志賀直哉の松江時代
志賀直哉(1883-1971)は大正3年6月、31歳のとき松江に3ヵ月ほど住んだことがある。最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋と仮寓した後、内中原67番地に移った。
ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。(「濠端の住まい」)
志賀の松江に滞在した目的は、夏目漱石の後を受けて朝日新聞の連載小説を書くことであった。
夏目さんはその年、春頃から「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(「続創作余談」)
志賀の松江での暮らしはできるだけ簡素な暮らしをするということであった。以前に尾道で独り住まいをしたときは、初めて自家を離れた寂しさから、なるべく居心地よく暮らすために、日常道具を十二分に調えたが、今度はできるだけ簡素にと心がけた。だが、小説は思うように進まず、夏には伯耆大山に登り、9月には京都南禅寺に移っている。ところで、尾道から大山、京都はみんな「暗夜行路」の主要な舞台であり、このころの志賀直哉がつまり時任謙作であることは明らかであろう。そして松江時代に体験したことが作品完成への重要な礎石となったことも事実である。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった」(「濠端の住まい」)とのちになって、松江時代が意義あるものであることを記している。
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