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2008年5月 1日 (木)

千年の恋・源氏物語

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        紫式部画像  土佐光起筆

    今年は紫式部(979?-1016?)が「源氏物語」を執筆してからちょうど一千年の節目にあたるとされ、各地で「源氏物語」ゆかりのイベントが催されている。

    紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。

    紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。

   「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。

    源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。

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