平和五原則とチベット問題
北京五輪の聖火リレーがインドの首都ニューデリーで警察の厳戒態勢下、行なわれるといニュースを聞く。インドには約10万人の亡命チベット人がいるという。チベット問題にはほとんど無関心であったが画像の写真で興味がでてきた。インドの首相ネルーが北京へ行き、周恩来と会談し、共同声明「平和五原則」を発表したのが1954年4月29日である。つまり、領土・主権の相互尊重、対外不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和的共存である。学校の社会科の授業では平和五原則はいかにも国際平和に寄与するもののように学んだが、これはインドと中国という大国間の平和共存であって、小国のチベットにとっては悲劇の始まりであった。この会談の真のねらいは「中国チベット地区とインドとの間の貿易及び交通に関するインド共和国と中華人民共和国との間の協定」を締結することであった。そして平和五原則の一項、内政不干渉により、中国はインドに気にすることなくチベットへの圧政をすることができるようになった。1959年3月10日、チベット民族蜂起、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。そもそもチベットは人民中国の支配以前から固有の文化、歴史、民族を有するチベット人が独立主権国家を形成していたことは、1913年のモンゴルとの蒙蔵条約、1914年のイギリスとのシムラ条約などからも立証されている。ただ国際連合に代表をもたなかったため世界各国が中国の侵略をたやすく容認してしまったのが遠因となって続いている。
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