「解語の花」楊貴妃
楊貴妃 上村松園画
「クレオパトラか楊貴妃か」といわれるほど、唐の楊貴妃は美人の典型になっている。だが、ひとくちに「美人」と言っても、その基準をどこに定めたらよいのか難しい。中国でも、六朝時代には、痩せ型で、柳腰の、すらりとした女性がもてはやされた。しかし、唐代にはいると、ふっくらと太った、ふくよかな感じの女性が美人の典型とされるようになった。つまり則天武后も、楊貴妃も、いわゆる肥満型美人であった。唐代の後宮を多彩に飾る美女たちの群れは、一様に、どっしりと、悠然としていたであろう。
楊貴妃(719-756)は740年の驪山温泉宮(華清宮)行幸のとき玄宗にみそめられ、745年後宮の最高位である貴妃の称号を与えられた。ときに玄宗62歳、楊貴妃27歳であった。
ある秋のことである。玄宗皇帝と楊貴妃が唐長安城大明宮にある庭園の太液の池を供を連れて散歩していた、池には美しい蓮の花が咲いていた。人びとはその美しさに思わず嘆声を発した。すると玄宗が傍らの楊貴妃を指さしていった。
「いかで我が解語の花に如(し)かん」
解語とは言葉の意味を解するということ。つまり「わしの、言葉のできる花の方がよほど美しいわい」というのである。この逸話より「解語の花」とは美人のことをいうようになった。出典は王仁裕の『開元天宝遺事』
さまざまな楊貴妃の画像
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