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2008年4月29日 (火)

今宵もダイアン・レーン

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    今宵もBSでダイアン・レーン主演の「理想の恋人.com」を見る。離婚したばかりの幼稚園の教諭サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)は落ち込んでいる。姉のキャロル(エリザベス・パーキンス)はサラになりすましてインターネットの恋人募集サイトに無断で登録する。「当方、グラマーでユーモア抜群。愛犬家に限る」まもなくサラは殺到する恋人候補とのデートで大忙しになる。なんと50歳といっていた男は、サラの父親の71歳のビル(クリストファー・プラマー)だった。悲惨な初デートの連続の中で、サラが気になる男性が一人だけ。ボートの設計者のジェイク(ジョン・キューザック)だ。ビルからジェイクの本当の気持ちを知ったサラは真実の愛を自ら進んでつかむ。ネットで見つけた理想の恋人探しをロマンチック・コメディとしてまとめている。

    40歳を越えて主演作品が続くダイアン・レーン。思えば、80年代初頭は美少女スターが花盛りだった。ブルック・シールズ(「青い珊瑚礁」「エンドレス・ラブ」)、テータム・オ二ール(「インターナショナル・ベルベッド」「リトル・ダーリング」)、クリスティー・マクニコル(「リトル・ダーリング」)、ジョディー・フォスター(「白い家の少女」「フォクシー・レディー」)、そしてダイアン・レーン(「リトル・ロマンス」「ラスト・レター」)。ジョディー・フォスターは別格として、一番個性的ではなかったダイアン・レーンが今日までスター女優として生き残れたのは何故だろうか。それはダイアンが少女のみずみずしさを保ちながら、大人の女性としての知的なセンスを磨きあげたことに、現代女性から支持されたのだろう。映画「理想の恋人」は決して名作ではないかもしれないが、リラックスして大人が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。ダイアン・レーンも適役である。美少女スターが年をとって老け顔になっても、年齢が魅力になって人気が回復したケースは稀であろう。

「昭和の日」雑感

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   昭和天皇のラジオ放送で、突然の敗戦を知らされた私たち親世代の気持ちはさぞかし複雑であったであろう。ある者は、「日本が負けるはずはない」「絶対にデマだ」と思い、ある者は「よかった。新しい出発点だ!」「ほっとした」と感じていた。

   しかし、敗戦は事実であり、戦争は終わった。廃墟と化した町からも、やがて、平和への願いをこめた再建のつち音が聞えてきた。

   だが、祖国のためにと信じて戦場に散った若者たち、戦争で肉親を失い、家を焼かれた人々、身一つで帰国した引揚者たち…戦争の傷あとは深かった。原爆症で今なお苦しむ人さえある。われわれは、二度と戦争を起こさず、未来の明るい幸福な社会を築くために、最大限の努力を傾けねばならない。

      *

未来の人間よ

君達こそ人間らしく生活してくれるだろう

愚かなことをくり返さずに

幸福に生活してくれるだろう

すべての人がよろこべるよう

働いてくれるだろう

         武者小路実篤

マネとベルト・モリゾ

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         黒い帽子のベルト・モリゾ

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   エドゥアール・マネ(1832-1883)の「バルコン」(1868年)に扇子をもって座っている美しい女性はベルト・モリゾ(1841-1895)である。モリゾはこれまでマネのモデルとして知られていたかも知れないが、近年は個展も開かれ、女流画家としても高く評価されるようになっている。第1回から第8回まで開催された印象派展に実に7回も出品している。モリゾの作品にはシルバー・ホワイトがなされたと思われる層の上に明るい透明に近い黄土色の薄い層を重ねて下地とした作品が多くみられ、身近な人々を女性らしいこまやかな愛情をこめて描いている点に彼女の特徴がみうけられる。

    マネは「草上の昼食」「オランピア」などで世の非難を浴びていた1858年のある日、ルーブル美術館で、リューベンスの模写をしている若くて美しい女性を、友人のファンタン・ラトゥールから紹介された。マネは彼女の漆黒の瞳とエキゾチックな容貌に魅せられた。すぐさま、モデルを努めてくれるように頼んだ。ベルトのスペイン風なエキゾティズムはマネを虜にした。「黒い帽子のベルト・モリゾ」(1872年)など1872年の7月から9月の間にベルトの肖像画が4点もある。マネとベルトとの恋の噂もあったが、1874年、ベルトは弟のウージェーヌ・マネと結婚した。ウージェーヌはベルトより8歳年長だった。健康にあまり恵まれなかったのと生来の気まぐれもあって、生涯いかなる職にもつかずディレッタントとして過ごした。モリゾは37歳で娘ジュリーが生まれた。「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と「エドマへの手紙」に書いている。ベルト・モリゾの54年の生涯は愛情に満ちた家庭と比較的恵まれた経済状態で幸福であったようだ。

逢坂関(おうさかのせき)

   逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。

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現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2008年4月28日 (月)

ダイアン・レーンはイタリアがよく似合う

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   今夜はBSでダイアン・レーンの「トスカーナの休日」(2003年)を見る。離婚を経験したアメリカの書評家(作家)フランシス(ダイアン・レーン)は、その傷心ぶりをみかねた親友からトスカーナ旅行をプレゼントされる。コルトーナで一軒の築300年の屋敷を衝動買いしてしまう。フランシスは親切な不動産屋(ヴィンセント・リオッタ)の協力で、荒れ果てた家の修復に取りかかる。フランシスの夢はこの家で結婚式のパーティーをして家族をもつことになった。シャンデリアの部品を買うためローマに出かけたフランシスは、若くてハンサムなマルチェロ(ラウル・ボヴァ)と出会い、情熱的な一夜を過ごす。その日から見違えたように輝いていくフランシス。だが、妊娠した親友が遊びに来たり、若いポーランド人の大工の純愛をサポートしたりして、マルチェロとは会えない日々が続く。ある日、フランシスは思いきって白いドレスを着てマルチェロのいるアマルフィ海岸のポジターノへ突然に会いに行く。待望の彼との再会も悲恋に終わってしまう。それでも彼女はトスカーナの太陽のもと、力強く生きていくことをちかう。

   原作はフランシス・メーズのベストセラー小説だそうだが、往年のキャサリン・ヘプバーン主演「旅情」を彷彿させるものがある。「リトル・ロマンス」(1979)で14歳でデビューしたダイアン・レーンも43歳。少女スターが大人の女優として成功することは至難であるが、ダイアンはみごと演技派として復活した。クリストフ・ランベールとの結婚、出産、離婚、ジョシェ・ブローリンとの再婚と、ひととおりの経験を経て、「パーフェクト・ストーム」(2000)ではマーク・ワールバーグの年上の恋人、「運命の女」(2002)では不倫するリチャード・ギアの妻を演じている。この「トスカーナの休日」以後も「理想の恋人.com」などロマンチック・コメディーなどの作品が好調である。

    それにしても「リトル・ロマンス」の舞台はベニスだったが、今回はトスカーナ。なぜかダイアン・レーンのお相手には明るく陽気なイタリア男がよく似合う。

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唐と吐蕃

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        8世紀後半のアジア世界

    上掲の地図は吉川弘文館の「標準世界史地図」を一部引用したものである。8世紀後半、西から吐蕃、ウイグル、唐、渤海、新羅、日本という国家が存在していたことがわかる。吐蕃とはいまのチベットのことである。

     7世紀の頃、東アジアに強大な勢力を振るった唐も、玄宗皇帝の治世を頂点として8世紀の後半から次第に衰えはじめた。安史の乱(755-763)によって、華北の要地の多くは反乱軍に奪われたが、ウイグルなどの援助で回復した。唐は節度使の軍閥化により、衰退に向かう。

    チベット西方高原にいた「吐蕃」の漢字名称は、もともとチベット族の有力部族名「発」「蕃」などの呼称に由来している。吐蕃王朝の起源は明らかでないが、その祖先はネパールの北西部からカシミールの東部チベットのカムに移動して活発となった。中央チベット南部のヤルルン(渓谷)に拠った一部が、6世紀後半に台頭して王朝の基礎をつくり、7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ(?-649)のとき吐蕃は国力が強大となった。鮮卑族の吐谷渾(とよくこん)の没落に乗じて勢いを伸ばし、しばしば唐を侵攻したので、唐は和蕃公主として皇女・文成公主を降嫁させ、その慰撫に努めた。8世紀後半以降、吐蕃は軍事国家として、西南部の支配権を完全に握った。

   吐蕃は仏教を受容し、インド系の文字をもとにして独特のチベット文字をつくった。823年、ラサに建てられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものである。吐蕃の隆盛期は約200年にわたった。11代目のラン・ダルマが仏教弾圧してから衰退に向かった。ダルマ廃仏以後は、中央チベットの情勢は不明の点が多いが、宋代では、これをやはり吐蕃と称している。元代にも吐蕃という名称は用いられたが、それは単にチベットという地域的な名称にすぎないものとなっている。チベット独立問題、つまりチベット人のアイデンティティーの歴史的根拠は吐蕃王国にあるといえる。

ヌードのモナ・リザ

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  世界で最も有名な絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)であろう。.このルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」には、ほかに、もう1枚の「モナ・リザ」が存在していたといわれる。ダ・ヴィンチは、肖像画を描くときはいつでも2枚以上の版を作る習慣があったためだ。だが、いま世界には60点以上も「モナ・リザ」といわれる絵画が存在するが、本物と断定できるものはない。その中でも「ヌードのモナ・リザ」は珍品中の珍品であろう。なんと上半身裸である。この絵画はイギリスのノーサンプトンシャーのスペンサー卿(あのダイアナ妃の実家)が所有している。「美女ガブリエル」といわれ、おそらくダ・ヴィンチ派の画家の作であろう。

ジョイス・キルマー「樹」

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       樹

  思うに、樹のように美しい詩を

  見ることはついになかろう。

  甘い乳の流れる大地の胸に、

  飢えたるその口に押しあてる樹、

  日もすがら神を見上げて

  葉の多い腕をさしあげ祈る樹、

  夏にはその髪にこまどりの

  巣をかけることもある樹、

  その胸に雪がよこたわり、

  雨となかよく暮らす樹、

  詩は私のような馬鹿が作るが、

  神さまのみが樹をつくり給う。

    ジョイス・キルマー(1886-1918)は、ニュージャージー州で生まれ、将来を嘱望されながら、第一次大戦で戦死したアメリカの詩人。詩集に「愛の夏」(1911)、「樹木」(1914)など、評論集に「サーカス」(1916)などがある。

ブラジル移民100年

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   アリアンサ移住記念館

   北原地価造の住居跡(昭和4年頃)

   明治41年4月28日、水野龍を団長とする第1回ブラジル移民団、170家族、792人は「笠戸丸」で神戸港を出港、6月18日、サントス港に到着した。明治43年には第2回移民団が旅順丸に乗って247家族、909人がブラジルに渡った。日本人のブラジル移民は今日でちょうど100年を迎える。いまやブラジル日系社会は150万人を超え、成長著しいブラジル社会の支えとなっている。

   第1回芥川賞受賞作品の石川達三「蒼氓」が発表されたのは昭和10年のことだった。

   神戸三宮の「国立海外移民収容所」。ブラジル移民として全国各地から集まってきた家族たちの、昭和5年3月8日から15日までを描く。移民団を構成するのは、落葉のように掻き集められてきたものばかりである。気後れしながら移民収容所の受付をくぐる。待合室にあてがわれた倉庫には、秋田から来た貧農出の姉弟佐藤夏と孫市がいる。夏は、堀川との恋愛をあきらめ、門馬勝治を形式上の婿にして、孫市のためにブラジル行を決意した。孫市は、兵役をまぬがれるために移民の群れに投じたのか、「俺は忠義でねって言われるくれえだら、ブラジルさ行かねつもりだ!」とつっぱねる。貧しい日本での生活に追われてのものなのである。再渡航の堀内は本当のブラジルを知っている。ところが移民たちは、トラホーム、栄養不良など、体格検査で不合格になり、乗船許可のおりなくなることを気にかけている。話にきいたブラジルのいいところだけを空想しているにすぎないのだ。ロンドン軍縮会議、現職文部大臣の連座した疑獄事件にいたるまでにも、東京市会議員疑獄、私鉄疑獄、合同毛織事件、樺太山材事件とうちつづいている。こんなうそむさい日本のことは、もう知らないのに限るというのが堀内だった。最後の日の8日目、15日に900余名の移民集団の乗船した、ら・ぷらた丸は神戸港を出航した。(引用文献:今村忠純「日本名作事典」平凡社)

2008年4月27日 (日)

明六社と森有礼

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 明六社は、明治6年7年にアメリカから帰国した森有礼(1847-1889)が、西洋文明諸国にあるような啓蒙活動の団体(学会)の設立を西村茂樹にはかり、ついで西周、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、神田孝平、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、杉亨二らの賛同を得て発足した。初代社長は森有礼で、会員は30名、社員は主として開成所出身の洋学者であった。翌年3月から機関誌『明六雑誌』を発行し、また毎月講演会を開き「一日も早く日本国民を文明開化の門に入らしめん」とし、西洋の事情を明らかにし、新旧思想の混乱に指針を与えた。だが、明六社の創設者の一人である森有礼は、明治22年、憲法発布の日、刺客・西野文太郎(1865-1889)に暗殺された。

   その後、明六社は明六会(1875-1879)となり、東京学士会院(1879-1906)、帝国学士院(1906-1947)を経て、日本学士院(台東区上野公園7-32)へと至る流れの先駆をなした。日本学士院・現在の院長は、久保正彰である。

2008年4月26日 (土)

夏目漱石「こころ」

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日活映画「こころ」(昭和30年)森雅之・新珠三千代

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

    私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)

泉鏡花「婦系図」

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   泉鏡花(1873-1939)は明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

            *

   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。

「青春の門」と早稲田大学

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    誰もが一度は通り過ぎる、しかし唯一度しか通ることの許されぬ青春の門。五木寛之といえば「青年は荒野をめざす」「さらばモスクワ愚連隊」「風に吹かれて」「蒼ざめた馬を見よ」などあるがやはり大河小説「青春の門」が代表作であろう。そして尾崎士郎の「人生劇場」青成瓢吉とともに、伊吹信介は早稲田の学生であり、五木寛之と早稲田大学という印象も強い。近年は宗教や哲学的な著作が多く、平成16年には「仏教伝道文化賞」を受賞している。最近ある本で、五木寛之と石原慎太郎はともに昭和7年9月30日の生まれだと知る。同世代で対照的な二人の作家への興味はつきない。

    五木寛之は生後まもなく朝鮮に渡り終戦を迎え、混乱の中、母を失い、数々の困難を経て、昭和22年に日本に帰国する。この苛酷な体験が、作風に大きな影響をあたえているのであろう。ただ多くの作家は自伝的な作品を残すが、五木にはあまりに苛酷なものであるためか少年期の自伝的なものはないという。昭和27年に早稲田大学露文科に入学したものの、授業料が払えず、心ならずも早稲田大学を去る。このとき五木は大学の事務から、抹籍願を書いて渡した。五木は、作家になってからもずっと、「早稲田大学抹籍」だと言い続け、書いてきたが、まわりが勝手に「中退」と解釈していた。ところがあるバーティーで、一人の銀髪の品のいい紳士に会う。その人は早稲田大学の総長だった。「校友会に入ってほしい」と言われ、「いや、私は授業料を滞納して早稲田は抹籍になっていますから、入る資格なんかないんです」と説明すると、「今ならお払いいただけるでしょうか」と言う。すぐに、大学の事務局から請求書が来た。その日に払い込んだら、「今日からあなたは正式に中退です」と連絡があった。それ以後は、「早大中退」と書けるようになったという。

                   *

    伊吹信介は、筑豊の炭鉱夫伊吹重蔵の息子として生まれた。信介は義母のタエに育てられるが、彼はタエを母としてだけではなく女として愛した。父は、坑道に生き埋めになった坑夫を救うために死んだ。終戦は、信介が国民学校4年の時だった。母と子は重蔵の遺言で、飯塚のやくざ塙竜五郎の世話になることになった。が、まもなくタエは病死してしまう。早稲田大学に合格した信介は、幼なじみの牧織江や竜五郎をあとに、上京していく。大学に入った信介は、演劇青年の緒方の下宿にころがり込み、娼婦のカオルと知り合ったりする。信介は授業にはほとんど出ず、アルバイトや売血、ボクシング等をして暮らしていた。人生の目的を探すために大学を入った信介は、緒方の演劇活動に参加し、北海道に渡る。だが、働きながら芝居をつくるという緒方の意図は、結局失敗してしまう。信介は札幌でしばらく織江と同棲していたが、もう一度大学に戻ることを決心する。織江は歌手としてスカウトされ、信介から離れて行く。上京した信介は政治運動に参加するが、ここでひどい挫折感を味わい捨てばちな気分に陥っていく。織江は老作詞家宇崎秋星と知り合い、レコード歌手としてのチャンスをつかんだ。一方、自堕落な生活を送っていた信介は、竜五郎が大けがをしたことを知り九州に帰る。しかし竜五郎は、けががもとで死んでしまう。再び東京に来た信介は、ふとしたことから実業家林三郎と知り合い、彼の書生となり新しい出発を決意する。林家に来て2年半が過ぎた。信介は、林三郎から将来を嘱望されていた。そんな折、思うようにヒット曲の出ない織江が、最後のチャンスに賭けるため、信介にマネージャーになってくれないかと申し出てきた。いろい迷った末、信介は織江に協力することにする。北海道で知り合ったアナキスト丸谷玉吉が、東京山谷で車にひかれて死んだ。信介は北海道江差に行き、納骨する。信介は、立原襟子を知り好きになるが、函館でレポ船団に戦いを挑んでいる元新聞記者の西沢洋平と再会し、ひょんなことからハバロスクへ旅立つ。ハバロスクに着いた信介と西沢らは、シベリア独立計画にからみ収容所に送られそうになったが、西沢の友人、伊庭敬介に助けられた。信介は西沢らと別れ、パスポートもないまま、恋人アニョータとともに、ポーランドに向け旅に出ようとする。

スーパーマンの悲劇

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弾よりも速く、力は機関車よりも強く

高いビルも、ひとっ飛び

空を見ろ!

鳥だ!

飛行機だ!

いや スーパーマンだ!

そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。

    地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月、謎のピストル自殺を遂げた。

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 「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。

2008年4月24日 (木)

ゴッホ「聖書のある静物」

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     開かれた聖書のある静物 

      ゴッホ  1885年4月   ヌエネン

    読める文字の書き込まれた本が画面に登場してくるゴッホの最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されている「開かれた聖書のある静物」である。この聖書はゴッホの父が所有していたもので、使い古されている。その年、父は死んだ。火の消えたろうそくは父の死を象徴している。父の死の床に、うなだれたゴッホは、ぽっつりと一言いった。「死ぬのはつらい。しかし、生きることは、もっとつらい」と。手前の小さな本は、ゴッホの愛読書、ゾラの「生きる喜び」である。開かれた聖書は、文字からイザヤ書53章であることがわかる。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちに彼を軽蔑し、無視していた

彼が担ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

   (「イザヤ書」第53章3節、4節)

   ゴッホは聖書の「イザヤ書」を開いて何がいいたかったのであろうか。「イザヤ書」第53章全体は、われらすべての「悲しみとなやみ」を担い給う人の子についての預言である。それは当然、救主としてのキリストのイメージにつながると同時に、人々から「侮られ、すてられ」ていたと感じていたゴッホ自身の姿でもある。ハーグで同棲していた娼婦シーンとの結婚問題で、ゴッホは家族から反対され、「軽蔑され、人々から見捨てられ」たと感じたに相違ない。ゴッホがシーンを描いた石版画「悲しみ」には、英語ではっきりと「Sorrow」の文字が書き込まれている。

ゴッホ「黄色い本」

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      黄色い本  パリ  1887年秋

    画家が静物画の対象として花や果物を描くことはよくあるが、本そのものを描くことはあまりない。ただ一人ゴッホだけは画面の中に本を描き出した作品をかなり残している画家である。そして、その中には、標題その他の文字が読めるように描いてあるものも少なくない。ゴッホはどのようなメッセージを残したかったのだろうか。「黄色い本」と題する作品は、文字としては読めないが、標題があるといことはわかるように描かれている。この作品は、パリに来てから学んだ新印象派のいわゆる点描画法に近い様式で描かれている。1888年3月、この作品を預かっていたテオがアンデパンダン展に出品しようとした時、ゴッホはわざわざアルルからテオに「もし出品するなら、パリの小説本、という題名にしてほしい」と、注文をつけている。ゴッホはかなりな読書家で、バルザック、ゾラ、モーパッサン、フローベル、ゴンクール兄弟などを愛読していた。当時の社会において、これらの「黄表紙本が堕落したものとして、いささか疑わしい眼で見られていたことを考えると、ゴッホはあえて敬愛する作家たちの作品を、少しも隠そうとはせず、「レモン・イェロー」を使った色彩の象徴主義の萌芽を見ることができる。黄色に「生命の燃焼」と「生きる喜び」を求めようとするゴッホの決意を読み取ることができるであろう。

2008年4月23日 (水)

礼文島、北のお花畑

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            地蔵岩を望む(礼文町)

  日本最北端の有人島、礼文島。面積81.33k㎡。人口3856人。島名はアイヌ語の「レブンシリ」(沖の島)に由来するという。5月下旬から8月頃、見事な高山植物や花畑を見ることができる。レブンウスユキソウ、レブンアツモリソウなど貴重な固有種も多い。澄海岬(スカイ岬)から見る海はエメラルドブルーで、沖縄に匹敵する蒼さである。地蔵岩、元地海岸などの景色も美しい。礼文島から利尻島の利尻山が良く見える。

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2008年4月21日 (月)

プロレスラーになった逃亡者

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   東京オリンピックが華やかに行なわれていた頃、日本の奥様方は今でいうヨン様の「太王四神記」のように、ひとりのアメリカ俳優のドラマ「逃亡者」を夢中になってみていた。デビッド・ジャンセンという中年の渋い俳優だった。それまでアメリカ人といえば陽気なヤンキーというイメージがあったが、無実の罪をきせられたリチャード・キンブルは物静かで理知的で、いつも孤独な影がある、そこが母性本能を刺激したようだ。睦五郎の吹き替えも女心を酔わせた。

    リチャード・キンブル。職業、医師。正しいかるべき正義も時として盲しいる事がある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる、執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、現在を、今夜を、そして明日を生きるために。

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   矢島正明のナレーションが始まるとテレビの前に釘づけになった。妻殺しの片腕の男を追うキンブルと、キンブルを追うジェラード警部の、二つの逃亡・追跡劇がサスペンスを盛りあげる。これまで日本で放送されたアメリカのテレビは西部劇中心だったが、「逃亡者」は、長距離バスや列車、田舎町、ドラグストアなどアメリカの現代社会を知るうえでも役立ったドラマだった。最終回、キンブルが片腕の男を追いつめ無人の遊園地でのシーンは全米でもテレビ史上最高の視聴率をマークしたという。

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    ところで、「逃亡者」リチャード・キンブルには実際のモデルがいる。1954年7月4日、オハイオ州クリーブランド郊外の自宅で医師のサム・シェパードは妻マリリン・シェバードを殴り殺した罪で有罪を宣告された。1966年11月16日、無罪となった。翌年12月に医師免許の復活を認められたが、医療事故を起こして廃業。その後、45歳のサムはなんとプロレスラーに転向、初戦を勝利で飾った。コリーン・ストリックランドという20歳の女性とも再婚したが、その半年後の1970年4月6日、急死した。

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わたし作る人、ぼく食べる人

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    ハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。

「今なんどきですか?」

「ハイ、ラーメンどっきっよ!」

そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。

「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。

   このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割をより定着させるもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、CM中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。

周恩来と魯迅

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   周恩来と魯迅とは遠く共通の祖先をもつ親類であった。周恩来(1898-1976)は江蘇省淮安で生まれた。しかしその祖父は浙江省紹興から移住してきた家系であり、周家は代々紹興に住む名家であった。「阿Q正伝」などの作品で知られる魯迅(1881-1936)も本名を周樹人といい、紹興であることから、従来から魯迅・周恩来の親類説は存在した。近年の調査によれば、周恩来の出た保祐橘(地名)の周家が本家筋に当たり、魯迅の出た周家は分家筋に当たるという。両家の共通の先祖である周澳から数えると魯迅は第20世代、周恩来は第21世代になる。近年、浙江省上虞で発見された清代に編纂された家系図「天楽周氏宗譜」などの史料によれば、二人の共通の祖先は北宋の儒学者・周敦頤(周濂渓、1017-1073)であることが確認されたという。

2008年4月20日 (日)

山口百恵不死鳥伝説

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    昭和48年ひとりの14歳の少女が歌手としてデビューした。山口百恵である。昭和55年10月日本武道館で引退コンサートまで、8年間、1970年代を疾風の如く駆け抜けた。「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)と評されるほどに、芸能活動を一切行なわなくとも不死鳥のようなスターとしての存在感は今や伝説となっている。

    昭和47年12月、「スター誕生」決勝大会で牧葉ユミ「回転木馬」を歌った山口百恵は、昭和48年5月「としごろ」でデビュー。続く「青い果実」「ひと夏の経験」のキワドイ歌詞で注目されるようになった。昭和48年ではまだライバルたちとは横一線であった。画像は、左から菅原昭子、百恵、森昌子、藤正樹、桜田淳子である。菅原昭子は「17才の行進曲」、森昌子は「せんせい」、桜田淳子「天使も夢みる」でそれぞれデビューした。百恵の最大のライバル、桜田淳子はメリハリのきいた明るい歌声で「花物語」「三色すみれ」「黄色いリボン」「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」「夏にご用心」「気まぐれヴィーナス」とヒットを連発させていた。百恵は映画「伊豆の踊り子」が興行的に成功し、テレビ「赤いシリーズ」も高視聴率をマークした。東大生が「山口百恵を守る会」を発足した話題も人気向上に貢献したであろう。芸能界で売れる、売れないは紙一重の違いであろう。演歌の菅原昭子は歌唱力もあり美人だったが、売れなかった。あゆ朱美(「ギターをひいてよ」「小さなブランコ」)も売れなかったが、のちに戸田恵子として声優、女優として成功をおさめた。小林美樹(「人魚の夏」)も人気はありながらヒットに恵まれず、アナウンサーに転身した。麻丘めぐみの実姉の立木久美子(「思い出のカルチェラタン」)も山口百恵の「青い果実」と同時昭和48年9月にリリースしたが売れなかった。スタ誕出身者では、最上由紀子(「初恋」)、松下恵子(「花嫁の父」)、三橋ひろ子(「私の花言葉」)、堺淳子(「祭りの想い出」)、そして百恵に勝利したシルビア・リー(「霧のエトランゼ」)、すべて玉砕した。百恵のライバル・マッハ文朱(「花を咲かそう」)も女子プロ界でスターとなったが、百恵に敗れたタレントといえるであろう。百恵・淳子の戦いは、淳子が少女歌手から大人女性への転身を図るため中島みゆきの曲を歌う頃から、アイドル性を喪失してファンは少しづつ離れていったように思える。平成4年に結婚し、結局二人は主婦という同じ道を歩むことになる。百恵にとって淳子は最大のライバルであったであろう。「淳子ちゃんは、正しいと思ったことは、私たちにとって鬼より怖いプロデューサーやディレクターにも堂々と意見を言った。淳子ちゃんは誰がなんと言おうと自分のペースで成長してきたけど、私は周囲に無理矢理大人にさせられたようで、そんな私を淳子ちゃんにだけは見られるのがいやで、いつも淳子ちゃんを意識していた」と雑誌のインタビューに百恵は語った。

安保闘争と炎加代子

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    昭和35年は安保闘争の年である。炎加代子という女優はこの時代を象徴している。当時、学生たちの間では既存の権威を否定してかかる「ナンセンス」という言葉が流行った。炎加代子が出演した作品にも安保闘争を描いたものが多い。「乾いた湖」(篠田正浩監督)では学生運動の闘士・下条卓也(三上真一郎)が大衆運動を軽蔑し、「デモなんかくだらない!革命だ」と叫ぶ。「太陽の墓場」(大島渚監督)では炎加代子は大阪の釜ヶ崎の女を熱演した。実生活では共演の若手男優と心中未遂を起こして、すぐに映画界から消えたが、少年たちに強烈な印象を残した女優である。ある雑誌の対談での発言「セックスしている時が最高よ」と語ったことからたちまち流行語となった。それは安保という政治的な時代の中で、ひたすらセックスという私ごとを追い求めることへの共感があったからであろう。

熱血柔道漫画全盛の頃

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   日本のアニメや漫画が世界で高く評価され、最近では美術館でも昔の漫画が展示されることが珍しくない。ケペルが幼い頃、まだ文字が読めない前から漫画を見ていた。市場内にある二軒隣りの本屋は新刊と貸し本の漫画を置いていた。一日10円であった。「少年」「少年画報」「冒険王」といった月刊誌の最新号も借りてほとんど読んだ。好きなのは、手塚治虫「鉄腕アトム」(少年)、横山光輝「鉄人28号」(少年)。これらロボット漫画、科学漫画はテレビ化される前から、当時の少年に圧倒的に人気があった。「赤銅鈴之助」(少年画報)よりスマートでカッコよかった。桑田次郎の「まぼろし探偵」や「月光仮面」などのヒーロー物も人気があった。しかし、空想科学漫画やヒーロー物よりも人気があったのは、スポ根ものである。スポ根という言葉は1970年代の「巨人の星」「あしたのジョー」で生まれた言葉で、当時はなかったが、「熱血柔道漫画」というジャンルが存在しており、ライバルとの対決、友情、貧困、根性、涙、などの要素はすでに揃い、スポ根漫画の元祖は、おそらく福田英一の「イガグリくん」(冒険王)といっても過言ではない。このほか田中正雄の「ダルマくん」(少年)、下山長平の「イガグリくん」(少年画報)が人気があった。当時、おそらく手塚治虫より福田英一のほうが人気があったと思う。NHK番組で手塚本人が出演して、福田を最大のライバルだと言っていたことを記憶する。日本の少年漫画が正当なる評価を受ける時代がきたように思うが、残念ながら手塚治虫以外の漫画家研究はあまりされていない。手元のコンサイス人名事典にも手塚治虫と白土三平、以外はほとんど掲載されていない。ウィキペディアの項目にも昭和30年代に活躍した漫画家にはあまりふれていない。単行本化されていない作品も多く、当時の記憶もうすれていくであろう。もっと早い段階で公的な漫画図書館を各県に設置しておればと悔やまれる。

背くらべ

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 柱の疵は 一昨年の

 五月五日の 背くらべ

 粽たべたべ 兄さんが

 計ってくれた 背の丈

 昨日くらべりゃ 何のこと

 やっと羽織の 紐の丈

       *

 柱に凭れりゃ すぐ見える

 遠いお山も 背くらべ

 雲の上まで 首出して

 てんでに 背伸(せのび)してゐても

 雪の帽子を 脱いでさへ

 一はやっぱり 冨士の山

 詩人・海野厚(1896-1925)は明治29年、静岡市曲金に生まれ、早稲田大学に学んだ。俳人の渡辺水巴に師事し、鈴木三重吉、会津八一、竹久夢二、中山晋平らと親交し、「おもちゃのマーチ」その他多くの作品を発表した。大正14年、肺結核を病み、東京・目黒で寂しく他界した。

鯉のぼり

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 甍の波と 雲の波

 重なる波の 中空を

 橘かをる 朝風に

 高く泳ぐや 鯉のぼり

     *

 開ける広き その口に

 舟をも呑まん さま見えて

 ゆたかに振るふ 尾鰭には

 物に動ぜぬ 姿あり

     *

 百瀬の瀧を 登りなば

 忽ち龍に なりぬべき

 わが身に似るや 男子(をのこご)と

 空に踊るや 鯉のぼり

2008年4月19日 (土)

宇治は茶どころ縁どころ

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あれに見えるは茶摘みじゃないか 茜襷に菅の笠

萌えるお茶の芽もえたつたすき 唄に明けゆく宇治の里

宇治は茶どころ茶は縁どころ 娘やりたや婿ほしや

今年やこれきりまた来る春は 八十八夜のお茶に逢う

主は焙炉でこがれていよと わたしや茶園でうわの空

神に一心お茶にはニしん かけてみやんせキッと利く

ことしお茶にはあかねのたすき 今度五月にや黒だすき

宇治の里から貰うた嫁は 茶つみ上手で唄上手

人の手前で薄茶じやけれど 主の濃茶で目をさます

こよい庚申濃茶をのんで 話明かそか主さんと

ぬるいお茶でもお前の手から ついで貰えばあつくなる

朝の茶の湯に茶柱立って 運の開きか花が咲く

2008年4月18日 (金)

ヒッピーが住みついた火山島

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              現在も活動を続ける御岳

   火山国日本に火山は多いが、常に活動している活火山は少ない。鹿児島県南部、トカラ列島の中部にあるスワノセ島(諏訪之瀬島)は現在も最も活発な活火山である。文化10年(1813年)に大噴火を起こし、その後70年間、無人島となった。明治16年頃、藤井富伝が入植をはじめ、人が住むようになった。ほとんどの住民が奄美大島などからの移住者だった。島の周囲は海食崖に囲まれ、十数個からなる小集落が南部の台地にあり、自給的な畑作と牛肉飼育をおこなっている。戦後になって、人口の減少が著しく、とくに若年層の流出が続いた。ところが昭和42年に都会からヒッピーといわれる若者がやってきた。島民たちとさまざまなトラブルを起こしながらも、若者は島の生活において重要な働き手となっていった。そしていつしか島にあたらしい文化を根付かせている。「バンヤン・アシュラム」というスワノセ・コミューン(共同体)で、漁師をしながら詩作を続けるナーガ(長沢哲夫)もその一人である。

2008年4月17日 (木)

平和五原則とチベット問題

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   北京五輪の聖火リレーがインドの首都ニューデリーで警察の厳戒態勢下、行なわれるといニュースを聞く。インドには約10万人の亡命チベット人がいるという。チベット問題にはほとんど無関心であったが画像の写真で興味がでてきた。インドの首相ネルーが北京へ行き、周恩来と会談し、共同声明「平和五原則」を発表したのが1954年4月29日である。つまり、領土・主権の相互尊重、対外不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和的共存である。学校の社会科の授業では平和五原則はいかにも国際平和に寄与するもののように学んだが、これはインドと中国という大国間の平和共存であって、小国のチベットにとっては悲劇の始まりであった。この会談の真のねらいは「中国チベット地区とインドとの間の貿易及び交通に関するインド共和国と中華人民共和国との間の協定」を締結することであった。そして平和五原則の一項、内政不干渉により、中国はインドに気にすることなくチベットへの圧政をすることができるようになった。1959年3月10日、チベット民族蜂起、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。そもそもチベットは人民中国の支配以前から固有の文化、歴史、民族を有するチベット人が独立主権国家を形成していたことは、1913年のモンゴルとの蒙蔵条約、1914年のイギリスとのシムラ条約などからも立証されている。ただ国際連合に代表をもたなかったため世界各国が中国の侵略をたやすく容認してしまったのが遠因となって続いている。

2008年4月16日 (水)

汽車のひびき

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                  余部鉄橋を渡る機関車C57形

      汽車のひびき         近藤東

汽車はひびきをたてて

走っていく

汽車は遠くからやってきて

また遠くへ走っていく

汽車は遠くの町や村の話を乗せ

遠くの町や村へ運んでいく

汽車のひびきは汽車のことば

汽車は一生けんめい話をするが

私たちにはそのことばはわからない

わかればどんなにおもしろいであろう

わかればどんなにめずらしいであろう

汽車よ私たちもどこかへ

乗せていっておくれ

そういって私たちは汽車によびかける

すると汽車は答えるように

汽てきを鳴らす

そしてひびきをたてて走っていく

2008年4月15日 (火)

レオポン誕生

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   甲子園阪神パークは昭和4年「甲子園娯楽場」が前身で、昭和7年に「阪神パーク」と改称した。遊園地であるが、戦後ライオンとヒョウを交配した雑種「レオポン」誕生で一躍、動物園として有名になった。昭和34年11月に2頭、昭和35年6月に3頭のレオポンが誕生した。このような存在しない珍種を狙った異種交配に対してはのちに批判も出てきた。現在では生命倫理の観点からも、動物の個体管理が必要であり、人工的に異種交配をする動物園はないかもしれない。(中国でライオンとトラとの交配によるライガーがいるというが)戦後、阪神パークの動物園としての不十分な設備のため、様々な動物たちを雑居家族として住まわせていたことと関係するであろう。昭和31年の「動物園への招待」(アサヒ写真ブック32)に次のような記事が掲載されている。

   甲子園の阪神パーク動物園のサル山には次の動物が一緒にすんでいる。アカゲザル6頭、タヌキ2頭、キツネ2頭、イノシシ1頭、山羊1頭、犬2頭、猫3頭であるが、これはおどろくべきことである。しかし各々その個性がちがうらしく、同じ猫でも猿にいじめられて水にほうり込まれるのもあれば、猿と仲良しになってノミとりをしてもらっている白猫もいる。もしこの猿山で生死をかけた闘争がおこなわれるとすれば、それは猿同士がその王位をかける勢力争いであろう。

   阪神パークでは園長の土井弘之や飼育担当の近藤義一郎らの努力で世界でも珍しいレオポンの誕生に成功したのは、昭和34年11月3日のことであった。だがレオポン5頭も昭和60年にはすべて亡くなった。平成14年、元園長の土井弘之も87歳で亡くなり、翌年3月、阪神パークは閉園した。

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   ヒョウを抱く土井園長(昭和31年頃)

2008年4月14日 (月)

矢作橋

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   日吉丸は尾張から三河へ行く途中、木綿布子をぬう大針を安く買いこみ、これを行くさきざきで売り、飯代や草鞋銭にあてた。夜は、こもをかぶって矢作橋の下で寝ていた。そして武将となった自分の夢を見ていたが、夜なか、数頭の馬蹄の音に目をさます。野武士めいた身ごしらえの男たちが、日吉丸の頭のそばを馬で通り過ぎていく。寝ていた日吉丸は、野盗のかしら蜂須賀小六に蹴とばされた。怒った日吉丸は、小六の槍をつかんで、「無礼者!」と怒鳴った。

   大きな声に驚いた小六は、「こんなところに、山猿がおる」と笑った。「おもしろそうなやつ。だが、猿め、三日のうちにわしの刀を盗むことができたら、使うてやろう」という。日吉丸は、三日めの雨の夜、軒先にかさを立てかけておき、いかにもしのび寄ってたたずんでいるかのようにみせて相手をゆだんさせ、そのすきをねらって刀を盗んだ。小六はその才知に舌を巻いた。

   その小六が、のちには羽柴秀吉(日吉丸)の部下になるのだから、人の運命というのはまったくわからない。

忘れがたき人人

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  葡萄色(えびいろ)の

  古き手帳にのこりたる

  かの会合(あいびき)の時と処かな

          *

  かの声を最一度聴かば

  すっきりと

  胸や霽(は)れんと今朝も思える

          *

  君に似し姿を街に見る時の

  こころ躍りを

  あわれと思え

          *

  時として

  君を思えば

  安かりし心にわかに騒ぐかなしさ

          *

  わかれ来て年を重ねて

  年ごとに恋しくなれる

  君にしあるかな

          *

  さりげなく言いし言葉は

  さりげなく君も聴きつらん

  それだけのこと

          *

  かの時に言いそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど

               (石川啄木「一握の砂」)

花を持つ少女

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      花を持つ少女   木炭と水彩、紙

   フランス近代絵画の肖像画・風俗画において、「美しい女性こそ最高の美である」という理念がサロンでは主流であった。印象主義及びそれに続くさまざまな運動の高まりの中でサロンの画家たちは美術史の中で軽視されていくが、最近見直しされる傾向にある。

    フリッツ・ツベル=ビューレル(1822-1896)。スイスの肖像画家、風俗画家。ルイ・グロクロード、ピコの弟子。美術学校で学ぶ。1850年からサロンに出品し始める。ベルヌ、ル・ロクル、モンペリエ、スシャテルの美術館に作品が収蔵されている。

手套を脱ぐ時

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 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやわらかき庭の草かな

          *

  あたらしき木のかおりなど

  ただよえる

  新開町の春の静けさ

          *

 ゆえもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたえがたき日に

      ( 「一握の砂」  石川啄木)

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初夏の山野を彩るレンゲツツジ

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          富士山を背景に咲く甘利山のレンゲツツジ

   橙色の花と薄緑色の葉が輪状に並び、豪華な雰囲気をかもしだすレンゲツツジは、日本を代表するツツジの一種。北海道から九州まで広範囲に自生し、山野を鮮やかに染め上げるが、その花色は、北にいくほど濃さを増していく。江戸時代までツツジには毒性があると信じられてきた。しかし、毒をもつツツジはほんの一部で、そのひとつがレンゲツツジである。根にはスパラッソル、花にはロードヤポニンなどの有害物質を含むため、家畜の食害から逃れてきた。こうしたレンゲツツジは、きわめて強いその耐寒性と、毒によって日本の山野に生き続け、華麗な花姿を自ら守り抜いてきたともいえる。甘利山(山梨県韮崎市)のレンゲツツジの花は真っ赤で、盛りの6月になると、麓から赤く燃えるような山肌が眺められる。そして富士山がはるか上に浮ぶ景観はみごとである。

   群馬県西部、長野県に隣接する鹿沢・湯の丸高原(吾妻郡嬬恋村)には60万株のレンゲツツジが6月から7月上旬になると見られる。青森県の八甲田山に群生するレンゲツツジも色鮮やかに新緑の野山を染めている。

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                             八甲田山のレンゲツツジ

2008年4月13日 (日)

韓国花茶物語

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 ヘンリー・ジェイムズ(1843-191)は、午後のお茶のひとときを次のように書いている。

 その時の事情にもよるが、午後のお茶と呼ばれている儀式に捧げられたひとときほど気持ちのよいときは、この世にはめったにないものである。お茶を飲もうが飲むまいが、もちろんけっして飲まない人もいるのだが、お茶どきの雰囲気がそれだけ楽しいといった場合があるのだ。(「ある婦人の肖像」)

 イギリス式の紅茶、あるいはハーブ・ティーを、自宅の庭などの自然の中で楽しんでいる様子がうかがえる。そして、お茶の香りに加えて、美しい花の香りも楽しめたら最高に気持ち良いことだろう。

    ところで、お茶に、何か別のものを加えて飲む楽しみ方は、世界各地にあるようだ。中国の花茶は、花だけに湯を注ぐ方法のほか、烏龍茶や緑茶などと花をブレンドする方法もみられる。有名な花茶といえばジャスミン茶だが、元の時代にはハス、ラン、バラなどの花が好まれた。またインドや中近東では紅茶にしょうが、シナモン、クローブ、カルダモンなどのスパイスを加える習慣がある。モロッコでは、厚手のコップに新鮮なミントの葉をたっぷり入れて熱い紅茶を注ぎ、砂糖を多めに入れて飲むスタイルが知られている。

  ここで紹介する韓国の花茶は「目と香りと味で楽しむ」朝鮮時代の貴族たちが嗜んだ風流を楽しむものであった。貴族たちは移り行く季節の折々、花茶を嗜み、詩を詠み、彼らだけの世界に耽ったものだった。花茶の製造法については、18世紀の生活百科「閨閣叢書」に梅茶のことが載っている。ホ・ジュン(1546-1615)が書いた医学書「東医宝鑑」にも「むくげの花を茶にして飲めば風邪に良い」とあり、花茶が薬として紹介されている。19世紀には花を使った料理が多様になり、「是議全書」には、バラやツツジの花菜や、蜂蜜水に松の花粉を入れた松花蜜水などが載っている。花は春、夏、秋、冬、季節の野の花を使う。かすかな色と小さな花びら。一般的なものは、菊茶、蘭茶、蓮茶、芍薬茶などである。生きた花びらでお茶を淹れる方が見た目には美しいが、味が良いのはやはり花びらを乾燥させて淹れたお茶である。

   菊茶の作り方

1.菊は茎を捨て、花だけ摘み取り流水で洗う

2.湯気の立つ蒸し器に菊を入れて蒸す

3.ザルに取り、互いがくっつかないように並べ、日陰に干す

4.茶器に干した菊を10輪ほど入れ、お湯を注ぐ

望郷の月、阿倍仲麻呂

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    養老元年、阿倍仲麻呂(698-770)は遣唐使多治比県守の船で、吉備真備らとともに入唐した。ときに16歳であった。当時、唐は玄宗皇帝の代で開元の治がおこなわれ隆盛をきわめていた。彼は唐にとどまり中国名を朝(晁)衡と名乗って玄宗に仕えた。盛唐の詩人・李白や王維らとも交遊した。唐朝に仕える生活は、憧れの先進国で重んぜられるという、めったなことでは日本人が味わえなかった経験を彼に与える快い歳月であったことであろう。しかし齢50歳を越えた仲麻呂は懐郷の念おさえがたく、帰朝することになった。天平勝宝5年、遣唐使藤原清河らとともに鑑真に会い来日を促し、自らも帰国しようとしたが、海上で暴風雨にあい、船はちりぢりに流され遭難する。仲麻呂らの遭難を受けた李白は悲しんで「晁卿の行を哭す」という七言絶句を作った。

 日本ノ晁卿帝都ヲ辞ス

 片帆百里蓬壷ヲ繞ル

 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ

 白雲秋色蒼梧ニ満ツ

    阿倍仲麻呂の船は安南に漂着した。再び清河らと唐に戻る。仲麻呂は帰国を断念して、鎮南都護安南節度使(正三品)にすすみ潞州大都督をおくられ、宝亀元年、唐土で没した。年70歳。

 天の原ふりさけ見れば春日なる

      三笠の山にいでし月かも

(通釈)大空をはるかにふり仰いで見ると、月が美しく出ている。ああ、あの月は春日の三笠山に出た、あの月なのだなあ。

ハリス・フーセンガムと恵とも子

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    いま50歳以上の男性ならば、この懐かしいアイドル・タレントの名前を半数近くの方は知っているだろうし、50歳以下ならばほとんど知らないだろう。現在のようなグラビア・アイドルの位置が確立していない時代、男の子の記憶に残る永遠の青春スターであった。

    恵とも子。昭和24年生まれ。アメリカ人の父を持つハーフ・タレント。茶色の髪に青い瞳が可愛い。昭和38年に東京音楽院に入学、スクール・メイツの一員として音楽番組に出演。明星スター・パレードのマスコットガールになる。太田博之との「プラチナ・ゴールデンショー」の司会や映画「てなもんや幽霊道中」「東京市街戦」「陽のあたる坂道」に出演。レコードは昭和40年「ピンクの口紅」(「なぜか教えて」)、「大人の匂い」(花のおしゃべり」)。渡辺プロに所属し、テレビ出演も多数ある。昭和40年、41年、42年と雑誌のモデルとしても活躍する。「明星」の昭和41年1月号は橋幸夫、恵とも子である。2月号が舟木一夫、吉永小百合であるから、当時全盛だった吉永を抑えての正月号の登場であった。プロマイドの売り上げもローティーンの男子に人気があったので吉永に匹敵していたと思う。カネボウハリスはフーセンガム広告に恵とも