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2008年7月17日 (木)

八郎潟と児島湾

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    ケペルが小学生だった頃、社会科の教科書では秋田の八郎潟干拓や岡山の児島湾干拓が大きく取り上げられていた。戦後の成長期の日本では開発は善と考えられていた。ところが最近の諫早湾干拓問題のように公共事業が環境破壊をもたらすという意見もあり、時代は開発よりも環境重視の考え方に変わりつつあるように思える。

   八郎潟干拓の計画は古くは安政年間に払戸村の渡辺斧松が八郎潟疎水案を立てたのに始まが、実施には至らなかった。戦後の食糧危機が契機となり、昭和32年に着工し、昭和39年に完成し、大潟村が誕生した。全国から580戸の農家が移り住んで、近代的な大規模経営が行なわれ、日本のモデル農村として注目された。しかし、昭和44年に減反がはじまり、米づくりから転作して、小麦、大豆などをつくるようになった。しかし、他の作物で米なみの収益をあげることはむずかしい。

    児島湾は江戸時代岡山藩主池田氏によって干拓事業がすすめられた。明治になると、沿岸漁民の反対を押し切って、藤田伝三郎(1841-1912)によって実施され、藤田組による大農場が経営された。戦後は、農林省の手で干拓が完成し、湾奥には児島湖が造成され、広大な湾も湾口部以外は姿を消した。八郎潟や児島湾の干拓事業の功罪は、周辺の水質悪化などの環境破壊、農業、漁業問題など多くの今日的課題をもっている。

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