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2008年5月31日 (土)

ビューンと飛んでく鉄人28号

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    アニメやコミックは殆ど見なくなった。しかし今夜のBSの番組表を見ると「鉄人28号、白昼の残月」とある。昨年劇場公開されたアニメ映画だ。矢島正明のナレーションで重々しく物語りは始まる。このアニメはかなり大人向けに作られているようだ。鉄人28号は旧日本軍の開発した秘密兵器だった。少年探偵金田正太郎の父が開発したロボットだが、鉄人28号を操縦するため南方の秘密研究所で特訓を受けたという「ショウタロウ」が復員してきた。萱野月枝は共潤会アパートの管理人でショウタロウはそこに住むことになる。月枝はショウタロウの実の母で、ショウタロウと正太郎は異母兄弟にあたる。月枝は正太郎の命を狙うができない。金田正太郎は鉄人28号の操縦士に自分が相応しいかどうか悩むが、廃墟弾事件を通じて一人前の操縦士として成長する過程が描かれている。あまりにストーリーをひねったため、アニメ的展開の面白さに欠けるきらいはあるが、絵そのものはオリジナルの横山光輝のタッチにかなり忠実である。とくにショウタロウの面立ちなどは横山漫画の典型的二枚目である。大塚警部や敷島博士もよい。村雨健次などの名前を聞くと涙がチョチョビレルほど懐かしい。金田少年につきまとう高見沢などという女性がいたのかあまり思い出せない。ともかくも全体に暗く重苦しいアニメであったが、ケペル世代は満足している。

釣りと少年

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    胡基明による児童画「小粗心釣魚」である。(1985年6月号『児童画報』に掲載)一般的に現代中国の児童画は、動物たちを擬人化したものが多く、素朴で可愛らしい絵柄のものを具現化しているのが特徴である。そして日本の「赤い鳥」に代表されるような大正期の童心主義的な傾向がみられる。

壺中に天あり

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   後漢の時代、河南省汝南県の町役人に費長房という人物がいた。市場に薬売りの老人がいて、彼の売っている薬を飲むと、病気はたちまちのうちに治った。費長房は高殿の上から老人の店を見ていると、不思議なことに、毎日市が終わると、店に置いてあった壺の中へ跳び込んでしまう。老人がただ者でないことを感じとっていた長房は、目をつぶって老人の後を追って壺の中へ跳び込んでいった。

   驚いたことに、壺の中には壮麗な仙宮の世界が広がっていた。美しい楼閣、二重三重の門、2階造りの長い廊下。老人は数十人の侍者を従え、長房を笑って迎えた。酒や肴のある華やかな宴に驚き、壺の中に別世界の楽しみを味わった。

   老人の姓名は、ついに判然としなかったが、のちに壺公と尊称され、俗に『壺公符』と呼ばれる全20余巻の霊符を残したとされている。壺の中の仙界は「壺中天」の名のもとに、伝説となった。費長房は人界を去り、仙人となる試験を受けるが、最後に失敗し、仙道は得なかったが、長寿と使鬼の術を授かる。彼はその符の力によってよく諸病をよく治すことができたが、符をなくして鬼のために殺された。

    「壺中に天あり」とは、壺の中からも満天の世界に通じるの意で、一つの小天地、別世界をいう。壺中有天は安岡正篤の説く「六中観」、つまり死中、苦中、忙中、壺中、意中、腹中の一つでもある。現実生活を強く生き抜くためには、自分の楽しみを持つ心が大切である、という意味にも通じる。

2008年5月25日 (日)

千慮の一失

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渡辺崋山「韓信の股くぐりの図」 沼田市・長寿院蔵

    漢の劉邦の麾下の将軍で名将韓信(?-前197)がいた。彼は若い頃、屠殺業者に侮辱されて、じっと耐えてその者の股の下をくぐったという「韓信の股くぐり」の逸話は有名である。

    韓信ははじめ楚の項梁、項羽のもとに仕えたが目が出ず、蕭何の推挙を得て漢の劉邦に仕え、大将軍に任命された。彼の智将としての名声を一躍に高めたのは、趙攻略においてである。軍略家として知られた李左車は、奇襲をもって韓信の糧道を断つことを進言したが容れられず、ために趙は滅亡した。韓信は李左車を捕らえると、辞を低くして兵法の教えを乞うた。「敗軍の将兵を語らず」といったんは断わった李左車も韓信の熱意に動かされ、「知者も千慮に一失という言葉があります。わたし如きが申すことなど、お取りあげいただくほどのことはありますまいが、力の限りお役に立ちましょう」と言って、燕・斉を降す策略をさずけた。

ガルボとファッション

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   1925年、アール・デコの展覧会がパリで開催された。スカート丈が、膝の丈にまで短くなったということは、ファッションの歴史でも革命的な出来事だった。この年、グレタ・ガルボはスウェーデンからハリウッドへやって来た。大女で、大きな足、うどの大木といわれた女性が、数年後には1920年代のファッション・リーダーになる。ガルボこそがこの時代に要求した女であり、ギャルソンヌ・スタイルにぴったりした理想のスターであった。1920年代後半のモードは、ガルボを中心にして世界が回った。ギャルソンヌ・スタイルの特徴は、余分なものを捨て去ることだった。手始めにまず髪を切り、スカート丈を短くする。そのことによって、きりっとしたなかに、女性らしい色気と個性美が生まれた。ガルボといえば帽子が連想される。しかし、帽子はガルボに限らず、グロリア・スワンソン、ヴィルマ・パンキー、ベティ・アーマン、ジョン・クロフォードなどなど、ほとんどの女優が愛用している。

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2008年5月24日 (土)

エステル・テイラー

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    セダ・バラは「愚者ありき」(1914)という映画で、男を片っ端から破滅に陥れる悪女を演じ、「ヴァンプ」と呼ばれて人気を集めた。以後も、クレオパトラ、カルメン、サロメといった毒婦、悪女を次々と演じた。そもそも「ヴァンプ」とは何か。「ヴァンパイア」の略である。広辞苑には「妖婦。毒婦。淫婦。また、その役を演ずる女優。バンプ」とある。ほかの辞書には「故意に男性を魅惑し食い物にする女」とある。イギリスの詩人ラドヤード・キップリングの詩に「ヴァンパイア」があるのが起源という。

    1920年代のハリウッド映画はまさにヴァンプ花盛りであった。今ではその名をほとんど知られないが、エステル・テイラー(1899-1958)もヴァンプ女優の典型であった。古老の話(双葉十三郎と淀川長治の対談)を聞いてみよう。

双葉 セダ・バラは長さんが言ったみたいに演技もメークもいわば歌舞伎的だったけど、その後に来たエステル・テーラーは同じヴァンプでも少し現実味が出てきて、ほんとになまめかしい、いい女だったね。

淀川 フォックスはだいたい田舎くさいのに、エステル・テーラーが出てきた時はびっくりしたね。何とも知れんきれいで、「ある愚者ありき」なんかセダ・バラがやった後にエステル・テーラーで作ったけど、よかったよ。あんな女優には誰でも征服されちゃうね。

双葉 長さんはエステル・テーラー気違いだからな。ヘビー級のチャンピオンのジャック・デンプシーと結婚して、また有名になったね。

淀川 僕は清純派の双葉さんと違って、ヴァンパイアーが好きだから(笑)。

   *   *   *   *   *

    エステル・テイラーは17歳で離婚後に演技を学び、ブロードウェイのコーラス・ガールになる。美女テイラーと結婚した拳闘家ジャック・テンプシーは闘争本能を忘れ3年間も試合をせず、1926年9月にジェーン・タニーに敗れ王座を去った。映画だけでなく実生活でも男を破滅する女だったのだろうか。代表作「紐育の丑満時」(1920)「或る愚者有りき」(1922)「十誡」(1923)「ドン・ファン」(1926)「リリオム」(1930)「街の風景」(1931)「シマロン」(1931)「南部の人」(1945)

   (参考文献:「スタアがスタアだった時代」別冊太陽・女優Ⅱ)

2008年5月23日 (金)

第一級の政治家ペリクレス

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   紀元前469年から429年にかけてアテネは軍人でもあり、雄弁をもってきこえる天才的な政治家ペリクレスによって統治された。同時代の歴史家ツキディデスをして、「名においては民主政だが、実際には第一人者の支配であった」と書いている。だが、口さがないアテネ市民たちが40年もの長期政権を認めたのか、実は史家にとっても歴史上の大きな謎のひとつだそうだ。ペリクレスが傑出した政治家であったことは疑う余地のないところではあるが、気位の高い一貴族が何故に民衆を惹きつけたのであろうか。

   ペリクレス(前495-前429)の父はクサンティッポスといい、在世中にテミストクレスと張り合って追放をうけたこともあるような、政界の大立者だった。その人柄は、近よりがたいくらいおごそかで、決して笑うことはなく、「オリンポスの神」などというあだ名がつけられていたことからしても、庶民的ではなく、やはり貴族的な人物であったと思われる。

   ある時、いつものようにアテネの中央広場で執務中のペリクレスが、一人の下劣な男につきまとわれたことがある。この男が非難や悪口を浴びせかける間、ペリクレスは、黙ったままそれを忍び、仕事をさばいていった。夕方になってから服装をととのえ家に帰るのを、その男は後を追ってきて罵言を浴びせる。家に入ろうとした時にはすでに暗くなっているのに気づいたペリクレスは、召使の一人に灯をもたせて、その男を家まで送るように言いつけた。

   これは、相手を軽蔑しきっている人にしてはじめてやれる振る舞いである。気位が高く、言葉つきも崇高で、庶民的な雰囲気などまったくなく、静かな歩きぶりと、よどみのない声の出し方をした男、ペリクレスこそアテネ最高の政治家であったといえる。(参考文献:塩野七生「男の肖像」)

2008年5月22日 (木)

パウロの勇気

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   パウロ(紀元前2年~紀元後67年)は、小アジアのキリキア州タルソスで、ユダヤ人の子として生まれた。ユダヤ名をサウロといい、ベニヤミン族に属するユダヤ人であるとともに、生得のローマ市民権を持っていた。ペテロがイエスの直弟子であるが、パウロは、直弟子でないのみならず、イエスを迫害したパリサイ派の知識人であった。34年、シリアのダマスカス近郊で回心し、イエスをキリストと告白するに至った。その後、異邦人の使徒という自覚に至って、小アジア、マケドニア、ギリシアと48年から3回の伝道旅行をし、各地に教会を建てた。56年、エルサレムに行ったときユダヤ人と衝突し、暴行を加えられた。パウロは勇気を持って次のように述べた。「わたしは、縛られることばかりか、主イエスの名のためにエルサレムで死ぬ覚悟さえできているのです」。パウロがエルサレムの神殿を訪れやいなや、ユダヤ人たちが、暴徒をあおってパウロを殺そうとする。ローマ兵はパウロをエルサレム神殿の北西部の角にあるアントニオの塔と呼ばれた要塞の階段上方の安全な所に引きずるように連行された。両手は2本の鎖で縛られていた。ヘロデ・アグリッパ2世はパウロの弁明を聞いて、「あなたは、わたしを説得してクリスチャンにならせようとしている」と述べたが、ローマ市民であるため、パウロを殺さずに、カエサリアの牢に入れた。2年間の監禁生活の後、西暦58年頃、パウロはローマへ護送される。途中で難破したりしたが、61年頃、ローマに着いた。やがて皇帝ネロによって迫害され、67年、捕らえられ斬首された。

2008年5月19日 (月)

ヘプバーン、父親との再会

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    オードリー・ヘプバーンはイギリス人の保険会社で働く父ジョセフ・アンソニー・ヘプバーン・ラストンと、オランダ王室貴族へームストラ男爵の血筋を持つ母エッラ・ファン・ヘームストラとの間に1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルで生まれた。第二次大戦中、両親は離婚し、ヘプバーンは母の母国オランダのアルンヘムに住み、ナチス・ドイツ占領下の苦労を味わった。イギリス人の父ジョセフは、親ナチス運動に加わっていた。そのような彼女の経歴は当時、極秘とされていた。「魔女狩り」のようなマッカーシズムが吹き荒れていたアメリカの芸能界で、父親の親ナチス運動が公になることは、彼女にとって危険なことであったが、どうしても父親の安否が気がかりであった。

   1953年、「ローマの休日」で一躍世界のトップスターとなったヘプバーンは、1959年、映画「尼僧物語」の撮影のため、20年ぶりに故郷ベルギーのブルッへに戻ってきた。ヘプバーンは別れ別れになった父とどうしても会いたかった。その願いはかなえられた。父方の従兄、ウォルター・ラストンの手引きで、ヘプバーンは父親と再会をはたした。(一説によると二人は1957年、アイルランドのダブリンで再会したとも伝えられる。)

キリンの心臓

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   キリンの心臓の実物を一度も見たことはないが、話によれば、きわめて大きく(重さ10㎏、人間は200g~300g)、働きも強力だという。それは長い首の上の脳に血液を送るため、かなりの血圧が必要だからである。キリンの血圧は心臓の近い位置では、上が260、下が160という超高血圧である。動物のなかでも最高だろう。ただし首のところだと、上は150、下は100で人間並みである。

外国スターと声優

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   ケペルが小学生の頃、学校から帰るとテレビで「3時の名画座」を見ていた。主に1950年代以前のアメリカ映画を放送していた。お気に入りは、ビング・クロスビーとボブ・ホープの珍道中シリーズ。とくにボブ・ポープの柳沢真一の吹き替えが印象に残る。しかし、販売されているビデオの吹き替えでは、藤村有弘(ボブ・ホープ)、中村正(ビング・クロスビー)とある。記憶ちがいなのだろうか。

   最近はテレビ放送でも吹き替えより字幕を好む人が増えているという。ケペルは断然吹き替え派である。「ローマの休日」もオードリー・ヘプバーンの声を何人もの女性が担当しているが、声優により雰囲気が変わる。そのため放送される度に録画している。やはり池田昌子が好きだ。だいたい昭和40年代にはスターと声優は固定化されているようだ。それらの主なアテレコ声優をあげてみる。

クラーク・ゲーブル、ロバート・テーラー(納谷悟朗)

ハンフリー・ボガート(久米明)

ジャン・ギャバン(森山周一郎)

グレゴリー・ペック(城達也)

フランク・シナトラ(家弓家正)

モンゴメリー・クリフト(山内雅人)

アラン・ドロン(野沢那智、堀勝之佑)

トニー・カーチス(広川太一郎)

ケーリー・グラント(中村正)

リチャード・ウィドマーク(大塚周夫)

タイロン・パワー(前田昌明)

ジョン・ウェイン(小林昭二)

ジェームズ・ギャグニー(近石真介)

ジャック・レモン(愛川欽也)

ヘンリ・フォンダ(小山田宗徳)

ウィリアム・ホールデン(近藤洋介)

イングリッド・バーグマン、デボラ・カー(水城蘭子)

オードリー・ヘプバーン(池田昌子)

マリリン・モンロー(向井真理子)

エヴァ・ガードナー(翠準子、沢田敏子)

ドリス・デイ(楠トシエ)

ローレン・バコール(来宮良子、大塚道子)

エリザベス・テーラー(武藤礼子)

ソフィア・ローレン(此島愛子、今井和子)

ラナ・ターナー(瀬能礼子、津村悠子)

ブリジッド・バルドー(渋沢詩子、白石冬美)

シャーリー・マクレーン(小原乃梨子)

コニー・スティーヴンス(増山江威子)

キム・ノヴァク(真山知子)

グレース・ケリー(野口ふみえ)

ヴィヴィアン・リー(寺島信子)

ジナ・ロロブリジダ(森ひろ子)

   なかでも、知性派ヘンリー・フォンダ(小山田宗徳)や情熱家バート・ランカスター(久松保夫)はスターの個性と声優の持ち味がブレンドして、今でも耳に残る。久松保夫(1919-1982)は「日真名氏飛び出す」でお茶の間のスターとなり、「ララミー牧場」のジェス・ハーパー(ロバート・フラー)や「スタートレック」のスポック(レナード・ニモイ)もあるが、持ち役はバート・ランカスターである。

2008年5月17日 (土)

男の色気

   男の色気とは何か?これがなかなか定義することが難しい。タバコを加えて、一人で悦に入っている男もいるだろう。イタリア男のような軽いのりでジョークをとばす男もいるだろう。作務衣を着て修行僧になったつもりの男もいる。人それぞれで自分流のスタイルを見つけるのが良いだろう。

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    さて、「男の色気を感じる俳優は?」というアンケートをとれば、おそらくジョニー・デップかもしれない。でもケペル世代としては、アラン・ラッドとジェラール・フィリップをあげる。これぞ「男の色気ここにあり」という二人の珍しい写真である。軍服姿のアラン・ラッド(1913-1964)は天下一品であろう。「マッコーネル物語」(1955)の撮影開始まえの一瞬を捕らえた写真で、穏やかな人柄がよくでている。送られたファン・レターにはほとんど自筆で返事していたという。日本にもファンは多かったが、背の低さに悩み続け、ほとんど人前に出るのを嫌った孤独で寂しいアラン・ラッドに、ケペルは「シェーン!カムバック」と泣きながら叫ぶのである。

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   ジェラール・フィリップ(1922-1959)といえば、世界中の女性のハートを鷲つかみにしたフランスの貴公子である。わずか36歳でこの世を去ったが、佳人薄命は男にも適用されるものなのか。淡くやさしい瞳の二枚目であるが、容貌もさることながら、その演技力で名優としての高い評価を得た俳優なのである。あまりにも完璧であるため、これまでケペルは近づきにくかったが、この写真、どこかおどけていて親しみがもてます。パリの馴染みの喫茶店。一人でリラックスしていた時間、突然、日本人カメラマンの早田雄二が闖入して「写真をお願いします」といわれて、まずは、日本のファンへのごあいさつ、といったところかもしれない。

浦ノ濱栄治郎

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   今場所は、久しぶりに琴欧洲が元気だ。やはり美男力士が活躍すると女性ファンが喜び、土俵も華やぐ。大相撲の歴史で美男力士というと、大正時代の浦ノ濱栄治郎(1889-1945)の名前が筆頭にでてくるかもしれない。

    新潟県三島郡(現・小千谷市)出身で、板前修業中、推されて角界入り。その美貌から「浦さま」と慕う女性ファンが多く、大正時代、プロマイドの売り上げは横綱を抑えて常にトップだった。太刀山や栃木山は残念ながら美男力士とは言えない。それに大正時代は、野球も活動写真もまだ草創期だったのでやはり力士が憧れのスター的存在だった。浦ノ濱の最高位は関脇どまりで、あまり強かったとは言えないが、「浦さま」は雷蔵さまやヨンさま並みの人気者だった。

不正行為は場所を選ばない

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   関西大学の学生らによる大麻事件の続報によると、乾燥大麻を買った学生らが大学構内で大麻を吸引していた、と供述している。密売は学内で口コミで伝わっており、話を聞きつけて買いに来た学生らに薬物への抵抗感がないことが事件の根深さを物語る。「買いたい人に売っただけ。大麻を吸うことは悪いこととは思わない」「大麻を吸っただけで、なぜ逮捕されるのか分からない」と述べている。ウェブ上でも同様の若者の意見はよく見られ、薬物乱用が恐ろしい事態になるという危機感を持っていないようだ。「不正行為は場所を選ばない」。一刻も早く大麻の栽培と大学キャンパスなどを中心とする販売ルートを根絶しないと、大学生のみならず、高校生、中学生へと大麻汚染は広がっていくであろ。

   「不正行為は場所を選ばない」大麻密売事件の論議の中で、よくでるのは、「日本の大麻取締法は重過ぎる」という意見である。アヘン、麻薬、コカインなどと比べ大麻がどのような人体に悪影響を及ぼすかという医学的、薬物的な知識はケペルには持ち合わせていない。ただ若者の薬物乱用は国家の崩壊、つまり人類の存亡にかかわる大きな問題だということは明らかである。「大麻を吸っても誰にも迷惑かけていない。個人的なことだ」という。確かに、人は誰しも自分の価値観を持つ権利があるといえるが、道徳についてはそう言えない、ということである。個人の自由が尊重される時代でも、人としてあるべき徳と倫理が個人に求められるのである。つまり、現代は世界的にみても道徳が著しく低下し、崩壊に向かっている傾向にある。利己的で厚顔無恥な不道徳行為は、ローマ帝国の場合のように、文明の崩壊を引き起こす要因となったことは歴史が語るところである。不道徳は若者だけでない。むしろ大人に多くみられる。食品や住まいに関する偽装事件、インサイダー取引などの金融に関わる不正行為、スポーツにおけるステロイドの使用、健康医療に関する誇大広告や詐欺行為、倫理上および法律上のあらゆる形態の不正行為が社会に蔓延している。このような社会の現状をみて育った若者たちが、薬物乱用に汚染されたのは、親の怠慢、学校の怠慢、社会の怠慢であるといえる。

2008年5月16日 (金)

吉田一士が泣いている

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                  吉田一士

    吹田市千里山の関西大学で学生が大麻を売買していたというニュースを知る。ケペルは関西大学2部(夜間)の卒業生である。天六ガス爆発事故のあと入学した。平成18年には創立120年の式典にも参加した。高槻のアイスアリーナや新キャンパス構想などを聞いて一抹の不安はあった。「本当に理事者たちは教育だけに専念しているのだろうか。ビジネスや利潤追求が目的の企業ではないか」という一点である。

    そもそも現在の関西大学の前身である関西法律学校が開校されたのは明治19年11月4日のことである。初代校主である吉田一士(1858-1891)は当時29歳の自由民権運動の活動家であった。彼の肖像写真をみた。その眼差しは正義を貫き、法を護る強い意志を秘めている。金銭のみに専心するのではなく、建学の精神を思い起こし、社会正義を貫く人材を養うことが重要ではないか。今回の事件の詳しい内容は分からないが、大学理事者の責任は重い。

2008年5月11日 (日)

志賀直哉の松江時代

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 志賀直哉(1883-1971)は大正3年6月、31歳のとき松江に3ヵ月ほど住んだことがある。最初は末次本町の赤木館に泊まり、宍道湖畔東茶屋と仮寓した後、内中原67番地に移った。

ひと夏、山陰松江に暮らしたことがある。町はずれの濠に臨んだささやかな家で、独り住まいには申し分はなかった。庭から石段ですぐ濠になっている。対岸は城の裏の森で、大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く、真菰が生え、寂びたぐあい、濠と言うより古い池の趣があった。鳰鳥が始終、真菰の間を啼きながら往き来した。(「濠端の住まい」)

 志賀の松江に滞在した目的は、夏目漱石の後を受けて朝日新聞の連載小説を書くことであった。

夏目さんはその年、春頃から「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(「続創作余談」)

   志賀の松江での暮らしはできるだけ簡素な暮らしをするということであった。以前に尾道で独り住まいをしたときは、初めて自家を離れた寂しさから、なるべく居心地よく暮らすために、日常道具を十二分に調えたが、今度はできるだけ簡素にと心がけた。だが、小説は思うように進まず、夏には伯耆大山に登り、9月には京都南禅寺に移っている。ところで、尾道から大山、京都はみんな「暗夜行路」の主要な舞台であり、このころの志賀直哉がつまり時任謙作であることは明らかであろう。そして松江時代に体験したことが作品完成への重要な礎石となったことも事実である。「人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった」(「濠端の住まい」)とのちになって、松江時代が意義あるものであることを記している。

2008年5月10日 (土)

文学全集の黄金時代

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    広告には当時の人気女優が使われた

    写真モデルはキーハンターの大川栄子

   1960年代、河出書房、講談社、集英社、筑摩書房、新潮社などの大手出版社は競って「日本文学全集」「世界文学全集」を続々と刊行していた。いまブックオフで105円でこれら全集の端本が買える。ケペルはついつい買ってしまう。これらの本には権威ある学者の解説がついているので、作品が多少とも自己の所蔵と重複してもそれなれに利用価値があると思うからである。また全集にどういう作家が採録されたかを調べるのも意外と面白い。石原慎太郎は大概収録されているが、松本清張は収録されないことが多い。とくに有名な事件は中央公論社「日本の文学」松本清張事件である。はじめ中央公論社はうち1巻を松本清張集にしたいと考えていた。ところが編集委員の三島由紀夫は「清張を入れるなら委員を降りる」といって頑強に反対した。こうして文学全集の中から清張は除外された。清張はこのことを後年まで恨んでいたという。作家にとっては文学全集に入ることはとても栄誉なことなのであろう。

2008年5月 4日 (日)

三島由紀夫のカニ嫌い

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   折り目正しく、生真面目で、約束の時間を守り、ユーモアがあって、目立ちたがりやの努力家。三島由紀夫(1925-1970)の人となりについては、三島と身近に接した人たちの回想が数多く残されている。多い三島のエピソードの中でもよく知られているのが、「カニ嫌い」であろう。「倅にとってカニは不倶戴天の敵であり」、「カニを見ると、たちまち真青になってブルブル震えて逃げ出すという、実に念の入ったもの」(『倅・三島由紀夫』平岡梓)であった。しかし殻から取り出して身だけになると平気で食べたという。

   ある時、料亭の出た膳にカニが載っていると黙って手をふって下げさせた。その時、「蟹という字も嫌いだ」と真剣にいったのを武田泰淳が聞いている。そこから一歩進めて武田は、三島の日本刀好みも「蟹の爪、蟹の手足、蟹のハサミ、その動かし方、歩き方に対する嫌悪の念を克服する過程の、一つのあらわれだったかも知れない」(「三島由紀夫氏の死ののちに」)とまで推論している。

ヴェロニカ・ゲリン

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   次々と新作が公開され、好調なケート・ブランシェット。実在した女性記者ヴェロニカ・ゲリン(1959-1996)の麻薬犯罪との勇気ある戦いを描く。BSで映画「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年度、ジョエル・シューマカー監督)を見た。

   1994年、ダブリンの低所得者住宅地にはまだ子供の麻薬中毒者が溢れていた。女性記者ヴェロニカは犯罪者の利益のため多くの子供が犠牲になっていることを許せず、この事実を報道する決意を夫に打ち明ける。早速、裏社会に詳しいトレーナーや刑事から情報を集め、危険人物にも果敢な取材を行なう。そんなある日、彼女の自宅の窓に銃弾が撃ち込まれる。恐怖を感じるヴェロニカだが、脅しに屈せず取材を続ける。そんな彼女に2度目の渓谷が。今度は自宅に押し入った男が彼女の太股に銃弾を撃ったのだ。だがこれで世論を味方につけたヴェロニカは、麻薬犯罪組織の首謀者ギリガン(ジェラード・マクソーリー)に迫る。

   この映画の背景には北アイルランドをめぐる民族問題がある。17世紀以降、アイルランド北部のアルスター地方にイギリスから多数のプロテスタントが移住した。19世紀になり、アルスター地方に繊維工業や造船業などがさかんになると、アイルランド南部から移住するカトリック教徒も増え、文化・習慣が異なる両者の間で、職や住居をめぐり、対立が激化するようになった。1922年、イギリス自治領としてアイルランド自由国が成立したとき、9州からなるアルスター地方のうち、プロテスタントの多い6州はそれに加わらず、「北アイルランド」としてイギリス(連合王国)に属した。アイルランド共和国も1937年の憲法で北アイルランドを自国領とした。しかし、カトリックの多い地方でも自己に有利な選挙区を設定して政治の実権を握っている北アイルランドのプロテスタントは、政治や経済の上で、少数派のカトリック教徒に対し優位を占めてきた。就職や住居などでしばしばプロテスタントから差別をうけているカトリックの住民の中には、実力でアイルランドの統一をめざすIRA(アイルランド共和国軍)などの組織も生まれている。プロテスタントとカトリック教徒の対立の根は深く、住民の意見も多様だが、1998年になってようやく平和的な解決に向かうって動きはじめた。

トマス・モアの処刑

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  『ユートピア』

  バーゼル、フローべン書店刊 1518年11月

   理想社会のことを「ユートピア」というが、それはイギリスの政治家で思想家トマス・モア(1478-1535)の造語であることはよく知られている。「ウ・トポス」(どこにも・ない)という二つのギリシア語を組み合わせてつくったものだ。『ユートピア』は1516年12月、現在のベルギーのレウフェン(フランス語でルーヴァン)で刊行された。原題は「最良の社会体制ならびにユートピア新島について。いとも著名にして、雄弁なるトマス・モアによる、機知に富むばかりか、効能もある、真の黄金の書物」という、ずいぶん長いタイトルのもので、ラテン語で書かれている。ユートピア新島は架空の島ということにはなっているが、読者にはイギリスを連想させる。モア自身と彼の友人ヒレス、それに架空のアメリゴ・ヴェスプッチの航海に同行した学者ヒュトロダエウスという3人の対話という形で物語は進む。ユートピアの島民は、農業と手工業を2年交代で兼務する自給自足の生活を送っている。もちろん働かずに暮らそうとする怠け者などいない。また、土地も道具も共有で、貨幣は存在しない。それで貨幣の基準になる金は何に使われているかといえば、これがなんと便器。理想社会で大切にされるのは金や銀ではなく、鉄やガラス、土など。生活に必要な食器には土器やガラス器を使い、金や銀は便器や奴隷をつないでおく足かせ、犯罪者のシンボルである耳輪や首輪、頭の帯などに使用する。第1巻に見られる「羊が人間を食い殺している」という言葉は、イギリスの浮浪者の増大の原因として、地主たちが羊毛の値上がりに目をつけ、畑をつぶして牧場として囲い込み、その結果農民が土地を失っていく状態を描き、囲い込み運動を非難したものである。

   トマス・モアは国王ヘンリー8世の信頼厚く大法官になったが、王の離婚に反対したため、反逆罪に問われ、ロンドン塔で処刑された。刑吏が当時の習慣によって罪人に許しを乞うと、モアは彼を抱きしめて、「元気をだして、役目を果たしなさい。私の首は大変短いから、やりそこねて恥をかいたりしないように気をつけなさい」と励まし、伸びた髯を首切台の外に出し、「これには罪はないから切らないでください」と冗談を言った。モアは最後まで、思いやりとユーモアを忘れなかった。(引用文献:『ウラからのぞく世界史』ダイソー文庫シリーズ17)

2008年5月 3日 (土)

ブルース・リー伝説

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 子役時代のブルース・リー(作品不明)

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   「グリーン・ホーネット」の頃(1966年)

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 バン・ウィリアムズとブルース・リー

    ブルース・リー(1940-1973)は、サンフランシスコで生まれたが、6歳のときから少年時代を香港で過ごす。古典劇の名優であった父親の影響で子役として約20本の香港映画に出演している。18歳のとき単身渡米する。ワシントン大学哲学科に入学。道場を開いて、中国武術を広めようとしていた。当時の写真を見ると、書棚には武道・哲学・古美術などあらゆる書物が並べられ向学心に燃えた青年であることがうかがえる。ところが、その武道がハリウッド関係者の目にとまり、TV「グリーン・ホーネット」のカトー役に抜擢される。たちまち派手なアクションで人気がでる。いま世界中で武道が見直されているが、ブルース・リーが世界に与えた影響ははかりしれないものがある。

2008年5月 1日 (木)

北欧のベニス・ストックホルム

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   スウェーデンの首都・ストックホルムは、「水上にただよう都」とか「北欧のベニス」とかいわれているが、なるほど湖と運河にうかんだ町である。町全体が固い岩盤の上にのっかっているため、近代的な高層建築が人目をひく。その地名の由来は、ストック(「入江」「湾」「杭」)とホルム(「島」)、つまり「丸太の島」とでもいう意味であろうか。

   町は1250年にスターデン島にまず建設され、いまもガムラスタン(旧市街)と呼ばれ、中世風で不規則な道路を残している。すでに1255年頃にはハンザ同盟に属する港市として栄えたが、当時はドイツ系の市民の勢力が強かった。1520年にはデンマーク王クリスチャン2世(1481-1559)が、スウェーデン系貴族の弾圧をしたため、グスタフ1世(1495-1560)のもとに結集した勢力はハンザ同盟の支配から脱した。スウェーデンは三十年戦争中にグスタフ・アドルフ(1594-1632)の軍事活動や重商主義政策により大国となった。娘のクリスチナ女王(1626-89)の時にストックホルムの整備が進み、在来のウプサラにかわって首都となり、北欧の中心地として発展していった。1718年から1771年まで、新憲法にもとづき、「ハット党」と「キャップ党」からなる2大政党制による民主的な政治が展開され、「自由の時代」と呼ばれている。

実力派女優ケート・ブランシェット

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  クリスチィーナ・リッチが好きで、「耳に残るは君の歌声」(2000年)を映画館でみた。だがヒロインのスージー(クリスチィーナ・リッチ)よりも友人のロシア人ダンサーのブロンド美女に魅せられた記憶がある。あの「エリザベス」で有名になったケート・ブランシェットである。昨夜はBSで「シャーロット・グレイ」(2001年)を見る。

Charlotte

   第二次大戦下、シャーロットはスパイの特訓を受けて、フランスに潜入する。南仏のレジスタンスのリーダーのジュリアン(ビリー・クラダップ)の手引きで、彼の父ルベード(マイケル・ガンボン)の家のメードとして住み込み、諜報活動をする。その家には二人のユダヤ人少年がかくまわれていた。彼女はドイツ軍列車爆破などに関わっていく。やがてドイツ軍がこの山奥の町にも侵攻してくる。何者かが仕組んだわなで偽の情報をつかまされ仲間を失い、さらには探していたピーター(ロバート・ペンリー・ジョーンズ)も死んだと聞かされ失意のシャーロットに、ナチの手先となった村の教師が言い寄ってくる。彼はルベード家に乗り込み、ルベードと少年たちをナチに引き渡す。ジュリアンは教師を殺害し、シャーロットと逃亡しようとする。だが、彼女はそれを断わると、少年たちの乗る収容所行きの列車を追いかけ、彼らに生きる希望を与える一通の手紙を渡す。戦争が終わり、ジュリアンと再会する。「ずっと言いたかった。私の名前はシャーロット・グレイよ」と。

   今夜もBSでケート・ブランシェットの「ヴェロニカ・ゲリン」(2003年)が放送される。楽しみだ。

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