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2008年4月29日 (火)

マネとベルト・モリゾ

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         黒い帽子のベルト・モリゾ

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   エドゥアール・マネ(1832-1883)の「バルコン」(1868年)に扇子をもって座っている美しい女性はベルト・モリゾ(1841-1895)である。モリゾはこれまでマネのモデルとして知られていたかも知れないが、近年は個展も開かれ、女流画家としても高く評価されるようになっている。第1回から第8回まで開催された印象派展に実に7回も出品している。モリゾの作品にはシルバー・ホワイトがなされたと思われる層の上に明るい透明に近い黄土色の薄い層を重ねて下地とした作品が多くみられ、身近な人々を女性らしいこまやかな愛情をこめて描いている点に彼女の特徴がみうけられる。

    マネは「草上の昼食」「オランピア」などで世の非難を浴びていた1858年のある日、ルーブル美術館で、リューベンスの模写をしている若くて美しい女性を、友人のファンタン・ラトゥールから紹介された。マネは彼女の漆黒の瞳とエキゾチックな容貌に魅せられた。すぐさま、モデルを努めてくれるように頼んだ。ベルトのスペイン風なエキゾティズムはマネを虜にした。「黒い帽子のベルト・モリゾ」(1872年)など1872年の7月から9月の間にベルトの肖像画が4点もある。マネとベルトとの恋の噂もあったが、1874年、ベルトは弟のウージェーヌ・マネと結婚した。ウージェーヌはベルトより8歳年長だった。健康にあまり恵まれなかったのと生来の気まぐれもあって、生涯いかなる職にもつかずディレッタントとして過ごした。モリゾは37歳で娘ジュリーが生まれた。「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と「エドマへの手紙」に書いている。ベルト・モリゾの54年の生涯は愛情に満ちた家庭と比較的恵まれた経済状態で幸福であったようだ。

2008年4月28日 (月)

ジョイス・キルマー「樹」

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       樹

  思うに、樹のように美しい詩を

  見ることはついになかろう。

  甘い乳の流れる大地の胸に、

  飢えたるその口に押しあてる樹、

  日もすがら神を見上げて

  葉の多い腕をさしあげ祈る樹、

  夏にはその髪にこまどりの

  巣をかけることもある樹、

  その胸に雪がよこたわり、

  雨となかよく暮らす樹、

  詩は私のような馬鹿が作るが、

  神さまのみが樹をつくり給う。

    ジョイス・キルマー(1886-1918)は、ニュージャージー州で生まれ、将来を嘱望されながら、第一次大戦で戦死したアメリカの詩人。詩集に「愛の夏」(1911)、「樹木」(1914)など、評論集に「サーカス」(1916)などがある。

2008年4月27日 (日)

明六社と森有礼

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 明六社は、明治6年7年にアメリカから帰国した森有礼(1847-1889)が、西洋文明諸国にあるような啓蒙活動の団体(学会)の設立を西村茂樹にはかり、ついで西周、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、神田孝平、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、杉亨二らの賛同を得て発足した。初代社長は森有礼で、会員は30名、社員は主として開成所出身の洋学者であった。翌年3月から機関誌『明六雑誌』を発行し、また毎月講演会を開き「一日も早く日本国民を文明開化の門に入らしめん」とし、西洋の事情を明らかにし、新旧思想の混乱に指針を与えた。だが、明六社の創設者の一人である森有礼は、明治22年、憲法発布の日、刺客・西野文太郎(1865-1889)に暗殺された。

   その後、明六社は明六会(1875-1879)となり、東京学士会院(1879-1906)、帝国学士院(1906-1947)を経て、日本学士院(台東区上野公園7-32)へと至る流れの先駆をなした。日本学士院・現在の院長は、久保正彰である。

2008年4月26日 (土)

「青春の門」と早稲田大学

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    誰もが一度は通り過ぎる、しかし唯一度しか通ることの許されぬ青春の門。五木寛之といえば「青年は荒野をめざす」「さらばモスクワ愚連隊」「風に吹かれて」「蒼ざめた馬を見よ」などあるがやはり大河小説「青春の門」が代表作であろう。そして尾崎士郎の「人生劇場」青成瓢吉とともに、伊吹信介は早稲田の学生であり、五木寛之と早稲田大学という印象も強い。近年は宗教や哲学的な著作が多く、平成16年には「仏教伝道文化賞」を受賞している。最近ある本で、五木寛之と石原慎太郎はともに昭和7年9月30日の生まれだと知る。同世代で対照的な二人の作家への興味はつきない。

    五木寛之は生後まもなく朝鮮に渡り終戦を迎え、混乱の中、母を失い、数々の困難を経て、昭和22年に日本に帰国する。この苛酷な体験が、作風に大きな影響をあたえているのであろう。ただ多くの作家は自伝的な作品を残すが、五木にはあまりに苛酷なものであるためか少年期の自伝的なものはないという。昭和27年に早稲田大学露文科に入学したものの、授業料が払えず、心ならずも早稲田大学を去る。このとき五木は大学の事務から、抹籍願を書いて渡した。五木は、作家になってからもずっと、「早稲田大学抹籍」だと言い続け、書いてきたが、まわりが勝手に「中退」と解釈していた。ところがあるバーティーで、一人の銀髪の品のいい紳士に会う。その人は早稲田大学の総長だった。「校友会に入ってほしい」と言われ、「いや、私は授業料を滞納して早稲田は抹籍になっていますから、入る資格なんかないんです」と説明すると、「今ならお払いいただけるでしょうか」と言う。すぐに、大学の事務局から請求書が来た。その日に払い込んだら、「今日からあなたは正式に中退です」と連絡があった。それ以後は、「早大中退」と書けるようになったという。

                   *

    伊吹信介は、筑豊の炭鉱夫伊吹重蔵の息子として生まれた。信介は義母のタエに育てられるが、彼はタエを母としてだけではなく女として愛した。父は、坑道に生き埋めになった坑夫を救うために死んだ。終戦は、信介が国民学校4年の時だった。母と子は重蔵の遺言で、飯塚のやくざ塙竜五郎の世話になることになった。が、まもなくタエは病死してしまう。早稲田大学に合格した信介は、幼なじみの牧織江や竜五郎をあとに、上京していく。大学に入った信介は、演劇青年の緒方の下宿にころがり込み、娼婦のカオルと知り合ったりする。信介は授業にはほとんど出ず、アルバイトや売血、ボクシング等をして暮らしていた。人生の目的を探すために大学を入った信介は、緒方の演劇活動に参加し、北海道に渡る。だが、働きながら芝居をつくるという緒方の意図は、結局失敗してしまう。信介は札幌でしばらく織江と同棲していたが、もう一度大学に戻ることを決心する。織江は歌手としてスカウトされ、信介から離れて行く。上京した信介は政治運動に参加するが、ここでひどい挫折感を味わい捨てばちな気分に陥っていく。織江は老作詞家宇崎秋星と知り合い、レコード歌手としてのチャンスをつかんだ。一方、自堕落な生活を送っていた信介は、竜五郎が大けがをしたことを知り九州に帰る。しかし竜五郎は、けががもとで死んでしまう。再び東京に来た信介は、ふとしたことから実業家林三郎と知り合い、彼の書生となり新しい出発を決意する。林家に来て2年半が過ぎた。信介は、林三郎から将来を嘱望されていた。そんな折、思うようにヒット曲の出ない織江が、最後のチャンスに賭けるため、信介にマネージャーになってくれないかと申し出てきた。いろい迷った末、信介は織江に協力することにする。北海道で知り合ったアナキスト丸谷玉吉が、東京山谷で車にひかれて死んだ。信介は北海道江差に行き、納骨する。信介は、立原襟子を知り好きになるが、函館でレポ船団に戦いを挑んでいる元新聞記者の西沢洋平と再会し、ひょんなことからハバロスクへ旅立つ。ハバロスクに着いた信介と西沢らは、シベリア独立計画にからみ収容所に送られそうになったが、西沢の友人、伊庭敬介に助けられた。信介は西沢らと別れ、パスポートもないまま、恋人アニョータとともに、ポーランドに向け旅に出ようとする。

2008年4月20日 (日)

安保闘争と炎加代子

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    昭和35年は安保闘争の年である。炎加代子という女優はこの時代を象徴している。当時、学生たちの間では既存の権威を否定してかかる「ナンセンス」という言葉が流行った。炎加代子が出演した作品にも安保闘争を描いたものが多い。「乾いた湖」(篠田正浩監督)では学生運動の闘士・下条卓也(三上真一郎)が大衆運動を軽蔑し、「デモなんかくだらない!革命だ」と叫ぶ。「太陽の墓場」(大島渚監督)では炎加代子は大阪の釜ヶ崎の女を熱演した。実生活では共演の若手男優と心中未遂を起こして、すぐに映画界から消えたが、少年たちに強烈な印象を残した女優である。ある雑誌の対談での発言「セックスしている時が最高よ」と語ったことからたちまち流行語となった。それは安保という政治的な時代の中で、ひたすらセックスという私ごとを追い求めることへの共感があったからであろう。

背くらべ

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 柱の疵は 一昨年の

 五月五日の 背くらべ

 粽たべたべ 兄さんが

 計ってくれた 背の丈

 昨日くらべりゃ 何のこと

 やっと羽織の 紐の丈

       *

 柱に凭れりゃ すぐ見える

 遠いお山も 背くらべ

 雲の上まで 首出して

 てんでに 背伸(せのび)してゐても

 雪の帽子を 脱いでさへ

 一はやっぱり 冨士の山

 詩人・海野厚(1896-1925)は明治29年、静岡市曲金に生まれ、早稲田大学に学んだ。俳人の渡辺水巴に師事し、鈴木三重吉、会津八一、竹久夢二、中山晋平らと親交し、「おもちゃのマーチ」その他多くの作品を発表した。大正14年、肺結核を病み、東京・目黒で寂しく他界した。

2008年4月19日 (土)

宇治は茶どころ縁どころ

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あれに見えるは茶摘みじゃないか 茜襷に菅の笠

萌えるお茶の芽もえたつたすき 唄に明けゆく宇治の里

宇治は茶どころ茶は縁どころ 娘やりたや婿ほしや

今年やこれきりまた来る春は 八十八夜のお茶に逢う

主は焙炉でこがれていよと わたしや茶園でうわの空

神に一心お茶にはニしん かけてみやんせキッと利く

ことしお茶にはあかねのたすき 今度五月にや黒だすき

宇治の里から貰うた嫁は 茶つみ上手で唄上手

人の手前で薄茶じやけれど 主の濃茶で目をさます

こよい庚申濃茶をのんで 話明かそか主さんと

ぬるいお茶でもお前の手から ついで貰えばあつくなる

朝の茶の湯に茶柱立って 運の開きか花が咲く

2008年4月18日 (金)

ヒッピーが住みついた火山島

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              現在も活動を続ける御岳

   火山国日本に火山は多いが、常に活動している活火山は少ない。鹿児島県南部、トカラ列島の中部にあるスワノセ島(諏訪之瀬島)は現在も最も活発な活火山である。文化10年(1813年)に大噴火を起こし、その後70年間、無人島となった。明治16年頃、藤井富伝が入植をはじめ、人が住むようになった。ほとんどの住民が奄美大島などからの移住者だった。島の周囲は海食崖に囲まれ、十数個からなる小集落が南部の台地にあり、自給的な畑作と牛肉飼育をおこなっている。戦後になって、人口の減少が著しく、とくに若年層の流出が続いた。ところが昭和42年に都会からヒッピーといわれる若者がやってきた。島民たちとさまざまなトラブルを起こしながらも、若者は島の生活において重要な働き手となっていった。そしていつしか島にあたらしい文化を根付かせている。「バンヤン・アシュラム」というスワノセ・コミューン(共同体)で、漁師をしながら詩作を続けるナーガ(長沢哲夫)もその一人である。

2008年4月17日 (木)

平和五原則とチベット問題

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   北京五輪の聖火リレーがインドの首都ニューデリーで警察の厳戒態勢下、行なわれるといニュースを聞く。インドには約10万人の亡命チベット人がいるという。チベット問題にはほとんど無関心であったが画像の写真で興味がでてきた。インドの首相ネルーが北京へ行き、周恩来と会談し、共同声明「平和五原則」を発表したのが1954年4月29日である。つまり、領土・主権の相互尊重、対外不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和的共存である。学校の社会科の授業では平和五原則はいかにも国際平和に寄与するもののように学んだが、これはインドと中国という大国間の平和共存であって、小国のチベットにとっては悲劇の始まりであった。この会談の真のねらいは「中国チベット地区とインドとの間の貿易及び交通に関するインド共和国と中華人民共和国との間の協定」を締結することであった。そして平和五原則の一項、内政不干渉により、中国はインドに気にすることなくチベットへの圧政をすることができるようになった。1959年3月10日、チベット民族蜂起、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。そもそもチベットは人民中国の支配以前から固有の文化、歴史、民族を有するチベット人が独立主権国家を形成していたことは、1913年のモンゴルとの蒙蔵条約、1914年のイギリスとのシムラ条約などからも立証されている。ただ国際連合に代表をもたなかったため世界各国が中国の侵略をたやすく容認してしまったのが遠因となって続いている。

2008年4月16日 (水)

汽車のひびき

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                  余部鉄橋を渡る機関車C57形

      汽車のひびき         近藤東

汽車はひびきをたてて

走っていく

汽車は遠くからやってきて

また遠くへ走っていく

汽車は遠くの町や村の話を乗せ

遠くの町や村へ運んでいく

汽車のひびきは汽車のことば

汽車は一生けんめい話をするが

私たちにはそのことばはわからない

わかればどんなにおもしろいであろう

わかればどんなにめずらしいであろう

汽車よ私たちもどこかへ

乗せていっておくれ

そういって私たちは汽車によびかける

すると汽車は答えるように

汽てきを鳴らす

そしてひびきをたてて走っていく

2008年4月15日 (火)

レオポン誕生

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   甲子園阪神パークは昭和4年「甲子園娯楽場」が前身で、昭和7年に「阪神パーク」と改称した。遊園地であるが、戦後ライオンとヒョウを交配した雑種「レオポン」誕生で一躍、動物園として有名になった。昭和34年11月に2頭、昭和35年6月に3頭のレオポンが誕生した。このような存在しない珍種を狙った異種交配に対してはのちに批判も出てきた。現在では生命倫理の観点からも、動物の個体管理が必要であり、人工的に異種交配をする動物園はないかもしれない。(中国でライオンとトラとの交配によるライガーがいるというが)戦後、阪神パークの動物園としての不十分な設備のため、様々な動物たちを雑居家族として住まわせていたことと関係するであろう。昭和31年の「動物園への招待」(アサヒ写真ブック32)に次のような記事が掲載されている。

   甲子園の阪神パーク動物園のサル山には次の動物が一緒にすんでいる。アカゲザル6頭、タヌキ2頭、キツネ2頭、イノシシ1頭、山羊1頭、犬2頭、猫3頭であるが、これはおどろくべきことである。しかし各々その個性がちがうらしく、同じ猫でも猿にいじめられて水にほうり込まれるのもあれば、猿と仲良しになってノミとりをしてもらっている白猫もいる。もしこの猿山で生死をかけた闘争がおこなわれるとすれば、それは猿同士がその王位をかける勢力争いであろう。

   阪神パークでは園長の土井弘之や飼育担当の近藤義一郎らの努力で世界でも珍しいレオポンの誕生に成功したのは、昭和34年11月3日のことであった。だがレオポン5頭も昭和60年にはすべて亡くなった。平成14年、元園長の土井弘之も87歳で亡くなり、翌年3月、阪神パークは閉園した。

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   ヒョウを抱く土井園長(昭和31年頃)

2008年4月14日 (月)

忘れがたき人人

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  葡萄色(えびいろ)の

  古き手帳にのこりたる

  かの会合(あいびき)の時と処かな

          *

  かの声を最一度聴かば

  すっきりと

  胸や霽(は)れんと今朝も思える

          *

  君に似し姿を街に見る時の

  こころ躍りを

  あわれと思え

          *

  時として

  君を思えば

  安かりし心にわかに騒ぐかなしさ

          *

  わかれ来て年を重ねて

  年ごとに恋しくなれる

  君にしあるかな

          *

  さりげなく言いし言葉は

  さりげなく君も聴きつらん

  それだけのこと

          *

  かの時に言いそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど

               (石川啄木「一握の砂」)

花を持つ少女

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      花を持つ少女   木炭と水彩、紙

   フランス近代絵画の肖像画・風俗画において、「美しい女性こそ最高の美である」という理念がサロンでは主流であった。印象主義及びそれに続くさまざまな運動の高まりの中でサロンの画家たちは美術史の中で軽視されていくが、最近見直しされる傾向にある。

    フリッツ・ツベル=ビューレル(1822-1896)。スイスの肖像画家、風俗画家。ルイ・グロクロード、ピコの弟子。美術学校で学ぶ。1850年からサロンに出品し始める。ベルヌ、ル・ロクル、モンペリエ、スシャテルの美術館に作品が収蔵されている。

手套を脱ぐ時

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 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやわらかき庭の草かな

          *

  あたらしき木のかおりなど

  ただよえる

  新開町の春の静けさ

          *

 ゆえもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたえがたき日に

      ( 「一握の砂」  石川啄木)

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2008年4月13日 (日)

漢の孝廉

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漢の武帝が政治についての意見を求めるために学者の家を訪問している図

    漢王朝(前206年~220年)のおよそ400年間は、後世の中国人が「黄金時代」として回顧する、長い安定と繁栄の時代であった。そして前漢の武帝(在位前141-前87)の50年を超える在位は中国歴代の諸君主のなかでも長きにわたり、匈奴遠征、絹の道、大帝国の建設と漢の最盛期であった。内政では「賢良方正直言極諌の士を挙げよ」と命じ、人材の登用を図り、儒教によって教育されたものを選抜した。有能な官僚によって、行政がおこなわれ、学問が盛んになった。武帝の人材登用や学者保護が伝説化されて、画像のような後代の想像図が残されている。

  武帝は地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒や公孫弘らを博士に任じた。そして儒教の経典である「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」に通暁している専門学者を五経博士に任じた。

    漢代の官吏になる道はいくつかあるが、正規の道は孝廉選挙である。 孝廉の制度は漢の武帝の時代から始まるが、次第に盛んになって、後漢になると、制度が整い、改正が加えられた。和帝の時に郡国の人口率に応じて孝廉の人数が定められ、順帝の時に限年制(孝廉は40歳以上)と課試制(後世の科挙の先駆)とが設けられた。地方から推薦される孝廉は、和帝の時、全国で毎年200人ほどいたという。その多くは地方豪族の子弟である。(参考文献:宮崎市定「九品官人法の研究」)

2008年4月12日 (土)

三木清の龍野中学時代

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    三木清(1895-1945)は、龍野市揖西町小神の裕福な農家に生まれた。龍野中学時代は反抗と懐疑に駆り立てられていた。多趣味で何にでも首を突っ込み、友達にもめぐまれた。この頃、必要もないのに月に1回は徹夜して読書することに決めていたという。軍人と商人以外のあらゆる種類の人間になることを空想し、中でも文学では頽廃主義や自然主義の流行に追随し、戯曲、小説、短歌、批評などすべての文学のジャンルに手を染めていった。けれども、国語教師の寺田喜治郎は三木に徳富蘆花の『自然と人生』を副読本として与えた。寺田はこの本の字句の解釈などはしないで繰り返し読むように命じ、蘆花のもっていたヒューマニズムが、知らず識らずの間に三木の内面で育っていった。

    三木清は京都帝国大学2年を終えた夏、知的生活の目覚めから22歳までの精神の遍歴を「語れざる哲学」として綴った。

私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始まった。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は悪戯好きで反抗的な子供であった。教室ではわき見をしたり、隣の生徒に相手になったり、落書きばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽くて書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として謗られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記したり、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。(引用文献:三木清「語られざる哲学」講談社学術文庫)

天使の歌声・ディアナ・ダービン

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   ディアナ・ダービン(1921-  )はカナダのウィニペグに生まれ、美声を買われてMGMと契約。ジュディー・ガーランドと「アメリカーナの少女」(1936)で共演した。その後、ユニヴァーサルで「天使の花園」(1936)、「オーケストラの少女」(1937)が大ヒット。「天使の歌声」をもった美少女として戦前の日本の映画少年にも大人気だった。ちなみに「オーケストラの少女」のオーデションには当時13歳だったマリア・カラス(1923-1977)も受けたが残念ながら若すぎた。ダービンは「アヴェ・マリア」「年ごろ」「庭の千草」「銀の靴」「春の序曲」など音楽映画に多数出演し、1949年には引退し、パリで悠々自適の生活を送り、なんと今も健在である。

    ディアナ・ダービンのレコードは数枚持っているが、まさかCDなど無いだろうと思っていたら、ダイソーで8曲入り210円で売っていた。「アマポーラ」「ハレルヤ」「スプリング・イン・マイ・ハート」「ホーム・スイート・ホーム」「ラスト・ローズ・オブ・サマー」「アヴェ・マリア」「青きドナウ・ドリーム」「ある晴れた日に」である。やはりオペラの曲がある。映画「オーケストラの少女」でも歌われた「乾杯の歌」(ヴェルディ「椿姫」より)は収録されていなかった。日本語訳詩は浅草オペラの伊庭孝であるそうだが、詳しくは知らない。だだ次のような訳詩が見つかった。

  乾杯の歌

(アルフレード)

 友よ、いざ飲みあかそうよ

 こころゆくまで

 誇りある青春の日の

 楽しいひと夜を!

 若い胸には

 燃える恋心

 やさしいひとみが

 愛をささやく

 またと帰らぬ日のために

 さかずきをあげよ

(ヴィオレッタ)

 この世の命は短く

 やがては消えてゆく

 ねーだから今日もたのしく

 すごしましょうよ

 このひとときは

 ふたたびこない

 むなしくいつか

 過ぎてしまう

 若い日は夢とはかなく

 消えてしまう

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー

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ディアナ・ダービン、ジュディ・ガーランドの夢の共演は「エヴリー・サンデー」(アメリカーナの少女)という短編一作だった

2008年4月10日 (木)

「もののあはれ」と山桜

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    JR青梅線の鳩ノ巣駅から川沿いの渓谷を散策する。花と葉が同時に開く山桜の花が美しい。山桜の美しさを感ずる心を、国学者・本居宣長(1730-1801)は次のように詠っている。

  敷島の大和心を人問はば

                     朝日に匂ふ山桜花

  めづらしき高麗もろこしの花よりも

                     あかね色香は桜なりけり

   宣長はこれを「もののあはれ」として、感ずべきことに心を動かすこと、つまり儒教や仏教道徳に捉われずに、美しい花を見たら美しいと感ずる心が大切だと説いている。

    評論家・小林秀雄も桜に魅せられた日本人の一人である。

「さくらさくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」といふ誰でも知っている子供の習ふ琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めづらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌かず思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(小林秀雄「さくら」)

2008年4月 7日 (月)

「熱海ブルース」と「熱海の夜」

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   坪内逍遥(1859-1935)は熱海をこよなく愛し、熱海の地で没した。「わが国の避寒の最優勝地である上に、頗る有効な温泉があり、加ふるに、海と山と田園との三風致を兼ね備えへ、おまけに都会的設備と田舎の趣味を両立せしめているといふ点にある」と熱海の魅力を語っている。(「熱海に関する追憶」)逍遥は大正9年5月に、熱海水口村に別荘を落成し、双柿舎と命名した。ここで昭和10年に没するまで、シェイクスピアの全訳を成し遂げ、「役の行者」「名残りの星月夜」の戯曲を書いた。

 「東の熱海、伊東、西の別府」といわれるほど日本有数の温泉街へと成長した熱海には、古屋旅館、小林屋旅館、相模屋、鱗屋旅館、露木旅館など温泉街としての風格があった。そのため熱海を訪れる著名人も多く、三浦観樹(陸軍軍人)、雨宮敬次郎(実業家)、長與専斎(医政家)、曾我祐準(陸軍中将)、茂木惣兵衛(実業家)、成島柳北(随筆家)、伊藤博文(政治家)、尾崎紅葉(小説家)、尾崎行雄(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、横山大観(画家)、佐佐木信綱(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、広津和郎(小説家)、志賀直哉(小説家)など熱海ゆかりの文人墨客は多い。

   また昭和初期、熱海温泉組合は熱海の宣伝のため流行歌を有名作詞家、作曲家につくらせた。

熱海小唄 藤本二三吉、四家文子 昭和5年

熱海節 四家文子、藤本二三吉 昭和5年

熱海ジャズ 渡辺光子 昭和9年

熱海音頭 歌手不詳 昭和9年

熱海ぶし(西条八十作詞、中山晋平作曲)四家文子

熱海ブルース(佐伯孝夫作詞、塙六郎作曲)由利あけみ 昭和14年

 戦時中、空襲だけは免れることができたが、歓楽街としての熱海は昔日の面影はなくなった。そして昭和24年8月31日のキティー台風、昭和25年4月13日の熱海大火と、たび重なる災難が熱海を襲った。熱海国際観光温泉文化都市建設法を制定し、戦後の復興に努めていった。

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熱海の夕波(佐伯孝夫作詞、倉若晴生作曲)ディック・ミネ、菊池章子昭和23年

熱海シャンソン 青木はるみ 昭和34年

三平の熱海の海岸 林家三平 昭和37年

熱海の雨 春日八郎 昭和41年

熱海渚通り 松山恵子 昭和41年

熱海の夜 箱崎晋一郎 昭和44年

熱海妻 笹みどり 昭和46年

熱海音頭 三波春夫 昭和48年

熱海で逢ってね 五月みどり 昭和49年

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    昭和40年代以降の熱海は、都市化のため昔日の温泉街としての情緒が薄れていった。そしてバブル崩壊により、かつて年間530万人を数えた宿泊客は最近では290万人と減少している。お宮の松で有名な海岸通りに建つ大型観光ホテルの多くが倒産し、それらの中には何年も放置されているのもあるという。かつての男性客・団体客を中心とした日本一の歓楽街も大きく変化することを余儀なくされている。

      熱海ブルース

 きのうきた町 きのうきた町

 今日また暮れて

 つきぬ思いの 湯けむりよ

 雨のにおいも やさしくあまく

 きみは湯あがり 春の顔

  *  *  *  *  *  *  *

      熱海の夜

 たった一度の しあわせが

 はかなく消えた ネオン街(まち)

 忘れられない 面影を

 月にうつした 湯の宿よ

 熱海の夜

「金色夜叉」と丹名トンネル

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 熱海の海岸。明治の頃は砂浜で遠浅だった

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 「金色夜叉」執筆の頃の尾崎紅葉(32歳)

   熱海市は、静岡県の最東部、伊豆半島の東岸基部に位置しており、南西北の三方に箱根山系の山をめぐらし、東方は相模灘に面している。明治以降、熱海は「東洋のリヴィエラ」と呼ばれるほどに観光地、保養地として開発されたが、熱海をこれほどまでに全国的に有名にしたのは「金色夜叉」と丹名トンネルであろう。明治初期は富士山のすそのを迂回する御殿場線であったが、明治22年の丹名トンネルの開通により、東海道本線が熱海を通過するようになった。「金色夜叉」は尾崎紅葉(1868-1903)が明治30年から6年間に「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載した小説である。高等中学生の間貫一が、許婚の鴫沢宮を資産家の富山唯継に奪われ、高利貸となって復讐する愛憎劇。とくに追いかけて許しを乞うお宮を貫一が下駄で蹴り飛ばす熱海の海岸の場面が有名となった。

  熱海の海岸散歩する

  貫一お宮の二人連れ

  共に歩むも今日限り

  共に語るも今日限り

     (「新金色夜叉」作詞作曲・宮島郁芳)

   「金色夜叉」は無声映画の時代からテレビの時代になっても、何度もスターによって演じられた。これまで宮を演じた俳優は、映画では衣笠貞之助、中山歌子、三浦清、川田芳子、栗島すみ子、田中嘉子、浦辺粂子、歌川八重子、久野あかね、田中絹代、佐久間妙子、山田五十鈴、西条麗子、川崎弘子、轟夕起子、山本富士子、テレビでは水谷八重子、朝丘雪路、冨士真奈美、高須賀夫至子、佐久間良子、横山めぐみ。

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    栗島すみ子、岩田祐吉(大正11年)

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  浦辺粂子、鈴木伝明(大正13年)

文化財の宝庫・小浜

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  十一面観音立像 10世紀   小浜市 羽賀寺蔵 重要文化財

   北陸福井県南西部に位置する人口3.2万人の漁港の町・小浜市。NHK連続小説「ちりとてちん」の舞台となった。ヒロイン和田喜代美(貫地谷しほり)の父・正典(松重豊)は若狭塗箸の職人。塗箸は全国の9割の生産量を誇る伝統産業。ちなみに「お箸の日」は「ハ・シ」の語呂合わせで8月4日と定められている。「おばま」つながりで話題となっているバラック・オバマ上院議員も8月4日が誕生日であるという偶然が面白い。

   「和名抄」に遠敷郡(おにゅうぐん)遠敷郷とある小浜市は歴史のある町で、かつては大陸文化の玄関口として栄え、「海のある奈良」といわれるほど文化財を所有する古刹が多い。羽賀寺、神宮寺、若狭国分寺、明通寺、万徳寺、妙楽寺、多田寺、空印寺など。

   羽賀寺の本尊・十一面観音立像は顔面から全身にわたってよく残されている彩色がひときわ美しい。やや黄みがかった肉色に花文様や裳のところどころのはなやかな緑と朱の色調は、時代を経て落ち着いた深みのある味わいをみせている。背面内刳りの一木彫で、全体の姿はやはり扁平で硬直したきらいはあるが、翻波式の彫技と着彩との調和を知るうえに好個の作例である。頭部の冠台は幅が広く大仰であり、頭上の化仏の配列や水瓶を持った左腕から、まっすぐに長く伸ばした右腕の手首にかかる天衣の扱い方などにも地方作として個性的な表現が著しい。(引用文献:千沢楨治「世界美術全集4」角川書店)

廬山三絶と美廬別荘

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    江西省廬山は世界文化遺産に登録されているが、自然の景観がすばらしいことで知られている。海の向こうからのぼる朝日、山中に漂う幻想的な雲霧、空から流れ落ちてきたかのような瀑布、つまり日の出、雲霧、瀑布の3つの絶景があることから「廬山三絶」という。

    廬山の歴史は古く、「書経」や「史記」などの書物にも名前が見える。道教、仏教、儒教などの宗教にゆかりの深い山であるとともに、「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一節で知られる白居易(772-846)はじめ、李白、蘇軾など多くの文人墨客を魅了した詩歌の原郷でもある。近代以降は、政治家や文化人らの避暑地として別荘が建てられた。数多い別荘のなかで、もっとも有名なのが蒋介石(1886-1975)の美廬別荘である。1903年にイギリス人が建てたもので、その後、ある外国人女性の所有となり、その女性が蒋介石夫人の宋美齢と親交があったことから、1934年にこの別荘を夫妻にプレゼントしたという。1937年には蒋介石と周恩来がここで会合するなど、歴史の舞台としても知られる。

2008年4月 5日 (土)

松竹歌舞伎と松竹映画

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(左より)佐分利信、佐野周二、上原謙、岡田茉莉子、小山明子、高千穂ひづる、佐田啓二、高橋貞二ら松竹映画スター

 松竹の創業は、大谷竹次郎(1877-1969)が京都阪井座を買収した明治28年である。「松竹」の名前は、明治35年、双子の兄の白井松五郎(1877-1951)と共に、松竹合名会社を設立したことに始まる。演劇興行会社で100年以上もの歴史を持つことは世界にもあまり類例がない。

    明治36年1月、1回目の興行は、歌舞伎の実川延二郎(後の2代目延若)一座で、出し物は「曽我の実録」「乳貰い」「左甚五郎」。興行は大成功だったという。竹次郎が大津の連隊に入隊したのを契機に兄松次郎もこの仕事に加わり、2人は競い合うように京阪の劇場を手中にして、明治43年には本郷座と新富座を買収して東京へ進出した。大正3年、歌舞伎座経営、昭和5年には東京劇場を新築開場した。松竹が、映画に乗り出したのは大正9年のことで、「松竹キネマ」を興し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子、英百合子、柳さく子、岡田嘉子、伏見直江、歌川八重子、八雲恵美子、田中絹代などの看板女優を中心に蒲田調といわれる女性向映画を得意とした。戦後の松竹大船調では、小津安二郎、木下恵介、大庭秀雄、中村登、吉村公三郎、渋谷実、野村芳太郎などの監督が健在で日本映画の黄金時代を築いた。昭和35年頃から大島渚、吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーベル・バーグといわれる若手監督が登場する。映画産業そのものは斜陽となったが、松竹では山田洋次監督による渥美清の喜劇路線で不振を何とか乗り切ってきた。岩下志麻、倍賞千恵子、松坂慶子らが長らく松竹の看板女優であったが、近年、田中麗奈が「犬と私の10の約束」「築地魚河岸三代目」「ゲゲケの鬼太郎千年呪い歌」と松竹作品の出演が続いている。

2008年4月 2日 (水)

「解語の花」楊貴妃

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  楊貴妃   上村松園画

    「クレオパトラか楊貴妃か」といわれるほど、唐の楊貴妃は美人の典型になっている。だが、ひとくちに「美人」と言っても、その基準をどこに定めたらよいのか難しい。中国でも、六朝時代には、痩せ型で、柳腰の、すらりとした女性がもてはやされた。しかし、唐代にはいると、ふっくらと太った、ふくよかな感じの女性が美人の典型とされるようになった。つまり則天武后も、楊貴妃も、いわゆる肥満型美人であった。唐代の後宮を多彩に飾る美女たちの群れは、一様に、どっしりと、悠然としていたであろう。

    楊貴妃(719-756)は740年の驪山温泉宮(華清宮)行幸のとき玄宗にみそめられ、745年後宮の最高位である貴妃の称号を与えられた。ときに玄宗62歳、楊貴妃27歳であった。

    ある秋のことである。玄宗皇帝と楊貴妃が唐長安城大明宮にある庭園の太液の池を供を連れて散歩していた、池には美しい蓮の花が咲いていた。人びとはその美しさに思わず嘆声を発した。すると玄宗が傍らの楊貴妃を指さしていった。

「いかで我が解語の花に如(し)かん」

    解語とは言葉の意味を解するということ。つまり「わしの、言葉のできる花の方がよほど美しいわい」というのである。この逸話より「解語の花」とは美人のことをいうようになった。出典は王仁裕の『開元天宝遺事』

 さまざまな楊貴妃の画像

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