人間とは何か
人間とは何か。いきなりそう問われても、思わず戸惑いを感じるだろう。そのように、人間は人間でありながら、人間をよく知らないのである。知らない、というより、まだ本気になって考えことがない、という人のほうが多いかもしれない。はたして、そのままでいいのだろうか。
砂の上に家を建てた人の話を聞いたことがあるだろう。立派な家を建てたつもりでいたのに、風が吹き、大雨が降ると、倒れてしまった。しかし、岩の上に建てた家は決して倒れなかった。
人生には二つの生き方がある。第一は、自分という小さくて不確かな存在の上に家を建てる生き方。第二は、揺ぎなく変わることのない土台の上に家を建てる生き方。自分が生まれてきた意味を確認し、目的を持って歩む人生である。
ケペルはクリスチャンではないが、たまには近くの教会へ行く。いわば他流試合の道場破りの武芸者の気分で。岩間洋牧師の話は、「ローマの信徒への手紙 第5章」だった。
このように、わたしたちは信仰によって義とさせられるのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたりですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのははなむけです。それだけではなく、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
聖書の正しい解説はケペルにはできない。ただ「人間とは何か」「幸福とは何か」「希望とは何か」を考えていので、牧師から有益な示唆を与えていただいた。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という聖句である。つまり、苦難を感じるのは人間の心の中であり、希望を感じるのも人間の心の中である。苦難、希望、喜び、すべては、己自身の心中、つまり今生きている人間、自分が存在するゆえである。冒頭の「砂上の楼閣」の話で、神への信仰を基盤とする建物であれば、幸せな人生を送る力となる、という教えであろう。宮本武蔵のように「我、神仏を信ぜず」といった(ドラマの中でのセリフだが)のような生き方も雄雄しいものであるが、やはり滅びの道に歩むものである。
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投稿: Rhonda | 2008年6月15日 (日) 23時59分