「熱海ブルース」と「熱海の夜」
坪内逍遥(1859-1935)は熱海をこよなく愛し、熱海の地で没した。「わが国の避寒の最優勝地である上に、頗る有効な温泉があり、加ふるに、海と山と田園との三風致を兼ね備えへ、おまけに都会的設備と田舎の趣味を両立せしめているといふ点にある」と熱海の魅力を語っている。(「熱海に関する追憶」)逍遥は大正9年5月に、熱海水口村に別荘を落成し、双柿舎と命名した。ここで昭和10年に没するまで、シェイクスピアの全訳を成し遂げ、「役の行者」「名残りの星月夜」の戯曲を書いた。
「東の熱海、伊東、西の別府」といわれるほど日本有数の温泉街へと成長した熱海には、古屋旅館、小林屋旅館、相模屋、鱗屋旅館、露木旅館など温泉街としての風格があった。そのため熱海を訪れる著名人も多く、三浦観樹(陸軍軍人)、雨宮敬次郎(実業家)、長與専斎(医政家)、曾我祐準(陸軍中将)、茂木惣兵衛(実業家)、成島柳北(随筆家)、伊藤博文(政治家)、尾崎紅葉(小説家)、尾崎行雄(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、横山大観(画家)、佐佐木信綱(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、広津和郎(小説家)、志賀直哉(小説家)など熱海ゆかりの文人墨客は多い。
また昭和初期、熱海温泉組合は熱海の宣伝のため流行歌を有名作詞家、作曲家につくらせた。
熱海小唄 藤本二三吉、四家文子 昭和5年
熱海節 四家文子、藤本二三吉 昭和5年
熱海ジャズ 渡辺光子 昭和9年
熱海音頭 歌手不詳 昭和9年
熱海ぶし(西条八十作詞、中山晋平作曲)四家文子
熱海ブルース(佐伯孝夫作詞、塙六郎作曲)由利あけみ 昭和14年
戦時中、空襲だけは免れることができたが、歓楽街としての熱海は昔日の面影はなくなった。そして昭和24年8月31日のキティー台風、昭和25年4月13日の熱海大火と、たび重なる災難が熱海を襲った。熱海国際観光温泉文化都市建設法を制定し、戦後の復興に努めていった。
熱海の夕波(佐伯孝夫作詞、倉若晴生作曲)ディック・ミネ、菊池章子昭和23年
熱海シャンソン 青木はるみ 昭和34年
三平の熱海の海岸 林家三平 昭和37年
熱海の雨 春日八郎 昭和41年
熱海渚通り 松山恵子 昭和41年
熱海の夜 箱崎晋一郎 昭和44年
熱海妻 笹みどり 昭和46年
熱海音頭 三波春夫 昭和48年
熱海で逢ってね 五月みどり 昭和49年
昭和40年代以降の熱海は、都市化のため昔日の温泉街としての情緒が薄れていった。そしてバブル崩壊により、かつて年間530万人を数えた宿泊客は最近では290万人と減少している。お宮の松で有名な海岸通りに建つ大型観光ホテルの多くが倒産し、それらの中には何年も放置されているのもあるという。かつての男性客・団体客を中心とした日本一の歓楽街も大きく変化することを余儀なくされている。
熱海ブルース
きのうきた町 きのうきた町
今日また暮れて
つきぬ思いの 湯けむりよ
雨のにおいも やさしくあまく
きみは湯あがり 春の顔
* * * * * * *
熱海の夜
たった一度の しあわせが
はかなく消えた ネオン街(まち)
忘れられない 面影を
月にうつした 湯の宿よ
熱海の夜
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