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2008年5月31日 (土)

パリの自由の女神

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  セーヌ川に架けられたグルネル橋の中央にニューヨークの象徴といわれる自由の女神そっくりの像が立っている。といっても不思議はない。もともと自由の女神はフランス国民がアメリカの独立を祝って1886年に贈ったものだからだ。その3年後の1889年、フランス革命100周年を記念してパリ在住のアメリカ人が寄贈したのがこのパリの自由の女神である。現在では東京お台場、淡路島、大阪アメリカ村など国内各地でも大小さまざまな自由の女神があるそうだが、由緒正しいのは、やはりニューヨークとパリのグルネル橋の自由の女神であろう。

    1789年のフランス革命当時のパリの人口は、約60万人といわれるが、19世紀にはいると工業の発達にともない、1826年75万人、1848年95万人と、人口は膨張を続けた。ナポレオン3世のころ、当時のパリ知事オスマンが大規模な都市計画を実施し、エトワール広場、シャンゼリゼ大通りなどを作った。その後、第3共和制以来、パリは絶え間なく発達を続け、1900年には地下鉄も開通した。

ビューンと飛んでく鉄人28号

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    アニメやコミックは殆ど見なくなった。しかし今夜のBSの番組表を見ると「鉄人28号、白昼の残月」とある。昨年劇場公開されたアニメ映画だ。矢島正明のナレーションで重々しく物語りは始まる。このアニメはかなり大人向けに作られているようだ。鉄人28号は旧日本軍の開発した秘密兵器だった。少年探偵金田正太郎の父が開発したロボットだが、鉄人28号を操縦するため南方の秘密研究所で特訓を受けたという「ショウタロウ」が復員してきた。萱野月枝は共潤会アパートの管理人でショウタロウはそこに住むことになる。月枝はショウタロウの実の母で、ショウタロウと正太郎は異母兄弟にあたる。月枝は正太郎の命を狙うができない。金田正太郎は鉄人28号の操縦士に自分が相応しいかどうか悩むが、廃墟弾事件を通じて一人前の操縦士として成長する過程が描かれている。あまりにストーリーをひねったため、アニメ的展開の面白さに欠けるきらいはあるが、絵そのものはオリジナルの横山光輝のタッチにかなり忠実である。とくにショウタロウの面立ちなどは横山漫画の典型的二枚目である。大塚警部や敷島博士もよい。村雨健次などの名前を聞くと涙がチョチョビレルほど懐かしい。金田少年につきまとう高見沢などという女性がいたのかあまり思い出せない。ともかくも全体に暗く重苦しいアニメであったが、ケペル世代は満足している。

尾張名古屋は城でもつ

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   名古屋城は江戸幕府御三家筆頭、尾張徳川家17代の居城で、金鯱城、金城、蓬左城の別名がある。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と俗謡にも歌われるように、名古屋は城とともに誕生した都市であり、江戸城(東京)、大坂城(大阪)と並らべ称せられる。ふつう日本三大名城という場合は、普請(築城術)の観点から江戸城を別格扱いとし、代わりに熊本城を入れる場合もあるが、いずれにしても名古屋城は日本を代表する名城であろう。

   名古屋城の生い立ちは、戦国時代に今川氏親(1473-1526)が、尾張国愛知郡那古野に築城したのがはじまりである。その後、勝幡城主・織田信秀(1508-1551)の奇計によって奪取された。その年は、享禄5年(1532年)とも天文7年(1538年)ともいわれる。織田信長はここで成長している。関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、慶長14年、「名古屋に城を築かば日本半国の勢を以て責めるとも落ちべからず」と旧城跡を拡大しての築城を命じる。牧助右衛門が検地縄張りにあたり、翌年、加藤清正、福島正則、池田輝政等をはじめとする西国、北国の諸大名20家が到着して築城にかかわった。

   元和元年、徳川義直が本丸に入り、翌年に二の丸御殿の完成をみた。以来250年間、徳川御三家の一つ尾張公の居城として伝領されてきたが明治の世になって陸軍省鎮台がおかれ、さらに本丸が離宮(宮内省)となった。

尾張徳川家藩主17代

初代・徳川義直(1600-1650)

2代・徳川光友(1625-1700)

3代・徳川綱誠(1652-1699)

4代・徳川吉通(1689-1713)

5代・徳川五郎太(1711-1713)

6代・徳川継友(1692-1730)

7代・徳川宗春(1696-1764)

8代・徳川宗勝(1705-1761)

9代・徳川宗睦(1739-1799)

10代・徳川斉朝(1793-1850)

11代・徳川斉温(1819-1839)

12代・徳川斉荘(1810-1845)

13代・徳川慶臧(1836-1849)

14代・徳川慶勝(1824-1883)

15代・徳川茂徳(1831-1884)

16代・徳川義宜(1858-1875)

17代・徳川慶勝(14代の再勤)

釣りと少年

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    胡基明による児童画「小粗心釣魚」である。(1985年6月号『児童画報』に掲載)一般的に現代中国の児童画は、動物たちを擬人化したものが多く、素朴で可愛らしい絵柄のものを具現化しているのが特徴である。そして日本の「赤い鳥」に代表されるような大正期の童心主義的な傾向がみられる。

壺中に天あり

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   後漢の時代、河南省汝南県の町役人に費長房という人物がいた。市場に薬売りの老人がいて、彼の売っている薬を飲むと、病気はたちまちのうちに治った。費長房は高殿の上から老人の店を見ていると、不思議なことに、毎日市が終わると、店に置いてあった壺の中へ跳び込んでしまう。老人がただ者でないことを感じとっていた長房は、目をつぶって老人の後を追って壺の中へ跳び込んでいった。

   驚いたことに、壺の中には壮麗な仙宮の世界が広がっていた。美しい楼閣、二重三重の門、2階造りの長い廊下。老人は数十人の侍者を従え、長房を笑って迎えた。酒や肴のある華やかな宴に驚き、壺の中に別世界の楽しみを味わった。

   老人の姓名は、ついに判然としなかったが、のちに壺公と尊称され、俗に『壺公符』と呼ばれる全20余巻の霊符を残したとされている。壺の中の仙界は「壺中天」の名のもとに、伝説となった。費長房は人界を去り、仙人となる試験を受けるが、最後に失敗し、仙道は得なかったが、長寿と使鬼の術を授かる。彼はその符の力によってよく諸病をよく治すことができたが、符をなくして鬼のために殺された。

    「壺中に天あり」とは、壺の中からも満天の世界に通じるの意で、一つの小天地、別世界をいう。壺中有天は安岡正篤の説く「六中観」、つまり死中、苦中、忙中、壺中、意中、腹中の一つでもある。現実生活を強く生き抜くためには、自分の楽しみを持つ心が大切である、という意味にも通じる。

2008年5月25日 (日)

千慮の一失

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渡辺崋山「韓信の股くぐりの図」 沼田市・長寿院蔵

    漢の劉邦の麾下の将軍で名将韓信(?-前197)がいた。彼は若い頃、屠殺業者に侮辱されて、じっと耐えてその者の股の下をくぐったという「韓信の股くぐり」の逸話は有名である。

    韓信ははじめ楚の項梁、項羽のもとに仕えたが目が出ず、蕭何の推挙を得て漢の劉邦に仕え、大将軍に任命された。彼の智将としての名声を一躍に高めたのは、趙攻略においてである。軍略家として知られた李左車は、奇襲をもって韓信の糧道を断つことを進言したが容れられず、ために趙は滅亡した。韓信は李左車を捕らえると、辞を低くして兵法の教えを乞うた。「敗軍の将兵を語らず」といったんは断わった李左車も韓信の熱意に動かされ、「知者も千慮に一失という言葉があります。わたし如きが申すことなど、お取りあげいただくほどのことはありますまいが、力の限りお役に立ちましょう」と言って、燕・斉を降す策略をさずけた。

我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ

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パトリック・ヘンリーの名演説

   パトリック・ヘンリー(1736-1799)は、ヴァージニア州の有能な弁護士だった。州の議員となり、1765年の印紙条例に対し、北米植民地が本国議会に代表を送っていないので、「代表なくして課税なし」とヴァージニア植民地議会の決議などで反対運動をひきおこした。1767年、本国議会は新しくタウンゼント諸法でガラス・鉛・茶などの課税を定めた。これも本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招き、茶を残し廃止されたが、反対運動の続いたマサチュセッツでは1773年、ボストン茶事件が起こった。1774年、大陸会議を開き、1775年レキシントンの戦いで独立戦争となり、翌1776年にはアメリカ独立宣言が発表された。1781年のヨークタウンの戦いで大勢が決定したが、1783年パリ条約によって独立が正式に承認され、1787年アメリカ合衆国法を制定、1789年ワシントンを大統領とする新政府が発足した。

   「我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」という有名な文句は、1775年3月23日、ヴァージニアの植民地会議が解散されたため、リッチモンドで開かれた非合法の人民大会においてヘンリーがおこなった演説の一部で、イギリスとの開戦を主張したものである。

ガルボとファッション

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   1925年、アール・デコの展覧会がパリで開催された。スカート丈が、膝の丈にまで短くなったということは、ファッションの歴史でも革命的な出来事だった。この年、グレタ・ガルボはスウェーデンからハリウッドへやって来た。大女で、大きな足、うどの大木といわれた女性が、数年後には1920年代のファッション・リーダーになる。ガルボこそがこの時代に要求した女であり、ギャルソンヌ・スタイルにぴったりした理想のスターであった。1920年代後半のモードは、ガルボを中心にして世界が回った。ギャルソンヌ・スタイルの特徴は、余分なものを捨て去ることだった。手始めにまず髪を切り、スカート丈を短くする。そのことによって、きりっとしたなかに、女性らしい色気と個性美が生まれた。ガルボといえば帽子が連想される。しかし、帽子はガルボに限らず、グロリア・スワンソン、ヴィルマ・パンキー、ベティ・アーマン、ジョン・クロフォードなどなど、ほとんどの女優が愛用している。

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髯剃り見習いから「神聖ガルボ帝国」の女王へ

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    グレタ・グスタフソンは、1905年9月18日、ストックホルムの貧しい家庭に生まれた。両親は正式な結婚ではなく、14歳の時に日雇労務者の父が病死すると、学校を中退して、理髪店で髯剃り見習いをやっていたという。(この世の中には少女時代のガルボに髯を剃ってもらった男がいたという驚きの歴史的事実)その後、姉の友人の紹介でデパートに就職。帽子売り場の売り子をした。やがて、その美貌を買われて帽子カタログのモデルを努める。1924年、スウェーデン映画の立役者マウリッツ・スティルレル(1883-1928)に見出されて、「イェスタ・ベルリングの伝説」のヒロインに抜擢される。1925年6月6日、二人はニューヨークに着いた。メトロの重役ルイス・B・メイヤーはハリウッド中の美容師を動員して泥臭い女優を磨きあげ、「グレタ・ガルボ」という芸名をつけた。またスティルレルは、ガルボに礼儀作法から服の選び方まであらゆるたしなみを教えた。こうして理想の女性は男たちによって創りあげられた。

   主演第2回作品「明眸罪あり」の初日あいさつで、司会者が「こちらがミス・ガルボです。一言も英語がしゃべれません」と紹介し、ガルボもスウェーデン語で答えたが、観客はなんとなく笑ってしまった。以来ガルボは決して、初日の招待試写会に出席しなくなった。言葉の問題と、生来の社交嫌いは、ガルボの神秘性を際立たせ、効果的な魅力となった。ロン・チャーニーはガルボにこう言った。「神秘はぼくに役立っている。しかし、きみにはもっと役立つだろう」ガルボ伝説のはじまりである。華やか名声とは裏腹に、倹約家で香水や化粧品のたぐいを持たなかったという。その謎めいた私生活のゆえに、ガルボはいっそう永遠の面影を人々に与えた。日本ではむかしから永遠に冒すべからざる女神として「神聖ガルボ帝国」とよく呼んでいる。(これは映画評論家の筈見恒夫の造語である。)36歳の若さで引退し、何度もカムバックの噂はあったが、長い隠遁生活に入る。1990年、85歳で永眠。

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銀幕の女王グレタ・ガルボ

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   きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボ(1905-1990)であろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。

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2008年5月24日 (土)

エステル・テイラー

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    セダ・バラは「愚者ありき」(1914)という映画で、男を片っ端から破滅に陥れる悪女を演じ、「ヴァンプ」と呼ばれて人気を集めた。以後も、クレオパトラ、カルメン、サロメといった毒婦、悪女を次々と演じた。そもそも「ヴァンプ」とは何か。「ヴァンパイア」の略である。広辞苑には「妖婦。毒婦。淫婦。また、その役を演ずる女優。バンプ」とある。ほかの辞書には「故意に男性を魅惑し食い物にする女」とある。イギリスの詩人ラドヤード・キップリングの詩に「ヴァンパイア」があるのが起源という。

    1920年代のハリウッド映画はまさにヴァンプ花盛りであった。今ではその名をほとんど知られないが、エステル・テイラー(1899-1958)もヴァンプ女優の典型であった。古老の話(双葉十三郎と淀川長治の対談)を聞いてみよう。

双葉 セダ・バラは長さんが言ったみたいに演技もメークもいわば歌舞伎的だったけど、その後に来たエステル・テーラーは同じヴァンプでも少し現実味が出てきて、ほんとになまめかしい、いい女だったね。

淀川 フォックスはだいたい田舎くさいのに、エステル・テーラーが出てきた時はびっくりしたね。何とも知れんきれいで、「ある愚者ありき」なんかセダ・バラがやった後にエステル・テーラーで作ったけど、よかったよ。あんな女優には誰でも征服されちゃうね。

双葉 長さんはエステル・テーラー気違いだからな。ヘビー級のチャンピオンのジャック・デンプシーと結婚して、また有名になったね。

淀川 僕は清純派の双葉さんと違って、ヴァンパイアーが好きだから(笑)。

   *   *   *   *   *

    エステル・テイラーは17歳で離婚後に演技を学び、ブロードウェイのコーラス・ガールになる。美女テイラーと結婚した拳闘家ジャック・テンプシーは闘争本能を忘れ3年間も試合をせず、1926年9月にジェーン・タニーに敗れ王座を去った。映画だけでなく実生活でも男を破滅する女だったのだろうか。代表作「紐育の丑満時」(1920)「或る愚者有りき」(1922)「十誡」(1923)「ドン・ファン」(1926)「リリオム」(1930)「街の風景」(1931)「シマロン」(1931)「南部の人」(1945)

   (参考文献:「スタアがスタアだった時代」別冊太陽・女優Ⅱ)

2008年5月23日 (金)

第一級の政治家ペリクレス

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   紀元前469年から429年にかけてアテネは軍人でもあり、雄弁をもってきこえる天才的な政治家ペリクレスによって統治された。同時代の歴史家ツキディデスをして、「名においては民主政だが、実際には第一人者の支配であった」と書いている。だが、口さがないアテネ市民たちが40年もの長期政権を認めたのか、実は史家にとっても歴史上の大きな謎のひとつだそうだ。ペリクレスが傑出した政治家であったことは疑う余地のないところではあるが、気位の高い一貴族が何故に民衆を惹きつけたのであろうか。

   ペリクレス(前495-前429)の父はクサンティッポスといい、在世中にテミストクレスと張り合って追放をうけたこともあるような、政界の大立者だった。その人柄は、近よりがたいくらいおごそかで、決して笑うことはなく、「オリンポスの神」などというあだ名がつけられていたことからしても、庶民的ではなく、やはり貴族的な人物であったと思われる。

   ある時、いつものようにアテネの中央広場で執務中のペリクレスが、一人の下劣な男につきまとわれたことがある。この男が非難や悪口を浴びせかける間、ペリクレスは、黙ったままそれを忍び、仕事をさばいていった。夕方になってから服装をととのえ家に帰るのを、その男は後を追ってきて罵言を浴びせる。家に入ろうとした時にはすでに暗くなっているのに気づいたペリクレスは、召使の一人に灯をもたせて、その男を家まで送るように言いつけた。

   これは、相手を軽蔑しきっている人にしてはじめてやれる振る舞いである。気位が高く、言葉つきも崇高で、庶民的な雰囲気などまったくなく、静かな歩きぶりと、よどみのない声の出し方をした男、ペリクレスこそアテネ最高の政治家であったといえる。(参考文献:塩野七生「男の肖像」)

2008年5月22日 (木)

美女丸と幸寿丸

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     満仲の太刀を経典で受け止める美女丸

    源満仲(912-997)は、わが子の美女丸を僧侶にしようと中山寺へ修行に出した。しかし、美女丸は武芸のまねごとばかりして、遊んでいた。美女丸が15歳になったある日のこと、満仲が美女丸を呼び寄せて修行の成果をただしたところ、和歌や管弦はもとより、経文も読むことがでないことを知った。満仲は怒って重臣の中務仲光に「美女丸を斬れ」と命じた。しかし、仲光は主君の子の命を奪うことができず、困り果てた仲光の様子を見かねた仲光の子である幸寿丸は、自分の首をうつように願い出た。仲光は流れる涙をこらえながら、わが子を斬り、満仲に差し出して、美女丸はひそかに比叡山の源信僧都のもとに送り出した。

    のちにこれを聞いた美女丸は、修行に励み源賢僧都となり、自分の身代わりに命を絶った幸寿丸のために小童寺(川西市西畦野)を建立した。

パウロの勇気

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   パウロ(紀元前2年~紀元後67年)は、小アジアのキリキア州タルソスで、ユダヤ人の子として生まれた。ユダヤ名をサウロといい、ベニヤミン族に属するユダヤ人であるとともに、生得のローマ市民権を持っていた。ペテロがイエスの直弟子であるが、パウロは、直弟子でないのみならず、イエスを迫害したパリサイ派の知識人であった。34年、シリアのダマスカス近郊で回心し、イエスをキリストと告白するに至った。その後、異邦人の使徒という自覚に至って、小アジア、マケドニア、ギリシアと48年から3回の伝道旅行をし、各地に教会を建てた。56年、エルサレムに行ったときユダヤ人と衝突し、暴行を加えられた。パウロは勇気を持って次のように述べた。「わたしは、縛られることばかりか、主イエスの名のためにエルサレムで死ぬ覚悟さえできているのです」。パウロがエルサレムの神殿を訪れやいなや、ユダヤ人たちが、暴徒をあおってパウロを殺そうとする。ローマ兵はパウロをエルサレム神殿の北西部の角にあるアントニオの塔と呼ばれた要塞の階段上方の安全な所に引きずるように連行された。両手は2本の鎖で縛られていた。ヘロデ・アグリッパ2世はパウロの弁明を聞いて、「あなたは、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」と述べたが、ローマ市民であるため、パウロを殺さずに、カエサリアの牢に入れた。2年間の監禁生活の後、西暦58年頃、パウロはローマへ護送される。途中で難破したりしたが、61年頃、ローマに着いた。やがて皇帝ネロによって迫害され、67年、捕らえられ斬首された。

ペテロとネロ

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ローマで最も有名な眺望。サン・タンジェロ(聖天使城)、聖天使橋、そして奥に聖ペテロ寺院のドーム

   西暦64年、ローマ皇帝ネロ(37-68)の治世に大事件が起こった。この年の7月、ローマ市は下町から出た怪火によって数日間燃えつづけ、市街の大半が焼失した。ネロはこのとき海岸都市アンティウムの離宮にいたが、すぐ帰還して消火と罹災者救護、さらに市街の復興に努力した。しかし彼の平素の行ないが悪いためか、かれが市街の燃えるさまをバルコニーから眺めトロヤ滅亡の詩を口ずさんだとか、また新市街建設で名をあげるため旧市街に放火して焼きはらわせたとかいう忌まわしい噂がたち、民衆が暴動を起こしそうになった。ネロはこの噂を消すために側近の進言によって放火をキリスト信者のせいにし、かれらを十字架につけたり、火あぶりにしたり、獣の皮をかぶせて猛犬にかみ殺させたりした。捕縛を逃れたペテロ(生年不詳~64年頃)も、ついに激しい迫害に耐え切れず、ローマを去る決心をした。ペテロは夜中にローマを発って、明け方のアピアン街道をたどっていた。おりしも朝日が昇り、その黄金の光芒の中にペテロは、キリストの姿をみた。ペテロは思わず膝まづいていった。

    「クオ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこへ行かれるのですか)」とたずねると、「あなたが私たちの羊たちを見すてるのなら、私はローマへ行き、もういちど十字架にかかろう」と答えた。

   しばらくうちたおれていたペテロは、やがて立ち上がってくびすを返した。そしてふたたび信徒迫害のローマにもどり逆さ吊りの十字架にかかって殉教する。

   その4年後、暴君ネロは、嵐のように、火事のように、戦いのように、疫病のように死んだ。しかし、ペテロの礼拝堂は、今もなおヴァチカンの頂から、ローマおよび全世界を支配している。

2008年5月20日 (火)

禁酒法時代の女性のファッションと映画

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リリアン・ギッシュ(1896-1993)アメリカ映画の先駆者グリフィスに育てられた純情型の人気スター。「散り行く花」「東への道」

  アメリカの1920年代を歴史家は「ローリング・トゥウェンティーズ」と呼んでいる。景気がよく、なにかと騒々しかった時代という意味である。この他にも、ジャズ・エイジ、ナンセンス時代、迷える世代、とかあるが、やはり禁酒法時代(1920-1933)という呼び名が最も知られているだろう。ナイトクラブがニューヨークやシカゴに続々と誕生した。そうしたナイトクラブはギャングが経営する店であり、たいていジャズ・バンドと美しいコーラス・ガールが客を楽しませていた。ギャングはジャズ・バンドのパトロンであり、コーラス・ガールの愛人だった。そして、ギャングは禁制の酒を大衆に提供する「恩人」だった。アル・カポネは言った。「私はビジネス・マンだ。」

   政治の世界では汚職・スキャンダルが絶えなかった。ハーディング大統領は、大統領らしい顔をしているからという理由で、大統領に選ばれ、クーリッジはホワイト・ハウスで最も多く昼寝した大統領だといわれる。

   しかしながらこの1920年代を最も象徴する出来事は女性のファッションが激変したことではないだろうか。スカートは足首から膝まで上昇した。これはミニ・スカート以上の女性の服装の変化であった。肌の色に近いストッキングを女性がはくようになったのも1920年代である。ブラジャーの発達によって、女性たちはヴィクトリア朝の遺物と化したコルセットを棄てるようになった。しかし、女性のファッションには、1920年代のアメリカにおいて、もっと大きな変化があった。一つはスタイルの国際化である。アメリカはパリの影響をもろに受けるようになり、そして、パリ・コレクション紹介の先達となったのが、いまでもつづいている「ヴォーグ」である。もう一つの変化は既製服の大量生産であり、これによってファッショナブルな衣類が安い値段で着られるようになった。だが、1920年代に行なわれた調査によると、女がどんなものを着ているかということに大部分の男は気がついていない。とすれば、なせファッションは1920年代にこれほど大きな重要性を持っていたのか?それは女は男のために着飾るのではなく、ほかの女と競争するために着飾る、と。

   とにかく、鈍感なる男たちも女性のファッションの変化に気づくとすれば、それは映画の中で華やかに着飾った女優たちによってであろう。アメリカ映画はスター・システムによって映画の最初の黄金時代をつくり、世界の映画市場を征服した。アラ・ナジモヴァ、セダ・バラ、パール・ホワイト、ルース・チャタートン、メアリー・ピックフォード、ルース・ローランド、ノーマ・タルマッジ、リリアン・ギッシュ、ポーラ・ネグり、コンスタンス・タルマッジ、グロリア・スワンスン、ドロシー・ギッシュ、ビリー・ダヴ、マレーネ・ディートリッヒ、クララ・バウ、ジャネット・ゲイナー、グレタ・ガルボなどなど女優たちによって、1920年代がそれを知らない後世の者たちにとっても、夢のような、楽しい時代として想い描かれるのである。

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  アラ・ナジモヴァ(1879-1943) ロシア出身の名女優。「人形の家」「サロメ」「椿姫」「孔雀夫人」

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 セダ・バラ(1885-1955)ヴァンプ(妖婦)の女王。「愚者ありき」「カルメン」「クレオパトラ」

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パール・ホワイト(1889-1938)連続冒険活劇の女王。「ポーリンの危難」「電光石火の侵入者」

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メアリー・ピックフォード(1893-1979)「アメリカの恋人」といわれた大スター。「小公女」「嵐の国のテス」「ロジタ」「雀」

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ノーマ・タルマッジ(1893-1957)美貌、演技力を兼ね備えた実力スター。「久遠の微笑み」「椿姫」「秘密」

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ルス・ローランド(1892-1937)連続冒険活劇の女王。「赤輪」「ルスの冒険」

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 ポーラ・ネグり(1897-1987)ヴァレンチノの恋人「カルメン」「チート」「スエズの東」

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 グロリア・スワンソン(1897-1983)社交界の女王。「夫を変える勿れ」「港の女」「男性と女性」「ありし日のナポレオン」「今宵ひととき」

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   コンスタンス・タルマッジ(1897-1973)「イントレランス」「恋のかけひき」「桃色女白波」「金魚娘」「粋な殿様」

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   ドロシー・ギッシュ(1898-1968)「嵐の孤児」「ロモラ」

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ビリー・ダヴ(1900-1998)ジークフォルド・フォリーズの踊り子からスターになった美女。「ダグラスの海賊」「アメリカ美人」

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 クララ・ボウ(1905-1965)性的魅力あふれる現代娘イット・ガール。「It(あれ)」「つばさ」「フラ」「暗黒街の女」

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ジャネット・ゲイナー(1906-1984)純情可憐の典型的美人。栄光あるオスカー女優第1号。「第七天国」「サンライズ」「街の天使」

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ルイーズ・ブルック(1906-1985)都会派、モダンガールの代表的女優。「美女競艶」「百貨店」「夜会服」「人生の乞食」

2008年5月19日 (月)

ヘプバーン、父親との再会

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    オードリー・ヘプバーンはイギリス人の保険会社で働く父ジョセフ・アンソニー・ヘプバーン・ラストンと、オランダ王室貴族へームストラ男爵の血筋を持つ母エッラ・ファン・ヘームストラとの間に1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれた。第二次大戦中、両親は離婚し、ヘプバーンは母の母国オランダのアルンヘムに住み、ナチス・ドイツ占領下の苦労を味わった。イギリス人の父ジョセフは、親ナチス運動に加わっていた。そのような彼女の経歴は当時、極秘とされていた。「魔女狩り」のようなマッカーシズムが吹き荒れていたアメリカの芸能界で、父親の親ナチス運動が公になることは、彼女にとって危険なことであったが、どうしても父親の安否が気がかりであった。

   1953年、「ローマの休日」で一躍世界のトップスターとなったヘプバーンは、1959年、映画「尼僧物語」の撮影のため、20年ぶりに故郷ベルギーのブルッへに戻ってきた。ヘプバーンは別れ別れになった父とどうしても会いたかった。その願いはかなえられた。父方の従兄、ウォルター・ラストンの手引きで、ヘプバーンは父親と再会をはたした。(一説によると二人は1957年、アイルランドのダブリンで再会したとも伝えられる。)

東西南北と東南西北

   麻雀の好きな友人がある時、「日本ではふつう東西南北というのに、中国ではどうして東南西北(ドンナンシーペイ)というのか」と聞く。考えてみれば、東西南北は東西と南北という対立概念を組み合わせた表現である。それに対して、東→南→西→北と時計の針の回転と同じ順序に従った並べ方である。日本ではかなり古くから東西南北という言い方をして来たらしい。菅原道真の漢詩「舟行五事」の起句に見える。中国でも、東西南北という言い方は、「春秋左氏伝」(襄公29年の条)に見える。古くから東西南北という語は存在していたものの、中国で一般的に東南西北という言い方に変わったのは、五行説が民間に定着したことと関連するらしい。

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   人の生活の基本として、1年は春夏秋冬の四季に分けられる。五行説によると、この世界の森羅万象すべての事象は、木火土金水の五元素の輪廻・作用が循環して生ずると説明づけられる。つまり、五元素を方角に配置すると、東に木、南に火、中央に土、西に金、北に水を当てる。さらにこれを1年の季節に当てはめるると、東は春、南は夏、西は秋、北は冬となる。

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    かくて四季の循環が東南西北の順序と合致する。木火土金水は宇宙間の万象を象徴するものであるので、下の「五行配当表」を参照されたい。

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(引用文献:一海知義「東西南北と東南西北」図書、第655号、吉野裕子「五行循環」「陰陽五行と日本の民俗」)

キリンの心臓

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   キリンの心臓の実物を一度も見たことはないが、話によれば、きわめて大きく(重さ10㎏、人間は200g~300g)、働きも強力だという。それは長い首の上の脳に血液を送るため、かなりの血圧が必要だからである。キリンの血圧は心臓の近い位置では、上が260、下が160という超高血圧である。動物のなかでも最高だろう。ただし首のところだと、上は150、下は100で人間並みである。

外国スターと声優

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   ケペルが小学生の頃、学校から帰るとテレビで「3時の名画座」を見ていた。主に1950年代以前のアメリカ映画を放送していた。お気に入りは、ビング・クロスビーとボブ・ホープの珍道中シリーズ。とくにボブ・ポープの柳沢真一の吹き替えが印象に残る。しかし、販売されているビデオの吹き替えでは、藤村有弘(ボブ・ホープ)、中村正(ビング・クロスビー)とある。記憶ちがいなのだろうか。

   最近はテレビ放送でも吹き替えより字幕を好む人が増えているという。ケペルは断然吹き替え派である。「ローマの休日」もオードリー・ヘプバーンの声を何人もの女性が担当しているが、声優により雰囲気が変わる。そのため放送される度に録画している。やはり池田昌子が好きだ。だいたい昭和40年代にはスターと声優は固定化されているようだ。それらの主なアテレコ声優をあげてみる。

クラーク・ゲーブル、ロバート・テーラー(納谷悟朗)

ハンフリー・ボガート(久米明)

ジャン・ギャバン(森山周一郎)

グレゴリー・ペック(城達也)

フランク・シナトラ(家弓家正)

モンゴメリー・クリフト(山内雅人)

アラン・ドロン(野沢那智、堀勝之佑)

トニー・カーチス(広川太一郎)

ケーリー・グラント(中村正)

リチャード・ウィドマーク(大塚周夫)

タイロン・パワー(前田昌明)

ジョン・ウェイン(小林昭二)

ジェームズ・ギャグニー(近石真介)

ジャック・レモン(愛川欽也)

ヘンリ・フォンダ(小山田宗徳)

ウィリアム・ホールデン(近藤洋介)

イングリッド・バーグマン、デボラ・カー(水城蘭子)

オードリー・ヘプバーン(池田昌子)

マリリン・モンロー(向井真理子)

エヴァ・ガードナー(翠準子、沢田敏子)

ドリス・デイ(楠トシエ)

ローレン・バコール(来宮良子、大塚道子)

エリザベス・テーラー(武藤礼子)

ソフィア・ローレン(此島愛子、今井和子)

ラナ・ターナー(瀬能礼子、津村悠子)

ブリジッド・バルドー(渋沢詩子、白石冬美)

シャーリー・マクレーン(小原乃梨子)

コニー・スティーヴンス(増山江威子)

キム・ノヴァク(真山知子)

グレース・ケリー(野口ふみえ)

ヴィヴィアン・リー(寺島信子)

ジナ・ロロブリジダ(森ひろ子)

   なかでも、知性派ヘンリー・フォンダ(小山田宗徳)や情熱家バート・ランカスター(久松保夫)はスターの個性と声優の持ち味がブレンドして、今でも耳に残る。久松保夫(1919-1982)は「日真名氏飛び出す」でお茶の間のスターとなり、「ララミー牧場」のジェス・ハーパー(ロバート・フラー)や「スタートレック」のスポック(レナード・ニモイ)もあるが、持ち役はバート・ランカスターである。

2008年5月17日 (土)

男の色気

   男の色気とは何か?これがなかなか定義することが難しい。タバコを加えて、一人で悦に入っている男もいるだろう。イタリア男のような軽いのりでジョークをとばす男もいるだろう。作務衣を着て修行僧になったつもりの男もいる。人それぞれで自分流のスタイルを見つけるのが良いだろう。

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    さて、「男の色気を感じる俳優は?」というアンケートをとれば、おそらくジョニー・デップかもしれない。でもケペル世代としては、アラン・ラッドとジェラール・フィリップをあげる。これぞ「男の色気ここにあり」という二人の珍しい写真である。軍服姿のアラン・ラッド(1913-1964)は天下一品であろう。「マッコーネル物語」(1955)の撮影開始まえの一瞬を捕らえた写真で、穏やかな人柄がよくでている。送られたファン・レターにはほとんど自筆で返事していたという。日本にもファンは多かったが、背の低さに悩み続け、ほとんど人前に出るのを嫌った孤独で寂しいアラン・ラッドに、ケペルは「シェーン!カムバック」と泣きながら叫ぶのである。

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   ジェラール・フィリップ(1922-1959)といえば、世界中の女性のハートを鷲つかみにしたフランスの貴公子である。わずか36歳でこの世を去ったが、佳人薄命は男にも適用されるものなのか。淡くやさしい瞳の二枚目であるが、容貌もさることながら、その演技力で名優としての高い評価を得た俳優なのである。あまりにも完璧であるため、これまでケペルは近づきにくかったが、この写真、どこかおどけていて親しみがもてます。パリの馴染みの喫茶店。一人でリラックスしていた時間、突然、日本人カメラマンの早田雄二が闖入して「写真をお願いします」といわれて、まずは、日本のファンへのごあいさつ、といったところかもしれない。

川端康成「雪国」

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   国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。島村は年の暮れの寒さのなかを女に会うためにやって来たのである。無為徒食の島村は、ともすれば失いがちな自身に対するまじめさを呼びもどすために、この春、一人で国境の山々を歩きまわり、山をくだって、たまたま泊まった温泉宿で駒子と馴染んだ。駒子は三味線と踊りの師匠の家にいた娘だったが、今度は芸者になって出ていた。頬を染めて懐かしそうに島村の手をにぎる駒子に、島村は来るべきところへ来た思いがするのだった。駒子はからだをぶつけるように、しげしげと彼に会いに来た。ついには朝がきても帰らず、師匠の家にいる葉子に三味線を持ってこさせて、島村のまえでさらったりした。駒子の三味線は文化三味線譜で習ったものだが、山峡の自然を相手に稽古したその撥の音は、どこまでも強く、冴えかえり、聞きほれる島村の心に孤独な女のひたぶるな純粋さが、せつなくしみ通るのだった。駒子には夫婦になるはずだった師匠の息子がいた。彼は病気で、駒子が芸者に出たのも、その病気の費用を出すためだった。島村が東京へ帰るとき、駅まで送った駒子のもとへ、葉子が息子の急変を知らせてきたが、駒子は葉子を追いかえし帰ろうとしなかった。葉子は息子を愛していた。

   三たび女をもとめて島村がやって来たのは、秋だった。細かい羽虫や蛾の飛び回る部屋で、駒子は激しく島村の胸に身を投げかけた。このまえ駅まで送ってきた駒子が、とうとう師匠の息子の死に目にも会えなかったらしいことを知った島村は、駒子をさそって息子の墓へ参った。墓には葉子がいて、燃える目で刺すように二人を見た。駒子は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄っていった。そんなことが狭い土地のうわさになれば、身を滅ぼすと知りながら、駒子は「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、顔を赤らめるのだった。駒子は「あの子を見てると、行く末私のつらい荷物になりそうな気がするの」と島村に言った。葉子はその駒子を島村のまえで憎いと言った。かとおもうと、「よくしてあげて」と真剣にたのむ。「私を東京へ連れていって」とも言うのだった。

   ついに雪の降る季節がきた。ある晩、映画をやっていた繭倉から火が出た。自動車で偶然そこを通りかかった島村と駒子は、逃げおくれた葉子が失神したまま低い二階から落ちるのを見た。夢中で駆けよった駒子は、芸者の長い裾を引いて葉子を抱きかかえると、「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫ぶのだった。それが島村には、駒子が自分の犠牲か刑罰かをいだいているように見えた。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)

浦ノ濱栄治郎

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   今場所は、久しぶりに琴欧洲が元気だ。やはり美男力士が活躍すると女性ファンが喜び、土俵も華やぐ。大相撲の歴史で美男力士というと、大正時代の浦ノ濱栄治郎(1889-1945)の名前が筆頭にでてくるかもしれない。

    新潟県三島郡(現・小千谷市)出身で、板前修業中、推されて角界入り。その美貌から「浦さま」と慕う女性ファンが多く、大正時代、プロマイドの売り上げは横綱を抑えて常にトップだった。太刀山や栃木山は残念ながら美男力士とは言えない。それに大正時代は、野球も活動写真もまだ草創期だったのでやはり力士が憧れのスター的存在だった。浦ノ濱の最高位は関脇どまりで、あまり強かったとは言えないが、「浦さま」は雷蔵さまやヨンさま並みの人気者だった。

不正行為は場所を選ばない

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   関西大学の学生らによる大麻事件の続報によると、乾燥大麻を買った学生らが大学構内で大麻を吸引していた、と供述している。密売は学内で口コミで伝わっており、話を聞きつけて買いに来た学生らに薬物への抵抗感がないことが事件の根深さを物語る。「買いたい人に売っただけ。大麻を吸うことは悪いこととは思わない」「大麻を吸っただけで、なぜ逮捕されるのか分からない」と述べている。ウェブ上でも同様の若者の意見はよく見られ、薬物乱用が恐ろしい事態になるという危機感を持っていないようだ。「不正行為は場所を選ばない」。一刻も早く大麻の栽培と大学キャンパスなどを中心とする販売ルートを根絶しないと、大学生のみならず、高校生、中学生へと大麻汚染は広がっていくであろ。

   「不正行為は場所を選ばない」大麻密売事件の論議の中で、よくでるのは、「日本の大麻取締法は重過ぎる」という意見である。アヘン、麻薬、コカインなどと比べ大麻がどのような人体に悪影響を及ぼすかという医学的、薬物的な知識はケペルには持ち合わせていない。ただ若者の薬物乱用は国家の崩壊、つまり人類の存亡にかかわる大きな問題だということは明らかである。「大麻を吸っても誰にも迷惑かけていない。個人的なことだ」という。確かに、人は誰しも自分の価値観を持つ権利があるといえるが、道徳についてはそう言えない、ということである。個人の自由が尊重される時代でも、人としてあるべき徳と倫理が個人に求められるのである。つまり、現代は世界的にみても道徳が著しく低下し、崩壊に向かっている傾向にある。利己的で厚顔無恥な不道徳行為は、ローマ帝国の場合のように、文明の崩壊を引き起こす要因となったことは歴史が語るところである。不道徳は若者だけでない。むしろ大人に多くみられる。食品や住まいに関する偽装事件、インサイダー取引などの金融に関わる不正行為、スポーツにおけるステロイドの使用、健康医療に関する誇大広告や詐欺行為、倫理上および法律上のあらゆる形態の不正行為が社会に蔓延している。このような社会の現状をみて育った若者たちが、薬物乱用に汚染されたのは、親の怠慢、学校の怠慢、社会の怠慢であるといえる。

2008年5月16日 (金)

史上最大のバーゲン

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マンハッタンの中央に位置するセントラルパーク

   ニューヨークはアメリカの商業・金融・文化の中心であるばかりでなく、世界最大の国際貿易都市。そんなニューヨークのハドソン河口にある細長い島がマンハッタン。もとは樹木に覆われ、アメリカ・インディアンのアルゴンキン族の居住地だった。ところが、そんなマンハッタン島に大変化がうまれた。

    1626年、オランダの植民地指揮官であったピーター・ミニュイット(1589-1638)は不動産投資を目的としてインディアンよりマンハッタン島とステタン島を買い取った。ガラスのビーズと島とを交換したが、現在の値段にすると、なんと24ドル相当という。のちにこの取り引きは「史上最大のバーゲン」と呼ばれるようになった。

吉田一士が泣いている

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                  吉田一士

    吹田市千里山の関西大学で学生が大麻を売買していたというニュースを知る。ケペルは関西大学2部(夜間)の卒業生である。天六ガス爆発事故のあと入学した。平成18年には創立120年の式典にも参加した。高槻のアイスアリーナや新キャンパス構想などを聞いて一抹の不安はあった。「本当に理事者たちは教育だけに専念しているのだろうか。ビジネスや利潤追求が目的の企業ではないか」という一点である。

    そもそも現在の関西大学の前身である関西法律学校が開校されたのは明治19年11月4日のことである。初代校主である吉田一士(1858-1891)は当時29歳の自由民権運動の活動家であった。彼の肖像写真をみた。その眼差しは正義を貫き、法を護る強い意志を秘めている。金銭のみに専心するのではなく、建学の精神を思い起こし、社会正義を貫く人材を養うことが重要ではないか。今回の事件の詳しい内容は分からないが、大学理事者の責任は重い。

美しさはつかのま

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 ティツィアーノ 「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館

    あでやかさは偽りであり。美しさはつかのまである。しかし主を畏れる女は、ほめたたえられる。

                       箴言31-30

   井上ひさしは、ある時、大辞典をひもといて、男についての言い方を調べた。すると、男子、殿方、紳士、旦那、偉丈夫、快男児、猛者、野郎、勇者、烈士、志士、悪夫、健児、益荒男、壮漢など230種あった。ところが、女のほうを調べて卒倒せんばかりに驚いた。なんと700種以上もの言い方があったという。貞女、淑女、聖女、悪女、姐御、色女、淫婦、采女、姥桜、石女、大年増、おぼこ、女盛り、佳人、麗人、看板娘、貴婦人、閨秀、紅一点、小娘、女子、処女、女性、女房、女流、手弱女、童女、刀自、女人、妖婦、令嬢、毒婦、獏連、白鬼、すれっからし、魔性の女、あげまん、さげまん、慰安婦、酌婦、グラマー、ヴァンプ、細君、柳腰、御侠、嫋やか、などなど。彼の結論は、鬼女、美姫、悪女など男の三倍もあるのは、女は男の三倍化けるからだというものであった。つまり聖書の箴言では「女性の見かけの美しさは偽りで、たとえ美しくとも、長続きはしない」と忠告している。誰にそう言っているかというと、女性にも、男性にもである。女性に対しては、「若いときの華やかさはやがてすたれるものであり、また、美しく着飾ったところで、地は変わるものでないからすぐに現れてしまう。それよりも神様を信じ、心を清められた女性になりなさい」と言っているのある。また、男性には、「外見の美しさに心を奪われるのではなく、神様を信じて、心の清められた女性に目を向けなさい、そういう人を探しなさい。そのような女性こそ、永遠にかわらない美しさをもっているのですよ」と教えているのである。

人類の進化

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左から直立猿人,ネアンデルタール人,クロマニョン人

  ケペルがまだ高校生の頃だった。突然、家に訪問された若い女性が「あなたは人類の祖先がサルだと思いますか」と質問された。「ヒトが猿と分かれたのは、およそ700万年前、アフリカであろう」と進化論で答えた。その人はエホバの証人で進化論を否定された。ケペルもまだ若かったので、かなり向きになって進化論を主張した。それからもエホバの証人とは何年間も対話するが、やはり進化論では対立する。今でも人類化石の発掘報道がある度に新聞の切り抜きを集めたりする。ラミダス猿人、アファール猿人、ジンジャン・トロプス・ボイセイ、イダルトゥなど次々と発掘が続く。ところがトゥーマイのように実はゴリラだったということもある。人類誕生の謎はいつまでも続いている。

   人類は約700万年前から600万年前にアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、最終的には絶滅したとされる説が有力である。近年のミトコンドリアDNAの研究では、わずか10数万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現世人類(ホモ・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。

2008年5月14日 (水)

移動する琵琶湖

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奥比叡ドライブウェイ展望台から高島の岬を眺める

   琵琶湖は約400万年前、現在の三重県上野盆地に琵琶湖の起源となる大山田湖が誕生した。そして古琵琶湖と呼ばれる湖は次第に北上し、現在の甲賀地方に広がった。約200万年前ごろ、近江盆地へ移動し、約150万年前には古い湖は消滅し、礫で埋まった。そして約40万年前、今の位置まで移動して新しい湖を形成した。それが現在の琵琶湖である。さらに琵琶湖は今なお移動を続けており、将来は日本海に達することも考えられている。

2008年5月13日 (火)

朝鮮族のブランコ乗り

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    大きなブランコ乗りは朝鮮族の伝統的な遊びである。「春香伝」には試験を控えた夢龍が春の野の中でクネ(ブランコ)を漕いでいる一人の美しい女性、春香を見て恋に落ちる場面がある。夢龍ならずとも華やかなチマの裳裾が風にふわりふわりとふくらみひるがえる様子には胸ときめかす風情があろう。朝鮮では、旧暦4月8日から5月5日までの期間、女性が特設の長いブランコを楽しむ風習(クネトゥィギ)がある。大きな木の枝に縄を張り、足板を付けて作る。縄の長さは相当に長い。村の広場などで、どこまで高く漕げるか、女性たちは競技をしていたという。

    日本でもブランコは「由佐波利」(ゆさはり)とか漢語で「鞦韆」とも呼ばれ古くからあった。しかしブランコは子どもが楽しむもので朝鮮のような長いブランコはなかった。語源はポルトガル語であるといわれる。ブランコの起源については明らかでない。

2008年5月11日 (日)

風俗小説論

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   横山めぐみ主演のテレビドラマで菊池寛(1888-1942)の原作「真珠夫人」がちょっとしたブームになったということが数年前にあった。原作は半世紀以上も前のもので、大正期の上流社会や富豪階級の家庭を背景に、第一次世界大戦後の市民社会の状況や風俗、流行を盛り込み、その中にヒロインの瑠璃子の激しい生き方を描いたものである。大正デモクラシーの時代思潮がうかがえるが、このような大時代の風俗小説が現代に何故か受けてヒットした。菊池寛はこの「真珠夫人」の成功により「貞操問答」「有優華」など多数の風俗小説を残している。小島政二郎(1894-1994)も戦前から戦後にかけて「人妻椿」などの多くの通俗小説で長い執筆活動であった。舟橋聖一(1904-1976)も戦後は「雪夫人絵図」などの愛欲小説で人気作家となった。丹羽文雄(1904-2005)はマダム物と呼ばれる風俗小説がある。そして丹羽は評論家・中村光夫と「風俗小説論争」を展開した。風俗小説と通俗小説、あるいは中間小説と区別はあいまいであるが、戦後における石坂洋次郎、梶山季之、源氏鶏太、井上靖、渡辺淳一などの圧倒的成功例の証明によって、中間小説は新聞や雑誌などのメディアの花形のジャンルとして隆盛しているといえる。

タンクロー飴の謎

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 お母さん、タンクロー飴、買って頂戴!

   阪本牙城(1895-1973)の漫画「タンクタンクロー」は戦前に子供だった方は御存知かと思う。チョンマゲ頭の豪傑でボーリングの球のような胴体をしている。そして胴体の8つの穴の中から大砲、日本刀、ピストルなど何んでも出てくる。プロペラを出して空を飛ぶこともできる。ケペルは実際に漫画本を読んだ記憶はない。昭和9年に雑誌に連載され、単行本になったのは昭和11年である。豪傑物語で悪人を退治するので戦時中も盛んに読まれたと思う。戦後、GHQの指示で発禁になったかどうかは定かではない。ともかく確実に言えることは、戦前に販売されていたタンクロー飴は戦後もかなり経つまでお菓子屋さんで販売されていたことである。ケペルが幼稚園にあがる前、昭和33年頃、駄菓子屋ではなくて、市場のお菓子屋で母に買ってもらっていた。タンクローに因んで黒くて丸い形の飴だった。工場で大量生産されたもので、おそらく全国的に販売されていたであろう。サイトで調べたが、タンクロー飴の存在したことは確認できたが、販売元など実体を明確にするには至らなかった。おそらく漫画キャラクターとしては、のらくろ以上に長い生命力(推定20年間くらい)を持っていた商品であろう。母の日で、ふと幼い頃を思い出したのであろうか。

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   「昭和日本史11」(暁教育図書)を見ていたら、昭和10年代の菓子類に「タンクロー飴」が載っていた。(画像下段左)ケペルが見た戦後の商品とほぼ同様である。販売元は拡大して文字を読もう試みたが汚れで判読できなかった。

志賀直哉の松江時代

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 志賀直哉(1883-1971)は大正3年6月、31歳のとき松江に3ヵ月ほど住んだことがある。最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋と仮寓した後、内中原67番地に移った。

ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。(「濠端の住まい」)

 志賀の松江に滞在した目的は、夏目漱石の後を受けて朝日新聞の連載小説を書くことであった。

夏目さんはその年、春頃から「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(「続創作余談」)

   志賀の松江での暮らしはできるだけ簡素な暮らしをするということであった。以前に尾道で独り住まいをしたときは、初めて自家を離れた寂しさから、なるべく居心地よく暮らすために、日常道具を十二分に調えたが、今度はできるだけ簡素にと心がけた。だが、小説は思うように進まず、夏には伯耆大山に登り、9月には京都南禅寺に移っている。ところで、尾道から大山、京都はみんな「暗夜行路」の主要な舞台であり、このころの志賀直哉がつまり時任謙作であることは明らかであろう。そして松江時代に体験したことが作品完成への重要な礎石となったことも事実である。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった」(「濠端の住まい」)とのちになって、松江時代が意義あるものであることを記している。

妖精たちが住む国ノルウェー

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   ノルウェーはスカンディナヴィア半島の北西半を占め、その面積は32.4万平方キロで日本よりわずかに広い。沿岸部は深く陸地に入り込んだフィヨルドによって複雑な海岸線をかたちづくっている。総人口はわずかに約470万人にしか過ぎず、人口密度はアイスランドについでヨーロッパ2番目に低い。農業は不振であるが、国土の24%を森林が占めており、その森林資源を利用した林業と製紙業が盛んである。また北海での漁業、海運業などが盛んであるが、北海油田が開発されて以来、原油、天然ガスが輸出の中心を占めるようになった。

   ノルウェーの自然は神秘的なまでに美しく、しかも冷厳な様相を呈している。北欧の詩人や哲学者の作品のもつ神秘的な雰囲気も、この特有な自然環境の中にこそ生まれ育ったものだと思われる。画家のムンク、彫刻家グスタフ・ヴィーゲラン、音楽家グリーグ、劇作家イブセンなどがいる。

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   ノルウェー第2の都市ベルゲンから北のトロンへイムへ、またベルゲンから南のスタバンゲルへと向かうフィヨルド見物の遊覧船は外国からの観光客を集めている。観光客相手の土産物にはトロールといわれる人形が売られている。トロールとはノルウェーの森に住む妖精である。日常生活でふっと物が無くなった際には、「トロールのいたずら」と言われている。ノルウェーの森は妖精たちがひっそりと静かに息づいている秘密の楽園のような場所だ。

青い山脈

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                    東宝「青い山脈」(昭和24年)

  戦後間もない年の6月のある日、東北の山村にある海光女学校で、若い英語教師島崎雪子は、5年生の寺沢新子から、一通のラブレターを見せられた。雪子は校医の沼田に相談する。彼は雪子を怒らせ平手打ちされてしまう。雪子がニセ手紙を書いた生徒の松山浅子を厳しく責めたことから、問題は一層大きくなり学校で父兄理事会を開くことになる。その上、浅子の父親が田舎政治家で、学校の理事長をしている井口甚蔵という市会議員と兄弟分ということで、雪子の立場はますます苦しくなった。沼田の中学の後輩金谷六助は、偶然新子と親しくなっていたが、二人が苦境に立っていることを知って沼田に応援をたのむ。沼田は一計を案じ、六助の友人富永安吉や芸者梅太郎の協力を得て、理事会の席で井口や体操教師の田中をやりこめて雪子を救う。やがて松山浅子も新子と和解した。台風一過、村にも学校にも和やかな空気が訪れて、寺沢新子と金谷六助は少し大人になり、沼田医師と島崎雪子は結婚の約束をする。

   「青い山脈」は昭和22年6月8日から10月4日まで朝日新聞連載小説として発表された。今井正監督で「青い山脈」「続・青い山脈」(原節子、池辺良、伊豆肇、木暮実千代、龍崎一郎、若山セツ子、杉葉子)、西河克己監督で吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹で再映画化されている。石坂洋次郎(1900-1986)は教師生活の体験を生かした青春小説を数多く残した。石坂は純文学、ことに自らがかつて親しく接した葛西善蔵の私小説のあり方に決別し、より広い一般の読者を目指した小説を手がけることになる。「青い山脈」には、自意識の文学から中間小説へという変化を見て取ることができる。

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             日活「青い山脈」(昭和38年)

2008年5月10日 (土)

一粒の麦

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         ゴッホ 「麦畑とアルルの眺め」 1886年6月

 ひとつぶの麦 

 地に落ち 死なずば

 いかでか多くの 実りをえんや

 みたまに たよりて

 祈りをはげみ

 十字架負いつつ 君に従わん

 祭司長はイエスの逮捕令を出していた。イエスは、殺される日が近いことを感じていた。彼は、警戒してユダヤ人の中に入るのを避けていた。しかし、過越の祭の6日前になると、ベタニヤへ行った。

 そこには、イエスが、死から甦らせたラザロが住んでいた。イエスが来ると、饗宴が設けられ、ラザロは姉妹のマルタ、マリヤとともに席につらなった。その時マリヤは高価な、純粋のナルド香油を一斤持って来て、それをイエスの足に塗って、その足を自分の髪でぬぐった。すると、いい香りが家じゅうに広がった。それを見たユダが、「もつたいないことをするものだ。それを売って得た金を貸して人に施したらいいのに」というと、イエスは、「この女のなすにまかせよ、わが葬りの日のために、これを貯えたるなり。貧しきものは常になんじらとともにおかれども、われは常におらぬなり」とたしなめた。

 ユダヤ人たちは、イエスがここにいることを知って、押しかけて来た。しかし、それは、イエスを見るためではではなく、死からよみがえったラザロを見るためではなく、死からよみがえったラザロを見るためであった。そこで、祭司長らはラザロをも殺そうと相談した。ラザロがよみがえったので、イエスの信者が激増したからである。

 饗宴の翌日になると多くの人びとがシュロを手にしてイエスの宿へ来て、「主の御名によって来たれる者、イスラエル王、万歳」と叫んだ。そのころ、イエスは小驢馬を手に入れて乗っていたが、これは、「なんじの王はロバの子に乗りて来たもう」という予言を成就するものであった。弟子たちは、その当時は、そのことに、気がつかなかったが、のちに、ああ、そうだったのか、と思い当る時が来た。

 イエスを礼拝しようとして集まった者の中には、ギリシア人も数人したが、彼らは、ガリラヤのピリポのところへ行って、イエスに会わせてほしいと頼み込んだ。ピリポはそのことをイエスの弟子のアンデレに伝え、アンデレと一緒にイエスのところへ行って、報告した。すると、イエスは、次のように答えた。「人の子の栄光を受くべき時は来れり。一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん。もし死なば、果を結ぶべし。おのが生命を愛する者は、これを失い、この世にて、その生命を憎むものは、これを保ちて、とこしえの生命に至るべし。ひと、もしわれに事えんとせば、われに従え、わがおる処にわれに事うる者もまたおるべし。人もしわれに事うることをせば、わが父これを貴びたまわん。いまわが心騒ぐ、われ何を言うべきか。父よ、この時より、父よ。御名の栄光をあらわしたまえ」

 その時天に声あり、「われすでに栄光をあらわしたり」それを聞くと、人びとは、「雷霆鳴れり」といった。

   「一粒の麦」の比喩は、死は虚無に帰するのではなく、多くの実を結ぶこと、つまり永遠のいのちに入ることを示唆したものである。

(参考文献:「西洋故事物語」河出書房)