンの「誰にでも秘密がある」(チェ・ジウ、キム・ヒョジン、チェ・サンミ)などのモテモテぶりを強調した演出手法はその典型的事例といえる。

真理探究の精神

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  「人生において最も有害な錯覚は、肉体的な生活が一時間ごとに死に近づきつつあることだ、ということの忘却である」と、トルストイは言っている。われわれは、やがて死ななければならないもの。人の命ははかないもの。今日は元気だとて、誰が明日を保証できよう。人生も晩年になるとなおさら、孔子の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の語が、切実な意味を持ったものとして受け入れられよう。数ある孔子の言葉の中でも真理探究の精神の厳しさを示した言葉として、白眉である。一句に漂う一種の潔さが人をひきつけるのであろう。

    漢の夏候勝は、黄覇とともにある事件に連座して獄に送られた。その獄中でのこと、黄覇が「私は書経を読みたいと思う。なにとぞ講義していただきた」と夏候勝に申し出た。夏候勝は「いずれわれわれは刑死する身ではないか、今さら書経の勉強でもあるまいに」といって断った。すると黄覇はいった。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と。夏候勝は黄覇の言い分を「賢なり」として、書経を読み始めたという。

    京の町を引き回しにされた石田三成が、途中でのどがかわいたといって一杯の白湯を所望したという逸話があるが、案外、夏候勝と黄覇のこの話あたりが種かもしれない。

    なお、「道」の解釈については、魏の何晏ら古注は「正しい政道」とあるが、南宋の朱熹の新注では「事物当然の理」とあり、求道への情熱の吐露と解している。

2008年10月19日 (日)

楠木正儀と佐々木道誉

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         賀名生の「皇居」

  室町幕府の政争に敗れて失脚し南朝に降った細川清氏が「今こそ京を攻める好機ですよ」と公卿たちに触れ回った。このとき南朝の後村上天皇は賀名生の行宮でのわび住まいである。天皇はすぐに楠木正儀に相談した。正儀は、「今は父正成の時代とことなり、兵力もなく、どうして幕府方に勝てよう。これまでも都を攻めたことがあるが、いずれも攻め落としたのは数日だけではないか」と冷静に状況を判断していた。だが天皇の討幕の決心をくつがえすことはできず、1361年12月8日、正儀は南朝の大将として都を攻めた。

    都に入ると将軍の館、有力大名の屋敷など次々に火を放って回った。正儀が向かったのは風流人で知られた佐々木道誉(1296-1373)の豪勢な屋敷だった。火を放とうと邸内に入ると、客殿には真新しい畳、美しい花が生けてあり、香炉から香ばしい香りが漂っており、宴の支度がしてあった。正儀は道誉の振舞いに感激し、都落ちする日までこの屋敷で過ごした。しかも吉野に逃げのびる時には、屋敷を掃き清め、感謝のしるしにと家宝の鎧と太刀を置いて去った。風流には風流をもって応えたのである。

2008年10月18日 (土)

目的をもって生きていこう

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   米国で暮らす高齢者を対象に意識調査を行なった結果、幸福な人生を送るための重要な鍵の一つが、「目的をもって生きているかどうか」であるという。明確な人生目標をもっていないと答えた人の場合、10人に7人が人生に不安を抱いているのに対し、人生目標をもっている人の場合は、10人に7人が満足感を感じている、という結論がでている。(デビッド・ニーブン「ハッピーな自分になれる100の魔法」)ケペルの場合、具体的な人生の目標はかなり明確になっている。私立図書館をつくることである。このような夢みたいなことを周囲に話すとおそらく笑われるであろう。大金持ちで資金が潤沢にあれば、個人美術館でも私立図書館でも可能であろうが、月給取りに実現できるはずがないといわれるだろう。むかし浪江虔という人は昭和14年に農村図書館を設立して、ほぼ半世紀にわたり図書館運動をされてこられた。蔵書は最終的には3万6千冊を超えていたであろう。浪江虔にはとても及ばないが、1万冊以上は揃っている。ただ都市部の文化の成熟した地域で、利用があるかどうかは、やつてみないとわからない面がある。浪江さんは、公共図書館を批判しながらも、実際に公共図書館に勤めた経験はなかったので、図書館にある種の憧れを抱いていたようで、あくまで名称は「図書館」に拘わったし、ラベル、目録カードなど図書館に習った経営をしている。ケペルは、公共図書館の経験があるので、むしろ公共の欠点を知っている。民間でないとできない部分があることに気づいている。公共と民間とのすみ分けをしながら、公共の弱いところを重点的にサービスしていく。とはいっても、教養のスタンダードという部分は外せない。新刊本が重視の書店や公共図書館では、最近では教養のスタンダードな面で見劣りする書架づくりになっていることに気づいている。「健全な事業を立ち上げるには、健全なる事業計画が必要である」これはビジネスコンサルタント・経営戦略センターの主張である。まず、事業計画を明確にし、次に、その目的を実現するために必要な戦略を立てる。それが軌道に乗るとさらにステップ・アップを図る。「女性の書斎」という女性に限定した読書や書き物をする部屋であるが、仮に本店が居心地がよくて多くの利用者が来店されるとして、それから何がうまれるかが問題である。日本では巨大メディアが支配していて、あまり少数意見が政治に反映されない社会体制にあるといえる。新聞、テレビなど自民党・民主党と二大政党時代の到来ということをさかんにニュースで流しているが、選択肢は二党のみでは決してない。保守系の二党のみの選択肢しかないような情報はすでに巨大メディアが自社の経済利益優先で歪めた情報操作をしているにすぎない。つまり今の世の中にはかっての西欧のコーヒーハウスのような、社会を変革しているための新しい仕組みを考えるオピニオンが必要である。「女性の書斎」設立という小さな事業だが、目的や志は大きい。来週から業者と看板やサイン計画の打ち合わせに入る。開店まであと5ヵ月と迫ってきた。

2008年10月17日 (金)

五と六の数字に運命を支配された山本五十六

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    連合艦隊司令長官・山本五十六(1884-1943)は新潟県長岡市、旧越後長岡藩士・高野貞吉、ミネの六男として生れた。父親が五十六歳のときだったので「五十六」と名づけられた。数字を名前にもつこの軍人は、五と六の数字の因縁にとりつかれていた。

    太平洋戦争で日本海軍の敗北が決定的となったミッドウェー海戦は昭和17年6月5日、その翌年に山本五十六はラバウルで戦死し、日比谷公園で国葬にふされたのが6月5日だったのである。

2008年10月14日 (火)

帰らざる旅路

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 男を旅へかり立てるは

 男を放浪へ追いやるは

 何故ぞ

 床あたためる暇もなく

 家に背にして出でゆきぬ

 手綱とりて遠く遠く

2008年10月12日 (日)

「秋」 リルケ

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樹の葉が落ちて来る

何処か遠くから落ちて来るみたいだ

遠い天上の庭で

樹々が末枯(すが)れているのかもしれぬ

なんだかみんな

否(いな)むような素振りをしながら落ちて来る

重いこの地球も

こうして夜ごと

すべての星たちの間から

孤独の中に落ちてゆく

われわれはみな落ちてゆく

ほら、この手だって落ちる

凝(じ)いっと他のものを見て見給え

これがすべてのものの運命なのだ

だが何処かに

こうしてすべてが落ちてゆくのを

無限にやさしく

その手に受け止めているものがある

            リルケ (1875-1926)

                            山口四郎訳

幕末の尾張藩

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  幕末のドラマを見ていても名古屋の話はほとんど出てこない。

    美濃国高須藩主・松平義建の次男として生れた徳川慶勝(1824-1883)は、第14代尾張藩主となる。第一次長州征討では征長総督となるも、慶応2年、第2次長州征伐では拒否して幕府不信を表明する。尾張藩は幕府に近い立場のため藩論は二分したが、慶応4年1月の青松葉事件といわれる佐幕派弾圧により、戊辰戦争では官軍の一軍として幕府軍と戦った。尾張徳川家を代表する慶勝にとって、対立する幕府方の将軍・徳川慶喜が従兄弟、徳川茂徳(一橋茂栄)、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)は実弟であった。もし尾張藩と桑名藩が連合して官軍と戦わば、日本はどのようになっていただろう。幕末の尾張藩の決断は維新史に大きいものがある。

    ブック・オフへ買出し。坂東眞理子「女性の品格」、藤原正彦「国家の品格」、はやかわともこ「ヤマトナデシコ七変化 全15巻」。「向田邦子の手料理」、「中国、世界の国シリーズ16」(講談社)、「クレア2006.12」運命の映画、最愛のスター、司馬遼太郎「峠」「酔って候」「最後の将軍」、「書道全集6、8」

2008年10月11日 (土)

韓流ブームと日・韓旅行者数

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    かつて日本と韓国の関係を考えるとき「近くて遠い国」という言葉が必ず使われていた。「近い」とは、いうまでもなく地理的に近いことである。「遠い国」という言葉の中には多様な意味が含まれているが、実態がよくわからない、親しみがもてないという感じがある、と思われる。1982年の総理府の世論調査によると、日本が最も親しくしていくべき国として、1位のアメリカは34%であったのに対して、韓国は1%にすぎなかった。なお韓国で1982年に行なわれた世論調査によると「最も嫌いな国」の1位は日本で36.5%であった。

    ところがこの10年で日韓の関係は大きく変化した。ここ数年の日本での韓国旅行ブームはどうであろう。安くて近くて、2泊3日で楽しめるという「安近短」が大きな要因。また韓国ドラマ「冬のソナタ」のブームもあって、ロケ地めぐりに人気がでた。日本人が大量に韓国を訪れると、反対に韓国人が日本に来るようになった。2000年ころまでは、人口規模を反映し、日本に来る韓国人は韓国に行く日本人の2分の1程度であった。ところが、2005年の愛知万博をきっかけに韓国からの旅行者が増え続けた。2007年にはついに日本に旅行する韓国人の数が、韓国に旅行する日本人の数を上回り、260万人を突破したという。

  ところで2005年11月創刊の韓国生活文化雑誌「スッカラ」が今年8月号で休刊するという報せがあった。韓流ブームもいよいよ終息した感があったと思って哀しかった。ところがなんと11月号が店頭に並んでいるではないか。出版裏事情はわからないが、大物政治家・経済人の夫人が韓流ファンで亭主に泣きついて、資金提供を申し出る人が現われたのだろうか。ともかく芸能だけに片寄らずに、料理から、絵本、韓服、お茶、伝統工芸などすべての韓国の文化を伝える情報誌としての存在意義は大きいと思うので編集者は頑張ってください。

ペ・ヨンジュンの立ち居振る舞い

    茶の湯の世界では、よく真・行・草という言葉が使われる。これは本来、書道の筆法で楷書(真に相当)・行書・草書という三種の筆法からきたものである。真は端正な楷書で正格、草は型にとらわれず自由に崩した風雅な形、行はその中間を示す。塩月弥栄子によると、おじぎには、「座礼」と「立礼」とがあり、そのどちらにも、真・行・草がある、という。「真」は深いおじぎ、「草」は浅いおじぎ、「行」はその中間のおじぎである。「真」はていねいなおじぎで、「草」は軽いおじぎだと誤解される人がいるが、おじぎの形が違うだけで、ていねいでないおじぎなどはない。日常生活の場面によって、おじぎの形を使い分けるが、どのおじぎでもていねいに、ゆっくりと行い、形に心をこころをこめることが大事である。韓国の俳優ペ・ヨンジュンが来日して以来、そのステキな振る舞い方で日本人の女性のハートを鷲づかみにしたことは記憶に新しいことである。あいさつ、おじぎ、美しい姿勢などの日常の立ち居振る舞いがいかに人気を決める大事なポイントであるかを知らされた。やはり日本と韓国とは礼節を重んじる国柄であり、作法上も近いものを感じる。

   午後からブックオフに買出し。塩月弥栄子「すてきな女性のための上級マナーレッスン」、林元子「キレイをつくる6章のレシピ」、星野夏「あおぞら」、「愛と芸術の生涯」(世界史の女6)、宇佐美恵子「いい女になる33のヒント」、五木寛之「青春の門」、中村うさぎ「さすらすの女王」、「韓国・モンゴル、世界の国シリーズ15」、「書道全集3、4」(平凡社)

団令子はギャル語の元祖

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   左から、中島そのみ、団令子、重山規子

  流行語にはあまり関心がないケペルでも「KY」ぐらいは知っている。「空気読めない」を意味する若者言葉で、女子高生から発信したギャル語のローマ字略字をマスコミなどでも使い、今でも広い範囲で使われている。ギャル語は1990年代半ば以降、渋谷のコギャルを中心に話された言葉で、とくに有名な言葉は「チョべりバ」で、「超ベリー・バッド」の略。いまでは死語になっている。いま流行っている渋谷語では、「曽根る」。大食いタレントのギャル曽根で、「満腹になるまで食べる」という意味。「茶べる」は「お茶しながらしゃべる」という意味。「萌死」とは「好き好きで死んでしまいたいぐらいステキ」という意味。「KY」のようにローマ字の略語は今でも多い。

「PK」(パンツ食い込む)

「HK」(話変わるけど)

「ATM」(あいつはたまにむかつく)

「NBA」(なるほどブスだけど愛されるキャラ)

   渋谷語を解読すると、むかし海軍が使っていた「MMK」(もててもてて困る)と共通するものがある。昭和34年頃、東宝映画「お姐ちゃんシリーズ」で団令子が「あんた、MMKね」と若い男に言っていた頃とあまり世相は変わっていないのも面白い。

2008年10月 9日 (木)

お姫さまだっこ

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   少女マンガを読むと「お姫さまだっこ」に対する感情には極上のものがあり、少女の憧れの一端をうかがうことができる。そのルーツはディズニーの「シンデレラ」であろうが、王子さまが長身で力持ちであること、お姫さまがダイエットに成功することが必須要件であり、現実社会で成就するにはなかなかハードルが高いポーズのように思える。映画「哀愁」の宣伝スチールのように男性が軽々と抱いているくらいでないとサマにならないであろう。

   「哀愁」のマイラ(ヴィヴィアン・リー)は、もとは可憐なバレリーナだったが、恋人(ロバート・テーラー)を戦場で失ったと勘違いをし、街娼に身をおとすという悲しい話である。ウォータールー橋で娼婦として媚を売るヴィヴィアンが、上品な雰囲気そのままなのが、かえってメロドラマのヒロインとして最高の演技となっている、とある映画評論家が書いていた。あれがシモーヌ・シニョレの爛れた娼婦ぶりであれば、おぞましいドラマになるであろう。

 ロンドンの あの橋のたもとで

 バレーを踊りし 麗しき瞳

 一年前の 我が乙女よ

 とわに誓いし まことの愛

 手に握りしめ

 いつも離さず いだきし

 ラッキー・ビリケン 今は無く

 一人淋しく 橋にたたずむ

「あんみつ」と橋本夢道

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    「あんみつ」とは餡蜜豆の略語で、要するに蜜豆に餡をのせたもの。最近では、白玉やクリーム、パイナップル、イチゴ、ミカンなどいろいろな種類もあるようだが、「あんみつ」に餡は絶対に欠かせない。蜜豆は一年中食するものであるが、夏の風物詩の一つとして俳句では夏の季語となっている。

みつ豆や笑い盛りの娘等ばかり

                   堤 すみ女

蜜豆をたべるでもなくよく話す

                   高浜虚子

    「あんみつ」の歴史は意外と浅いようだ。昭和の初期にはまだ一般的なものではなく、東京でしか食べられないものだったらしい。昭和12年創業の銀座「月ヶ瀬」(:現在のコックドール)が翌年ころから「あんみつ」を売り出したところ人気メニューとなって広く普及していった。当時月ヶ瀬に自由律俳句で知られた橋本夢道(1903-1974)が勤務していた。そのポスターに「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」というコピーを書いている。俳句にあんみつ、蜜豆はよく似合う。

2008年10月 8日 (水)

北海道の赤とんぼ

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  日本童謡の会が平成15年に「好きな童謡」を全国から募集したところ、「赤とんぼ」がダントツの第一位だった。

    宗教への関心を深めていた象徴詩人・三木露風(1889-1964)は大正9年から4年間、当別トラピスト修道院のジェラール・プーリエ院長の招きで、文学概論、美学論の講師として、夫人とともに北海道に滞在していた。露風は、トラピスト修道院の教室で午前中は教え、午後は詩作にふけった。大正9年の秋のある日午後4時、窓の外をみていたら、赤とんぼがいる。竿の先に、じっととまっているのだった。

 夕やけ小やけの 赤とんぼ

 とまっているよ 竿の先 

  兵庫県龍野の銀行員の長男として生れた露風は幼い頃のことを思い起こして作った。そして「赤とんぼ」の詩は大正10年に、童話雑誌「樫の実」の8月号に発表され、詩集『真珠島』に収録された。これに山田耕筰が曲をつけたのは昭和2年のことであった。

そばにいるだけ

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  かなしいとき、つらいとき、

  そばにいられたらいい。

  話をしなくても。

  かなしんでる理由を聞かなくても。

  ただ、いるだけ。

  すきな人にできることは、

  いくつもある。

  たのしい時間をすごすことも

  そのひとつ。

  それとともに

  かなしいときそばにいて

  しずかに見まもることも。

  そばにいるだけでいいなら

  それが、力になるなら

  そうしたい。

  自分がかなしいとき、

  そばにいてほしいように。

                  廣瀬裕子

  日本では詩集はあまり売れないと聞いたことがある。隣の国、韓国では詩集がベストセラーの上位にランキングされるほど、ポエムは人気があるそうだ。しかし、日本でもフォト・ポエムといって、簡単でわかりやすい詩に写真をつけた本が近頃、若い女性に人気がある。銀色夏生が代表格だろうが、最近は廣瀬裕子も知られるようになっている。ほかにも多数いるだろう。ポップな感覚でこころが癒されるのでヒーリング・ポエムというらしい。何度も繰り返し読むとよさがわかってくる。

  晴天、復活書房へ行く。廣瀬裕子「スキ。」、大塚愛「キミイロオモイ」、宮村優子「君だけに愛を」、飯島夏樹「天国で君に逢えたら」、雫井脩介「クローズド・ノート」、「かづきれいこの美肌をつくるメイクの法則」、「モーニング娘。×つんく♂後藤真希卒業。」、ニコラス・スパークス「もうひとつの愛の奇跡 きみに読む物語」

松本清張の座右の書

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        木村 毅

    松本清張(1909-1992)は「葉脈探求の人」(『グルノーブルの吹奏』昭和33年)というエッセイの中で、昭和2、3年ころ(清張18歳ころ)に木村毅の『小説研究16講』を買い、深い感銘を受けたと述べている。軍隊に行った時も、家庭に保管するようにいい残し、復員して作家になり、さらに死に至るまで、手垢にまみれた同書を書架の片隅にずっと座右の書として置いていた。

    木村毅(1894-1979)は岡山県勝田郡勝間田村(現勝央町)に生れる。隆文館、春秋社の編集者をしながら評論、翻訳、実録、伝記ほか多数の著書を残した人である。松本清張の創作の原点は木村毅の『小説研究16講』にあったことは明らかである。日本の伝統的な私小説を拒否し、隠された真実を追究するノンフィクションへの関心は後年に「社会派推理小説」というジャンルへとなって結実した。

2008年10月 7日 (火)

メトロの匂い

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    今も昔もフランスの女性は世界中の男性の憧れである。フランス女性と知り合う機会の先ずない日本人男性の最も手っ取り早い方法はフランス映画の中から「理想の女性」や「永遠の女性」を探すことだった。アルレッティ、マリー・ベル、コリンヌ・リュシェール、アナベラ、ダニエル・ダリュー、ミシュリーヌ・プレール、アヌーク・エーメ、フランソワーズ・アルヌール。だがたった一作ながらその面影を生涯忘れぬ女優がいる。ミレーユ・バラン。

    映画「望郷」でギャングのペペ・ル・モコ(ジャン・ギャバン)はカスバに身を隠していたが、ある日、パリから来た美しい女ギャビー(ミレーユ・バラン)にあう。ペペは彼女がもつ故郷パリの匂いに惹かれる。「君はパリのメトロの匂いがする」、ペペがギャビーに言うシャレた言葉は世界映画史の中でも最高の名セリフである。

     ところでミレーユ・バラン(1911-1968)という女優のことは、「望郷」以外何も知らない。あれほど印象に残る女優なのにウィキペディアの項目にもない。「ビバ!フランス映画の女優たち」にわずかに紹介記事がある。パリでモデルをしていた21歳のとき、モーリス・カノンジュ監督に見出されて「クラス万歳」に出演。G・W・パプスト監督のフランス亡命時代の作品「ドン・キホーテ」をへて、1936年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「望郷」に出演。眉を細くひいたメランコリックなパリの女を演じて世界的にその名を知られる女優となった。だがこの当たり役のイメージが強すぎてか芸域を広げられないまま1946年「最後の騎打」を最後に引退。不遇のうちに、パリにて病死した。

2008年10月 6日 (月)

太王四神記と後燕・北燕

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   ペ・ヨンジュン主演の歴史ドラマがBS2でスタートした。歴史ファンタジーなので史実とは異なるものの、4世紀末の広開土大王の時代、中国では五胡十六国の時代の複雑な歴史的背景が映像でわかりやすくイメージできる。

   高句麗は紀元前から7世紀まで、中国東北部から朝鮮半島に存在した国であるが、ペ・ヨンジュンが演ずるタムドクは広開土王(在位391-412)がモデルになっている。5世紀末に高句麗は、歴史的に最大の領土を広め、東アジアの強大国として威勢を振るった。広開土王は朝鮮民族の最高の英雄である。

   歴史地図で見ると、広開土王の時代の高句麗は西の慕容氏(鮮卑系)の後燕(384-409)と南の百済・倭とに挟撃されるという状況であった。これを打開するため、広開土王が隠密裏に仕掛けたたかどうか定かではないが、407年に後燕にクーデターが起こる。高句麗王家の分家出身の高雲が後燕王に即位する。そして高句麗と後燕で和議が成立する。409年、高雲王は暗殺され、漢人将軍の馮跋(在位409-430)が北燕(409-436)を建国するが、高句麗とは友好関係が続く。こうして広開土王の末年には平和が戻り、朝鮮史上にも類のない領土を獲得したのであった。

幕末動乱期の阪神間の存在

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   NHK大河ドラマ「篤姫」を見ていると、薩摩、長州、京都、江戸などは幕末動乱期の主要舞台となっている。ドラマ後半の戊辰戦争になれば、さらに会津、東北、函館と広がってくるであろう。ところが大坂や阪神間はあまり幕末のドラマでは影が薄い存在である。せいぜい御用商人が武器を調達する話で登場する程度であろう。実際には大坂城は幕府方の大本営として重要な所であり、阪神間も京へ至る西国街道沿いの芦屋、西宮、尼崎は重要拠点であった。

   西宮の香枦園の浜は昭和37年頃までは海水浴場で賑わっていたが、東端に西宮砲台という不思議な建造物があったのを子ども心に記憶している。(今もあるだろうが最近は見ていない)。幕末の動乱期、国防のため勝海舟の建策で建造されたもので、阪神間には和田岬、湊川、今津とこの西宮に砲台が配備されたという。

    尼崎には残念さんの墓がある。元治元年7月の禁門の変で京都から脱走してきた長州藩の山本文之助が尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中に残念残念といって自殺した。その後、墓ができたが、多くの参詣人があった。民衆の「長州びいき」をみることができる。

   芦屋には阿保親王塚がある。長州藩毛利家は阿保親王の末裔であり、参勤交代の途上は必ず詣でたという。幕末の動乱期、長州藩がいち早く京都に勢力を伸ばし、朝廷と結びつくことが出来のも、打出陣屋などを拠点としたことと、無関係ではない。

    明治になってからも、阪神間と長州藩との関係は続いた。西宮教育界の中心人物であった山下厳麗は長州藩奇兵隊の出身である。明治13年に設立した武庫中学校の初代校長に就任している。同校の教師には、高橋正熙(修身)、豊田政苗(漢文)、野口英之進(英語)、樋口高光(歴史)、三宅貞治(地理)らがいた。なかでも「養精修道」の豊田政苗は、旧尼崎藩士出身で維新後尼崎藩の権大参事を勤めた儒学者である。これらの出自から推測しても「養精修道」は儒教の精神にもとづくものと思われる。

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