チャイコフスキーとメック夫人
ナジェージダ・フォン・メック夫人
ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキー(1840-1893)は1840年5月7日、ロシアの田舎町ヴォトキンスクに生れた。生まれつきの内気な性格であったが、小さいころからピアノのレッスンを受けた彼は、早くから優れた才能をあらわした。大学では法律を勉強し、卒業後、司法省の官吏についていたが、音楽をあきらめきれず、ペテルブルグ音楽院に入学し、音楽家としての道を歩む。1877年、37歳をむかえたチャイコフスキーは未知の女性からラブレターを受け取った。アントニーナ・ミリューコヴァという20歳になったばかりの女性だった。その後も、情熱的な手紙を送りつけ、ついには「会ってくれなければ自殺する」と脅しをかけてきた。その年のうちにふたりは結婚した。しかし、ふたりの新婚生活は不幸なものであった。チャイコフスキーは神経衰弱におちいり、妻を避けるように旅に出る。アントニーナは次々とスキャンダルを起こしたあげく、ついに精神病院に送られることになった。そのころのチャイコフスキーを精神的に支えたのはナジェージダ・フォン・メック夫人(1831-1894)だった。メック夫人は、鉄道で富を築いた夫に先立たれ、夫の死後、優雅な暮らしを送っていた。弟子のニコライ・ルビンシテイン(1835-1881)を通して、1877年に知り合った。文通だけの類まれな関係は13年間も続いた。しかし、1890年のある日、メック夫人から交際のとりやめを告げてきた。心が病み、自分が破産したと思い込んだ彼女は、チャイコフスキーへの資金援助と文通を打ち切った。この事件以来、チャイコフスキーは落ち込み、身体も弱ってきた。チャイコフスキーの死因は、コレラにかかって死んだといわれているが、毒を飲んで死んだという説もあり、真相はいまだにわかっていない。
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フォン・メック夫人とチャイコフスキーとの人間関係はチャイコフスキーの人生に極めて重要な意味を有しているが、夫人に関する記述は検討していただいてもいいのではないか。夫人は、「鉄道王メック氏」と結婚したわけではない。結婚当時、メック氏はまだロシア帝国の一官僚でしかなかった。その夫を説得して退官させて、一大事業にまい進させたのは夫人の力だった。このようなわけで、夫の死後、鉄道事業を守った夫人の生活は「優雅」とは程遠いものだった。このような、夫人の人柄を理解したときに、初めてチャイコフスキーと夫人の人間関係の複雑さが理解できると思う。このような事情は、「別冊歴史読本、世界未解決事件・闇に葬られた謎と真相」(新人物往来社)の「チャイコフスキー」に短いが触れられている。
投稿: 浅間山の灰かぶり | 2009年5月16日 (土) 18時19分
貴重なご意見をありがとう。ナデージダ・フィラレートヴナ・フォン・メックは、スモレンスクの地主の家に生れて、16歳の時、バルト海沿岸地方のドイツ人貴族カルル・フォン・メックに嫁いでいます。フォン・メックは有利な条件でロシア政府から鉄道会社の免許を得て、特にモスクワ・リャザン間の貨物線によって、穀倉地帯から食物を大量に運送して莫大な利益を上げ、まもなく数百万ルーブルの資本を蓄積しました。ドビッシーも一時メック夫人のお抱え音楽家だったことがあります。まだ世間的には評価の固まってなかったチャイコフスキーをメック夫人は高く買って保護者となっていました。チャイコフスキーとメック夫人との関係は、この時代の芸術家とパトロンの関係を考える上で、大変に興味あるケースなのでもって調べてみようと思います。
投稿: ケペル | 2009年5月17日 (日) 07時05分
ケペル先生に極めて素朴な質問なのですが。差し支えなければ教えてください。一般的に日本語で書かれているチャイコフスキーに関する記述は、英語のウィキペディ等に比較すると割とあっさりとしている感じがしますが、何か理由があるのでしょうか。日本人は世界的にみてもチャイコフスキーが好きだと思いますが、その割りに、ブログ等での書き込みが少ないように思いますが。
投稿: 浅間山の灰かぶり | 2009年5月23日 (土) 21時28分