漢の孝廉
漢の武帝が政治についての意見を求めるために学者の家を訪問している図
漢王朝(前206年~220年)のおよそ400年間は、後世の中国人が「黄金時代」として回顧する、長い安定と繁栄の時代であった。そして前漢の武帝(在位前141-前87)の50年を超える在位は中国歴代の諸君主のなかでも長きにわたり、匈奴遠征、絹の道、大帝国の建設と漢の最盛期であった。内政では「賢良方正直言極諌の士を挙げよ」と命じ、人材の登用を図り、儒教によって教育されたものを選抜した。有能な官僚によって、行政がおこなわれ、学問が盛んになった。武帝の人材登用や学者保護が伝説化されて、画像のような後代の想像図が残されている。
武帝は地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒や公孫弘らを博士に任じた。そして儒教の経典である「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」に通暁している専門学者を五経博士に任じた。
漢代の官吏になる道はいくつかあるが、正規の道は孝廉選挙である。 孝廉の制度は漢の武帝の時代から始まるが、次第に盛んになって、後漢になると、制度が整い、改正が加えられた。和帝の時に郡国の人口率に応じて孝廉の人数が定められ、順帝の時に限年制(孝廉は40歳以上)と課試制(後世の科挙の先駆)とが設けられた。地方から推薦される孝廉は、和帝の時、全国で毎年200人ほどいたという。その多くは地方豪族の子弟である。(参考文献:宮崎市定「九品官人法の研究」)
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