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2008年7月31日 (木)

よみがえったソウルの清渓川

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    魚も泳ぐようになった清渓川

    ソウルの市内を流れる清渓川は、朝鮮時代には最も重要な水路であった。ところが戦後、汚染が進み、貧困のシンボルと言われるようになった。1968年にはコンクリートで蓋をした清渓川の上に高速道路が造られた。完成当時は急速な経済発展の象徴のように見えたが、1990年代には周辺の在住者や在勤者にとっても、そして環境にとっても有害なものとなった。清渓川高架道路は築30年で老朽化し、高架道路を再建設するか、清渓川を復元させるかで、意見が分かれた。2002年の市長選挙で、清渓川復元を掲げた李明博(イ・ミョンパク)が当選。復元工事は2003年7月に始まり、2005年9月には綺麗に澄んだ小川がソウル市内を再び流れることとなった。

2008年7月30日 (水)

アンジェラスの岸辺

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   「アルジャントゥイユのレガッタ」 モネ

   仕事の帰りにブックオフに立ち寄る。片山恭一「雨の日のイルカたちは」、辻仁成「太陽待ち」、北川悦吏子「ビューティフルライフ」を購入。「ビューティフルライフ」は木村拓哉・常盤貴子主演のヒットドラマのノベライズ。美容師・沖島柊二と図書館司書・町田杏子のピュアなラブストーリー。辻と片山の作品は必ずしも好評であったとはいえない作品。片山のは「アンジェラスの岸辺」「雨の日のイルカたちは」「彼らは生き、われわれは死んでいる」「百万語の言葉よりも」の4つの短編小説集。

2008年7月28日 (月)

幕末の紀州藩「大勢三転考」

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           徳川家茂画像(徳川恒孝氏蔵)

    昨日放送されたNHK大河ドラマ「篤姫 第30話・将軍の母」では紀州藩出身の徳川慶福(1846-1866)がよく出てくるようになり、幕末の紀州藩について考えてみたくなった。安政期、第13代将軍家定の継嗣問題をめぐっては、水戸家出身の一橋家当主徳川慶喜(平岳太)を推す勢力があったが、時の大老井伊直弼はそれを押さえて徳川家茂(松田翔太)を14代将軍とした。紀州藩は慶応2年、第二次長州戦争のときは、最後の藩主茂承(もちつぐ)は先鋒総督となり、家茂も自ら出陣している。翌年、家茂は21歳の若さで大坂城で死去する。家茂を演ずる松田翔太は松田優作・熊谷美由紀の次男であり、慶喜を演ずる平岳太は平幹二朗・佐久間良子の長男というのも面白い。

    ところで幕末紀州藩には大番頭格として、藩財政に関与していた伊達千広(1802-1877)という人物がいた。陸奥宗光の実父である。伊達千広の書いた史書に「大勢三転考」(1848年)というユニークな本がある。徳川幕府が成立するまでの日本史を「骨の代」「職の代」「名の代」の三時代に区分した通史である。つまり日本の制度は時の勢によって、二度の大変化を遂げたことを説いている。これまでの歴史観では、時勢を推移するものは神・仏・天などに捉われていたが、伊達千広の史観には、人間自身の手によって歴史がつくられるものであるという現実的合理的な観念をみることができる。本書は千広が藩内の政争で失脚して長く幽閉状態におかれていたため、明治6年になって上梓されたという。本書は「日本の思想6 歴史思想集」(筑摩書房)に収録されている。

すべての美は憧れから始まる

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    今日も本の買出し。藤田宜永「邪恋」、藤本ひとみ「ブルボンの封印」、三浦綾子「塩狩峠」、里中満智子「マノンレスコー」「椿姫」、石井まゆみ「ロッカーのハナコさん1」、牛島慶子「死国」、藤野真紀子「エレガンスな毎日」「エレガントに暮らす」、藤原美智子「綺麗の法則」。

     藤原美智子の「キレイ」を引き出す理論とテクニックは幅広い世代の女性から熱い支持を得ている。

「最高の美容液は毎日の暮らしの中にある」(藤原美智子)

2008年7月27日 (日)

知恵ある蜘蛛は神の使い

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    蜘蛛は人間のごく身近にいる虫であるが、普通あまり人間に好まれていない。しかし蜘蛛は自分の力で精巧な糸を織ることができるので、昔から世界の各地で賢い象徴として神の使いと考えられることが多い。宋の黄庭堅(1045-1105)の詩に次のように謳われている。

  南窓に書を読む声吾伊

  北窓月を見、竹枝を歌う

  我が家の白髪、烏鵲を問い

  他家の紅粧を占なわん

   (南の窓では孫博士が書を読み、北の窓では私が月を見ながら竹枝を歌う。故郷では我が家の白髪の母が、かささぎが鳴くのを聞けば息子が帰ってくるだろうと思い、孫家では、紅のよそおいをこらした奥さんが、蜘蛛が巣を作るのを見れば、夫が帰ってくるものと思っていよう)

   古来、中国では、蜘蛛が巣を作ると、喜びごとがあるという言い伝えがあったという。唐の「西京雑記」には「蜘蛛集而百事喜」(くもあつまりて、ひゃくじよろこばし)とあるように、蜘蛛の行動を見て前兆と考えたらしい。

オルコットの推理小説「愛の果ての物語」

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      ルイザ・メイ・オルコット

    午前中、本の買出しに行く。吉田修一「パーク・ライフ」、山本文緒「恋愛中毒」「プラナリア」、小川洋子「博士の愛した数式」、酒井順子「負け犬の遠吼え」、宮尾登美子「一絃の琴」、和久本みさ子「ハンサムな女たち」、河合隼雄「こころの子育て」、「特選お菓子百科156」ブティック社、ボブ・グリーン「ABCDJ」、オルコット「愛の果ての物語」。

   「若草物語」(1868年)で知られるルイザ・メイ・オルコット(1832-1888)が、スリラー小説を書いていたことはあまり知られていない。1993年、ケント・ビックネルはオルコットの小説「愛の果ての物語」の版権を買い取り、出版した。お話は、18歳のロザモンド・ヴィヴィアンは、イギリスの小さな島で、愛情のない祖父と二人きりの孤独な生活を送っていた。ある日、祖父のもとを大金持ちのフィリップ・テンペストが訪れる。ロザモンドは自分の倍近い年の、どこか陰のあるテンペストと恋に落ち、二人は結婚してフランスへ旅立つ。しかしやがてロザモンドは、その結婚が罠であり、テンペストの恐るべき秘密に気づき始める…。

川は流れる

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 病葉(わくらば)を 今日も浮かべて

 街の谷 川は流れる

   沖縄出身の美少女歌手・仲宗根美樹が歌う「川は流れる」(昭和36年、作詞・横井弘)は「雨の花園」のB面だった。それにしても、いい歌詞だ。当時は歌い出しの「わくらば」が何か知らないで聞いていたが。広辞苑によると「②病葉。病気におかされた葉。また、色づきすがれた葉」だそうだ。

   「川はどこから流れる」という素朴な疑問は、誰しももつように思われる。「雨水が川に水を供給している」というだけでは、単なる思いつきの答えでしかない。川に直接注ぎ込む雨水の量は、海に流れこんでいる水量の半分にも満たない。じつは、川の水の大半は地下水と、雪と氷の解けたものである。そして、日照さえあれば、山の氷河や万年雪は一年中解けつづける。

    湖や川が、いかに大きなものに見えても、それらは、地球上に存在する水のきわめてわずかな部分を占めているにすぎない。淡水の大部分は極地方の万年氷や氷河として、あるいは地下水として蓄えられていることは、あまり気がついていない。

    われわれは淡水と塩水とを区別している。これは、人間が淡水を必要としている。淡水も塩水も大きな水の循環のなかの一時的な状態にすぎない。海は巨大な量の塩水を蓄えている。この塩水と淡水との間には絶えず交流がある。太陽は海や、湖や、池、あるいはふつうの家の庭にある小さな水盤まで、あらゆる種類の水面から水を蒸発させている。水蒸気が雲になると、初めてそれが人間の目に見える。雲は雨や雪を地上に降らせる。また、蒸発した水蒸気は、わたしたちの気づかぬままに、露や霧となってさまざまな道すじをたどって大地にもどる。(参考文献:「すばらしい自然」リーダーズ・ダイジェスト)

2008年7月23日 (水)

犬の日

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    ラブラドールレトリーバー・雑種

  ヨーロッパでは、おおいぬ座α星シリウスが太陽と同じ方向に現れるこの期間(7月23日から8月23日)を「犬の日」としている。この星が現れる頃は猛暑で、人も家畜も体力が弱まり病気になりやすいのはこの星のせいだという言い伝えがある。

    犬の頭数の世界的な増加は人間の増加に匹敵するといわれる。いまや人間の住む世界各地で犬の姿が見られ、家犬の品種は400を超えるが、これらの品種はいずれも人為的淘汰の恩恵を受けて今日に至っている。というのも、大型犬のグレートデンであれ、小型犬のチワワであれ、犬はすべて、先史時代の猟人に飼い馴らされたオオカミの末裔だからである。

    今日の家犬は長い年代を経て人間に飼育されているので、その形態の変化や大小が非常にちがってきていて、一種の動物として、犬ほど形態や大きさのちがう動物は他に見ることができない。これは犬の遺伝子が多数であることにもよるが、その祖先が多元的であり、長い人為的選択をくり返してきたためと思われる。そして多数の品種が生じたのである。また形態ばかりでなく、性質も非常にちがっているので、古くから世界の各地方で、番犬・狩猟犬・愛玩犬が発達し、北方地方ではそり犬のような運搬用に用いられ、またある地方では食犬として食用に供せられていた。人類の生活が複雑化するにつれて、狩猟犬もその獲物によって特長をもつ犬種が生じ、愛玩犬も種々の形のものが発達し、さらに牧羊犬が生じ、各種の軍用犬・警察犬のような高度の性能の犬や、盲導犬のような特別な性能をもつものもつくられるようになってきた。

    原始的な犬は現在も野犬となっているオーストラリア産のディンゴー犬、インド産のバリア犬などの一亜種にはいっているが、現在の家犬は次の6亜種に分けられる。ポメラニアン型、北方犬型、番犬型、青銅犬型、狩犬型、グレイハウンド型。そのほかに南米のインカ犬型も一亜種とされている。

2008年7月22日 (火)

鉄腕アトムと原爆

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原爆ドーム近くにあったアトム書房(「昭和2万日の全記録8」講談社)

  最近、新聞で「湯川秀樹は原爆研究に関与せず」という報道があった。原子力という新しいエネルギーを研究することは純粋な科学であるが、それを軍事的な核兵器として応用することは悪であり、平和的に利用する原子力発電は善である、という考え方は一般的であろう。もちろん原子力発電の安全性には疑問があり、反対する意見もあるであろうが。ところで50代以上の世代であれば、小さいころから手塚治虫(1928-1989)の「鉄腕アトム」を知らない人はいないだろう。「鉄腕アトム」は昭和27年4月から「少年」(光文社)に連載されたが、その前に、昭和26年4月から27年3月まで「アトム大使」に連載されていた登場人物が「アトム」であった。「アトム」はその名のとおり、小型原子炉を体内に持って発電するエネルギーで動く人間型ロボットである。ロボットではあるが人間のような感情をもっている。科学者らしい手塚の発想であるが、当時の日本の状況からして「アトム」(原子)をネーミングとすることに問題がなかったのか、あったのか、往時を知る者でなければわからない。「アトム」は原子という意味であっても、その頃の日本人にとって原爆を想起するものであって印象が良いとは思えない。たとえば黒澤明の映画「生きものの記録」などを観ると、原爆への恐怖はいまよりも強かったことがわかる。ところが、ここに不思議な一枚の写真を見た。昭和22年頃の広島原爆ドーム近くの風景であるが、バラック建ての書店が写っている。看板には「アトム書房」とある。店主はどのようなおもいで屋号をきめたのだろうか。おそらく原爆投下されたが、それには決して負けない、という決意がこめられているのではないだろうか。つまりこの一枚の写真は「復興する広島市」を表現しているのである。それを思い合わせると、「アトム大使」「鉄人アトム」「鉄腕アトム」は、未来志向の平和への願いを込めた、よいネーミングだったと思うのである。

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「アトム大使」最終ページの予告では「鉄人アトム」とある

2008年7月21日 (月)

パリが教えてくれること

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 「マトラの船着場 モレ・シュル・ロワン」 シスレー

   日曜日には靴を磨く習慣こそが、エレガントな女性への近道なのです。ヨーロッパでは、初対面の人をまず靴で判断すると言われています。靴が何よりも持ち主を物語るからです。きれいに磨かれていなかったり、ヒールが擦り減っていたりすると、だらしない人間と評価されます。手入れされていない靴は、どんなに装いが素晴らしくても、すべてを台無しにしてしまうからです。(「パリが教えてくれること」)

   夜から本の買出し。伊藤緋紗子「パリが教えてくれること」「女らしさという名の幸せ」、徳大寺有恒「女性のための運転術」、田崎真也「ワイン生活」、川島ルミ子「ディオールの世界」、坂東眞砂子「山妣」、青山七恵「ひとり日和」、羽海野チカ「ハチミツとクローバー1」 、神尾葉子「花より男子1」

ギャスケル夫人

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    ロンドンのチェルシーに生れたエリザベス・ギャスケル(1810-1865)は、マンチェスター南部のナッツフォードで少女時代を過ごしたのち、22歳の時、牧師のウィリアム・ギャスケルと結婚した。メアリアン、ミータ、フロッシーと3人の女児にめぐまれたが、1848年に息子をチフスで亡くした。悲しみを紛らすために書いた小説「メアリー・バートン」(1848)や「北と南」(1855)は、失業労働者の悲惨な生活についてのつぶさな見聞を生かして、工業都市における労資の衝突を扱い、社会小説として評判となり、一躍ベンジャミン・ディズレリ、チャールズ・ディケンズ、チャールズ・キングスレーなどと並ぶ作家となった。小さな田舎町の女性の生活を描いた「グランフォード」(1853)、些細な家庭内の問題を扱った「妻たちと娘たち」(1866)、「シルヴィアの恋人たち」(1863)などギャスケル夫人は19世紀の屈指のストーリーテラーとなった。「シャーロット・ブロンテの生涯」(1857)も、伝記文学の名作といわれる。

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「シャーロッテ・ブロンテの生涯」の口絵を飾ったギャスケル夫人が描いたハワース教会と牧師館

セザンヌの死

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 セザンヌ夫人、オルタンス  1900年ころ

   晩年、セザンヌの名声は日を経るに従って高まっていったが、セザンヌは孤独な日々を過ごしていた。1898年には、母アンヌが死んだ。妻のオルタンスは息子の教育のためと称してパリへ行き、セザンヌのもとには帰らなかった。そして、糖尿病がセザンヌを苦しめるようになった。しかし、その苦しさのなかでも、絵を描くことだけは絶対にやめられない。1906年10月15日、セザンヌは野外で風景の写生をしているうちに、豪雨にあい、帰り道で倒れた。農夫に発見されてエクスの家にかつぎこまれたが、翌日はすぐに起き上がり、庭師ヴァリエの肖像画を描き続けようとした。しかし、そのために肺炎を悪化させて再び床につく。パリにいる妻のオルタンスは危篤の電報を手にしても、なぜか駆けつけようとはしなかった。5日後、10月22日、パリから帰らない息子の名前をよびながら、妹マリーにみとられブルゴン街の自宅でセザンヌの67歳の生涯は終わった。故郷エクスの墓地に埋葬される。

ダロウェイ夫人

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    エラニーでのリンゴ狩り ピサロ

    6月のロンドン。心地よい空気が満ち溢れたセント・ジェームズ公園を、ダロウェイ夫人が歩いている。五十の坂をこして、自分がとても若いような気もするし、お話にならないほど老けたような気もする。(「ダロウェイ夫人」)

    真夏の朝、出かける。ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」、マルグリット・デュラス「愛人」、ビョン・ヒョク脚本「スカーレット・レター」、ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」、江國香織「東京タワー」、江國香織・辻仁成「冷静と情熱のあいだ」、大江健三郎「二百年の子供」、市川拓司「いま、会いにゆきます」を購入。

セザンヌ夫人の肖像画

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扇子を持つ婦人 セザンヌ夫人 1879年~1882年

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          温室のセザンヌ夫人 1891年

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         セザンヌ夫人の肖像 1885年~1887年

  ポール・セザンヌ(1839-1906)は、30歳の頃、パリで19歳のモデル、オルタンス・フィケを知る。やがて普仏戦争が始まり、徴兵を逃れるため、マルセイユに近い漁村エスタックにオルタンスと逃れる。オルタンスとは父親の反対もあり内縁関係であったが、長男も生まれ、1886年に二人は正式に結婚した。セザンヌ夫人は「スイスとレモネード以外に何ら興味を持たない女性」とセザンヌが語っているが、内向的なセザンヌとは対照的に陽気で明るい性格の人だったそうだ。セザンヌ夫人の肖像画は全部合わせると49点以上、油絵だけでも30点以上ある。つまり、夫婦仲は睦まじかった、といえるであろうが、絵からはどの作品をみても、夫人に対する愛情はあまり感じられず、いずれも不機嫌そうな表情である。セザンヌにとつては自分の妻も卓上のリンゴも、モチィーフとして見るかぎり何ら変わりなかった。

2008年7月20日 (日)

蒼いフォトグラフ

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    関西の新設大学が第1期生を募集していた。椎名燎平は入学手続きのため事務局の入口にいた。そのとき、真っ赤なエナメルのレインコートを着た娘が立っていた。「うーん、どうしょうかなァ。…迷うなァ」と言った。「俺も、どないしょうか、ずっと迷てるんやけど…」建物の白い壁に凭れかかると、娘はじっと燎平を見ていた。「まあ、…上級生が一人もおれへんという点は、気楽でええよなァ」その言い方がおかしかったのか、娘はくすっと笑うと、無言のまま笑顔を燎平に注いできた。娘はふいに事務局に入って行き、受付のガラス窓をあけて。「お願いします」と叫んだ。燎平はぼんやりとあとを追った。さっさと入学手続きを済ますと、娘は髪についた水滴をぬぐいながら、「お先に」と言い、それから軽く胸のところで手を振った。燎平も急いで入学手続きを済まし、彼はキャンパスを出た。それが佐野夏子と出合った初めての日であった。

   宮本輝の『青が散る』はテニスというスポーツを初めて文学作品にした青春文学である。翌年にはドラマ化されたが、東京が舞台となり、原作とは異なるトレンディードラマになっていた。二世タレントがデビューして、「青散る族」という流行語も生れた。

    夕方、また買出し。宮本輝「青が散る」「錦繍」、小川洋子「ホテル・アイリス」「薬指の標本」、矢沢あい「エスケープ」、美内すずえ「ガラスの仮面2、3」、牧村久美「天使の歌 全5巻」。

悲劇の龍田丸、最期の航海

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                   海の女王・龍田丸

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  司厨長・板倉作次郎による料理は評判だった

   日米開戦が噂される中、昭和16年12月2日、日本郵船の豪華客船龍田丸(16955トン)が静かに横浜港を出航した。行く先はロサンゼルス経由バルボア(パナマ)である。大本営は龍田丸の出航停止を検討していた。しかし、それでは日米開戦を知らせることになってしまう。そこで当初11月20日であった出航日を、12月2日に変更させることにした。11月20日の場合、ロス着12月3日、バルボア着17日、18日ごろになる。真珠湾攻撃日が決定されている以上、バルボアでは確実にアメリカ軍に拿捕されることが明らかである。そこで、日程をずらした。12月2日に出航した龍田丸は、12月8日は、まだ180度あたり(日付変更線)なので、敵に拿捕されないギリギリの地域でUターンし、全速力で横浜に向かい、12月14日横浜に寄港した。この計画を知っていたのは、乗船した海軍軍務局の市川少佐と本村船長だけだった。

    龍田丸は航海運航終了後は海軍に徴用された。昭和18年2月8日、風速20mの暴風雨の中、トラック島に向けて横浜港を出航した龍田丸は、米潜水艦ターホンの雷撃を受け、御蔵島近海で沈没した。乗組員198名、乗船員1283名、全員死亡、生存者は一人もいないという悲劇的な最期を遂げた。太平洋横断を100回以上を超えた龍田丸Ⅰ世(1930-1943)は今も東京湾から南西約200㎞の御蔵島沖に静かに眠っている。

エレガンスの法則

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   夏休みも始まり、プール、野球場、テニスコートは賑わっていた。ケペルはいつものように新古書店に買出しに行く。炎暑なので着帽。ラファイエット夫人「クレーヴの奥方」、ハーディ「テス」、ジョルジュ・サンド「愛の妖精」、浅野裕子「一週間で女を磨く本」、「名画謎解きミステリー」、伊藤緋紗子「エレガンスの法則」。あと「印象派の画家たち全15巻」のうち欠本だったゴッホ、スーラ、セザンヌを入手。これでマネ、ルノワールを除いて13巻が揃った。

    伊藤緋紗子さん。お写真だけを拝見したが、とても美しい人である。まず一生涯、出会うことはないだろうが。せめて一冊、ご著書を買った。エレガントに年齢を重ねる7つのポイントとは。

1.一人でコツコツできる趣味を持つ

2.手紙を書く喜び、受け取る喜びを思い出す

3.上質の絵画、文学、映画にふれる

4.友情は「数」ではなく絆の「強さ」がポイント

5.家事の手抜きに後ろめたさを感じない

6,健やかな大人になるために、必要な無駄使いもある

7.「夢」は伸ばした手が届く範囲に設定する

    とくに「女性の書斎」としては、ポイントの6を推奨する。「女性の書斎」は不要不急のものかも知れない。無料ですむ、書店での立ち読みや、公共図書館で本を借りたりすればすむかもしれない。だが書店でファッション雑誌で買わずに立ち読みで傷めて、平気な顔で帰ってエレガントになろうとしても無理な話だ。

    「女性の書斎」は、公共図書館にはない本を収集している。いわば既存の図書館、新古書店、新刊書店の弱点を知り、ほんとうに女性のための図書をそろえている。エレガントになろうと思えば、僅かの金銭を自分に投資をしても、かならず実ると考えている。エステサロンに通うより、エレガントな女性になるには内面から磨くことだ。

何でも見てやろう

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   堀江謙一(当時23歳)は昭和37年5月12日夜、全長6メートルのヨット・マーメイド号で西宮を出発、日本人で初めて単身小型ヨットによる太平洋横断に成功した。その頃、若者たちの間で読まれた本が小田実(1932-2007)の『何でも見てやろう』だった。昭和36年2月に出版されたこの本は発売後10ヵ月で20万部を超えるベストセラーとなった。小田はフルブライト留学生として昭和33年の夏からハーバード大学に1年間留学し、そのあとアメリカ、ヨーロッパ、アラブ、アジアの諸国22ヵ国を一日一ドルで放浪、昭和35年4月に帰国した。『何でも見てやろう』は、その放浪の旅の体験をまとめたものである。「この本で、いちばん書きたかったことは?」という記者の質問に対して、「日本のインテリが持っている、西洋に対するへんてこな劣等感と、アジア・アラブに対するへんてこなあこがれを、ふっとばしたかった」と答えている。冒険家の堀江謙一、指揮者の小沢征爾、平和運動家の小田実など戦後の新しい青年たちが出現した時代であった。

2008年7月18日 (金)

瀬戸内晴美「夏の終り」

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   瀬戸内晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れる。昭和18年、見合い結婚。昭和22年、4歳年下の夫の教え子Oと出奔。昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をしたのち、また年下の男子との生活を復活させる。この間の事情を私小説として「夏の終り」を書く。昭和37年「新潮」に発表し、作家的地位を築く。昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかった。

奈良の鹿

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    2010年は「平城遷都1300年記念事業」がある。マスコットキャラクターで「せんとくん」が可愛くないと批判がでて、「まんとくん」が登場したりしているが、あまり愉快な話ではない。「ゆるキャラ」というものもあまり好きではない。京都の祇園祭、大阪の天神祭、に比べ奈良には決定力が不足している。奈良は南都七大寺を中心に発展した町であるが、平重衡の南都焼打ちや、明治維新の廃仏毀釈により、衰退した。やはり観光奈良のシンボルといえば奈良公園の鹿であろう。春日大社の祭神、武甕槌命が鹿島から勧請された際、鹿に乗じられたという故事により、春日大社の神鹿として保護されたばかりでなく春日大社を氏神と仰ぐ藤原氏の貴族たちは、この神鹿に会うことをこの上もない喜びとし、乗物から降りて鹿を拝したという記録も残している。特に江戸時代には犬狩りをしたり、神鹿を害したものは厳罰に処せられた。誤って鹿を殺した三作が石子詰にされたという伝説を残している。初夏のころは、鹿子斑点もあざやかで、鹿がもつとも美しい季節である。10月には鹿の角切りの行事が行なわれるので、観光客にとっては夏が奈良観光の最良のシーズンだといえる。

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  がんばれ、せんとくん

微笑みながら消えていく

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    本日も午前中、新古書店に買出しに行く。お目当ては105円の文芸書。島本理生「ナラタージュ」、唯川恵「ため息の時間」、横山秀夫「震度0」、佐藤賢一「王妃の離婚」、スチュアート・ウッズ「草の根」、篠田節子「女たちのジハード」、ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」、銀色夏生「微笑みながら消えていく」。銀色夏生の本はポエムにうつくしい写真が添えられている。詩集と写真を合わせた本は館内で読むのにふさわしいかもしれない。はじめは館内で読む本として画集をたくさん集めたが、大きくて重くて本当に利用があるだろうか不安である。小さくて軽い写真集のほうが利用は高いかもしれない。感覚的にはポップで明るいものがほしい。なるべく館内の雰囲気を軽快で明るいものにしたい。ただしBGM流さないこととする。音楽が流れる部屋にしては狭すぎるからだ。静寂でゆったりとした時の流れに浸ってもらう空間にしたい。

学生作家・大江健三郎、異才登場

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    このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。

   日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。

2008年7月17日 (木)

好太王は仁徳天皇か?

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                空から見た仁徳天皇陵

    「徒然草」52段「仁和寺にある法師」には、石清水八幡宮に参ったお坊さんが、山のふもとの寺社だけ見て、これが石清水八幡宮だと思い込み、山上にある肝心の八幡宮を拝まずに帰った話がある。ところで平安時代から鎌倉時代にかけては八幡信仰が盛んだったようだ。八幡神とは応神天皇のことである。応神天皇はあの三韓征伐説話で知られる神功皇后の皇子。好太王碑にみえる帯方郡に出兵して死んだ。八幡宮はそのために創建されたもので、弓を祭るともいう。(八幡太郎・源義家が弓の名人で、以来、八幡神は源氏の守護神となった)

    先週、NHKで放送されているペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマ「太王四神記」を見ていると、高句麗が百済へ出兵している。この頃、倭も出兵しているらしいが、詳しいことは謎である。岡山大学の小林恵子の説によると、応神天皇の子である仁徳天皇は実は好太王であったという。(「広開土王と倭の五王」文藝春秋)つまりタムドク(ペ・ヨンジュン)は日本に降臨して天皇になったというのだ。6月、ヨン様は大阪に来日したとき、仁徳天皇陵をご覧になったのだろうか。

きみが天使に見えるとき

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    高校生の有香はテニスが大好き。10年前、交通事故で大けがをした時、はげましてくれたタカアキ君からテニスを教わった。だけど、緊張すると足がすくんでしまう有香はテニス部のお荷物。そんな有香の前に、江口高秋という先輩が現れる。

    午後から近所の新古書店へ買出し。なんと少女コミックセールで1冊50円。少女漫画は多巻物が多いが、1巻物を選ぶ。著者の評価がわからないが、タイトルだけで決める。宮脇ゆきの「きみが天使に見えるとき」。昔、石川ひとみの曲によく似たタイトル「君は輝いて天使にみえた」(天野滋)があるが無関係だ。平田京子「19、20歳」、樹本祐季「抱いて…」、吉野マリ「はちみつ少年」、北川みゆき「不機嫌な愛撫」、村田ゆか「中学生」。女の子と男の子の出会いからデートまでがストレートに展開するので、時間つぶしに読むのに最適だ。小学生、中学生女子が対象であるが、意外と若い主婦も喜んで読むかも知れない。なぜなら主婦は経済的理由や亭主の好みによっては家庭にマンガを置けない人もいる。実は少女時代からマンガ大好きで本屋で立ち読みするくらいだけど、図書館にはマンガがない、ここでは気兼ねなく読める。図書館では名作マンガはあっても、自由に幅広く揃えているところはそう多くない。そうかといってマンガ喫茶は抵抗感がある人をターゲットにする。文芸書から学術書、少女マンガまで幅広い収集を特色としたい。

血液サラサラ

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   本日、夏休み。午前中、電車に乗って少し遠いブック・オフへ買出し。やはり人気作家の近作は定価の半額ぐらいするので買わないで、105円の本だけを探す。よしもとばなな「デッドエンドの思い出」、唯川恵「永遠の途中」、辻仁成「愛と永遠の青い空」、片山恭一「きみの知らないところで世界は動く」。ケペルは小説は読まないので、本の状態や紙が焼けていないかをポイントにしている。あとは実用書。「NHKためしてガッテン、血液サラサラ健康レシピ」「おいしいお正月」「園児べんとう」「「いっしょにつくれる幼稚園べんとう」。

   テレビでスタジオ・パークに中村吉右衛門が出演しているので見る。流石に一流の大物は偉ぶらない、虚勢を張ったところがない、自然体である、人としてやわらかい感じがする。ただし芸談になると、真剣である。「拍手をもとめるような芝居をするな」というのが歌舞伎の教えと言う。むかし林家三平が客席に向かって、「ここから半分は拍手が少ないのでもう一度!」と客に拍手を求めて笑いをさそったが、あれは寄席の世界の話で、歌舞伎の芸術は内面からの感動を求めるのであろうか。いい話である。

八郎潟と児島湾

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    ケペルが小学生だった頃、社会科の教科書では秋田の八郎潟干拓や岡山の児島湾干拓が大きく取り上げられていた。戦後の成長期の日本では開発は善と考えられていた。ところが最近の諫早湾干拓問題のように公共事業が環境破壊をもたらすという意見もあり、時代は開発よりも環境重視の考え方に変わりつつあるように思える。

   八郎潟干拓の計画は古くは安政年間に払戸村の渡辺斧松が八郎潟疎水案を立てたのに始まが、実施には至らなかった。戦後の食糧危機が契機となり、昭和32年に着工し、昭和39年に完成し、大潟村が誕生した。全国から580戸の農家が移り住んで、近代的な大規模経営が行なわれ、日本のモデル農村として注目された。しかし、昭和44年に減反がはじまり、米づくりから転作して、小麦、大豆などをつくるようになった。しかし、他の作物で米なみの収益をあげることはむずかしい。

    児島湾は江戸時代岡山藩主池田氏によって干拓事業がすすめられた。明治になると、沿岸漁民の反対を押し切って、藤田伝三郎(1841-1912)によって実施され、藤田組による大農場が経営された。戦後は、農林省の手で干拓が完成し、湾奥には児島湖が造成され、広大な湾も湾口部以外は姿を消した。八郎潟や児島湾の干拓事業の功罪は、周辺の水質悪化などの環境破壊、農業、漁業問題など多くの今日的課題をもっている。

2008年7月14日 (月)

永遠の美女モナ・リザ

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   名画中の名画、それがダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。19世紀の文学者・ゴーチェは「かつて女というものの理想が、これ以上誘惑的な形態をまとっていたことはなかった」といっている。つまり、この謎の多い名画を解くキーワードは「理想美」。ダ・ヴィンチはこの絵を、ひとりの婦人の肖像画としてではなく、女性の理想美を表現すべく描いたとしている。「モナ・リザ」以前の西洋絵画にはこれほど自然なポーズで背景と調和し、均衡を作品を保っている作品はなかった。「幸福の持ち物」とされる微笑を浮かべ、抑制された威厳をたたえた美女は、500年を経た今日も、その美しさをいささかも失うことなく生き続けている。(引用文献:「週刊世界の美術 1 ルーヴル美術館」)

初代泉尾教会長・三宅歳雄

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    金光教といえば江戸末期に創設された神道系の新興宗教であるが、現在、その隆盛期を迎えている。高校野球やサッカーなどでも大阪の金光大阪高等学校(高槻市)などの活躍ぶりをみても、建学の精神が横溢しているものを感ずる。ところで大阪の泉尾教会所に布教をはじめたのは、昭和2年ころ、三宅歳雄(1903-1999)によるものである。和歌山県出身で、金光教を通じて献身的な布教を実践した。とくに青少年の教化指導が今日の学校経営にも現れている。三宅恒子夫人、長男の三宅龍雄(1928-2006)と続き、新たな時代が始まっている。ただ史家としては、20世紀を生きた宗教家の伝記研究がおろそかにされている現状は惜しむべきことと考えている。コンサイス日本人名辞典などに収録されていない。

「古文の読解」小西甚一

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    小西甚一先生(1915-2007)が先年お亡くなりなったというニュースを聞いた。先生とお呼びしたが、ケペルは直接の生徒ではなく、ラジオ講座や受験用参考書を通してお世話になったにすぎない。小西先生のユーモアたっぷりのわかりよい文章は受験生に人気があった。画像のように表紙に大きく先生の写真を掲載していることもからその人気のほどが知れるであろう。大正4年、三重県宇治山田市船江町に生れる。父の小西甚吉は伊勢水産株式会社の人で、のち専務取締役になるほどの人物。石炭商としても成功したらしい。宇治山田の市会議員、商工会議所議員。宇治山田市の立志伝中の一人。長男である甚一は秀才の誉れ高く、昭和15年東京文理科大国文科を卒業後も研究を続け、若くして「文鏡秘府論考」で学士院賞を受賞する。昭和32年から33年、スタンフォード大学に客員教授として招かれた。晩年も「日本文藝史」を完成させ、まことに立派な学者人生であった。ともかく小西甚一先生のおかげで無味簡素な国文学が少しは興味がもてるようになった。古文に親しむようになるのは高校時代よりも、むしろ50歳を過ぎてからもう一度読み直すのがよいように思う。

列車食堂・みかど食堂と後藤鉄二郎

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   日本初の列車食堂を経営したのは、神戸駅構内に誕生したミカドホテルの経営者・後藤勝造である。後藤新平が逓信大臣をしていた関係で、新平と親しかった回漕業者の勝造は主として鉄道方面の事業としてホテル経営を明治30年にはじめ、丸マ通運、やがて列車食堂の「みかど食堂」を経営する。二代目の後藤鉄二郎(1868-1940)はさらに事業を拡張し、日本一の列車食堂となった。三代目は後藤泰助。現在の日本食堂、日本レストランエンタプライズの源流となる。

2008年7月13日 (日)

和辻陸二とカフェー「心ブラ」

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                          昭和4年の心斎橋筋

    昭和初期、大阪心斎橋筋2丁目にカフェー「心ブラ」が出現した。「心ブラ」は「銀ブラ」をもじった言葉で、「心」は心斎橋、「ブラ」はぶらつくこと。「心ブラ」という言葉は今や死語に近いが、昭和初期には十合(そごう)や大丸の百貨店が営業を始めると心斎橋はなかなかの賑わいをみせ流行語となった。和辻陸二(兵庫県出身。明治41年生)は初め南区周防町にカフェーを営業するとき、「銀ブラ」に対抗して「心ブラ」と命名したことがルーツかもしれない。お店は大人気となったが、道路拡張に従って、立ち退きを余儀なくされ、新店が心斎橋筋二丁目に進出し、文字通り「心ブラ」の中心地となった。アール・デコの建築も豪華で、業界第一のカフェーとして知られた。

2008年7月12日 (土)

煙管を折るの記

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    吉田松陰自賛肖像 松陰神社蔵

    松下村塾の最も早い入門者の一人として増野徳民(1841-1877)がいる。安政3年11月25日には、増野に連れられて吉田稔麿((1841-1864)が入塾する。続いて近所の魚屋り息子松浦松洞(1837-1862)が入り、塾らしくなってきた。吉田松陰(1830-1859)は徳民に「無咎」(むきゅう)、松洞に「無窮」(むきゅう)、稔麿に「無逸」(むいつ)と名づけ、三人を「三無生」と親愛の情を込めて呼んだ。松陰が野山獄に入れられた時、三無生は釈放の活動をした。

   当時のエピソードに、「煙管を折るの記」(安政4年9月)が知られている。ある日、タバコを吸っている塾生の話になると、松陰は嫌な顔をした。それに気づいた稔麿は、その気まずさから煙管を折り、禁煙を宣言する。すると全員がそれに従った。その場にいなかった高杉晋作も翌日、話を聞き、禁煙の難しさを自分の経験で諭し、励ました。塾生たちと松陰との師弟関係が伝わってくる話である。松浦松洞が描いた松陰肖像画にも師への敬愛がうかがわれる。

ベター・ハーフ

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    午前中、曇天であるが雨が降っていないので仕入れに行く。735円で次の7冊。ヘレン・フィールディング「ブリジット・ジョーンズの日記」、ニコラス・スパークス「きみに読む物語」、トールキン「指輪物語 旅の仲間」、小栗左多里&トニー・ラズロ「ダーリンは外国人2」「ダーリンの頭ン中」、藤田宜永「愛の領分」、唯川恵「ベター・ハーフ」である。ブリジット・ジョーンズはロンドンで独り暮らしをする30代のシングル女性。仕事にも男にも入れ込みすぎたくはない。目下の課題はダイエット。最高の楽しみは気の合う友人と飲んでしゃべって騒ぐこと。映画ではレニー・ゼルウィガーの出世作品となった。レニーはこの映画のために体重を15キロ増やしたというが、ぽっちゃりした印象はいつまでも残る。現在39歳というから当時もかなり年齢がいっていたのだ。原作を読んでいないので、やはり映画化されたものは撰びやすい。小栗左多里はいわゆるコミック・エッセイだが、なかなか面白くて英語学習のためになる。石田衣良の作品を探したが100円ではなかった。恋愛小説ということで藤田宜永と唯川恵を選んだ。ベスト・ハーフではなくてベター・ハーフである。最高ではないが、まあまあのパートナーというとこか。第一章が「六月の花嫁」ではなくて「七月の花嫁」。作家もタイトルにはいろいろ思いをこめているのだろう。30代から40代くらいの女性を想定して選書することは楽しい。不思議な快感がある。

チャイコフスキーとメック夫人

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      ナジェージダ・フォン・メック夫人

    ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキーは1840年5月7日、ロシアの田舎町ヴォトキンスクに生れた。生まれつきの内気な性格であったが、小さいころからピアノのレッスンを受けた彼は、早くから優れた才能をあらわした。大学では法律を勉強し、卒業後、司法省の官吏についていたが、音楽をあきらめきれず、ペテルブルグ音楽院に入学し、音楽家としての道を歩む。1877年、37歳をむかえたチャイコフスキーは未知の女性からラブレターを受け取った。アントニーナ・ミリューコヴァという20歳になったばかりの女性だった。その後も、情熱的な手紙を送りつけ、ついには「会ってくれなければ自殺する」と脅しをかけてきた。その年のうちにふたりは結婚した。しかし、ふたりの新婚生活は不幸なものであった。チャイコフスキーは神経衰弱におちいり、妻を避けるように旅に出る。アントニーナは次々とスキャンダルを起こしたあげく、ついに精神病院に送られることになった。そのころのチャイコフスキーを精神的に支えたのはナジェージダ・フォン・メック夫人だった。メック夫人は、鉄道で富を築いた夫に先立たれ、夫の死後、優雅な暮らしを送っていた。弟子のニコライ・ルビンシテインを通して、1877年に知り合った。文通だけの類まれな関係は13年間も続いた。しかし、1890年のある日、ネック夫人から交際のとりやめを告げてきた。心が病み、自分が破産したと思い込んだ彼女は、チャイコフスキーへの資金援助と文通を打ち切った。この事件以来、チャイコフスキーは落ち込み、身体も弱ってきた。チャイコフスキーの死因は、コレラにかかって死んだといわれているが、毒を飲んで死んだという説もあり、真相はいまだにわかっていない。

2008年7月11日 (金)

リストの初恋と七月革命

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    フランツ・リストは1811年ハンガリーのドボリアン(現在オーストリア領のライディング)に生れた。父アダムは、ハイドンにゆかりの深いエステルハージー公家の土地管理人を勤め、楽才もあった。リストは、幼少の頃から父の手によって音楽教育を授けられ、早くからすばらしい才能を示した。17歳の時、ピアノの弟子で、フランスの商工大臣サン・クリクの令嬢カロリーヌと愛し合ったが、カロリーヌの父に仲を引き裂かれる。リストは心に深い痛手を負い、ステージから遠ざかった。「リストは死んだ」という噂まで流れた。リストは病床で宗教書や哲学書、それに恋愛小説まで読みふけり、いくぶん気力を取り戻した。1830年の夏がきた。リストの病気中にパリは暗い雰囲気に包まれていた。ウィーン会議のあとに復活したブルボン王朝のシャルル10世は反動的な政治を行なっていた。その結果、7月のパリは「保守党を倒せ」という群衆の叫び声が騒然とあふれていた。7月27日の正午、リストは窓から、パリ市庁に向かって走る群衆とはためく三色旗を見た。ノートルダム大聖堂の鐘が鳴り渡り、小銃の音が街路に交錯した。29日にはルーヴル宮が市民たちに占領された。このようすを聞いたリストは何ヶ月ぶりかでピアノの前に座り、革命の指導者ラファイエットに捧げる「革命交響曲」の草稿を書き始めた。この曲はスケッチのままでオーケストレーションされなかったが、リストはこれで失恋の痛手から立ち直った。

芭蕉「奥の細道」と平泉

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    12世紀の奥州藤原氏が仏教思想に基づき完成させた東北の政治・行政の拠点であった平泉の世界文化遺産登録が延期される(事実上の落選)というニュースがあった。世界遺産になると観光地として賑やかになり、巨額なマネーが落ち、利益も莫大であろうが、「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句から連想される平泉には、むしろ荒れ果てた廃墟の美がふさわしいように感ずる。

    松尾芭蕉(1644-1694)が憧れの平泉にたどりついたのは元禄2年5月13日(陽暦6月29日)であった。高館に登って一望すると、武士の夢の跡の儚さが感じられる。高館にたてこもった源義経は、応戦むなしく自刃。享年31歳であった。山頂には義経堂が建てられ木像が祀られている。

    高館の丘を下り、中尊寺へと向かうと、金色堂と経堂の二つだけを残して、その他は一面の廃墟であった。さぞかし荒れ果てた景色に芭蕉は涙をおとしたことだろう。明治以後、中尊寺の金色堂が再建された。金色堂内陣には、本尊阿弥陀如来、その前には蓮を持った観音・勢至菩薩、左右に三体ずつ六地蔵が立つ。最前列に持国天と増長天。須弥壇の中央に初代清衡、向かって左に二代基衡、右に三代秀衡の遺骸が納められている。

   五月雨に降り残してや光堂

アメリカン・ヒーロー誕生

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    1943年8月2日、ソロモン諸島沖のブランケット海峡を14隻の魚雷艇といっしよに哨戒中の魚雷艇109号は、日本海軍の駆逐艦天霧(艦長・花見弘平)と衝突した。駆逐艦が魚雷艇を真っ二つにしたとき、やせた艇長、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ中尉(1917-1963)は、操縦席の壁にたたきつけられた。「殺されるとは、こんな感じか」と彼は思った。

    燃料タンクが引火して火に包まれた魚雷艇は、沈没した。13人の乗組員のうち、2名が戦死、1名が重傷を負った。生存者たちは安全地帯へ泳いで脱出しようとした。ケネディは火傷を負った乗組員の救命胴衣のひもを、歯で噛みしめながら彼を引っぱっていった。脚を負傷したマサチュセッツ州出身の乗組員が、もうこれ以上泳げない、といったとき、ケネディはどなり返した。「ボストンっ子にしちゃ、こんなところで、まったく大した恥さらし者だよ、お前は!」その男はついに頑張り通した。4時間後、11名の乗組員はプラム・プディング島にたどり着いた。彼らにとって幸運なことには、近くのコロンバンガラ島にいたオーストラリア軍の沿岸監視隊員アーサー・レジナルド・エヴァンズ中尉が、魚雷艇が撃沈された夜、海峡に炎が上がるのを見ていた。彼が近くの島の監視隊員に無線で連絡すると、109号艇が行方不明であることが判明した。彼の部下のふたりの斥候が、島に泳ぎついた生存者たちを発見し、その救助に魚雷艇が差し向けられた。救援の157号艇が現れて、6日間死の苦しみを味わった乗組員たちを収容した。食料を与えられたケネディは、「有り難う、いまヤシの実を食べたばっかりだよ」としかめ面で答えた。結局、12人10人の命を救ったケネディは、新聞で大きく報道され、太平洋戦争の英雄となった。

天にある大いなる喜び

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   イエスの教えを聞くためにさまざまな人々が集まっていました。パリサイ人や律法学者たちは「この人は罪人を招いて、一緒に食事をしている」と言いました。そこでイエスは、次の譬え話をしました。

   「もし、あなたがたに百匹の羊がいて、そのなかの一匹をなくしたとしたら、九十九匹の羊を野原において、そのまよった羊を探し歩くにちがいない。そして、その羊を見つけたら、肩にかついで喜び、家に帰ってからも、友だちや近所の人たちに、わたしと一緒に喜んでください。なくした羊が見つかったのです」と言うだろう。あなたがたに言っておくが、天国は、このように、悔いあらためのいらない九十九人の正しい人よりも、悔いあらためているひとりの罪人のほうを、喜んで迎えてくれるのである。また、ある女の人が十枚の銀貨を持っていて、その一枚をなくしたら、どうするだろうか。きっとあかりをつけて、家のすみからすみまで、一所懸命に捜すにちがいない。そして、なくした一枚の銀貨を見つけたら、友だちや近所の人をよんで、わたしと一緒に、よろこんでください。なくした銀貨を見つけたのです」と言うだろう。あなたがたに言っておくが、同じように、神のみ使いたちも、悔いあらためるひとりの罪人のことを、とても喜ばれるのであるろ

2008年7月10日 (木)

見ざる、聞かざる、言わざる

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            郷土玩具 小幡人形 滋賀県五個荘

  「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿といえば、日光東照宮の彫刻を思いうかべる。しかし、三猿をかたどった造形は世界各地に分布している。猿の棲息するインドやアフリカはもとより、猿のいないヨーロッパや朝鮮半島にも、さまざまな三猿像が広まっている。「見ざる、聞かざる、言わざる」は民間に流布した一種の道徳であり、処世訓である。この考えを猿の姿をとおして表現したのは、もちろん日本語の否定形の「ざる」が動物の「猿」と同音であることによる。しかし、このことは三猿の日本起源を証明するものではない。

    日本における三猿の代表は、日光東照宮にある木彫の三猿である。徳川家康を大権現として祀る霊廟に、三猿が飾られているのは、この場所が厩(うまや)に当たるため、猿が火伏(ひぶ)せの力を持つこととなって、東照宮を火から守っているのである。さらに、天台宗の僧で、東照宮を建立した天海大僧正の主張により、家康の葬儀は山王一実神道によって執り行われた。すなわち天台宗と結びつきの深い、山王の象徴としての神猿に近い役割を、日光の猿が持っているのである。

    もうひとつの起源として庚申信仰をあげることができる。庚申は「かのえさる」とも読み、その連想から江戸時代初期以降、猿が庚申塔に刻まれるようになったらしい。庚申は道教に端を発する民間習俗である。六十日毎の庚申の日に徹夜するのは、体内から三尸の虫が抜け出し、天帝に悪事を告げさせないためである。庚申講を地域社会の寄り合いとして利用していたところもあり、そこでは「見ざる。聞かざる、言わざる」は仲間どうしの掟にもなっていた。

  「論語」のなかには、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」というくだりがある。実際、中国では、母は胎教にあたって「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は傲言を出さず」といましめられている。このように日本の三猿のルーツのひとつは道教にあり、もうひとつには儒教があげられる。しかも、それが日本では天台系の仏教の影響下に定着し、猿にかかわる民間信仰とも結びついていた。

    ところが、今日の世界各地でみられる三猿には宗教的な色彩はうすい。むしろ装飾品や日用小物として使用されるものが圧倒的多数を占めている。しかも、ヨーロッパやアフリカには「見ろ、聞け、言うな」あるいは「見ろ、聞け、言え」という三猿もすくなくない。また、四猿や五猿の組み合わせも存在する。日本の郷土玩具のなかにも、「不為さざる」あるいは「不思わざる」の猿が加わり、四猿や五猿の玩具もみられる。五猿は、猿がゴザル、福がゴザルに通じ、護猿(守りサル)としても験をかついでいる。さらに、「見てみたい、聞いてみたい、言ってみたい」と人間の本音を具象化した逆三猿の玩具まである。(参考文献:中牧弘允「世界の三猿」東方出版)

2008年7月 9日 (水)

ブラームスとエリザベート

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                  ヨハネス・ブラームス

    ヨハネス・ブラームス(1833-1897)はドイツのハンブルクで生れた。父ヨーハン・ヤーコブから音楽の手ほどきを受け、ピアノを学んだ。13歳の時には酒場でピアノを弾き、家計を助けるようになった。20歳の時、シューマンを訪ねる。シューマンはブラームスの才能を見抜き、妻クララと共に親しくなった。シューマンの死後も、クララとの親密な関係は続いた。

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       エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルク

   ブラームスは、生涯一度も結婚しなかった。その理由を人に問われたとき、ブラームスは「そんな機会はなかった」と答えたが、これはブラームスの照れ隠しで、恋愛は幾度かあった。35歳の時、大学教授の娘アガーデ・フォン・ジーボルトと結婚寸前までいくが破談する。またエリザベート・フォン・シュトックハウゼン(1847-1891)はブラームスに弟子入りしたが、彼女の美しさにブラームスは恐れをなしてかハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(1843-1900)に押しつけてしまった。エリザベートはハインリヒと結婚するが、彼女は生涯通じてブラームスのよき理解者だった。

2008年7月 8日 (火)

よきサマリア人

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  イエスのされた譬え話に、よきサマリア人の話がある。一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコに下っていく旅の途中の寂しい所で強盗にあって半殺しになった。祭司やレビ人が、そこを通る。ところが、彼らは傷ついた旅人をほっておいて「向こう側の道」を通っていった。しかし三番目にやってきたサマリア人は旅人の傷の手当てをし、宿屋に運び介抱したという。サマリア人は自分の予定を中止して、周りのことを自分のこととして受け止めたのである。良きサマリア人の話は中世から絵画などの主題となり、西洋ではよく知られているが、日本人はあまり知らないように思える。簡単な話だが、人の生き方について示唆しており、なかなか深いものがある。「自分を愛するように、あなたの隣の人を愛せよ」(ルカ10・27)の説明に使われた譬え話であるが、「狭き門から入れ」に共通する教えがみられる。多くの者が行く「向こう側の道」は滅びに至る道であり、サマリア人の歩んだ道は命に至る道である。

2008年7月 7日 (月)

ユトリロの信仰心

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   郊外の教会  1917年

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   コルシカ島の教会 1912年頃

   モーリス・ユトリロ(1883-1955)は1883年12月26日、パリのモンマルトルのポトー街3番地に、女流画家シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の私生児として生れた。ユトリロの前半生において、およそ10回におよぶアルコール中毒治療のための精神病院への入院がよく知られている。入院中、懸命に絵を描いては医師や看護婦たちにそれを見せ、自分が正常であることを示そうとした。作品のほとんどが風景画である。それもありふれたパリの街並み。なかでも注目されるのが教会が多いことである。サント・マルグリート教会、セント・セブリン教会、ドウィユの教会、モンマルトルの教会、サン・ジェルヴェの教会、シャティヨン・シュル・セーヌ教会、クリニャンクールのノートルダム教会など名作が多い。

   ユトリロは少年期から信仰に心ひかれるものがあったらしい。しかし母親のヴァラドンは少女時代の体験から聖職者たちに深い憎悪を抱いていた。母はユトリロに洗礼を受けさせず、彼の手から説教の本をとりあげることもたびたびあった。にもかかわらず、ユトリロの神への希求は衰えなかった。

    また、少年時代からジャンヌ・ダルクに魅せられていた彼は、第一次世界大戦の始まった1914年、ランスの聖堂(百年戦争の時、ジャンヌ・ダルクがフランス国王を即位させた場所)が、ドイツ軍に爆撃されたことを知って逆上し、その怒りを作品「炎上するランスの聖堂」として残している。1933年、49歳の年にようやくリヨンで洗礼を受け、4年後に聖体拝受をしたユトリロは、ますます狂信的ともいえる信仰の生活に入っていく。アトリエに祭壇を設け、教理問答書も暦の聖人の名もすべて暗記し、1日に6時間も祈りを続けた。ジャンヌ・ダルクが処刑された水曜日と、キリストが十字架にかけられた金曜日は仕事をせず、聖母マリア像の足や聖人の聖脾に接吻したりして過ごしたという。晩年のユトリロにとって、信仰は、若き日の絵と酒に代わる最後の心の拠り所であった。

ミントな僕ら

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    今日も