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2008年9月28日 (日)

図書館員とエルダーホステル

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    昭和61年3月3日、大阪の中津にあるマンションの一室で4人の女性たち(豊後レイコ、森田美和、南山とよ子、林悦子)が集り、「エルダー国際交流協会」(昭和63年にはエルダーホステル協会と改称)を設立した。これが日本におけるエルダーホステルの始まりである。アメリカで始まったエルダーホステルというのは、まだ日本ではユースホステルのようには知られていないであろう。1975年にユースホステル運動と北欧のフォーク・ハイスクール(全寮制)における教育制度をヒントにニューハンプシャー州の大学で誕生した。大阪のAACに勤務していた女性司書・豊後レイコはアメリカ人から、「日本の伝統・文化についてもっと知りたいが、日本にエルダーホステルのような組織はないか」と訊ねられた。受け入れ先の団体をいろいろ探したが、社会的意義はありそうだが、コスト面で採算性が認められず、どことも尻込みをする。結局、豊後本人が駈けずり回って、米国エルダーホステルEIL本部と連絡をとりつつ、最初の日本学講座が開催された。大阪でのホームステイをはさんで京都と岡山が会場に決まった。昭和61年9月、最初のアメリカ人参加者34人が、京都(関西セミナーハウス)、岡山(ノートルダム清心女子大学)で学んだ。そして現在までに4000人を超えるアメリカ人受講者が来日している。豊後レイコは、長くCIE図書館、AACで勤務された女性司書で関西では図書館関係者の間ではよく知られた人である。情報と人、人と人とをつなぐ経験を生かして、新しい事業に退職後もチャレンジされた。インフォーメーション・スペシャリストとして図書館の専門性が問われている時代、豊後レイコさんの活躍はまことにお手本とすべきものである。(参考文献:「八八歳レイコの軌跡」ドメス出版)

2008年9月27日 (土)

上野のパンダはいつ来るの?

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    今年の4月末にパンダのリンリンが亡くなってから、上野動物園の客足が激減しているという。このままだと今年の入園者数は年間300万人を割り込む。パンダブームの1974年度には約765万人あった。都の石原慎太郎知事は、パンダ借り入れには消極的だそうだ。年間1億円といわれるレンタル料は高すぎるという声もあり、当初都民の抗議もあったが、最近は「パンダはいつ来るの?」という子どもからの問い合わせもあり、意見が分かれており、複雑な政治情勢も絡んでパンダ問題は難航しているようだ。

飛び出せ21世紀のスター

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 市川雷蔵(左)と勝新太郎(右)「柳生連也斎・秘伝月影抄」

   大映カツライスとはカツ(勝新太郎)とライ(市川雷蔵)のことである。共に同じ年で同期入社。勝は活力に優れ、雷蔵は頭が鋭い。陽性と陰性、二人の個性は正反対だが、ともに大スターとして大映全盛期を築いた。とくに市川雷蔵(1931-1969)は様々な役を演ずることができる気品ある孤愁の二枚目として、その存在感を超えるスターは未だ現われていない。ところで今年もアン・アン「2008年あなたが選ぶ好きな男・嫌いな男」が発表され、木村拓哉のV15が達成した。キムタクは長谷川一夫の後継者となりうるのであろうか。ここでは次世代スターを注目したい。2009年カレンダーの予約受付が始まった。

三浦春馬、上地雄輔、佐藤健、溝端淳平、早乙女太一、水嶋ヒロ、山本裕典、三浦翔平、松田翔太、武田航平、橘大五郎、中村蒼、黄川田将太、片岡信和、加藤慶祐、斉藤工。

  胸ときめく旬の男たち。あなたはこの16人のイケメン俳優の名前と顔を何人知っているだろうか。

小野宮惟喬親王と木地師

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    文徳天皇の第1皇子の惟喬親王(844-892)は、藤原良房を外祖父とする惟仁親王(清和天皇)との政争に敗れて、病を得て出家し、近江国の小野に隠棲した。この隠棲地が山間であったためもあって、後世、惟喬親王は木地師の師として仰がれた。木地師とは、山の木を伐採し、轆轤を使って椀や盆、こけしなどをつくる人々で、東近江市(旧・永源寺町)の蛭谷・君ヶ畑が発祥の地とされている。大皇器地祖神社の右隣に、「日本国中木地屋氏神惟喬法親王御廟所」の石碑が立つ。石段をのぼると惟喬親王墓と伝える宝篋印塔がある。その右隣に金龍寺が建つ。

2008年9月25日 (木)

養精修道と天命思想

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    「礼記」第31篇の「中庸」

  兵庫県芦屋市は昭和15年に武庫郡精道村から市になった。この「精道」という地名は現在も町名として残っている(市役所を中心とした付近)が、明治22年に誕生した「精道村」は、3年前に芦屋小学校(安楽寺内)と打出小学校(親王寺内)とが統合された校名「精道小学校」に由来している。つまり、もともと地名ではなくて、校名であり、創案されたネーミングだった。芦屋小学校と打出小学校との両校がどちらも譲らず、新しい名称を考えようということで、西宮在住の漢学者・豊田政苗に依頼した。豊田は、「養精修道」という漢語から「精道」という校名を考案したといわれる。

    ところで「養精修道」という語の出典は何であろうか。精神を鍛え、道を修める。意味自体はそれほど難解な語ではないが、四字成語として辞典に収録されていない。これと類似した語に「養精蓄鋭」がある。睡眠と休養をたっぷりとって鋭気を養うという意であるが、校名としては「養精修道→精道」のほうが相応しいであろう。養精・修道と分ければ「大漢和辞典」にも熟語としてある。大漢和辞典において「修道」は「中庸」の冒頭の節を引用している。儒教の君子の道「天命之謂性」(人間の本性は天が命じたものである)を説いている。つまり「養精修道」は天命思想を基本に導かれるものである。孟子の性善説を是とした朱熹は「礼記」の一編である「中庸」を重んじた。天地人の三界のなかで、孔孟の道とは天の道ではなく、地の道でもなく、人の道である。つまり「中庸」の冒頭の部分は、人間の正しい生き方を説いた内容である。こういった中国古典に由来する「精道」という校名、地名は伝統と品格のあるすばらいしい名称であると改めて感心させられる次第である。

第1節の通釈 天が命じ与えたもの、これを性という。その性にしたがい行なってゆくところに成り立つもの、これを道というのである。またこの道を修得すること、これを教えというのである。されば、道というものは、本来ほんの僅かの間も人間から離れられないものである。もしも離れられるなら、その道は真の道ではないのである。さればこそ道に明らかな君子は、道を修めて行くのに、その外に顕われているところはいうまでもなく、その定かには見えもしないところから戒めつつしみ、聞き知れぬところから恐れつつしむ。つまりかくしだてするひめごとほど人間にさらけ出されてうわさの種になるというたといの通りで、もつとも戒むべきことは、人知れぬことにある。だから君子はわれとわが身ひとりのまもりをつつしみ修めることを根本とするものである。

   「独慎」わが身を守り慎むことの大切さを説いている。しかしながら、あくまで天命思想から出発していることは注意すべきことである。天命などいうものは、空しい迷信に過ぎないではないかと誤解する方もあるかもしれない。古代中国において、政治や道徳や宗教や学問や教育などのあらゆる社会事象は、みな天命思想を根拠とし背景として成り立つものである。だがこの天を中心とした思想の動きは、孔子が現われてからは大きく変化した。孔子は道徳を中心としての経学を起こしたので、孔子以前の天命思想と、孔子の道徳を中心とした天命思想とは大きく区別する必要がある。

2008年9月23日 (火)

カフーを待ちわびて

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   沖縄の与那喜島で雑貨商を営みながらのんびりと暮らす独身青年の友寄明青は、ある日、幸(さち)という見知らぬ女性から「結婚してください」という手紙を受け取る。それは明青が旅先の神社で、ほんの遊び心で絵馬に「嫁に来ないか」と書いたのを見たからだった。そして3週間後に、現れた幸という若い女性は明青がこれまで見たこともない美(チュ)らさんだった。だがこのうまい話は明青の親友であるリゾート会社を経営する照屋俊一のしかけた甘い罠であった…。

    小説は2006年、第1回日本ラブストーリー大賞を受賞している原田マハの「カフーを待ちわびて」。カフーとは小説の中に登場する明青の飼い犬の名だが、カフー(果報)で、「いい報せ」「幸せ」「グッドニュース」という意味が含まれている。ちなみに原田マハは原田宗典の実妹。なお映画「カフーを待ちわびて」は玉山鉄二、マイコ主演で来春全国公開される。

    午前中にブック・オフへ買出し。原田マハ「カフーを待ちわびて」、夏石鈴子「愛情日誌」、松本侑子「性の美学」、大竹しのぶ「私一人」、宇江佐真理「アラミスと呼ばれて」、あだち充「タッチ1~5」を購入。

2008年9月22日 (月)

ヤンキースタジアムとエホバの証人

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昭和3年当時の灯台社のメンバー。左から、赤松今朝松、明石順三、神田繁太郎

   来季から新球場に移転するというニューヨーク・ヤンキースタジアムで最終戦が行なわれたというニュース。1923年に開場し、ベーブ・ルース、ル・ゲーリック、ジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラなど数々の名選手、名プレーをうんだ。ヤンキースの現主将で、ゲーリックの持っていたヤンキースタジアムでの通算最多安打記録を今季更新したジーターは「ここは野球という枠を超えた歴史的な場所、プレーできて幸せだった」と別れを惜しんだ。

   ジーターの言葉にもあるように、ヤンキースタジアムは野球ばかりでなく、歴史的な集会、イベントにも使用された。たとえば、ニューヨークに拠点をもつエホバの証人は1950年の数日間に16万人以上の信者が集った。1958年7月27日から8月3日にかけて、「神の御心」国際大会の会場となり、123の国や地域を代表する最高25万3,922人が押し寄せた。ワッチタワー協会(エホバの証人)をこのような世界的規模の組織に拡大したのは、第3代会長のネイサン・ノア(1905-1977)である。ノアは戦後35年にわたって協会を再組織し、世界的拡大が図られた。ワッチタワーは戦前には大正14年に、戦後も昭和21年には灯台社の明石順三(1889-1965)を日本の正式代表として認めていた。だが灯台社のメンバーたちは二度にわたる治安当局による厳しい弾圧に遭い、あるものは獄死し、あるものは非転向を貫き、戦後、出獄したが、組織的には壊滅的打撃を受けていた。明石順三も昭和20年10月9日、宮城刑務所から釈放され、12月には兵庫県芦屋の森上浩行の家で村本一生らと合流している。久しぶりに会った順三の言葉が「面白かったね」と伝えられている。妻の静栄や息子たちを亡くした順三の心中を察すると涙がでてくる。この後、ニューヨークのノアから連絡があるが、明石順三はワッチタワー協会の批判する文書を発行し、日本の灯台社の戦前の活動もすべて一切を抹殺されたかたちで除名される。現在の日本のエホバの証人は戦後新しく組織されたものであり、明石順三の灯台社とは別系統とされている。

自然が寂しい

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福井の遠敷郡は江戸時代には上中村38ヵ村、下中村73ヵ村あったが、過疎の村として知られ、名田庄村の1村となり、平成18年には町村合併により、消滅した

    民俗学者の宮本常一(1907-1981)が戦前から戦後にかけて日本全国を歩いて、生活が変わっていく、価値観が変わっていく様子を調査していた。日本の政治経済文化が大きく変わったのは昭和20年8月15日からと机上の歴史では思うかもしれないが、本当に変わっていったのは昭和40年前後だと思う。守屋浩の「東京へ泣いちっち」(浜口庫之助作詞・作曲)が流行ったのは昭和34年のことであるが、あのころからみんなは農村を捨てて、豊かさを求めて都会に出て行くという動きが顕著になってきた。宮本常一は昭和40年頃の農山村を、「自然が寂しい」と言った。これまで「自然が寂しい」と言った人はあまりいない。もしこれが、「自然は美しい」とするならば、 ここをちゃと刈り払ったりしている人がいるわけである。人が消え、田んぼから山から畑から人が消えていって、村が寂しくなっていくことを、村が寂しいと言わずに「自然が寂しい」と言ったのだ。しかし、宮本は、この後に、「しかし」と言っている。「しかし、そこに人の手が加わると暖かくなるんだ」と言っている。

    日本は経済成長とともに若い人を中心に都市に出ていく人が増え、このような村の生活を維持することがむずかしくなった。山村や離島の集落のなかには、生活が困難になったため住民が集団移転したところもある。こうした地域は過疎地域とよばれた。最近では、さらに過疎化は進行して「限界集落」という言葉も生れている。全国的な情勢では山間地域の過疎化現象が顕著にみうけられる。限界集落をそのまま放置すると無住集落となり、多様な生活文化の喪失を招くだけではなく、豊かな森林資源などを放擲することとなり、加えて林野の荒廃で保水力の低下した危険な上流地域を生むこととなり、台風などの豪雨で災害を招くこととなる。そのため近年、「限界集落」の解消を目指す産業と生活文化の振興を図る取り組みが模索されている。人と自然を考える会・東近江市立図書館が発行した「農と森の地産地消でふるさとづくり」(社会教育活性化21世紀プラン報告書)では地域が自立して生きる仕組みづくり、地域資源を生かしたまちづくりの事例学習が紹介されている。

森の地産地消(高知県馬路村モナッカ)、東近江を循環・共生の大地に、ほんまに私が主役のまちづくり(広島県安芸高田市川根の地域づくり)

2008年9月21日 (日)

魔法の一冊

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    仕事や勉強の谷間で、何もすることのない日、パラパラとめくれば「元気が出てくる」とか「癒される」とかいうビタミン剤のような本があればよい。写真集でも画集でも詩集でもいい。自分の感性に訴えかける、いわば「魔法の一冊」。ケペルの場合は、ゴッホの画集かな。ページをめくるたびに、新たな刺激と感動を与えてくれる本だ。

   小雨が降る初秋の一日。ブック・オフへ買出し。大崎善生「九月の四分の一」、高樹のぶ子「マイマイ新子」、宮部みゆき「誰か」、松本清張「暗い血の旋舞」、丸谷才一「女ざかり」、江國香織「薔薇の木、枇杷の木、檸檬の木」、内田康夫「華の下にて」、美嘉「恋空」、湯本香樹実「夏の庭」、「パッピー・スプリング1」、アデレ・グリセンディ「わたしの赤い自転車」、香山リカ「NANA恋愛勝利学」、浅野裕子「女の運命を動かす100の方法」、三砂ちづる「オニババ化する女たち」、河谷史夫「一日一話」、「リトル・マーメイド」「ライオン・キング」「美女と野獣」、「世界文学全集37、46」ジョイス「若き日の芸術家の肖像」、コンラッド「ロード・ジム」、カフカ「審判」、ロード「ラデツキー行進曲」を購入する。

2008年9月18日 (木)

カバヤ文庫で知った知識の小宇宙

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    むかし10円のカバヤキャラメルを買うと中に「文庫券」が1枚入っていた。その文庫券を50点ためて、岡山のカバヤ本社に送るとカバヤ文庫が一冊もらえた。カバヤ文庫は戦後の少年少女たちの隠れたベストセラーだった。「シンデレラひめ」から「少女コロンバの復讐」まで昭和27年から昭和28年にかけて153タイトルが出版されている。当時「岩波少年文庫」が昭和25年から刊行されているし、昭和26年から講談社の「世界名作童話全集」、昭和28年には「世界少年少女文学全集」(全68巻、創元社)、「日本児童文庫」(全50巻、アルス)の刊行が始まっていたが、カバヤの原敏の企画によりカバヤ文庫は続々と刊行された。実際の執筆は京都の大学院生や高校教師によっておこなわれたが、岩波や講談社をリライトしたものだったらしい。だが各巻頭には錚々たる顔ぶれの序文がついている。伊吹武彦「シンデレラひめ」、重松俊明「ピノキオの冒険」、長広敏雄「母をたずねて」、出雲路敬和「乞食と王子」、大山定一「しらゆきひめ」、吉川幸次郎「アラビアンナイト」、桜井常之輔「可愛い小公女」、佐藤一男「宝島探検」、村上次男「にんぎょのおひめさま」、貝塚茂樹「孫悟空大暴れ」、中西信太郎「若草物語」、山本修ニ「ロビンフッドの冒険」などなど。カバヤ文庫は最初は郵送で贈られてきたが、あまりの人気のため、都会のお菓子屋ではガラスケースにカバヤ文庫が陳列されていて、いつでも文庫券で交換できるところもあったという。カバヤ文庫で本との出合いを知った人は多い。だいたい昭和13年から昭和18年ころまでの世代で、「生めよ増やせよ」の世代なので人口数は多い。本日、全国図書館大会、兵庫大会での池内紀さんの記念講演「図書館の小宇宙」でもあの「カバヤ文庫」の話があった。貧しかったが、貧しいとはおもわなかった、なぜか希望のある時代だった。いまから見ると粗末なつくりのカバヤ文庫だが、池内少年はそこから知識の小宇宙をみたのだろう。ほんとうにいい講演だった。

2008年9月15日 (月)

鳳儀亭の密会

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    貂蝉(ちょうせん)は、羅貫中の創作上の人物であるが「三国志」随一の美女として知られる。後漢の司徒・王允のかかえていた歌妓で、歳は16歳であった。「歌妓」とは高位高官の屋敷に、歌舞をもって仕える女性である。表むきの職務は「歌舞」であるが、金で買われた女奴隷であり、実際には妾のようなことを強いられることも多かった。朝鮮のファン・ジニ、白拍子の静御前のようである。

   貂蝉の悩みは、幼いときから自分をひきとり、歌舞を習わせ実の子同様に可愛がってくれた王允が思い悩んでいる姿を毎日見ることであった。「もしお役に立つのでしたら、わたくし命もいといません」と貂蝉は言った。「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色のやからゆえ、連環の計を用いようと思う」と王允は計画をめぐらした。貂蝉は董卓の妾となり、呂布の心を操つる。計画は筋書き通りに運んだ。呂布は、董卓のいる鳳儀亭の庭で貂蝉と密会した。「わたしの身は汚されてしまいました」といい、貂蝉は池に身を投げようとする。呂布は董卓を憎んで殺害する。

   吉川英治の小説「三国志」では貂蝉は呂布が出陣した隙に自殺したことになっているが、羅貫中の「三国志演義」の貂蝉は、呂布の正室厳氏とともに、呂布が死ぬまでついていったことになっている。その後、呂布は部下に裏切られて、曹操の捕虜となって縊り殺される。これを最後に、貂蝉の姿は「三国志演義」から消え、その後の消息は不明である。

カントの人間論

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1.私は何を知ることができるか

2.私は何をなすべきであるか

3.私は何を希望してよいか

4.人間とは何であるか

第1の問いに答えるのは形而上学であり、第2の問いには道徳、第3の問いには宗教、第4の問いには人間論が答える。結局これらすべては人間論にふくませてよいであろう。(カント「論理学」)

   北海道の大雪山系ではそろそろ紅葉が始まる頃である。近畿でも朝晩はすずしくなった。曇天の祭日、ブックオフへ行く。嶽本野ばら「恋愛の国のアリス」、さだまさし「精霊流し」、尾崎豊「黄昏ゆく街で」「普通の愛」、けらえいこ「7年目のセキララ結婚生活」、IKKO「超オンナ磨き」、石原良純「石原家の人びと」、ラブ・コレクション「ぜったい幸せにあるH」、「ハッピーエンドな片想い」、「涙100万粒のリアル・ライフ」、「ヒミツのカレ」、湯本香樹美「ポプラの秋」、キム・スンス「ドクターズ」、ソン・ヘソン「力道山」、ヨ・ジナ「イルマーレ」

2008年9月12日 (金)

ロードショーの廃刊

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    集英社の洋画雑誌「ロードショー」が11月21日発売の2009年1月号で休刊するという。この場合の休刊とは、イコール廃刊というケースがほとんどらしい。創刊は1972年3月。創刊時の思い出が蘇った。ケペルは阪神野田駅で働いていたが、まだ給料が少なく、駅近くの商店街にある本屋で販売中の「ロードショー」を買わずに立ち去った。表紙はカトリーヌ・ドヌーブでとても美しいかった。その年の8月に公務員になって、やっと雑誌が買えるようになった。全盛期はなんと「スクリーン」と「ロードショー」2誌も買っていた。しかしいつしか「スクリーン」だけになった。久しぶりに本屋で手に取ってみたが薄くなっているのに驚く。思えば洋画のヒット作も少なく、人気スターが育っていない。淀川長治、荻昌弘、小森和子といった人気映画評論家も亡くなった。ロードショー1975年スターベスト30はこんな顔ぶれがいた。

第1位 ブルース・リー

第2位 アラン・ドロン

第3位 ジュリアーノ・ジェンマ

第4位 スティーブ・マックィーン

第5位 ロバート・レッドフォード

第6位 クリント・イーストウッド

第7位 ポール・ニューマン

第8位 ジェームズ・ディーン

第9位 チャールトン・ヘストン

第10位 クラーク・ゲーブル

第11位 ジャン・ポール・ベルモンド

第12位 ピーター・フォーク

第13位 ピーター・フォンダ

第14位 アル・パシーノ

第15位 エルビス・プレスリー

第16位 ロジャー・ムーア

第17位 ロバート・ワグナー

第18位 ダスティン・ホフマン

第19位 デビット・マッカラム

第20位 クリス・ミッチャム

第21位 チャールズ・ブロンソン

第22位 ショーン・コネリー

第23位 ジェームズ・コバーン

第24位 チャールズ・チャップリン

第25位 ユル・ブリンナー

第26位 ジェームズ・カーン

第27位 バート・レイノルズ

第28位 レナード・ホワイティング

第29位 ジョン・ヴォイド

第30位 ジャック・ニコルソン

   これらの顔ぶれをみて、現在も活躍しているロバート・レッドフォード、クリント・イーストウッド、ダスティン・ホフマン、ショーン・コネリー、ジャック・ニコルソンたちを並べてみると、ある程度当然の結果といえなくもない。もう一つ特徴をあげると、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、デビット・マッカラムといえば「大脱走」(1963)の出演者たちだ。あるいはデビット・マッカラムをはずしてユル・ブリンナーを入れると「荒野の七人」(1960)のスターたちだ。つまりハリウッド映画は、60年代、70年代は、スティーブ・マックィーンがシンボル的存在だった。マックイーンはほんとうの意味で、アクションの面白さを映画で見せてくれたスターだった。テレビ「拳銃無宿」に出演していた無名の俳優が、世間の注目を集めたのは「荒野の七人」だった。マックイーンの敏捷な動きと鮮やかなガン・プレイは主役のユル・ブリンナーを喰ってしまった。その後、マックイーンは再びブロンソンやジェームズ・コバーンと組んで「大脱走」に出演し、軽妙な演技と飾り気のない素朴な持ち味で多くのファンを獲得した。「マンハッタン物語」(1963)の失業青年、「シンシナティ・キッド」(1965)のギャンブラー、「ネバダ・スミス」(1965)の復讐に燃える混血児、「砲艦サンパブロ」(1965)の水兵、どんな役でも常にカッコイイ。とくに「ブリット」(1968)の刑事、「栄光のル・マン」(1970)のレーサー、「ジュニア・ボナー」(1971)の西部男、「パピヨン」(1973)の終身犯、「タワーリング・インフェルノ」(1974)の消防隊長、と演技者としても成長してきた。1980年11月7日、ハリウッドきってのアクションスターも肺がんには勝てず、50歳の若さで急死したが、彼の穴をうめるような魅力あるスターはその後も現れていない。

2008年9月 9日 (火)

南北のファン・ジニ競演

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   李朝時代に実在した名妓であり詩人でもある黄真伊(ファン・ジニ)の生涯を描いた映画・ドラマはこれまでに何回かある。1957年のド・クムボン、1986年のチャン・ミヒ、そして現在NHKBS2で放送中のハ・ジウォンのドラマ「ファン・ジニ」である。

   ファン・ジニの生没年など詳しい経歴は明らかではないが、「チャングムの誓い」に登場する李朝第11代王・中宗(在位1506-1544)と同時代を生きた女性である。妓生であるファン・ジニのはかない人生が歴史に名を残すことはほとんどなかったが、両班たちが書き残した様々な記録にその名が登場し、名妓として伝説が残っていった。

    このように、古くからファン・ジニは朝鮮の人々を魅了してやまず、多くの作家が小説を書いてきた題材であり、イ・テジュン(1936年)、キム・タクファン(2002年)の作品がある。キムの「ファン・ジニ」は韓国KBSでハ・ジウォンでドラマ化された。さらに北朝鮮の作家ホン・ソクチュンの「ファン・ジニ」は2004年に韓国でも出版されてベストセラーとなり、北の作家として初めて南の文学賞(萬海文学賞)を受賞した。そして今度日本でも公開されるホン原作の映画化「ファン・ジニ」(チャン・ユニョン監督)が劇場公開される。主演は清純派のソン・ヘギョ。可憐さと妖艶さが同居する魅力的なヒロイン像として期待される。ハ・ジウォンとソン・ヘギョ、二つの「ファン・ジニ」を比較するのも興味深いものがある。

2008年9月 8日 (月)

綾小路麗子

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    NHK大河ドラマ「篤姫」で徳川家定の母、本寿院を演じて活躍中の高畑淳子。「魂萌え」あたりから主演級の役も多くなったが、もともと劇団出身の女優さんで演技力には定評がある。若い頃は東映の特撮作品によく出演していた。「仮面ライダーーBLACK RK」(1988)のマリバロンや「特捜ロボ・ジャンパーソン」(1993)のスーパー・サイエンス・ネットワークの女帝・綾小路麗子など悪役が得意だった。

2008年9月 7日 (日)

尾張徳川家の菩提寺・建中寺

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   建中寺三門  名古屋市指定文化財

    尾張徳川家の菩提寺で知られる建中寺(浄土宗)は名古屋市東区にあり、筒井町周辺は門前町として早くから発展し、大正4年に市電が名古屋駅から平田町まで延びると、周辺に商店街が立ち並び繁昌していた。

    建中寺は慶安4年(1651)に第2代尾張藩主徳川光友(1625-1700)が父である第1代藩主徳川義直(1601-1650)の菩提を弔うために建立し、江戸時代を通じて歴代尾張藩主の廟が置かれた。画像の建中寺三門は創建当時の建築物で、名古屋市指定文化財になっている。三門とは、空門、無相門、無願門の三解脱門の意味を持つ。仏教の覚りの境地を表すものである。

ターゲ・アンデルセン

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  コペンハーゲンにある花の天才ターゲ・アンデルセンのギャラリーには、鳥が鳴いて美しい草花が溢れる物語の世界に入り込んだかのような異空間が広がる。 

   本日も快晴。ブックオフへ行く。「世界文学全集3 スタンダール赤と黒」(千趣会)、ユリウス・カエサル「新訳ガリア戦記」、いがらしゆみこ「ジョージィ!1,2,3,4」柊あおい、「バロン猫の男爵」、池田理代子「ベルサイユのばら」、キム・サンホン「チャングム1.2.3」、池田香代子「世界がもし100人の村だったら」購入。

2008年9月 6日 (土)

福神漬と冷飯

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 帰りに買った福神漬で

 一人淋しく冷飯食えば

 古い虫歯がまたまたうずく

 愚痴は云うまい零すまい

 これが男の生きる道

    植木等が切々と歌うショボクレたサラリーマンの哀歌で、福神漬と冷飯という取り合わせは絶妙である。ところで福神漬の由来を調べると、古くは江戸時代初期にまでさかのぼるが、一般に広まったのは明治になってからである。明治18年ころ、上野の漬物店「酒悦」第15代野田清右衛門は、茄子、蕪、大根、なた豆、紫蘇の実、うど、筍、蓮などを細かく刻んで、味醂醤油で下漬をしてから、水飴などを加えて再び煮つめた味醂醤油に漬け込んだ新製品をつくりだした。それを小石川指ガ谷町に住む梅亭という趣味人のところへ持って行き、試食して貰った。その人が感心して、「酒悦は不忍池の弁財天に近いから七福神に見立てて福神漬と命名して、その材料も七種にするとよい」と教え、「この漬物を常用するときは、他に副食はなくても済むから贅沢をせず、知らず知らずに財宝がたまって福が舞込む」と書いてこの引札をつけるとよいとすすめ、福神漬は一般に広まったとされる。(参考文献:清水桂一「たべもの語源辞典」)

2008年9月 3日 (水)

手が4本ある化学者

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    女流画家マギー・ハンブリング(1945年生まれ)が描いた人物画のモデルはドロシー・ホジキン(1910-1994)というイギリスの化学者であるが、なんと、手が4本もある。ホジキン(正式名はドロシー・メアリー・クラウフット・ホジキン)はX線回折法による生体物質の分子構造の決定により1966年ノーベル化学賞を受賞した。ハンブリングは近年は画家としてよりも彫刻家として知られ、ロンドンのアデレイド通りのオスカー・ワイルドのブロンズ像などを制作している。

2008年9月 1日 (月)

石原裕次郎と美空ひばり

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    むかし、両親に連れられて通った映画館は、地方都市の二番館で三本立て興行であった。50年も前のことである。東映と日活の作品を上映していた。美空ひばりが男役で目明しに扮し、裕次郎のアクション映画「嵐を呼ぶ男」「風速40米」「紅の翼」は見た記憶がある。石原裕次郎、みんなは「裕ちゃん」と気安くよんでいた。スーッと伸びた長い脚、片手をポケットに突っ込み反抗的に肩をそびやかした歩き方、育ちの良さそうなカラカラした明るさ、そうした彼の持つムードは封建的な日本の古い殻の中に閉じ込められていたそれまでの日本人のコンプレックスを一気に吹き払う役目を果たしてくれたのだろう。いまでも美空ひばりと石原裕次郎の人気は衰えることなく、日本人の心に中にあるといえる。

    本日、買出しで「わが心の裕次郎」(日本音楽教育センター)という本を見つけた。あまり見かけたことない本だったので買った。そのほか「美空ひばり」(文春文庫)、ふくやまけいこ「アップフェルラント物語」、御瀧政子「恋のメソッド」、田辺聖子「姥ざかり花の旅笠」、婦人生活社「お菓子12ヵ月」、リリー・フランキー「ボロボロになった人へ」、柳美里「女学生の友」、「ハインリヒ・マン集 世界文学全集45」(筑摩書房)内容「臣下」「ピッポ・スパーノ」「地下の国からの帰還」「コーベス」

イギリスの秋

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    9月になったからとて、急に秋らしくなるものではない。夏の暑さはまだ厳しいのであるが、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる」(「古今和歌集」藤原敏行)という古歌が思い出される。

  「百人一首」などを見ても「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ」「春すぎて夏来にけらし白妙の」と季節の移ろいを主題とした歌がほとんどである。すなわち我が国では古代より1年を春、夏、秋、冬の四季に分けていた。ところで同じ島国でもイギリスでは14世紀ごろまで、1年をsummer(夏)とwinter(冬)の二季に分けていた。spring(春)は16世紀から、autumn(秋)はジェフリー・チョーサー(1343-1400)から用いられた。イギリス固有の秋という語は、harvestとfallで、北方地方では今でもこの語を用いている。「ハーベスト」は収穫のとき、「フォール」は落葉のときである。「ハーベスト・フェスティバル」といって、9月下旬から10月上旬にかけて、各地の教会で収穫祭が催されている。

   だが近世、近代になってからイギリスの文学でも秋の自然を描写したものが多くなってくる。たとえば、次の詩に見えるように木の葉の散り果てるありさまをなぞらえて、恋のはかなさを歌う。

秋はきた、2人を愛する長い木の葉のうえに、

オオムギの束のなかに巣食うハツカネズミのうえに、

ナナカマドの葉はわれわれの頭上に黄ばみ

露しとど、野イチゴの葉も黄ばんでいる。

恋のおとろえのときはわれらに寄せきて、

2人の悲しい心は、いきはもの憂く疲れはてた。

別れよう、情熱のときのわれらを去らぬうちに、

伏目なる御身(きみ)の額に接吻し涙しながら

     イェイッ「The Falling of the Leaves」

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