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2008年7月31日 (木)

よみがえったソウルの清渓川

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    魚も泳ぐようになった清渓川

    ソウルの市内を流れる清渓川は、朝鮮時代には最も重要な水路であった。ところが戦後、汚染が進み、貧困のシンボルと言われるようになった。1968年にはコンクリートで蓋をした清渓川の上に高速道路が造られた。完成当時は急速な経済発展の象徴のように見えたが、1990年代には周辺の在住者や在勤者にとっても、そして環境にとっても有害なものとなった。清渓川高架道路は築30年で老朽化し、高架道路を再建設するか、清渓川を復元させるかで、意見が分かれた。2002年の市長選挙で、清渓川復元を掲げた李明博(イ・ミョンパク)が当選。復元工事は2003年7月に始まり、2005年9月には綺麗に澄んだ小川がソウル市内を再び流れることとなった。

2008年7月30日 (水)

アンジェラスの岸辺

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   「アルジャントゥイユのレガッタ」 モネ

   仕事の帰りにブックオフに立ち寄る。片山恭一「雨の日のイルカたちは」、辻仁成「太陽待ち」、北川悦吏子「ビューティフルライフ」を購入。「ビューティフルライフ」は木村拓哉・常盤貴子主演のヒットドラマのノベライズ。美容師・沖島柊二と図書館司書・町田杏子のピュアなラブストーリー。辻と片山の作品は必ずしも好評であったとはいえない作品。片山のは「アンジェラスの岸辺」「雨の日のイルカたちは」「彼らは生き、われわれは死んでいる」「百万語の言葉よりも」の4つの短編小説集。

2008年7月28日 (月)

幕末の紀州藩「大勢三転考」

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           徳川家茂画像(徳川恒孝氏蔵)

    昨日放送されたNHK大河ドラマ「篤姫 第30話・将軍の母」では紀州藩出身の徳川慶福(1846-1866)がよく出てくるようになり、幕末の紀州藩について考えてみたくなった。安政期、第13代将軍家定の継嗣問題をめぐっては、水戸家出身の一橋家当主徳川慶喜(平岳太)を推す勢力があったが、時の大老井伊直弼はそれを押さえて徳川家茂(松田翔太)を14代将軍とした。紀州藩は慶応2年、第二次長州戦争のときは、最後の藩主茂承(もちつぐ)は先鋒総督となり、家茂も自ら出陣している。翌年、家茂は21歳の若さで大坂城で死去する。家茂を演ずる松田翔太は松田優作・熊谷美由紀の次男であり、慶喜を演ずる平岳太は平幹二朗・佐久間良子の長男というのも面白い。

    ところで幕末紀州藩には大番頭格として、藩財政に関与していた伊達千広(1802-1877)という人物がいた。陸奥宗光の実父である。伊達千広の書いた史書に「大勢三転考」(1848年)というユニークな本がある。徳川幕府が成立するまでの日本史を「骨の代」「職の代」「名の代」の三時代に区分した通史である。つまり日本の制度は時の勢によって、二度の大変化を遂げたことを説いている。これまでの歴史観では、時勢を推移するものは神・仏・天などに捉われていたが、伊達千広の史観には、人間自身の手によって歴史がつくられるものであるという現実的合理的な観念をみることができる。本書は千広が藩内の政争で失脚して長く幽閉状態におかれていたため、明治6年になって上梓されたという。本書は「日本の思想6 歴史思想集」(筑摩書房)に収録されている。

すべての美は憧れから始まる

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    今日も本の買出し。藤田宜永「邪恋」、藤本ひとみ「ブルボンの封印」、三浦綾子「塩狩峠」、里中満智子「マノンレスコー」「椿姫」、石井まゆみ「ロッカーのハナコさん1」、牛島慶子「死国」、藤野真紀子「エレガンスな毎日」「エレガントに暮らす」、藤原美智子「綺麗の法則」。

     藤原美智子の「キレイ」を引き出す理論とテクニックは幅広い世代の女性から熱い支持を得ている。

「最高の美容液は毎日の暮らしの中にある」(藤原美智子)

2008年7月27日 (日)

知恵ある蜘蛛は神の使い

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    蜘蛛は人間のごく身近にいる虫であるが、普通あまり人間に好まれていない。しかし蜘蛛は自分の力で精巧な糸を織ることができるので、昔から世界の各地で賢い象徴として神の使いと考えられることが多い。宋の黄庭堅(1045-1105)の詩に次のように謳われている。

  南窓に書を読む声吾伊

  北窓月を見、竹枝を歌う

  我が家の白髪、烏鵲を問い

  他家の紅粧を占なわん

   (南の窓では孫博士が書を読み、北の窓では私が月を見ながら竹枝を歌う。故郷では我が家の白髪の母が、かささぎが鳴くのを聞けば息子が帰ってくるだろうと思い、孫家では、紅のよそおいをこらした奥さんが、蜘蛛が巣を作るのを見れば、夫が帰ってくるものと思っていよう)

   古来、中国では、蜘蛛が巣を作ると、喜びごとがあるという言い伝えがあったという。唐の「西京雑記」には「蜘蛛集而百事喜」(くもあつまりて、ひゃくじよろこばし)とあるように、蜘蛛の行動を見て前兆と考えたらしい。

オルコットの推理小説「愛の果ての物語」

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      ルイザ・メイ・オルコット

    午前中、本の買出しに行く。吉田修一「パーク・ライフ」、山本文緒「恋愛中毒」「プラナリア」、小川洋子「博士の愛した数式」、酒井順子「負け犬の遠吼え」、宮尾登美子「一絃の琴」、和久本みさ子「ハンサムな女たち」、河合隼雄「こころの子育て」、「特選お菓子百科156」ブティック社、ボブ・グリーン「ABCDJ」、オルコット「愛の果ての物語」。

   「若草物語」(1868年)で知られるルイザ・メイ・オルコット(1832-1888)が、スリラー小説を書いていたことはあまり知られていない。1993年、ケント・ビックネルはオルコットの小説「愛の果ての物語」の版権を買い取り、出版した。お話は、18歳のロザモンド・ヴィヴィアンは、イギリスの小さな島で、愛情のない祖父と二人きりの孤独な生活を送っていた。ある日、祖父のもとを大金持ちのフィリップ・テンペストが訪れる。ロザモンドは自分の倍近い年の、どこか陰のあるテンペストと恋に落ち、二人は結婚してフランスへ旅立つ。しかしやがてロザモンドは、その結婚が罠であり、テンペストの恐るべき秘密に気づき始める…。

川は流れる

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 病葉(わくらば)を 今日も浮かべて

 街の谷 川は流れる

   沖縄出身の美少女歌手・仲宗根美樹が歌う「川は流れる」(昭和36年、作詞・横井弘)は「雨の花園」のB面だった。それにしても、いい歌詞だ。当時は歌い出しの「わくらば」が何か知らないで聞いていたが。広辞苑によると「②病葉。病気におかされた葉。また、色づきすがれた葉」だそうだ。

   「川はどこから流れる」という素朴な疑問は、誰しももつように思われる。「雨水が川に水を供給している」というだけでは、単なる思いつきの答えでしかない。川に直接注ぎ込む雨水の量は、海に流れこんでいる水量の半分にも満たない。じつは、川の水の大半は地下水と、雪と氷の解けたものである。そして、日照さえあれば、山の氷河や万年雪は一年中解けつづける。

    湖や川が、いかに大きなものに見えても、それらは、地球上に存在する水のきわめてわずかな部分を占めているにすぎない。淡水の大部分は極地方の万年氷や氷河として、あるいは地下水として蓄えられていることは、あまり気がついていない。

    われわれは淡水と塩水とを区別している。これは、人間が淡水を必要としている。淡水も塩水も大きな水の循環のなかの一時的な状態にすぎない。海は巨大な量の塩水を蓄えている。この塩水と淡水との間には絶えず交流がある。太陽は海や、湖や、池、あるいはふつうの家の庭にある小さな水盤まで、あらゆる種類の水面から水を蒸発させている。水蒸気が雲になると、初めてそれが人間の目に見える。雲は雨や雪を地上に降らせる。また、蒸発した水蒸気は、わたしたちの気づかぬままに、露や霧となってさまざまな道すじをたどって大地にもどる。(参考文献:「すばらしい自然」リーダーズ・ダイジェスト)

2008年7月22日 (火)

鉄腕アトムと原爆

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原爆ドーム近くにあったアトム書房(「昭和2万日の全記録8」講談社)

  最近、新聞で「湯川秀樹は原爆研究に関与せず」という報道があった。原子力という新しいエネルギーを研究することは純粋な科学であるが、それを軍事的な核兵器として応用することは悪であり、平和的に利用する原子力発電は善である、という考え方は一般的であろう。もちろん原子力発電の安全性には疑問があり、反対する意見もあるであろうが。ところで50代以上の世代であれば、小さいころから手塚治虫(1928-1989)の「鉄腕アトム」を知らない人はいないだろう。「鉄腕アトム」は昭和27年4月から「少年」(光文社)に連載されたが、その前に、昭和26年4月から27年3月まで「アトム大使」に連載されていた登場人物が「アトム」であった。「アトム」はその名のとおり、小型原子炉を体内に持って発電するエネルギーで動く人間型ロボットである。ロボットではあるが人間のような感情をもっている。科学者らしい手塚の発想であるが、当時の日本の状況からして「アトム」(原子)をネーミングとすることに問題がなかったのか、あったのか、往時を知る者でなければわからない。「アトム」は原子という意味であっても、その頃の日本人にとって原爆を想起するものであって印象が良いとは思えない。たとえば黒澤明の映画「生きものの記録」などを観ると、原爆への恐怖はいまよりも強かったことがわかる。ところが、ここに不思議な一枚の写真を見た。昭和22年頃の広島原爆ドーム近くの風景であるが、バラック建ての書店が写っている。看板には「アトム書房」とある。店主はどのようなおもいで屋号をきめたのだろうか。おそらく原爆投下されたが、それには決して負けない、という決意がこめられているのではないだろうか。つまりこの一枚の写真は「復興する広島市」を表現しているのである。それを思い合わせると、「アトム大使」「鉄人アトム」「鉄腕アトム」は、未来志向の平和への願いを込めた、よいネーミングだったと思うのである。

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「アトム大使」最終ページの予告では「鉄人アトム」とある

2008年7月21日 (月)

ギャスケル夫人

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    ロンドンのチェルシーに生れたエリザベス・ギャスケル(1810-1865)は、マンチェスター南部のナッツフォードで少女時代を過ごしたのち、22歳の時、牧師のウィリアム・ギャスケルと結婚した。メアリアン、ミータ、フロッシーと3人の女児にめぐまれたが、1848年に息子をチフスで亡くした。悲しみを紛らすために書いた小説「メアリー・バートン」(1848)や「北と南」(1855)は、失業労働者の悲惨な生活についてのつぶさな見聞を生かして、工業都市における労資の衝突を扱い、社会小説として評判となり、一躍ベンジャミン・ディズレリ、チャールズ・ディケンズ、チャールズ・キングスレーなどと並ぶ作家となった。小さな田舎町の女性の生活を描いた「グランフォード」(1853)、些細な家庭内の問題を扱った「妻たちと娘たち」(1866)、「シルヴィアの恋人たち」(1863)などギャスケル夫人は19世紀の屈指のストーリーテラーとなった。「シャーロット・ブロンテの生涯」(1857)も、伝記文学の名作といわれる。

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「シャーロッテ・ブロンテの生涯」の口絵を飾ったギャスケル夫人が描いたハワース教会と牧師館

ダロウェイ夫人

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    エラニーでのリンゴ狩り ピサロ

    6月のロンドン。心地よい空気が満ち溢れたセント・ジェームズ公園を、ダロウェイ夫人が歩いている。五十の坂をこして、自分がとても若いような気もするし、お話にならないほど老けたような気もする。(「ダロウェイ夫人」)

    真夏の朝、出かける。ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」、マルグリット・デュラス「愛人」、ビョン・ヒョク脚本「スカーレット・レター」、ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」、江國香織「東京タワー」、江國香織・辻仁成「冷静と情熱のあいだ」、大江健三郎「二百年の子供」、市川拓司「いま、会いにゆきます」を購入。

セザンヌ夫人の肖像画

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扇子を持つ婦人 セザンヌ夫人 1879年~1882年

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          温室のセザンヌ夫人 1891年

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         セザンヌ夫人の肖像 1885年~1887年

  ポール・セザンヌ(1839-1906)は、30歳の頃、パリで19歳のモデル、オルタンス・フィケを知る。やがて普仏戦争が始まり、徴兵を逃れるため、マルセイユに近い漁村エスタックにオルタンスと逃れる。オルタンスとは父親の反対もあり内縁関係であったが、長男も生まれ、1886年に二人は正式に結婚した。セザンヌ夫人は「スイスとレモネード以外に何ら興味を持たない女性」とセザンヌが語っているが、内向的なセザンヌとは対照的に陽気で明るい性格の人だったそうだ。セザンヌ夫人の肖像画は全部合わせると49点以上、油絵だけでも30点以上ある。つまり、夫婦仲は睦まじかった、といえるであろうが、絵からはどの作品をみても、夫人に対する愛情はあまり感じられず、いずれも不機嫌そうな表情である。セザンヌにとつては自分の妻も卓上のリンゴも、モチィーフとして見るかぎり何ら変わりなかった。

2008年7月20日 (日)

蒼いフォトグラフ

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    関西の新設大学が第1期生を募集していた。椎名燎平は入学手続きのため事務局の入口にいた。そのとき、真っ赤なエナメルのレインコートを着た娘が立っていた。「うーん、どうしょうかなァ。…迷うなァ」と言った。「俺も、どないしょうか、ずっと迷てるんやけど…」建物の白い壁に凭れかかると、娘はじっと燎平を見ていた。「まあ、…上級生が一人もおれへんという点は、気楽でええよなァ」その言い方がおかしかったのか、娘はくすっと笑うと、無言のまま笑顔を燎平に注いできた。娘はふいに事務局に入って行き、受付のガラス窓をあけて。「お願いします」と叫んだ。燎平はぼんやりとあとを追った。さっさと入学手続きを済ますと、娘は髪についた水滴をぬぐいながら、「お先に」と言い、それから軽く胸のところで手を振った。燎平も急いで入学手続きを済まし、彼はキャンパスを出た。それが佐野夏子と出合った初めての日であった。

   宮本輝の『青が散る』はテニスというスポーツを初めて文学作品にした青春文学である。翌年にはドラマ化されたが、東京が舞台となり、原作とは異なるトレンディードラマになっていた。二世タレントがデビューして、「青散る族」という流行語も生れた。

    夕方、また買出し。宮本輝「青が散る」「錦繍」、小川洋子「ホテル・アイリス」「薬指の標本」、矢沢あい「エスケープ」、美内すずえ「ガラスの仮面2、3」、牧村久美「天使の歌 全5巻」。

エレガンスの法則

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   夏休みも始まり、プール、野球場、テニスコートは賑わっていた。ケペルはいつものように新古書店に買出しに行く。炎暑なので着帽。ラファイエット夫人「クレーヴの奥方」、ハーディ「テス」、ジョルジュ・サンド「愛の妖精」、浅野裕子「一週間で女を磨く本」、「名画謎解きミステリー」、伊藤緋紗子「エレガンスの法則」。あと「印象派の画家たち全15巻」のうち欠本だったゴッホ、スーラ、セザンヌを入手。これでマネ、ルノワールを除いて13巻が揃った。

    伊藤緋紗子さん。お写真だけを拝見したが、とても美しい人である。まず一生涯、出会うことはないだろうが。せめて一冊、ご著書を買った。エレガントに年齢を重ねる7つのポイントとは。

1.一人でコツコツできる趣味を持つ

2.手紙を書く喜び、受け取る喜びを思い出す

3.上質の絵画、文学、映画にふれる

4.友情は「数」ではなく絆の「強さ」がポイント

5.家事の手抜きに後ろめたさを感じない

6,健やかな大人になるために、必要な無駄使いもある

7.「夢」は伸ばした手が届く範囲に設定する

    とくに「女性の書斎」としては、ポイントの6を推奨する。「女性の書斎」は不要不急のものかも知れない。無料ですむ、書店での立ち読みや、公共図書館で本を借りたりすればすむかもしれない。だが書店でファッション雑誌で買わずに立ち読みで傷めて、平気な顔で帰ってエレガントになろうとしても無理な話だ。

    「女性の書斎」は、公共図書館にはない本を収集している。いわば既存の図書館、新古書店、新刊書店の弱点を知り、ほんとうに女性のための図書をそろえている。エレガントになろうと思えば、僅かの金銭を自分に投資をしても、かならず実ると考えている。エステサロンに通うより、エレガントな女性になるには内面から磨くことだ。

何でも見てやろう

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   堀江謙一(当時23歳)は昭和37年5月12日夜、全長6メートルのヨット・マーメイド号で西宮を出発、日本人で初めて単身小型ヨットによる太平洋横断に成功した。その頃、若者たちの間で読まれた本が小田実(1932-2007)の『何でも見てやろう』だった。昭和36年2月に出版されたこの本は発売後10ヵ月で20万部を超えるベストセラーとなった。小田はフルブライト留学生として昭和33年の夏からハーバード大学に1年間留学し、そのあとアメリカ、ヨーロッパ、アラブ、アジアの諸国22ヵ国を一日一ドルで放浪、昭和35年4月に帰国した。『何でも見てやろう』は、その放浪の旅の体験をまとめたものである。「この本で、いちばん書きたかったことは?」という記者の質問に対して、「日本のインテリが持っている、西洋に対するへんてこな劣等感と、アジア・アラブに対するへんてこなあこがれを、ふっとばしたかった」と答えている。冒険家の堀江謙一、指揮者の小沢征爾、平和運動家の小田実など戦後の新しい青年たちが出現した時代であった。

2008年7月18日 (金)

瀬戸内晴美「夏の終り」

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   瀬戸内晴美は大正11年5月15日、徳島市塀裏町字巽浜14に、父三谷豊吉、母コハルの次女として生れる。昭和18年、見合い結婚。昭和22年、4歳年下の夫の教え子Oと出奔。昭和26年、妻子ある前衛作家・小田仁二郎(1910-1979)と8年余りの半同棲生活をしたのち、また年下の男子との生活を復活させる。この間の事情を私小説として「夏の終り」を書く。昭和37年「新潮」に発表し、作家的地位を築く。昭和48年に中尊寺で得度し、寂聴となる。今東光は、「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする」「断ちます」と二言三言を質問した。その後、昭和61年に円地文子が亡くなると、瀬戸内は「源氏物語」の執筆にとりかかった。

奈良の鹿

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    2010年は「平城遷都1300年記念事業」がある。マスコットキャラクターで「せんとくん」が可愛くないと批判がでて、「まんとくん」が登場したりしているが、あまり愉快な話ではない。「ゆるキャラ」というものもあまり好きではない。京都の祇園祭、大阪の天神祭、に比べ奈良には決定力が不足している。奈良は南都七大寺を中心に発展した町であるが、平重衡の南都焼打ちや、明治維新の廃仏毀釈により、衰退した。やはり観光奈良のシンボルといえば奈良公園の鹿であろう。春日大社の祭神、武甕槌命が鹿島から勧請された際、鹿に乗じられたという故事により、春日大社の神鹿として保護されたばかりでなく春日大社を氏神と仰ぐ藤原氏の貴族たちは、この神鹿に会うことをこの上もない喜びとし、乗物から降りて鹿を拝したという記録も残している。特に江戸時代には犬狩りをしたり、神鹿を害したものは厳罰に処せられた。誤って鹿を殺した三作が石子詰にされたという伝説を残している。初夏のころは、鹿子斑点もあざやかで、鹿がもつとも美しい季節である。10月には鹿の角切りの行事が行なわれるので、観光客にとっては夏が奈良観光の最良のシーズンだといえる。

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  がんばれ、せんとくん

微笑みながら消えていく

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    本日も午前中、新古書店に買出しに行く。お目当ては105円の文芸書。島本理生「ナラタージュ」、唯川恵「ため息の時間」、横山秀夫「震度0」、佐藤賢一「王妃の離婚」、スチュアート・ウッズ「草の根」、篠田節子「女たちのジハード」、ウワディスワフ・シュピルマン「戦場のピアニスト」、銀色夏生「微笑みながら消えていく」。銀色夏生の本はポエムにうつくしい写真が添えられている。詩集と写真を合わせた本は館内で読むのにふさわしいかもしれない。はじめは館内で読む本として画集をたくさん集めたが、大きくて重くて本当に利用があるだろうか不安である。小さくて軽い写真集のほうが利用は高いかもしれない。感覚的にはポップで明るいものがほしい。なるべく館内の雰囲気を軽快で明るいものにしたい。ただしBGM流さないこととする。音楽が流れる部屋にしては狭すぎるからだ。静寂でゆったりとした時の流れに浸ってもらう空間にしたい。

学生作家・大江健三郎、異才登場

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    このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。

   日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。

2008年7月17日 (木)

好太王は仁徳天皇か?

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                空から見た仁徳天皇陵

    「徒然草」52段「仁和寺にある法師」には、石清水八幡宮に参ったお坊さんが、山のふもとの寺社だけ見て、これが石清水八幡宮だと思い込み、山上にある肝心の八幡宮を拝まずに帰った話がある。ところで平安時代から鎌倉時代にかけては八幡信仰が盛んだったようだ。八幡神とは応神天皇のことである。応神天皇はあの三韓征伐説話で知られる神功皇后の皇子。好太王碑にみえる帯方郡に出兵して死んだ。八幡宮はそのために創建されたもので、弓を祭るともいう。(八幡太郎・源義家が弓の名人で、以来、八幡神は源氏の守護神となった)

    先週、NHKで放送されているペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマ「太王四神記」を見ていると、高句麗が百済へ出兵している。この頃、倭も出兵しているらしいが、詳しいことは謎である。岡山大学の小林恵子の説によると、応神天皇の子である仁徳天皇は実は好太王であったという。(「広開土王と倭の五王」文藝春秋)つまりタムドク(ペ・ヨンジュン)は日本に降臨して天皇になったというのだ。6月、ヨン様は大阪に来日したとき、仁徳天皇陵をご覧になったのだろうか。

きみが天使に見えるとき

C2ce6881     高校生の有香はテニスが大好き。10年前、交通事故で大けがをした時、はげましてくれたタカアキ君からテニスを教わった。だけど、緊張すると足がすくんでしまう有香はテニス部のお荷物。そんな有香の前に、江口高秋という先輩が現れる。

    午後から近所の新古書店へ買出し。少女コミックセールで1冊50円。少女漫画は多巻物が多いが、1巻物を選ぶ。著者の評価がわからないが、タイトルだけで決める。宮脇ゆきの「きみが天使に見えるとき」。昔、石川ひとみの曲によく似たタイトル「君は輝いて天使にみえた」(天野滋)があるが無関係だ。村上春樹の「1Q84」。ジョージ・オーウェルの「1984年」と似ている。平田京子「19、20歳」、樹本祐季「抱いて…」、吉野マリ「はちみつ少年」、北川みゆき「不機嫌な愛撫」、村田ゆか「中学生」。女の子と男の子の出会いからデートまでがストレートに展開するので、時間つぶしに読むのに最適だ。小学生、中学生女子が対象であるが、意外と若い主婦も喜んで読むかも知れない。なぜなら主婦は経済的理由や亭主の好みによっては家庭にマンガを置けない人もいる。実は少女時代からマンガ大好きで本屋で立ち読みするくらいだけど、図書館にはマンガがない、ここでは気兼ねなく読める。図書館では名作マンガはあっても、自由に幅広く揃えているところはそう多くない。そうかといってマンガ喫茶は抵抗感がある人をターゲットにする。

血液サラサラ

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   本日、夏休み。午前中、電車に乗って少し遠いブック・オフへ買出し。やはり人気作家の近作は定価の半額ぐらいするので買わないで、105円の本だけを探す。よしもとばなな「デッドエンドの思い出」、唯川恵「永遠の途中」、辻仁成「愛と永遠の青い空」、片山恭一「きみの知らないところで世界は動く」。ケペルは小説は読まないので、本の状態や紙が焼けていないかをポイントにしている。あとは実用書。「NHKためしてガッテン、血液サラサラ健康レシピ」「おいしいお正月」「園児べんとう」「「いっしょにつくれる幼稚園べんとう」。

   テレビでスタジオ・パークに中村吉右衛門が出演しているので見る。流石に一流の大物は偉ぶらない、虚勢を張ったところがない、自然体である、人としてやわらかい感じがする。ただし芸談になると、真剣である。「拍手をもとめるような芝居をするな」というのが歌舞伎の教えと言う。むかし林家三平が客席に向かって、「ここから半分は拍手が少ないのでもう一度!」と客に拍手を求めて笑いをさそったが、あれは寄席の世界の話で、歌舞伎の芸術は内面からの感動を求めるのであろうか。いい話である。

八郎潟と児島湾

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    ケペルが小学生だった頃、社会科の教科書では秋田の八郎潟干拓や岡山の児島湾干拓が大きく取り上げられていた。戦後の成長期の日本では開発は善と考えられていた。ところが最近の諫早湾干拓問題のように公共事業が環境破壊をもたらすという意見もあり、時代は開発よりも環境重視の考え方に変わりつつあるように思える。

   八郎潟干拓の計画は古くは安政年間に払戸村の渡辺斧松が八郎潟疎水案を立てたのに始まが、実施には至らなかった。戦後の食糧危機が契機となり、昭和32年に着工し、昭和39年に完成し、大潟村が誕生した。全国から580戸の農家が移り住んで、近代的な大規模経営が行なわれ、日本のモデル農村として注目された。しかし、昭和44年に減反がはじまり、米づくりから転作して、小麦、大豆などをつくるようになった。しかし、他の作物で米なみの収益をあげることはむずかしい。

    児島湾は江戸時代岡山藩主池田氏によって干拓事業がすすめられた。明治になると、沿岸漁民の反対を押し切って、藤田伝三郎(1841-1912)によって実施され、藤田組による大農場が経営された。戦後は、農林省の手で干拓が完成し、湾奥には児島湖が造成され、広大な湾も湾口部以外は姿を消した。八郎潟や児島湾の干拓事業の功罪は、周辺の水質悪化などの環境破壊、農業、漁業問題など多くの今日的課題をもっている。

2008年7月14日 (月)

永遠の美女モナ・リザ

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   名画中の名画、それがダ・ヴィンチの「モナ・リザ」である。19世紀の文学者・ゴーチェは「かつて女というものの理想が、これ以上誘惑的な形態をまとっていたことはなかった」といっている。つまり、この謎の多い名画を解くキーワードは「理想美」。ダ・ヴィンチはこの絵を、ひとりの婦人の肖像画としてではなく、女性の理想美を表現すべく描いたとしている。「モナ・リザ」以前の西洋絵画にはこれほど自然なポーズで背景と調和し、均衡を作品を保っている作品はなかった。「幸福の持ち物」とされる微笑を浮かべ、抑制された威厳をたたえた美女は、500年を経た今日も、その美しさをいささかも失うことなく生き続けている。(引用文献:「週刊世界の美術 1 ルーヴル美術館」)

初代泉尾教会長・三宅歳雄

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    金光教といえば江戸末期に創設された神道系の新興宗教であるが、現在、その隆盛期を迎えている。高校野球やサッカーなどでも大阪の金光大阪高等学校(高槻市)などの活躍ぶりをみても、建学の精神が横溢しているものを感ずる。ところで大阪の泉尾教会所に布教をはじめたのは、昭和2年ころ、三宅歳雄(1903-1999)によるものである。和歌山県出身で、金光教を通じて献身的な布教を実践した。とくに青少年の教化指導が今日の学校経営にも現れている。三宅恒子夫人、長男の三宅龍雄(1928-2006)と続き、新たな時代が始まっている。ただ史家としては、20世紀を生きた宗教家の伝記研究がおろそかにされている現状は惜しむべきことと考えている。コンサイス日本人名辞典などに収録されていない。

列車食堂・みかど食堂と後藤鉄二郎

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   日本初の列車食堂を経営したのは、神戸駅構内に誕生したミカドホテルの経営者・後藤勝造である。後藤新平が逓信大臣をしていた関係で、新平と親しかった回漕業者の勝造は主として鉄道方面の事業としてホテル経営を明治30年にはじめ、丸マ通運、やがて列車食堂の「みかど食堂」を経営する。二代目の後藤鉄二郎(1868-1940)はさらに事業を拡張し、日本一の列車食堂となった。三代目は後藤泰助。現在の日本食堂、日本レストランエンタプライズの源流となる。

2008年7月12日 (土)

ベター・ハーフ

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    午前中、曇天であるが雨が降っていないので仕入れに行く。735円で次の7冊。ヘレン・フィールディング「ブリジット・ジョーンズの日記」、ニコラス・スパークス「きみに読む物語」、トールキン「指輪物語 旅の仲間」、小栗左多里&トニー・ラズロ「ダーリンは外国人2」「ダーリンの頭ン中」、藤田宜永「愛の領分」、唯川恵「ベター・ハーフ」である。ブリジット・ジョーンズはロンドンで独り暮らしをする30代のシングル女性。仕事にも男にも入れ込みすぎたくはない。目下の課題はダイエット。最高の楽しみは気の合う友人と飲んでしゃべって騒ぐこと。映画ではレニー・ゼルウィガーの出世作品となった。レニーはこの映画のために体重を15キロ増やしたというが、ぽっちゃりした印象はいつまでも残る。現在39歳というから当時もかなり年齢がいっていたのだ。原作を読んでいないので、やはり映画化されたものは撰びやすい。小栗左多里はいわゆるコミック・エッセイだが、なかなか面白くて英語学習のためになる。石田衣良の作品を探したが100円ではなかった。恋愛小説ということで藤田宜永と唯川恵を選んだ。ベスト・ハーフではなくてベター・ハーフである。最高ではないが、まあまあのパートナーというとこか。第一章が「六月の花嫁」ではなくて「七月の花嫁」。作家もタイトルにはいろいろ思いをこめているのだろう。30代から40代くらいの女性を想定して選書することは楽しい。不思議な快感がある。

チャイコフスキーとメック夫人

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      ナジェージダ・フォン・メック夫人

    ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキー(1840-1893)は1840年5月7日、ロシアの田舎町ヴォトキンスクに生れた。生まれつきの内気な性格であったが、小さいころからピアノのレッスンを受けた彼は、早くから優れた才能をあらわした。大学では法律を勉強し、卒業後、司法省の官吏についていたが、音楽をあきらめきれず、ペテルブルグ音楽院に入学し、音楽家としての道を歩む。1877年、37歳をむかえたチャイコフスキーは未知の女性からラブレターを受け取った。アントニーナ・ミリューコヴァという20歳になったばかりの女性だった。その後も、情熱的な手紙を送りつけ、ついには「会ってくれなければ自殺する」と脅しをかけてきた。その年のうちにふたりは結婚した。しかし、ふたりの新婚生活は不幸なものであった。チャイコフスキーは神経衰弱におちいり、妻を避けるように旅に出る。アントニーナは次々とスキャンダルを起こしたあげく、ついに精神病院に送られることになった。そのころのチャイコフスキーを精神的に支えたのはナジェージダ・フォン・メック夫人(1831-1894)だった。メック夫人は、鉄道で富を築いた夫に先立たれ、夫の死後、優雅な暮らしを送っていた。弟子のニコライ・ルビンシテイン(1835-1881)を通して、1877年に知り合った。文通だけの類まれな関係は13年間も続いた。しかし、1890年のある日、メック夫人から交際のとりやめを告げてきた。心が病み、自分が破産したと思い込んだ彼女は、チャイコフスキーへの資金援助と文通を打ち切った。この事件以来、チャイコフスキーは落ち込み、身体も弱ってきた。チャイコフスキーの死因は、コレラにかかって死んだといわれているが、毒を飲んで死んだという説もあり、真相はいまだにわかっていない。

2008年7月11日 (金)

天にある大いなる喜び

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   イエスの教えを聞くためにさまざまな人々が集まっていました。パリサイ人や律法学者たちは「この人は罪人を招いて、一緒に食事をしている」と言いました。そこでイエスは、次の譬え話をしました。

   「もし、あなたがたに百匹の羊がいて、そのなかの一匹をなくしたとしたら、九十九匹の羊を野原において、そのまよった羊を探し歩くにちがいない。そして、その羊を見つけたら、肩にかついで喜び、家に帰ってからも、友だちや近所の人たちに、わたしと一緒に喜んでください。なくした羊が見つかったのです」と言うだろう。あなたがたに言っておくが、天国は、このように、悔いあらためのいらない九十九人の正しい人よりも、悔いあらためているひとりの罪人のほうを、喜んで迎えてくれるのである。また、ある女の人が十枚の銀貨を持っていて、その一枚をなくしたら、どうするだろうか。きっとあかりをつけて、家のすみからすみまで、一所懸命に捜すにちがいない。そして、なくした一枚の銀貨を見つけたら、友だちや近所の人をよんで、わたしと一緒に、よろこんでください。なくした銀貨を見つけたのです」と言うだろう。あなたがたに言っておくが、同じように、神のみ使いたちも、悔いあらためるひとりの罪人のことを、とても喜ばれるのであるろ

2008年7月 8日 (火)

よきサマリア人

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  イエスのされた譬え話に、よきサマリア人の話がある。一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコに下っていく旅の途中の寂しい所で強盗にあって半殺しになった。祭司やレビ人が、そこを通る。ところが、彼らは傷ついた旅人をほっておいて「向こう側の道」を通っていった。しかし三番目にやってきたサマリア人は旅人の傷の手当てをし、宿屋に運び介抱したという。サマリア人は自分の予定を中止して、周りのことを自分のこととして受け止めたのである。良きサマリア人の話は中世から絵画などの主題となり、西洋ではよく知られているが、日本人はあまり知らないように思える。簡単な話だが、人の生き方について示唆しており、なかなか深いものがある。「自分を愛するように、あなたの隣の人を愛せよ」(ルカ10・27)の説明に使われた譬え話であるが、「狭き門から入れ」に共通する教えがみられる。多くの者が行く「向こう側の道」は滅びに至る道であり、サマリア人の歩んだ道は命に至る道である。

2008年7月 7日 (月)

ミントな僕ら

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    今日も新古書店に買出しに行く。少女コミック「ミントな僕ら」(吉住渉)全6巻。300円。りぼん1997年6月から2000年2月まで連載。あの頃小学生だった人もいまでは成人しているだろう。お話は、ふたごの姉弟・南野まりあとのえるは大の仲良し。初恋の人を追いかけ全寮制の森の宮学園へ転入したまりあをとりもどそうと、女装し、姉の瓜二つの妹として転入する…。

   その他、角田光代「対岸の彼女」、唯川恵「肩ごしの恋人」、北川悦吏子「素顔のままで」、「恋愛道」、柴門ふみ「恋愛論」、角田光代「この本が世界に存在することに」をそれぞれ100円で購入。30代、40代の女性をねらったものだが流行遅れだろうか。ケペルはいつも流行遅れで生きてきたようだ。久世光彦が女性雑誌のインタビューで次のようにいっている。「30代の女性たちは本を読まないからね。確かに30代という子育て真っ最中にはなかなか本が読めないが、読書をすれば、もうちょっと充実した人生になる。」という。「最近の作家はほとんどワープロで文章を紡ぐ。原稿用紙に向かうより日常の生の声が聞える。そうした実生活の体験を文章にする女性作家の活躍が目立つ。とりあえず、自分の暮らしに近い女性作家の作品から本に親しむようにしたら」と、久世は読書をすすめている。なかなか傾聴に値する意見だ。

   いま「女性の書斎・ひとり」にふさわしい本を集めている。もう一冊買った。「中村久子の生涯」黒瀬曻次郎著。四肢切断の中村久子(1897-1968)の伝記である。女性史、女性問題も主要な分野である。

2008年7月 6日 (日)

美しい花には毒がある

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    プルメリア

   ハワイにはプルメリアの伝説というのがある。むかしプルメリアという若く美しい女神がいた。女神は掟を破り、人間の若者と恋をしたため、神の怒りに触れ、熱い石に打たれて死んだ。プルメリアの死んだ後に、香りの高い美しい花が咲くようになった。島の人々はその花をプルメリアと名づけレイにして若い娘たちの首を飾るようになった。プルメリアはハワイでは「幸せを呼ぶ花」として知られ、人気である。日本でも昭和58年、松田聖子主演のアイドル映画「プルメリアの伝説・天国のキッス」が公開されたので、見た男性は多いだろう。ところがプルメリアの原産地は中南米で、神聖な樹とされて、墓地に植えられるため「死者の花」といわれている。また枝を折るときに出る白い樹液が皮膚につくと炎症を起こし、長く痕を残す。プルメリアはキヨウチクトウ科で、プルメリアやニチニチソウなどの美しい花をつける植物には有毒成分を含むことが多い。なかには誤って食べると死にいたる植物もあり、これに含まれるストロファンツスは毒矢に用いられた。

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     キョウチクトウ

   桃に似た花姿と、竹のように幅の狭い葉形から「夾竹桃」の漢字が充てられるキョウチクトウも、そうした一種である。キョウチクトウの樹皮や根には、オレアンドリンやアディネリンといった強心作用をもつ配糖体が含まれ、薬用にされるが、また毒にもなる。キョウチクトウは丈夫で環境汚染にも強いとされ、公害の町・尼崎の公園にも多数植えられ、尼崎市の花になっている。6月から次々と咲き、梅雨に一休みしたあと、夏が到来すると、芳香を放ちつつ初秋まで咲き続ける。まるで松田聖子や藤あや子のような花だ。(注:藤あや子デビュー20周年記念シングル「夾竹桃」)

三島由紀夫夫人

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    「自転車」   杉山寧  セゾン現代美術館蔵

   日本画家・杉山寧(1909-1993)は昭和26年に代表作となったギリシア神話に題材をえた「エウロペ」を発表した。その翌年、秋の日展に発表した作品がこの「自転車」(昭和27年)である。明快な色面構成のモダンな日本画である。ところでこのモデルの少女はだれであろうか。集英社の「現代日本の美術8杉山寧」の作品解説にもその事はふれられていない。おそらく長女の瑤子であろう。当時15歳。6年後には、三島由紀夫と見合い結婚して、平岡瑤子(1937-1995)となる。昭和45年の三島の割腹自殺の後の彼女の人生はさぞや波瀾にとんだものであったろう。瑤子は三島の名誉を守るため気丈に闘ったといえる。杉山寧のこの絵からはなかなか想像できないが、無垢の少女の姿がとても美しい。

猿のお尻はなぜ赤い

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   むかしもとんとあったげな。カニが浜辺へいって、柿の種を拾うてきました。家へ持って帰って、裏の畑へ植えておきました。カニは毎日水をやって、「早う、はえんとちめるぞ」と言いました。すると柿の木がはえてきました。こんどは、「早う、大きんならんとちめるぞ」と言いました。すると見ているうちに大木となりました。するとこんどは、「早う、ならんとちめるぞ」と言いました。すると実がなりました。そこでカニは、「早う、うれんとちめるぞ」と言いますと、柿の実はよくうれていました。猿は、カニのところに柿の実がなっているのを知りました。そこでカニのところへ来て、「カニよ、カニよ、ちぎってやろか」と言いました。そこでカニは猿にちぎってもらうことにしました。ところが猿はちぎってくれるどころか、木の上へのぼって、かたっぱしから取ってしまいます。そうして青いうれていない実を投げてくれました。カニは腹を立てましたが、どうにもこうにもしようがないので困っていました。猿は持ってきた袋に実をいっぱいとって、まだその上にいくらでもちぎります。そこでカニは木の下から、「猿よ、猿よ、もっと枝のさきに袋をかけよ」と言いました。そうして枝のはしに袋をかけさせてから、カニは、「西の風よ、ぷいと吹け。東の風よ、ぷいと吹け」と言いました。すると東からも西からも風が吹いてきて、枝のさきが折れ、実のはいった袋が落ちてきました。そこでカニはこぼれ出た実をとって自分の穴の中へひきずりこみました。「カニよ、早う出て来い」と言いましたが、カニは穴の中で柿をかじっていました。そこで猿は、「カニよ、出て来んなら、小便をながしこむぞ」と言いましたが、カニは相手にしません。猿はそこで小便を流しこみました。それでもカニは平気でいますから、こんどは、「カニよ、出て来んなら、糞をひりこむぞ」と言いましたが、やっぱり相手にしません。そこで猿はおこって、ばばをひりこもうとしますと、カニがおこって猿のお尻をちめきりました。猿のお尻は、その時から赤くなったと言います。(讃岐・志々島の民話)

2008年7月 2日 (水)

荒川の図書館職員不当配転事件(1973年)

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家の近所まで巡回にくるブック・モビルの日はお年寄りの唯一の楽しみである

    施設、資料、司書を図書館の三要素という。図書館はこれら3つの要素がととのえられ、結合されていなければならない。なかでも司書の役割は重要であり、経験豊かな司書の存在が、図書館サービスの質を決めるといっても過言ではない。ところが東京の特別区では1963年から司書の採用をしておらず、1996年には司書の職名が廃止された。とくに1973年4月に荒川区で発生した陰山三保子配置転換不服申立事件は、当時図書館問題研究会を中心に全国的な支援活動が展開され、記憶に新しい。ここでは「図書館問題研究会東京支部ニュース1973.4.20(№69)」の記事を引用して、事件の概要を紹介する。

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   荒川で不当配転おこる!

    4月の人事異動シーズンをむかえた折から又しても荒川で図書館職員に対して不当配転がおこりました。以下は18日の東京支部常任委員会で当事者と荒川の会員からうけた報告をもとにした事実経過で、急きょ皆さんに訴える次第です。

  4月14日、会員であり、支部の事務局をうけもっている荒川区立荒川図書館の伊藤由美子さん、陰山三保子さんにとつぜん15日よりそれぞれ土木課、国保課へ異動の内示が出されました。荒川区ではこの二、三年人事内示はたった一日前にされているそうです。組合協定では一係3年、一課10年で異動するという原則になっており、伊藤さんは7年、陰山さんは6年前同一職場であり対象となったということで、同じく管理係の他の二人にも異動が出されました。

   二人は私費で司書資格をとっており、図書館にずっと働く意志を固めていたところからただちにこの辞令を拒否し、組合(都職員労荒川支部)へ訴えました。支部は協定どおりなので仕方がない、個人としての訴えではとりあげられないので図書館分会として討議の上もってくるようにとのことでした。

   ただちに南千住、尾久の職場にも訴え職場委員会を開いた結果、二人の意志を尊重して二人の辞令拒否を支持しようということになり組合へ再度もっていったところ組合では18日の執行委員会にかけると約束しました。

    18日、総務部長に呼ばれ、郵送された辞令を拒否したため再度うけとるように云われ、「一般職として採用されたのだから司書として認めることはできない。司書職制度が問題となっているのは知っているが理事者は反対している。制度ができるまで待ったらどうか、しかしその時に戻すという意志はない」又、「他の職場へ異動しても主義主張はできますよ」などとも云ったそうです。そして「辞令をうけとらないなら別の方法―業務命令―を考える」と強迫的な発言をしました。

   同じ日の執行委員会に二人は傍聴で出席しましたが、一般論として結論は出ているが当人の意見を聞くという前おきで執行委員会の結論は出さぬまま仕事の中味等について逆にいろいろ質問され、「支部では5年ときめて異動している、何故ゴネるのかわからない、他にも泣いている人はいる」などの意見が出されていましたが時間切れで又、次回にもちこすことになりましたが、何日ということは云われないままでした。

   職場にはもう後任の二人の人もきており、机はまだそのままですが、出勤簿はもうなくなっています。職場の組合員はほとんど5年以下の新しい人であり、司書資格をもたない人は一人しかいないという状況なのでこうした問題に積極的になり得ない弱点はありますが二人はあくまで職場に依拠し、「司書職問題に身をもってとりくむために斗う決意をかためています。

   今後の対策としては図書館分会を中心に活動を行い、支部を動かし、内外の組合員に広く支援を訴えていく方向で運動をすすめていくことになっています。

    図問研常任委では図問研としてこの問題にどうとりくむかを討議し、専門職問題対策委員会のナマの問題としてガッチリ四ッにとりくんでいくことになり当面の対策をたてました。①図問研の窓口を専門対策委員長大沢正雄とする。②荒川の会員と毎日連絡をとり情況を知らせてもらう。③必要な時にすぐ対策委員会を召集する。④各委員はそれぞれ自分の職場に知らせ訴えていく。⑤住民運動、生野さんを守る会とも交流していく…で、荒川の会員を激励しながら組合の状況によっては必要な行動をしていく準備をすすめています。

   会員の皆さん、伊藤さん、陰山さん、ならびに荒川の会員の方々にぜひ力強い支援をお寄せくださるようお願いいたします。

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