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2008年6月29日 (日)

牡丹と柿

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      古希を迎えた武者小路実篤(大竹新助撮影)

  牡丹花を見て柿は驚いた。「なんて立派な花だろう。こんな大きな花の実はどんなに立派な実だろう。西瓜の何倍もあるにちがいない。そして食べるときはどんなにうまい実だろう」

    柿は、花の実のためにあることを信じ切っていたので、牡丹の花も実のためにあると思い込んでいたのだ。そう信じて、牡丹にどんな実がなるか、毎日たのしみに待っていた。ところが牡丹の花が散ったあと、青い唐辛子の小さいのが、三つ四つかたまって逆立ちしているような実に見すぼらしい実切りならないので、柿は驚く以上、可笑しくなって笑った。

  「牡丹と言う奴はなんと言う馬鹿なのだろう。あんな大げさな花を咲かせながら、あんなケチな実きり結べないのだ。余程虚栄心に富んだ馬鹿にちがいない」

    ところが牡丹の方は、柿の実を見てすっかり感心して、実に美しい立派な実だと思った。牡丹は実は花のためにあるものと信じて疑はなかったので、こんな実がつくれる柿は、さぞ立派な花を咲かせるだろう。今まで気づかなかったのは、よほど自分が間抜けだったにちがない。今度は是非注意して見てやろう。そう思って柿の花の咲くのを、今か今かと待っていた。ところがいよいよ柿の花か咲く時が来た。牡丹はだまされたような気がしてがっかりして、「これでも花か、これでは気がつかないほうが、あたりまいだ。あんな実を結びながら、こんなケチな花切り咲かすことが出来ないとは、柿さんも存外働きがないね」

   わきにいた松は、二人の評を聞いて言った。

「花は実のためでもあり、実は花のためでもある。それは本当だ。だが花は花のためにも存在し、実は実のためにも存在する。それも本当だ。牡丹さんは花が美しいからそれで威張ればいい、柿さんは実が美しいからそれを自慢にすればいい。私は花も実も駄目だから、せめて身体を大きくして、何かのお役に立ちたいと思っているのだよ」

   柿も牡丹も「さう言うものかね」と思った。

    武者小路実篤著 「牡丹と柿」(一部分)(初出 「心」昭和27年4月号)

2008年6月28日 (土)

大久保利通の業績は?

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                維新当時の大久保利通

   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。もちろん主演の宮崎あおいの魅力によるところが大であるが、ケペルは大久保利通の不遇な青春時代に興味を持って観ている。先週放送分の大久保正助(原田泰造)が母フク(真野響子)に「鬼になります」といった場面がよかった。

   ところで本日の朝日新聞朝刊の小学生は「幕末から明治の政治家は苦手」という一面の記事を興味深く読む。国立教育政策研究所の調査によると、小学校6年生では卑弥呼、ザビエル、ペリーの業績の正解率は9割以上なのに、「新政府の中心になった」大久保利通、木戸孝允、「国会開設にそなえ政党をつくった」大隈重信の正解率はいずれも30パーセント以下である。とくに大久保利通は42人中の最下位の23.5パーセントであった。小学生に複雑な幕末維新の歴史を理解させることは難しいであろう。おそらく小学校では人名を覚えさせるくらいで、中学、高校と学習していくにつれて、なんとなくイメージがつかめてきて、大人になってはじめて大久保利通が第一級の政治家であったことを知るのである。(たぶん司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んで)

   幕末の大久保利通のハイライトは、幕府側による大政奉還を無にしようと王政復古を宣言し、鳥羽伏見の戦いによる武力倒幕路線を貫徹したことにある。識見、勇気、手腕、すべての点で大久保は新政府の最高のリーダーであった。明治という日本の国家のかたちをつくった最重要政治家である。しかしながら、戊辰戦争という内戦で尊い多数の人命が失われたわけであり、それを小学生に説明しようとすると(戦争はしてはいけないことというベースがあると)、武力倒幕のリーダ大久保利通「鬼になります」といった言葉(もちろんドラマの中のセリフだが)を小学生に理解してもらうことは、ハードルが高すぎる。まあ、ケペルは小学校の教師ではないので悩むことはないか。つまり①卑弥呼、②ザビエル、③ペリーでも仕方ないかと思っている。ところでマッカサーがなぜないんだろう。小学校の歴史は不思議だ。

2008年6月27日 (金)

富士山の植物

   富士山の植物の種類は豊富で、900種以上の種子植物、190種以上のシダ植物、70種以上の蘚苔類、200種以上のキノコ類がみられる。しかし、新しい火山のため地形が単純で土壌化も進んでおらず、珍しい植物は少なく、高山でありながらハイマツもない。整然とした植物の垂直分布がみられる。常緑広葉樹を主とする山麓帯は海抜500メートル以下で、アカガシなどが多いが、ほとんど農地になっている。1600メートル以下はブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹を主とする山地帯、2500メートル以下はシラベ・コメツガなどの針葉樹を主とする亜高山帯で、カラマツやダケカンバも多い。これ以上は高山帯で、安定した所には低木状のダケカンバ・カラマツ・ミヤマハンノキ・コケモモなどが、不安定な砂地にはオンタデ・イワオウギ・ミヤマオトコヨモギなどの高山植物がみられるが、植物の種類は少ない。高等植物は約3400メートル以下に分布し、頂上には火口壁を中心にフジサンギボウシゴケなど24種のコケ類がはえている。なお、溶岩流れに成立した青木ヶ原の天然林は樹海として、忍野のハリモミ純林は世界にもまれな林として有名。(引用文献:「原色現代新百科事典」学研)

グラジオラス

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   夏の庭を飾る花のなかでも、その華麗な花姿でひときわ目を引くグラジオラスは、世界中で3万を超すという園芸品種が作出されている。その原種は、熱帯および南アフリカを中心に250種以上が分布し、これらの植物がアヤメ科グラジオラス属と総称される。

   イギリスでは16世紀から栽培され、本格的な園芸化は18世紀中頃から始まった。19世紀には、ベルギーの園芸家によって、さまざまな花色が組み合わさったナターレンシス種と、白やピンクの花を咲かせるオッポシティフロルス種の交配に成功。この交配種から大きな花を多数つける豪華な花姿をもち、7~9月に花を開く夏咲き系統の品種が誕生した。以来、多くの育種家が改良を行い、12種をおもな交配親として、より優美な花姿や多彩な花色をもつ品種が多数咲く出されてきた。

2008年6月23日 (月)

19世紀ドイツ写実主義

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バルコニーのある部屋 1845  ベルリン国立美術館

   アドルフ・フォン・メンツェル(1815-1905)は、「サンスーシー宮殿におけるフリードリヒ大王のフルート・コンサート」などの歴史画にすぐれた画家として知られるが、その鋭い観察の写実性は、ありふれた日常生活を描いた風俗画にその特色がよく現れている。

   メンツェルは1815年12月8日、ドイツのブレスラに石版画家の子として生まれた。1830年一家とともにベルリンに移住、ベルリン美術学校に学ぶ。1832年、父の死後、その工房をついで石版挿絵で一家を養う。歴史的なテーマによる石版画シリーズの制作を始め、油彩を試みる。1839年以来クーグラーの『フリードリヒ大王伝』の400点に及ぶ木版挿絵を制作し、名声を得る。つづいて銅版画を始める。1845年ごろ印象派を先取りするような光の効果をとらえた風景画を描く。晩年にかけて劇場の桟敷席、居室、鉄工場の労働者などを写実的に描いた。

平安時代のメタボリック・シンドローム

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   今年から健康診断でウエスト回りが測定されるようになった。男性の場合85cm以上、女性の場合90cm以上、加えて高脂血糖、高血圧、糖尿病の3つに診断基準が設けられ、それらの項目の内2つ以上該当するとメタボリック・シンドロームと診断される。メタボに診断されると、生活習慣秒を改善する指導が行なわれ、食事療法や運動療法がなされる。しかし肥満改善は平安時代にもあった。宇治拾遺物語に次のような話が残っている。

   今はもう昔の話、三条中納言なる人がいた。三条大臣の六男にあたり、学問は出来るし、唐の事も、こちらの事も、何でも知っているか、と思えば、気立てもよく、肝っ玉は太いし、押しの強いところもあり、笙の笛を見事に吹き、背は高く、ただ、まことによく太った人ではあった。太りに太った挙句、どうにも苦しくてたまらぬ程に肥えてしまったものだから、医者の重秀を呼び、「こう無茶苦茶に太ってしまったけれど、いったいどうすれば良いんだ。立ったり、坐ったりするのにも、身が重くて、たいへんな苦労だ」重秀は、「冬は湯漬け、夏は水漬けにして、御飯を食べてごらんなさい」と、栄養指導をした。三条中納言は、処方通りに、食事をしたのだが、変わりなく肥え太ったままなので、また重秀を呼び、「言われる通りにしてみたけれど、何の効果もない。ここで、その水飯を、食べて見せようか」と言って、家来を呼ぶと、侍一人来た。「いつものように、水飯を作って、持って来い」と命じ、しばらくすると、一対の食卓はこばれ、見ると、食卓の一方には、食事の用意整っていて、中納言の前に置かれた。

   食卓には、まず箸の台だけが置いてあり、食器類が捧げ持って来られ、給仕役がそれを台に置いた。見たところ、食器には、白い干瓜(ほしうり)、3寸くらいに切ったもの10切ほど、酢鮎の大ぶりで幅のあるものを、尾と頭、押し重ねるようにして、30尾ほど、それぞれ盛りつけてあった。大きな金椀も添えられ、以上のものを全部を、食卓に並べたところで、もう一人の侍、大きい銀製の提(ひさげ)に、これまた銀の匙を立てて、重そうに持って来た。中納言、金椀を差し出すと、家来、匙で御飯をすくい、高く盛りあげ、そこに水をほんの少し注ぐ、と、中納言、食卓引きよせ、金椀をとったのだけれど、大きな金椀と思えたのに、かくも太った中納言が持つと、そう不釣合いにも見えなかったのだ。千瓜を、3つに食い切って、56切れ、次に鮎を、2つにん食い切って、56尾ほど、いともあっさり食べてしまうと、今度は、水飯の金椀をとり、二度ほど箸でかき回したかと思っていると、もう御飯は、すっかりなくなってしまい、すぐ、「もう一杯」と、金椀を差し出した。これを二度三度繰り返すと、提も空になってしまい、そうすると、また代りを持って来るものだから、重秀。この有様を見るにつけ、「いくら水飯を主にして食べると言ったところで、この調子では、とうてい肥満の直るはずもない」と、逃げ帰ってしまった。その後、中納言、まるで相撲取りのように、ますます肥え太ってしまったのだそうだ。

2008年6月21日 (土)

国民百科事典に昭和の出版文化をみる

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(左上から)アインシュタイン(岡本一平)、チャップリン(トポスキー)、ゴーリキー(ホフマイスター)、ルナール(ルベール)、小村寿太郎(鹿子木孟郎)、菊池寛(岡本一平)、永井荷風(清水崑)、夏目漱石(下川凹夫)、吉田茂(清水崑)、太田薫(那須良輔)、河上丈太郎(中村伊助)、池田勇人(中村伊助)

   図書館では蔵書の新鮮さを保つことは大切であるが、一方、「図書館とは記憶の社会的装置」といわれるように、過去の知的文化財を後世に伝えていく役割も大切である。例えば、百科事典である。戦前の冨山房や三省堂にも、現在の百科事典では得られない重要な情報が凝縮されている。過去の国民生活を知るうえでの同時代性をもつ一等資料となる。戦後でいえば、昭和37年に平凡社から刊行された「国民百科事典 全7巻」である。図書館員からみると巻数が少ない百科事典なので、ややもすれば軽視しがちであるが、これは家庭への販売を企画したもので、応接間の書棚に置くにはお手ごろである。事実の国民百科事典は数十万セットという大ヒットを記録した。そして内容がよい。たとえば、漫画を調べると、1ページにわたる解説とともに6ページにのぼる図版がある。そこにはダ・ヴィンチ「人間戯画」、ブリューゲル「謝肉祭と四旬節のけんか」、ホガース「説教」、ゴヤ「雀百まで」、ドーミエ「新火器発明者の幻想」、ピカソ「フランコの嘘」、「鳥獣戯画」、葛飾北斎「盲人の川越」、河鍋暁斎「カエルの曲芸」、岡本一平「有島武郎心中」、ペイネ「恋人たちの手紙」、田河水泡「のらくろ」、麻生豊「のんきなトウサン」、プローエン「親父とむすこ」など日本から世界中の漫画が紹介されている。「世界各国の似顔絵」はなんと24人の著名人の似顔絵が掲載されている。これは通り一編の無味簡素な紹介ではなくて、読んで楽しむための百科事典という編集が豊富に盛り込まれている。ただ年数が経過したからといって、図書館では廃棄するのではなく、よく資料的価値をみきわめることが大切である。

2008年6月20日 (金)

少年とオオカミ

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  村の近くで、ひとりの子どもがひつじの番をしていた。そのうち、退屈になったので、「オオカミが来た。だれか来てください」と、大声で叫んでみた。すると、村の人びとが、「それはたいへんだ。」「ひつじを食われては困るぞ。」「それ、みんなでいって、オオカミをやっつけてやれ。」と、棒や鉄砲を持って駆けつけてきた。「オオカミはどこにいる?」集まってきた村人たちは、口ぐちに聞きました。「みなさんの話し声や足音を聞いて、オオカミは逃げていった。」

    ヒツジ番をしていた子どもは、こういってごまかした。「そうか、それはよかった。」たくさん集まった村人たちは、ほっと安心してみんな帰っていった。村の人たちがあわててとんで来るのが、子どもにとっては面白くてたまりません。退屈になると、オオカミが来たと叫んで、村人たちが騒ぐのを見て喜んだ。

   こんなことを三回ばかりやったあとのことだった。ほんとうにオオカミが4、5匹もやってきた。ヒツジの番をしていた子どもはびっくりして、「オオカミが来た。だれか来てください。」と、大声で叫んだ。

   ところが、村人たちは、「きっと、またうそだろうよ。」「いってやらなくてもいいよ。」「オオカミはすぐ逃げていくさ。」と、いい合って、だれも来てはくれない。

    ついに、オオカミはヒツジを一匹残らず食べてしまった。

女性の書斎「ひとり好き」

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    住まい関連のある企業が女性対象にアンケートしたところ、79パーセントの人が「女性の書斎」がほしいとの回答であった。雑誌「男の隠れ家」などでも著名人の書斎の写真が掲載されているが、あまり感心しない。漱石から無頼派の作家まで書斎の写真をみることがあるが、何かの苦悶と格闘している様子が1枚の写真からもうかがえる。それが、スペースも広く、蔵書数も膨大なのに、現代流行作家の書斎はなにか薄っぺらな感じがする。哲学者カントの書斎の本はつつましく、僅かの書物であるが、とても崇高な書斎のイメージがある。話はもどるが、やはり現代の女性にとって書斎をもつことは憧れとなるであろう。しかしマンション暮らしの人たちにとって本のスペースを確保することは至難のことである。実はケペルは退職後、女性専用の書斎の店を開く計画を立てている。広さは100㎡くらいしかないので、男女混成だとソファーとか座席とかで気づまりなので、女性だけに限定した。ところが、肝心の図書はケペルの蔵書を10000冊を中心とするので、東洋史や漢籍、歴史書、戦記物などでおよそ女性向きとはいえない。わずかに文学書、美術書、画集、写真集が女性にも楽しまれるであろう。総じて研究書、専門書が多いので、周囲の者に話をすると、「そんな難しい本、だれも読みに来ないよ」といわれる。確かに客寄せにはもう一工夫しなければ、開業にこぎつけることはできない。やはり、決め手はコミック、漫画本である。ただし、少女漫画。ケペルには全く未知の世界。渡辺まさこ、くらいしか知らない。本日、復活書房で生まれて初めて少女漫画を買った。桃森ミヨシ「ハツカレ」全10巻である。ちひろ(チロ)とハシモトくんの純愛に好感がもてた。買付けすべりだしはまずは成功。雑誌は20日発売の「花とゆめ」を買った。店頭に沢山あったからだ。月に2回なので来年4月までには20冊くらいたまるだろう。ブログで検索すると超人気雑誌なんだなぁと判明。あと週刊誌は何がいいのだろう。「少女フレンド」はなくなったし、「マーガレット」はまだ人気があるようだ。このようなことを教えてくれる人は周囲にいない。家内は漫画を読まない人だ。本屋へ毎日通うことにする。人生、何事も勉強、勉強。館長に相談したら「コーヒーをだしたら?」といわれたが、そのような趣味はないので書物、一本槍で勝負する。はんこ屋に行って「ひとり・女性の書斎」という店名の蔵書印を注文した。「ひとり」という名称をつけた理由は、女性が集団で来られておしゃべり場にされると狭い店内なので困るからだ。あくまでしずかに読書する空間をつくりたい。

江戸のシンデレラ

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   桂昌院 長谷寺蔵

   お福(1579-1643)は将軍秀忠の長子竹千代(後の家光)の乳母となった。お福は御台所・お江与の死後、大奥を統率し権力者となり、春日局の名を賜った。しかし春日局を悩ましたのは、家光が女嫌い、もっぱら美しい小姓(美少年)たちを近づけて、しきりに寵愛することであった。あるとき、浅草観音に参詣した春日局は、道すがら、一人の美少女に目をとめた。これがお楽(1621-1652)である。神田鎌倉河岸で古着商をやっていたお蘭は名をお楽と改め、家光の侍女となった。寛永18年に長男竹千代(家綱)を生んだ。春日局が病に伏せったのち大奥の頂点に立ったが、病弱で将軍の御前にでることも稀だったため、後に大奥の実権はお玉(1627-1708、後の桂昌院)に移る。お玉は八百屋の娘であったが、家光の寵愛を受け四男徳松(綱吉)を生んだ。成長して館林藩士となった綱吉が将軍位を継いだ。「氏なくして玉の輿にのる」という言葉はお玉のためにあったようなもので、江戸時代のシンデレラといわれる。お玉は生来無智な女性であった。くわえて大層迷信深かった。綱吉の悪法「生類憐みの令」も、もとはといえば、桂昌院の迷信から出たものである。

2008年6月19日 (木)

稀代の遊女・吉野太夫

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   吉野太夫 伊東深水 1966 山種美術館蔵

   吉野太夫(1606-1643)、名は徳子、西国の藩士・松田武右衛門の娘。零落した両親の死によって、7歳のとき京都の廓に入り、はじめ浮船と名乗った。のちに吉野太夫となり、才色兼備の最もすぐれた遊女となった。京の町家として巨富をなした灰屋紹益に身請けされるが、紹益はそのため父紹由に勘当され、二人は貧しい侘住まいを余儀なくされる。ある日のこと、その侘住まいとも知らず雨宿りした紹由は、この家の妻女の人品に一驚。のちに、これが吉野太夫だと知って、息子の勘当を解き、嫁として正式に認められた。寛永20年8月25日、吉野は38歳で病没する。紹益は悲嘆のあまり、

 都をば花なき里になしにけり

    吉野は死出の山にうつして

と詠んだ。

2008年6月18日 (水)

千利休の娘

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    千利休画像 表千家蔵

   天正17年2月のこと。豊臣秀吉が京都の東山に鷹狩に出かけ、黒谷のあたりを通りかかると、花見の帰途らしく、30余りの年ごろの女房が、乗り物を供のものに持たせ、幼子を三人と男女のもの10人ばかりを連れて歩いて来るのに出会った。秀吉はその女房の美しさに心をうたれて、「何者の妻女であるか」といって、供の家来に尋ねさせると、「千利休の娘で、万代屋の後家である」と言上した。秀吉は彼女のもとに使者をつかわし、「聚楽第へ奉公に出頭せよ」と命じた。しかし、「幼少の子どもがたくさんいるので、ご容赦くだされたい」と、辞退してきた。そこで秀吉は、京都奉行の前田玄以を、かの女房の父、利休のもとにつかわし、娘を奉公を出すように命じた。すると利休は、「わが娘をご奉公に出したのでは、利休めは何事も娘のおかげでしあわせがよいのだと、人びとに評判される。そんなことでは、これまでの佳名も水泡に帰する」と、覚悟を決め、秀吉の申し出をきっぱりと拒絶した。それでも、秀吉は三度まで執拗に娘を所望してきた。しかし、利休がついに承諾しないので、秀吉は、利休のことを深く憎んだ。が、このようなことで利休を罰したのでは、人のうわさもどうかと、秀吉も考慮し、さすがに思いとどまっていた。しかし秀吉は、もしも利休に何か過ちがあったならば、それを好機に誅伐しようと、心中に考えていた。だから、大徳寺山門の金毛閣に利休が雪見している姿の木像を安置したことを知ると、さっそく、そのことを罰状として、利休を処罰した、というのである。

   千利休には、千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、三人の娘がいた。この秀吉と利休の娘の事件は、次女であるとも、末女であるともいわれ、はっきりしない。海音寺潮五郎の「天正女合戦」や今東光「お吟さま」では、利休の娘は「お吟」となっている。

2008年6月17日 (火)

顔徴在

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    孔子(前552年ー前479年)の母は顔氏の娘で、徴在といった。顔氏は、特別の由緒のある家柄ではなくて、ごく普通の無名の家であったらしい。叔梁紇と顔徴在の結婚はどうやら正式の婚姻関係ではなかった。孔子は庶子(妾の子)だった。ただし、嫡子(正妻の子)、庶子とはっきり区別するのは、ずっと後代の道徳観であり、ほとんど問題なく孔子は育った。

    孔子はすでに老年であった父が亡くなったので、若い母・顔徴在によって育てられた。孔子の生きる道は、神さまにおそなえ物をささげるまねごとをすることで始まったというから、母から教わったのであろう。しかし、その母も孔子が24歳のとき、紀元前526年に亡くなっている。孔子の弟子、顔淵(顔回)は母方の一族かもしれない。

2008年6月16日 (月)

歌人・原阿佐緒と原保美

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   (左から)原保美、阿佐緒、しげ、千秋

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       映画「恋愛特急」原保美、津島恵子

    原保美(1915-1997)は帝国高等学院中退後声楽を学び、創作座から松竹大船に入社。昭和14年「感激の頃」に出演し、昭和25年以降フリーに。「ひめゆりの塔」「雲ながるる果てに」「太陽のない街」など独立プロの作品も多い。またNHK「事件記者」の東京日報の長谷部記者(通称・ベーやん)でお茶の間でも人気者だった。母は物理学者の石原純との恋愛事件で知られた原阿佐緒(1888-1969)である。二人の恋愛が事件として知られるようになったのは大正10年7月である。妻子ある謹厳実直な世界的学者が、やはり妻子ある美貌の女流歌人によってその地位を失った。翌年、千葉県保田に二人の居を構えたが、石原が首吊り自殺未遂などを起こし、破局し、昭和3年、原は宮城県宮床に戻った。

2008年6月15日 (日)

不遇の作家人生

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   イギリス国民が世界で最もすぐれた作家を生み出した大きな理由の一つは、イギリスの社会が生前に作家を虐待し、死後に作家を育成したからです。(キーツ書簡集)

   ジョン・キーツ(1795-1821)は、シェリー、バイロンと並ぶ後期ロマン派の詩人である。代表作「エンディミオン」に対する酷評に大きく傷つけられた。ローマで不遇のうちに25年の生涯を閉じた。キーツの評価は、19世紀を通じて徐々に高まっていった。

人間とは何か

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 札幌五輪で
転倒しても笑みを絶やさなかった

   人間とは何か。いきなりそう問われても、思わず戸惑いを感じるだろう。そのように、人間は人間でありながら、人間をよく知らないのである。知らない、というより、まだ本気になって考えことがない、という人のほうが多いかもしれない。はたして、そのままでいいのだろうか。

   砂の上に家を建てた人の話を聞いたことがあるだろう。立派な家を建てたつもりでいたのに、風が吹き、大雨が降ると、倒れてしまった。しかし、岩の上に建てた家は決して倒れなかった。

   人生には二つの生き方がある。第一は、自分という小さくて不確かな存在の上に家を建てる生き方。第二は、揺ぎなく変わることのない土台の上に家を建てる生き方。自分が生まれてきた意味を確認し、目的を持って歩む人生である。

   ケペルはクリスチャンではないが、たまには近くの教会へ行く。いわば他流試合の道場破りの武芸者の気分で。岩間洋牧師の話は、「ローマの信徒への手紙 第5章」だった。

このように、わたしたちは信仰によって義とさせられるのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりではなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたりですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのははなむけです。それだけではなく、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

   聖書の正しい解説はケペルにはできない。ただ「人間とは何か」「幸福とは何か」「希望とは何か」を考えていので、牧師から有益な示唆を与えていただいた。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という聖句である。つまり、苦難を感じるのは人間の心の中であり、希望を感じるのも人間の心の中である。苦難、希望、喜び、すべては、己自身の心中、つまり今生きている人間、自分が存在するゆえである。冒頭の「砂上の楼閣」の話で、神への信仰を基盤とする建物であれば、幸せな人生を送る力となる、という教えであろう。宮本武蔵のように「我、神仏を信ぜず」といった(ドラマの中でのセリフだが)のような生き方も雄雄しいものであるが、やはり滅びの道に歩むものである。

新東宝メロドラマ

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         「細雪」(阿部豊監督)高峰秀子、田崎潤

  「新東宝の亡霊が夜な夜な都会の安眠をさまたげている」昭和36年につぶれた新東宝作品が深夜テレビで放送されて、時ならぬ新東宝ブームをまきおこしたときの週刊誌の記事の見出しだ。新東宝といえば、まさにエロとグロが氾濫する見世物映画であった。だが、このような大蔵貢(1899-1978)にみられる路線は昭和31年からのもので、初代社長の佐生正三郎の時代には溝口健二の「西鶴一代女」のような傑作も製作され、どちらかというと文芸メロドラマ路線の感があった。

    昭和21年秋、東宝映画の労働者は製作体制の民主化を要求して、大規模なストライキにはいった。当時、東宝は大河内伝次郎、長谷川一夫、原節子、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、山根寿子、花井蘭子、入江たか子、山田五十鈴という「十人の旗の会」というスターを専属にしていた。彼らはその年の11月、東宝を離脱した。こうして誕生したのが新東宝であり、昭和22年3月、劇映画の製作を開始した。第1回作品は「東宝千一夜」(山根寿子)、つづいて「今日は踊って」(長谷川一夫)、「大江戸の鬼」(高峰秀子)であった。やがて「花ひらく」(高峰秀子)、「天の夕顔」(高峰三枝子)、「三百六十五夜」(高峰秀子)と新東宝メロドラマ路線が確立した。「夢よもう一度」「結婚三銃士」(上原謙、高杉早苗、山根寿子)、「望みなきに非ず」(小杉勇、木暮実千代)、「異国の丘」(花井蘭子)、「湯の町エレジー」、「人間模様」(山口淑子)、「グッドバイ」(高峰秀子)、「深夜の告白」(池部良)である。翌25年になると、「処女室」(高峰秀子)、「暁の脱走」(山口淑子)、「細雪」(轟夕起子、高峰秀子)、「山のかなたに」(池部良、角梨枝子)、「雪夫人絵図」(木暮実千代、上原謙)などである。わけても「細雪」は、谷崎潤一郎のベストセラーを原作に、蒔岡家の四姉妹を鶴子(花井蘭子)、幸子(轟夕起子)、雪子(山根寿子)、妙子(高峰秀子)と当時最高の人気女優をズラリと並べ、一流の技術スタッフ、豪華なセット、衣裳を駆使した文芸大作だった。佐生正三郎社長は「配給の神様」と言われたが、経営状態は悪化し、昭和28年2月には退陣した。大蔵貢新社長が就任するのは昭和30年12月29日で、昭和31年から「大蔵路線」といわれる見世物的な娯楽映画の製作に切り替わる。しかし、質は悪かったが、そこには娯楽映画特有の魅力や活力があった。

2008年6月13日 (金)

山口百恵・水野晴郎対談

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    「水曜ロードショー」の解説者で「シェーン」のあとで、「いゃあ、映画って本当にいいもんですね」で知られた水野晴郎さんが6月10日亡くなられた。76歳だった。雑誌「スクリーン1975年4月号」に「水野晴郎連載対談」で16歳の山口百恵と対談している。

百恵 映画の中でも冒険する人の姿にすごく憧れるんですよ。

水野 百恵ちゃんが冒険心をもっているんだよね、何でも挑戦の…(笑)。

百恵 街なんかでも知らないところへ平気で一人でスタスタと行っちゃうんです。冒険と言う事とは違うんですけど、自分がココへ行きたいと思うともうまっすぐ行ってしまうんです。

水野 人間誰でも大小は別として冒険心をもってると思うんだな。その冒険心がどんな形で表へ出て来るのか…。冒険心というのは人間の生命力の一つの象徴だと思う。

百恵 ある人に言われたんです。人間はいつも砂漠の砂であるべきだって…あらゆるものを吸収することが必要だって。

水野 映画というすばらしい世界の知識や人生をいつぱいもった水分を、うんとぼくたちは吸収できるチャンスがあるんだから、幸せだよね。

    1月17日で16歳になったばかりの百恵ちゃん。「伊豆の踊り子」で映画デビュー。「人間はいつも砂漠の砂であるべきだ」という名言は、なかなか16歳の少女でいえるものではない。ところで写真の百恵ちゃんの服は実際の高校の制服であろうか。とても爽やかだ。

 水野はその後、山口百恵に映画「シベリア超特急」の出演を依頼している。脚本を送ったところ、「今はまだできません」と断わられたそうだ。おそらく水野は16歳の百恵ちゃんに好感を何十年も持ち続けていたのであろう。アイドル百恵伝説の一つのエピソードではないだろうか。

2008年6月12日 (木)

織田作之助の臨終にいた女

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    端役の女優であった輪島昭子(芸名、築地燦子)は、井上演劇道場の「わが町」の中で四人姉妹の末妹の役をもらった。この上演の稽古を立ち会うために上京した織田作之助(1913-1947)と初めて出会ったのは、昭和18年のことだった。そのころ織田には宮田一枝という愛妻がいた。その一枝は昭和19年の夏に肺がんのため亡くなった。やがて昭子と織田は意気投合し同棲関係となる。織田の旅先の東京での臨終にいたのも昭子ただ一人だった。林芙美子が何かと昭子の世話をみてくれた。昭子は織田の弟子である石浜恒夫(1923-2004)と結婚し、一児の母となるが、のち離婚。輪島昭子のその後の消息は何も知らない。

    ちなみに石浜恒夫は東洋史学者・石浜純太郎(1888-1968)の長男である。

まぼろしの歌手・作曲家・江文也

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    江文也(1910-1983)。本名、江文彬。明治43年6月11日、日本植民地下の台湾、台北近郊の小基隆(三芝郷)で生まれた。大正12年に来日し、東京音楽学校で学ぶ。昭和7年3月、「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」で歌手デビューする。江は音楽コンクールにも出場したが、ライバルは東海林太郎だった。作曲家としては昭和11年のベルリンオリンピック音楽部門で「台湾の舞曲」で第4位(等外佳作)に入賞した。江文也はすぐれた音楽家であったが、戦後も文化大革命などなにかと悲運がつきまとった生涯である。1999年には井田敏「まぼろしの五線譜」として江文也の伝記を出版したが、銅製の参加メダルを第3位の銅メダルと誤認したため絶版となった。最近、平凡社から東洋文庫の一冊として「上代支那正楽考 孔子の音楽論」という珍しい本が刊行された。著者はなんと、「まぼろしの五線譜」の江文也である。今回はまぼしろにならねばいい、と願うばかりである。

2008年6月 7日 (土)

ダビデの悔い改め

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  神よ、わたしを憐れんでください

  御慈しみをもって。

  深い御憐れみをもって

  背きの罪をぬぐってください。

  わたしの咎をことごとく洗い

  罪から清めてください。

                (詩篇51)

    ダビデは前王サウルがその罪のゆえに王座から退けられた結果、王座に着した人です。しかし彼もサウルに劣らない大罪を犯した王だった。ダビデは自分の家の屋上から忠義な部下ウリヤの美しい人妻バテ・シバが身を洗っている姿を眺めた。その後、ウリヤが戦いに出ているすきに、王はその女を宮殿に連れて来させて、姦淫を犯した。さらにウリヤを最前線に送り、戦死させる。バテ・シバはダビデの子を妊娠し、人々に気づかれないうちに結婚する。旧約では姦淫に対する罰則は死である。それにもかかわらず、ダビデの罪を神は見逃された。それはダビデに真の悔い改めがあったからである。しかし神の怒りで、バテ・シバの宿した子は死に、ダビデの子であるアムノン、アブサロムと次々に死んだ。ダビデは妻バテ・シバを慰め、男の子を産んだ。その子はソロモンと名づけられた。

アリベデルチ・ローマ

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    もう20年も昔の話であるが、ローマ旅行の想い出といえば猫である。ローマにはなぜかノラ猫が多い。フォロ・ロマーノ、コロッセオ、マルチェルス劇場をはじめとする古代遺跡には、古代ローマ以来のノラ猫の領土である。すでに紀元前5世紀の著述家がノラ猫の繁栄ぶりを記している。猫を崇拝するエジプトからローマにもたらされたこれらローマの猫たちは、彼らの町を共有する人間たちとのさまざまな出来事といささかのかかわりあいをもつこともなく、時代をこえて生きのびてきた。

  アリベデルチ・ローマ…

  good bye…au revir

  陽の光 海に照り 水色の空のもと

  愛のうたを歌う 泉よ

  アリベデルチ・ローマ…

  good bye…au revir

  この胸の 奥深く 思い出をいだきしめ

  悲しくも 別れる さだめよ

  人気歌手で俳優のレナート・ラシェルが1954年に作曲したカンツォーネ「アリベデルチ・ローマ」(ローマよさようなら)はカール・シグマンが英語詞をつけてディーン・マーティンで世界的にヒットした。「アリベデルチ」とは「また逢いましょう」という意味。

預言者ヨナのしるし

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   ユダヤ人たちの一族が、イエスに、「あなたがメシアであるという証拠を見せてください」と言った。しかし、イエスは「そんなことはヨナ書を読めばわかる」と答えた。しかしそれでは納得できないユダヤ人たちに、イエスはさらに、こういう風に言われた。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」(「マタイによる福音書」12.40-42)

    ヨナとは紀元前8世紀の預言者である。ヨナはゼブルンの部族に属したとき、ガラリヤのガト・ヘフェルの預言者アミタイの子だった。ヨナという名には「はと」という意味がある。ヨナは、神から、「大いなる都市ニネベに行き、彼らの悪がわたしの前に達したことをふれ告げよ」と命令される。しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのが嫌で、反対の方向へ逃れて行き、タルシシュ、つまり今日のスペインへ行く船に乗る。このため、神は船を嵐に遭遇させた。船員たちは、ヨナが神の怒りにふれたのだと考え、ヨナを海に投げ込んだ。ヨナはシェオルという大きな魚に呑み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたが海岸に吐き出された。しかたなく、ヨナはニネベに行って神の裁きを告げると、意外なことに人々はすぐに悔い改めた。神は憐れみによってその都市の滅びを免れさせた。だがヨナの心には、ニネベの人々に対する同情心はみじんもなかった。ヨナはこのことに我慢できず、その市の東側に宿営を張り、何が起こるかを見ようとする。神は1本のひょうたんに任じて、この不機嫌な預言者ヨナのための日よけとして生えさせる。だが、翌日、一匹の虫のため植物はしおれ始め、やがて枯れて、その日よけはなくなってしまう。ヨナは焼けつくような太陽に照らされる。ヨナは、「わたしは生きているより、死んでしまったほうがましだ」と繰り返す。神は「あなたがひょうたんのことで怒りに燃えたのは正しいことか」とヨナに尋ねた。ヨナは、「わたしが怒りに燃えて死ぬほどになったのは正しいことです」と答えた。それで神はこの預言者に言われた。「あなたはひょうたんを惜しんだが、それはあなたが労したのでも大きくしたのでもない。それは一夜のうちに育て、一夜のうちに枯れうせた」

   神は、ヨナが1本のひょうたんを惜しんでいる一方で、神が今、大いなる都ニネベを惜しまれたことについて怒りを抱いたことの矛盾を悟らせたのだ。そしてヨナは神の憐れみの偉大さを学んだ。

2008年6月 1日 (日)

月が笑うぞ三四郎

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             加山雄三と倉丘伸太郎

   近代柔道の確立に命を懸けた姿三四郎の生き様を豪快に描いた富田常雄(1904-1967)の大衆小説『姿三四郎』はこれまで何度も映画、ドラマになっている。藤田進、倉丘伸太郎、加山雄三、竹脇無我、三浦友和など好青年俳優が演じているが、姿三四郎のモデルはどのような人物であろうか。富田常雄の父、富田常次郎(1865-1937)は柔道家であり、同僚である西郷四郎(1869-1922)が小説のモデルという。西郷は新潟県出身で、小躯ながら敏捷な技術で柔術各流派の強豪を破って講道館の名声を高めた。その特技は「山嵐」といわれる。明治35年、鈴木天眼(1867-1926)と共に長崎で「東洋日之出新聞」を創刊、ジャーナリストとなった。東洋日之出新聞は日露戦争後のポーツマス条約に反対するという大手新聞の状況の中でも、日本とロシアの国力の違いを冷静に判断し、条約支持という社説を貫いた勇気ある新聞であった。西郷は長崎では、柔道、水泳、弓道などの振興にも努めたが、晩年は尾道で病没した。死後、大光寺(長崎市鍛冶町5-74)に墓所がおかれた。

アンヴァリッドとナポレオン

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  セントへレナ島のロックウッドハウスの居間復元Img_0003

                 アンヴァリッドの落成

   大西洋の孤島セント・ヘレナで英雄ナポレオンが1821年に没したとき、その遺言には「セーヌのほとりに埋めてほしい」と書かれてあった。ナポレオンの遺骸は1840年にようやくパリに帰ってきて、市内の教会に安置されたが、1861年にアンヴァリッド廃兵院に葬られた。

   アンヴァリッドは「朕は国家なり」で知られる、かの太陽王ルイ14世によって1676年に建てられ、のちドーム教会も1706年に竣工した。戦傷者の療養所として使われてきたが、現在は軍事博物館・ドーム教会として軍人の霊廟となっている。日本でいえば靖国神社に相当する。フランス革命勃発時には、民衆が武器を求めて襲撃の対象となったが、今日アンヴァリッドに対する批判的な声は聞かない。すべて見てまわるのに、まる一日は充分にかかるであろうこの博物館は、軍事関連の歴史博物館として、ヨーロッパでも最大といわれている。なかでもナポレオンの柩が最も有名であるが、ナポレオンにまつわる品々が数多く展示されている。

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              ナポレオンの柩

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         ナポレオンのデスマスク

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