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2008年4月29日 (火)

今宵もダイアン・レーン

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    今宵もBSでダイアン・レーン主演の「理想の恋人.com」を見る。離婚したばかりの幼稚園の教諭サラ・ノーラン(ダイアン・レーン)は落ち込んでいる。姉のキャロル(エリザベス・パーキンス)はサラになりすましてインターネットの恋人募集サイトに無断で登録する。「当方、グラマーでユーモア抜群。愛犬家に限る」まもなくサラは殺到する恋人候補とのデートで大忙しになる。なんと50歳といっていた男は、サラの父親の71歳のビル(クリストファー・プラマー)だった。悲惨な初デートの連続の中で、サラが気になる男性が一人だけ。ボートの設計者のジェイク(ジョン・キューザック)だ。ビルからジェイクの本当の気持ちを知ったサラは真実の愛を自ら進んでつかむ。ネットで見つけた理想の恋人探しをロマンチック・コメディとしてまとめている。

    40歳を越えて主演作品が続くダイアン・レーン。思えば、80年代初頭は美少女スターが花盛りだった。ブルック・シールズ(「青い珊瑚礁」「エンドレス・ラブ」)、テータム・オ二ール(「インターナショナル・ベルベッド」「リトル・ダーリング」)、クリスティー・マクニコル(「リトル・ダーリング」)、ジョディー・フォスター(「白い家の少女」「フォクシー・レディー」)、そしてダイアン・レーン(「リトル・ロマンス」「ラスト・レター」)。ジョディー・フォスターは別格として、一番個性的ではなかったダイアン・レーンが今日までスター女優として生き残れたのは何故だろうか。それはダイアンが少女のみずみずしさを保ちながら、大人の女性としての知的なセンスを磨きあげたことに、現代女性から支持されたのだろう。映画「理想の恋人」は決して名作ではないかもしれないが、リラックスして大人が楽しめる娯楽作品に仕上がっている。ダイアン・レーンも適役である。美少女スターが年をとって老け顔になっても、年齢が魅力になって人気が回復したケースは稀であろう。

「昭和の日」雑感

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   昭和天皇のラジオ放送で、突然の敗戦を知らされた私たち親世代の気持ちはさぞかし複雑であったであろう。ある者は、「日本が負けるはずはない」「絶対にデマだ」と思い、ある者は「よかった。新しい出発点だ!」「ほっとした」と感じていた。

   しかし、敗戦は事実であり、戦争は終わった。廃墟と化した町からも、やがて、平和への願いをこめた再建のつち音が聞えてきた。

   だが、祖国のためにと信じて戦場に散った若者たち、戦争で肉親を失い、家を焼かれた人々、身一つで帰国した引揚者たち…戦争の傷あとは深かった。原爆症で今なお苦しむ人さえある。われわれは、二度と戦争を起こさず、未来の明るい幸福な社会を築くために、最大限の努力を傾けねばならない。

      *

未来の人間よ

君達こそ人間らしく生活してくれるだろう

愚かなことをくり返さずに

幸福に生活してくれるだろう

すべての人がよろこべるよう

働いてくれるだろう

         武者小路実篤

マネとベルト・モリゾ

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         黒い帽子のベルト・モリゾ

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   エドゥアール・マネ(1832-1883)の「バルコン」(1868年)に扇子をもって座っている美しい女性はベルト・モリゾ(1841-1895)である。モリゾはこれまでマネのモデルとして知られていたかも知れないが、近年は個展も開かれ、女流画家としても高く評価されるようになっている。第1回から第8回まで開催された印象派展に実に7回も出品している。モリゾの作品にはシルバー・ホワイトがなされたと思われる層の上に明るい透明に近い黄土色の薄い層を重ねて下地とした作品が多くみられ、身近な人々を女性らしいこまやかな愛情をこめて描いている点に彼女の特徴がみうけられる。

    マネは「草上の昼食」「オランピア」などで世の非難を浴びていた1858年のある日、ルーブル美術館で、リューベンスの模写をしている若くて美しい女性を、友人のファンタン・ラトゥールから紹介された。マネは彼女の漆黒の瞳とエキゾチックな容貌に魅せられた。すぐさま、モデルを努めてくれるように頼んだ。ベルトのスペイン風なエキゾティズムはマネを虜にした。「黒い帽子のベルト・モリゾ」(1872年)など1872年の7月から9月の間にベルトの肖像画が4点もある。マネとベルトとの恋の噂もあったが、1874年、ベルトは弟のウージェーヌ・マネと結婚した。ウージェーヌはベルトより8歳年長だった。健康にあまり恵まれなかったのと生来の気まぐれもあって、生涯いかなる職にもつかずディレッタントとして過ごした。モリゾは37歳で娘ジュリーが生まれた。「私の赤ちゃんは爪の先までマネです。もうこの子の叔父さまたちそっくり。私に似たところはまるでありません」と「エドマへの手紙」に書いている。ベルト・モリゾの54年の生涯は愛情に満ちた家庭と比較的恵まれた経済状態で幸福であったようだ。

逢坂関(おうさかのせき)

   逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。

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現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2008年4月28日 (月)

ダイアン・レーンはイタリアがよく似合う

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   今夜はBSでダイアン・レーンの「トスカーナの休日」(2003年)を見る。離婚を経験したアメリカの書評家(作家)フランシス(ダイアン・レーン)は、その傷心ぶりをみかねた親友からトスカーナ旅行をプレゼントされる。コルトーナで一軒の築300年の屋敷を衝動買いしてしまう。フランシスは親切な不動産屋(ヴィンセント・リオッタ)の協力で、荒れ果てた家の修復に取りかかる。フランシスの夢はこの家で結婚式のパーティーをして家族をもつことになった。シャンデリアの部品を買うためローマに出かけたフランシスは、若くてハンサムなマルチェロ(ラウル・ボヴァ)と出会い、情熱的な一夜を過ごす。その日から見違えたように輝いていくフランシス。だが、妊娠した親友が遊びに来たり、若いポーランド人の大工の純愛をサポートしたりして、マルチェロとは会えない日々が続く。ある日、フランシスは思いきって白いドレスを着てマルチェロのいるアマルフィ海岸のポジターノへ突然に会いに行く。待望の彼との再会も悲恋に終わってしまう。それでも彼女はトスカーナの太陽のもと、力強く生きていくことをちかう。

   原作はフランシス・メーズのベストセラー小説だそうだが、往年のキャサリン・ヘプバーン主演「旅情」を彷彿させるものがある。「リトル・ロマンス」(1979)で14歳でデビューしたダイアン・レーンも43歳。少女スターが大人の女優として成功することは至難であるが、ダイアンはみごと演技派として復活した。クリストフ・ランベールとの結婚、出産、離婚、ジョシェ・ブローリンとの再婚と、ひととおりの経験を経て、「パーフェクト・ストーム」(2000)ではマーク・ワールバーグの年上の恋人、「運命の女」(2002)では不倫するリチャード・ギアの妻を演じている。この「トスカーナの休日」以後も「理想の恋人.com」などロマンチック・コメディーなどの作品が好調である。

    それにしても「リトル・ロマンス」の舞台はベニスだったが、今回はトスカーナ。なぜかダイアン・レーンのお相手には明るく陽気なイタリア男がよく似合う。

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唐と吐蕃

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        8世紀後半のアジア世界

    上掲の地図は吉川弘文館の「標準世界史地図」を一部引用したものである。8世紀後半、西から吐蕃、ウイグル、唐、渤海、新羅、日本という国家が存在していたことがわかる。吐蕃とはいまのチベットのことである。

     7世紀の頃、東アジアに強大な勢力を振るった唐も、玄宗皇帝の治世を頂点として8世紀の後半から次第に衰えはじめた。安史の乱(755-763)によって、華北の要地の多くは反乱軍に奪われたが、ウイグルなどの援助で回復した。唐は節度使の軍閥化により、衰退に向かう。

    チベット西方高原にいた「吐蕃」の漢字名称は、もともとチベット族の有力部族名「発」「蕃」などの呼称に由来している。吐蕃王朝の起源は明らかでないが、その祖先はネパールの北西部からカシミールの東部チベットのカムに移動して活発となった。中央チベット南部のヤルルン(渓谷)に拠った一部が、6世紀後半に台頭して王朝の基礎をつくり、7世紀中葉、ソンツェン・ガンポ(?-649)のとき吐蕃は国力が強大となった。鮮卑族の吐谷渾(とよくこん)の没落に乗じて勢いを伸ばし、しばしば唐を侵攻したので、唐は和蕃公主として皇女・文成公主を降嫁させ、その慰撫に努めた。8世紀後半以降、吐蕃は軍事国家として、西南部の支配権を完全に握った。

   吐蕃は仏教を受容し、インド系の文字をもとにして独特のチベット文字をつくった。823年、ラサに建てられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものである。吐蕃の隆盛期は約200年にわたった。11代目のラン・ダルマが仏教弾圧してから衰退に向かった。ダルマ廃仏以後は、中央チベットの情勢は不明の点が多いが、宋代では、これをやはり吐蕃と称している。元代にも吐蕃という名称は用いられたが、それは単にチベットという地域的な名称にすぎないものとなっている。チベット独立問題、つまりチベット人のアイデンティティーの歴史的根拠は吐蕃王国にあるといえる。

ヌードのモナ・リザ

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  世界で最も有名な絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)であろう。.このルーブル美術館の至宝「モナ・リザ」には、ほかに、もう1枚の「モナ・リザ」が存在していたといわれる。ダ・ヴィンチは、肖像画を描くときはいつでも2枚以上の版を作る習慣があったためだ。だが、いま世界には60点以上も「モナ・リザ」といわれる絵画が存在するが、本物と断定できるものはない。その中でも「ヌードのモナ・リザ」は珍品中の珍品であろう。なんと上半身裸である。この絵画はイギリスのノーサンプトンシャーのスペンサー卿(あのダイアナ妃の実家)が所有している。「美女ガブリエル」といわれ、おそらくダ・ヴィンチ派の画家の作であろう。

ジョイス・キルマー「樹」

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       樹

  思うに、樹のように美しい詩を

  見ることはついになかろう。

  甘い乳の流れる大地の胸に、

  飢えたるその口に押しあてる樹、

  日もすがら神を見上げて

  葉の多い腕をさしあげ祈る樹、

  夏にはその髪にこまどりの

  巣をかけることもある樹、

  その胸に雪がよこたわり、

  雨となかよく暮らす樹、

  詩は私のような馬鹿が作るが、

  神さまのみが樹をつくり給う。

    ジョイス・キルマー(1886-1918)は、ニュージャージー州で生まれ、将来を嘱望されながら、第一次大戦で戦死したアメリカの詩人。詩集に「愛の夏」(1911)、「樹木」(1914)など、評論集に「サーカス」(1916)などがある。

ブラジル移民100年

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   アリアンサ移住記念館

   北原地価造の住居跡(昭和4年頃)

   明治41年4月28日、水野龍を団長とする第1回ブラジル移民団、170家族、792人は「笠戸丸」で神戸港を出港、6月18日、サントス港に到着した。明治43年には第2回移民団が旅順丸に乗って247家族、909人がブラジルに渡った。日本人のブラジル移民は今日でちょうど100年を迎える。いまやブラジル日系社会は150万人を超え、成長著しいブラジル社会の支えとなっている。

   第1回芥川賞受賞作品の石川達三「蒼氓」が発表されたのは昭和10年のことだった。

   神戸三宮の「国立海外移民収容所」。ブラジル移民として全国各地から集まってきた家族たちの、昭和5年3月8日から15日までを描く。移民団を構成するのは、落葉のように掻き集められてきたものばかりである。気後れしながら移民収容所の受付をくぐる。待合室にあてがわれた倉庫には、秋田から来た貧農出の姉弟佐藤夏と孫市がいる。夏は、堀川との恋愛をあきらめ、門馬勝治を形式上の婿にして、孫市のためにブラジル行を決意した。孫市は、兵役をまぬがれるために移民の群れに投じたのか、「俺は忠義でねって言われるくれえだら、ブラジルさ行かねつもりだ!」とつっぱねる。貧しい日本での生活に追われてのものなのである。再渡航の堀内は本当のブラジルを知っている。ところが移民たちは、トラホーム、栄養不良など、体格検査で不合格になり、乗船許可のおりなくなることを気にかけている。話にきいたブラジルのいいところだけを空想しているにすぎないのだ。ロンドン軍縮会議、現職文部大臣の連座した疑獄事件にいたるまでにも、東京市会議員疑獄、私鉄疑獄、合同毛織事件、樺太山材事件とうちつづいている。こんなうそむさい日本のことは、もう知らないのに限るというのが堀内だった。最後の日の8日目、15日に900余名の移民集団の乗船した、ら・ぷらた丸は神戸港を出航した。(引用文献:今村忠純「日本名作事典」平凡社)

2008年4月27日 (日)

明六社と森有礼

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 明六社は、明治6年7年にアメリカから帰国した森有礼(1847-1889)が、西洋文明諸国にあるような啓蒙活動の団体(学会)の設立を西村茂樹にはかり、ついで西周、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、神田孝平、中村正直、箕作秋坪、箕作麟祥、杉亨二らの賛同を得て発足した。初代社長は森有礼で、会員は30名、社員は主として開成所出身の洋学者であった。翌年3月から機関誌『明六雑誌』を発行し、また毎月講演会を開き「一日も早く日本国民を文明開化の門に入らしめん」とし、西洋の事情を明らかにし、新旧思想の混乱に指針を与えた。だが、明六社の創設者の一人である森有礼は、明治22年、憲法発布の日、刺客・西野文太郎(1865-1889)に暗殺された。

   その後、明六社は明六会(1875-1879)となり、東京学士会院(1879-1906)、帝国学士院(1906-1947)を経て、日本学士院(台東区上野公園7-32)へと至る流れの先駆をなした。日本学士院・現在の院長は、久保正彰である。

2008年4月26日 (土)

夏目漱石「こころ」

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日活映画「こころ」(昭和30年)森雅之・新珠三千代

  私は暑中休暇に鎌倉へ行って、そこの海岸で先生を知った。はじめ白い皮膚の西洋人といっしょだった先生を、私は好奇心で見守っていた。幾日か海でいっしょに泳ぐうちに、先生と懇意になることができた。東京へ帰ってから先生の宅を訪ねた。奥さんから、先生が雑司ヶ谷の墓地へ行っていると教えられ、私も墓地へ行った。先生は毎月その日に友人の墓参をする習慣だったのだ。それから、私はしばしば先生の宅へ行くようになった。はたで見ているかぎり、先生と奥さんは仲のいい夫婦であった。二人で音楽会や芝居に行き、ときには箱根や日光へ1週間ぐらいの旅行をする。私は二人の結婚の奥に、はなやかなロマンスの存在さえ仮定していた。しかし先生は、恋は「罪悪だから気をつけないといけない」と言った。私がその意味を問い返すと、先生は「雑司ヶ谷の友人の墓地へ私がなぜ毎月参るのか知っていますか」と逆に質問してきて私を混乱させた。それ以上の説明を先生から聞くことはできなかった。先生が珍しく会合に出かけた夜、私は頼まれて奥さんと留守番をした。奥さんは、先生がだんだん人の顔を見るのも嫌いになり、会にもめったに出ないと嘆いた。奥さんの解釈では、世間を嫌い人間を嫌う先生は、その人間の一人として奥さんをも嫌っている、という。それでいて奥さんは、先生が奥さんと離れれば不幸になるだけだ、ということをはっきり理解していた。

    私の父が病気になった。東京を離れて、しばらく国へ帰った。病気が小康を得たので、私はまた学校へもどり、卒業論文にとりかかった。そのころ先生は、私に家の財産をはっきりしておくほうがよい、と言った。親戚や兄弟がいくらよい人間でも「いざという間際に、急に悪人に変はるんだから恐ろしいのです」、先生の口調は苦々しげであった。大学を卒業して私は国に帰った。父の病状はあまり変わっていなかった。父は赤飯を炊いて、卒業披露の客を呼ぶと言った。私は仰々しいのが嫌いだったが、学問をさせると人間が理屈っぽくなるという父の一言で、反対するのをやめた。その言葉のなかに、父の私に対する一切の不平があるように思えたから。しかし、招待の日が来ないうちに明治天皇の御病気が報じられた。披露は自然と沙汰止みになった。

   そのころ、父と母とが私の仕事に大きな期待をもっていることがわかった。母は、私の尊敬している先生がいずれは仕事の口を捜してくれるものと決めこんでいた。それでもどうにか私が東京へ出て仕事が見つかるまで、学資を送ることを約束してくれた。しかし、私が上京する間際に、父は風呂場で倒れた。九州の兄を呼び返した。妹の夫も駆けつけてきた。新聞は乃木大将の死を報じた。先生から会いたいという電報がきたが、私は父の病気が急変したので上京できない由を知らせた。父の病気はさらに進んだ。「乃木大将に済まない、私もすぐ御後から」とうわごとを言うようになった。そんなとき、小包のように分厚い封書が届いた。それは先生の遺書だった。「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此の世には居ないでせう」という一節が目にしみた。私は母や兄にも断らず、停車場へ急ぎ、東京行きの汽車に飛び乗った。ごうごう鳴る三等列車のなかで、私は先生の遺書を取り出して、はじめから終わりまで目を通した。「上・先生と私」「中・両親と私」と書き継がれた「こころ」は、ここで最後の章である「下・先生と遺書」に移る。私がそれまで見てきた先生なる一人の思想家のいわば精神の生い立ちが、その遺書によって解明されるのだが、そこには人間の性格に根強くはびこるエゴイズムを追求し、やがて晩年に「則天去私」の境地にたどりつく漱石の、創作活動の全契機が示されている。先生はその財産を叔父に奪われた。信頼していた叔父が、父の遺産を手にするや善人から悪人に一変した。先生はその衝撃で人間への信頼を失うが、自分だけはそんな人間ではないと信じていた。ところがその自分も、自分を信頼しきっていた友人Kを裏切ることによって、いまの奥さんと結婚することに成功した。Kは自殺をとげた。その結果からいえば、叔父がやったことよりも自分のやったことのほうがひどい。先生は、他人を呪い嫌った自分自身を同様に呪い嫌った。それはまた償いきれない罪の自覚でもあった。その苦しみに悩みぬいたあげく、乃木大将の殉死に触発されて、先生は自殺を決行する。それはまた、天皇に始まって天皇に終わった明治の精神の最も強い影響を受けた先生にとって、一つの殉死でもあった。そして「こころ」で自我否定の道を切り開いた漱石は、のちに「道草」において、自己の我を捨てさり、「則天去私」の新しい境地へ踏み入ることになったのである。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社)

泉鏡花「婦系図」

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   泉鏡花(1873-1939)は明治23年作家を志して上京。翌年尾崎紅葉の門下に入ることを許され玄関番として同家に寄宿。いくつかの作品を発表したが不評で自信を失い、帰郷したり自殺をはかったこともある。明治40年の「婦系図」は新派悲劇の代表作として広く愛された。画像は大映「婦系図」(昭和37年)の市川雷蔵・万里昌代の主税・お蔦の湯島天神の場面だが、「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ、…私にゃ死ねと云って下さい…」という有名なセリフは本来小説にはなかった。これは明治41年の新富座で上演したとき柳川春葉と喜多村緑郎が付け加えたもの。鏡花はそれを気に入って、大正3年、舞台のために「湯島の境内」を書き下ろし、これが湯島天神の場面として広まったものである。

            *

   柳橋の芸者お蔦と恋仲になった早瀬主税は、恩師・酒井俊蔵に隠れて世帯を持つが、これが知れて怒った酒井は二人を別れさせる。早瀬は郷里静岡に帰り、お蔦は八丁堀に身を寄せ髪結いになるが胸をわずらって床につく。元軍医監・河野英臣は息子英吉の嫁に酒井の娘妙子を得ようと策動し、早瀬の妨害にあたったことから彼の身元を調査する。一方、お蔦の病は重く、駆けつけた酒井に手をとられながら、死んでいく。河野家の仕打ちに憤慨していた早瀬はお蔦の死を聞くや、河野の前に己の前身が巾着切りであったことを明かし、河野家の不倫を暴いてお蔦の黒髪を抱きながら毒をあおる。

「青春の門」と早稲田大学

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    誰もが一度は通り過ぎる、しかし唯一度しか通ることの許されぬ青春の門。五木寛之といえば「青年は荒野をめざす」「さらばモスクワ愚連隊」「風に吹かれて」「蒼ざめた馬を見よ」などあるがやはり大河小説「青春の門」が代表作であろう。そして尾崎士郎の「人生劇場」青成瓢吉とともに、伊吹信介は早稲田の学生であり、五木寛之と早稲田大学という印象も強い。近年は宗教や哲学的な著作が多く、平成16年には「仏教伝道文化賞」を受賞している。最近ある本で、五木寛之と石原慎太郎はともに昭和7年9月30日の生まれだと知る。同世代で対照的な二人の作家への興味はつきない。

    五木寛之は生後まもなく朝鮮に渡り終戦を迎え、混乱の中、母を失い、数々の困難を経て、昭和22年に日本に帰国する。この苛酷な体験が、作風に大きな影響をあたえているのであろう。ただ多くの作家は自伝的な作品を残すが、五木にはあまりに苛酷なものであるためか少年期の自伝的なものはないという。昭和27年に早稲田大学露文科に入学したものの、授業料が払えず、心ならずも早稲田大学を去る。このとき五木は大学の事務から、抹籍願を書いて渡した。五木は、作家になってからもずっと、「早稲田大学抹籍」だと言い続け、書いてきたが、まわりが勝手に「中退」と解釈していた。ところがあるバーティーで、一人の銀髪の品のいい紳士に会う。その人は早稲田大学の総長だった。「校友会に入ってほしい」と言われ、「いや、私は授業料を滞納して早稲田は抹籍になっていますから、入る資格なんかないんです」と説明すると、「今ならお払いいただけるでしょうか」と言う。すぐに、大学の事務局から請求書が来た。その日に払い込んだら、「今日からあなたは正式に中退です」と連絡があった。それ以後は、「早大中退」と書けるようになったという。

                   *

    伊吹信介は、筑豊の炭鉱夫伊吹重蔵の息子として生まれた。信介は義母のタエに育てられるが、彼はタエを母としてだけではなく女として愛した。父は、坑道に生き埋めになった坑夫を救うために死んだ。終戦は、信介が国民学校4年の時だった。母と子は重蔵の遺言で、飯塚のやくざ塙竜五郎の世話になることになった。が、まもなくタエは病死してしまう。早稲田大学に合格した信介は、幼なじみの牧織江や竜五郎をあとに、上京していく。大学に入った信介は、演劇青年の緒方の下宿にころがり込み、娼婦のカオルと知り合ったりする。信介は授業にはほとんど出ず、アルバイトや売血、ボクシング等をして暮らしていた。人生の目的を探すために大学を入った信介は、緒方の演劇活動に参加し、北海道に渡る。だが、働きながら芝居をつくるという緒方の意図は、結局失敗してしまう。信介は札幌でしばらく織江と同棲していたが、もう一度大学に戻ることを決心する。織江は歌手としてスカウトされ、信介から離れて行く。上京した信介は政治運動に参加するが、ここでひどい挫折感を味わい捨てばちな気分に陥っていく。織江は老作詞家宇崎秋星と知り合い、レコード歌手としてのチャンスをつかんだ。一方、自堕落な生活を送っていた信介は、竜五郎が大けがをしたことを知り九州に帰る。しかし竜五郎は、けががもとで死んでしまう。再び東京に来た信介は、ふとしたことから実業家林三郎と知り合い、彼の書生となり新しい出発を決意する。林家に来て2年半が過ぎた。信介は、林三郎から将来を嘱望されていた。そんな折、思うようにヒット曲の出ない織江が、最後のチャンスに賭けるため、信介にマネージャーになってくれないかと申し出てきた。いろい迷った末、信介は織江に協力することにする。北海道で知り合ったアナキスト丸谷玉吉が、東京山谷で車にひかれて死んだ。信介は北海道江差に行き、納骨する。信介は、立原襟子を知り好きになるが、函館でレポ船団に戦いを挑んでいる元新聞記者の西沢洋平と再会し、ひょんなことからハバロスクへ旅立つ。ハバロスクに着いた信介と西沢らは、シベリア独立計画にからみ収容所に送られそうになったが、西沢の友人、伊庭敬介に助けられた。信介は西沢らと別れ、パスポートもないまま、恋人アニョータとともに、ポーランドに向け旅に出ようとする。

スーパーマンの悲劇

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弾よりも速く、力は機関車よりも強く

高いビルも、ひとっ飛び

空を見ろ!

鳥だ!

飛行機だ!

いや スーパーマンだ!

そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。

    地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月、謎のピストル自殺を遂げた。

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 「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。

2008年4月24日 (木)

ゴッホ「聖書のある静物」

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     開かれた聖書のある静物 

      ゴッホ  1885年4月   ヌエネン

    読める文字の書き込まれた本が画面に登場してくるゴッホの最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されている「開かれた聖書のある静物」である。この聖書はゴッホの父が所有していたもので、使い古されている。その年、父は死んだ。火の消えたろうそくは父の死を象徴している。父の死の床に、うなだれたゴッホは、ぽっつりと一言いった。「死ぬのはつらい。しかし、生きることは、もっとつらい」と。手前の小さな本は、ゴッホの愛読書、ゾラの「生きる喜び」である。開かれた聖書は、文字からイザヤ書53章であることがわかる。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちに彼を軽蔑し、無視していた

彼が担ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

   (「イザヤ書」第53章3節、4節)

   ゴッホは聖書の「イザヤ書」を開いて何がいいたかったのであろうか。「イザヤ書」第53章全体は、われらすべての「悲しみとなやみ」を担い給う人の子についての預言である。それは当然、救主としてのキリストのイメージにつながると同時に、人々から「侮られ、すてられ」ていたと感じていたゴッホ自身の姿でもある。ハーグで同棲していた娼婦シーンとの結婚問題で、ゴッホは家族から反対され、「軽蔑され、人々から見捨てられ」たと感じたに相違ない。ゴッホがシーンを描いた石版画「悲しみ」には、英語ではっきりと「Sorrow」の文字が書き込まれている。

ゴッホ「黄色い本」

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      黄色い本  パリ  1887年秋

    画家が静物画の対象として花や果物を描くことはよくあるが、本そのものを描くことはあまりない。ただ一人ゴッホだけは画面の中に本を描き出した作品をかなり残している画家である。そして、その中には、標題その他の文字が読めるように描いてあるものも少なくない。ゴッホはどのようなメッセージを残したかったのだろうか。「黄色い本」と題する作品は、文字としては読めないが、標題があるといことはわかるように描かれている。この作品は、パリに来てから学んだ新印象派のいわゆる点描画法に近い様式で描かれている。1888年3月、この作品を預かっていたテオがアンデパンダン展に出品しようとした時、ゴッホはわざわざアルルからテオに「もし出品するなら、パリの小説本、という題名にしてほしい」と、注文をつけている。ゴッホはかなりな読書家で、バルザック、ゾラ、モーパッサン、フローベル、ゴンクール兄弟などを愛読していた。当時の社会において、これらの「黄表紙本が堕落したものとして、いささか疑わしい眼で見られていたことを考えると、ゴッホはあえて敬愛する作家たちの作品を、少しも隠そうとはせず、「レモン・イェロー」を使った色彩の象徴主義の萌芽を見ることができる。黄色に「生命の燃焼」と「生きる喜び」を求めようとするゴッホの決意を読み取ることができるであろう。

2008年4月23日 (水)

礼文島、北のお花畑

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            地蔵岩を望む(礼文町)

  日本最北端の有人島、礼文島。面積81.33k㎡。人口3856人。島名はアイヌ語の「レブンシリ」(沖の島)に由来するという。5月下旬から8月頃、見事な高山植物や花畑を見ることができる。レブンウスユキソウ、レブンアツモリソウなど貴重な固有種も多い。澄海岬(スカイ岬)から見る海はエメラルドブルーで、沖縄に匹敵する蒼さである。地蔵岩、元地海岸などの景色も美しい。礼文島から利尻島の利尻山が良く見える。

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2008年4月21日 (月)

プロレスラーになった逃亡者

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   東京オリンピックが華やかに行なわれていた頃、日本の奥様方は今でいうヨン様の「太王四神記」のように、ひとりのアメリカ俳優のドラマ「逃亡者」を夢中になってみていた。デビッド・ジャンセンという中年の渋い俳優だった。それまでアメリカ人といえば陽気なヤンキーというイメージがあったが、無実の罪をきせられたリチャード・キンブルは物静かで理知的で、いつも孤独な影がある、そこが母性本能を刺激したようだ。睦五郎の吹き替えも女心を酔わせた。

    リチャード・キンブル。職業、医師。正しいかるべき正義も時として盲しいる事がある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる、執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら、現在を、今夜を、そして明日を生きるために。

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   矢島正明のナレーションが始まるとテレビの前に釘づけになった。妻殺しの片腕の男を追うキンブルと、キンブルを追うジェラード警部の、二つの逃亡・追跡劇がサスペンスを盛りあげる。これまで日本で放送されたアメリカのテレビは西部劇中心だったが、「逃亡者」は、長距離バスや列車、田舎町、ドラグストアなどアメリカの現代社会を知るうえでも役立ったドラマだった。最終回、キンブルが片腕の男を追いつめ無人の遊園地でのシーンは全米でもテレビ史上最高の視聴率をマークしたという。

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    ところで、「逃亡者」リチャード・キンブルには実際のモデルがいる。1954年7月4日、オハイオ州クリーブランド郊外の自宅で医師のサム・シェパードは妻マリリン・シェバードを殴り殺した罪で有罪を宣告された。1966年11月16日、無罪となった。翌年12月に医師免許の復活を認められたが、医療事故を起こして廃業。その後、45歳のサムはなんとプロレスラーに転向、初戦を勝利で飾った。コリーン・ストリックランドという20歳の女性とも再婚したが、その半年後の1970年4月6日、急死した。

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わたし作る人、ぼく食べる人

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    ハウス食品初の即席めん「シャンメンしょう味」のCMがテレビで放送されたのは昭和50年8月末のことだった。

「今なんどきですか?」

「ハイ、ラーメンどっきっよ!」

そして結城アンナがラーメンをテーブルに座った佐藤祐介に運ぶ。

「わたし作る人」(結城アンナ)、「ぼく食べる人」(佐藤祐介)と言いつつラーメンを食べる。そして町田義人の歌が流れ、「結果!、♪ハウスシャンメン、しょうゆ味!」と終わる。

   このCM開始から1ヵ月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人は、ハウス食品の本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割をより定着させるもの」としてCM中止を要請した。ハウス食品では消費者の声を無視できないとして、CM中止を決定した。新聞や週刊誌はこぞってこの問題を取り上げた。「言葉狩り」「重箱の隅をつつく行動」など、抗議に批判的な論調も少なくなかったが、これが、日本で始めて性差別広告として批判された事例として画期的な意味を持つものとなった。これを契機に性差別広告批判運動は高まりを見せ、「男女の性別役割分業」という言葉を、世に広めた結果となった。

周恩来と魯迅

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   周恩来と魯迅とは遠く共通の祖先をもつ親類であった。周恩来(1898-1976)は江蘇省淮安で生まれた。しかしその祖父は浙江省紹興から移住してきた家系であり、周家は代々紹興に住む名家であった。「阿Q正伝」などの作品で知られる魯迅(1881-1936)も本名を周樹人といい、紹興であることから、従来から魯迅・周恩来の親類説は存在した。近年の調査によれば、周恩来の出た保祐橘(地名)の周家が本家筋に当たり、魯迅の出た周家は分家筋に当たるという。両家の共通の先祖である周澳から数えると魯迅は第20世代、周恩来は第21世代になる。近年、浙江省上虞で発見された清代に編纂された家系図「天楽周氏宗譜」などの史料によれば、二人の共通の祖先は北宋の儒学者・周敦頤(周濂渓、1017-1073)であることが確認されたという。

2008年4月20日 (日)

山口百恵不死鳥伝説

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    昭和48年ひとりの14歳の少女が歌手としてデビューした。山口百恵である。昭和55年10月日本武道館で引退コンサートまで、8年間、1970年代を疾風の如く駆け抜けた。「山口百恵は菩薩である」(平岡正明)と評されるほどに、芸能活動を一切行なわなくとも不死鳥のようなスターとしての存在感は今や伝説となっている。

    昭和47年12月、「スター誕生」決勝大会で牧葉ユミ「回転木馬」を歌った山口百恵は、昭和48年5月「としごろ」でデビュー。続く「青い果実」「ひと夏の経験」のキワドイ歌詞で注目されるようになった。昭和48年ではまだライバルたちとは横一線であった。画像は、左から菅原昭子、百恵、森昌子、藤正樹、桜田淳子である。菅原昭子は「17才の行進曲」、森昌子は「せんせい」、桜田淳子「天使も夢みる」でそれぞれデビューした。百恵の最大のライバル、桜田淳子はメリハリのきいた明るい歌声で「花物語」「三色すみれ」「黄色いリボン」「わたしの青い鳥」「はじめての出来事」「夏にご用心」「気まぐれヴィーナス」とヒットを連発させていた。百恵は映画「伊豆の踊り子」が興行的に成功し、テレビ「赤いシリーズ」も高視聴率をマークした。東大生が「山口百恵を守る会」を発足した話題も人気向上に貢献したであろう。芸能界で売れる、売れないは紙一重の違いであろう。演歌の菅原昭子は歌唱力もあり美人だったが、売れなかった。あゆ朱美(「ギターをひいてよ」「小さなブランコ」)も売れなかったが、のちに戸田恵子として声優、女優として成功をおさめた。小林美樹(「人魚の夏」)も人気はありながらヒットに恵まれず、アナウンサーに転身した。麻丘めぐみの実姉の立木久美子(「思い出のカルチェラタン」)も山口百恵の「青い果実」と同時昭和48年9月にリリースしたが売れなかった。スタ誕出身者では、最上由紀子(「初恋」)、松下恵子(「花嫁の父」)、三橋ひろ子(「私の花言葉」)、堺淳子(「祭りの想い出」)、そして百恵に勝利したシルビア・リー(「霧のエトランゼ」)、すべて玉砕した。百恵のライバル・マッハ文朱(「花を咲かそう」)も女子プロ界でスターとなったが、百恵に敗れたタレントといえるであろう。百恵・淳子の戦いは、淳子が少女歌手から大人女性への転身を図るため中島みゆきの曲を歌う頃から、アイドル性を喪失してファンは少しづつ離れていったように思える。平成4年に結婚し、結局二人は主婦という同じ道を歩むことになる。百恵にとって淳子は最大のライバルであったであろう。「淳子ちゃんは、正しいと思ったことは、私たちにとって鬼より怖いプロデューサーやディレクターにも堂々と意見を言った。淳子ちゃんは誰がなんと言おうと自分のペースで成長してきたけど、私は周囲に無理矢理大人にさせられたようで、そんな私を淳子ちゃんにだけは見られるのがいやで、いつも淳子ちゃんを意識していた」と雑誌のインタビューに百恵は語った。

安保闘争と炎加代子

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    昭和35年は安保闘争の年である。炎加代子という女優はこの時代を象徴している。当時、学生たちの間では既存の権威を否定してかかる「ナンセンス」という言葉が流行った。炎加代子が出演した作品にも安保闘争を描いたものが多い。「乾いた湖」(篠田正浩監督)では学生運動の闘士・下条卓也(三上真一郎)が大衆運動を軽蔑し、「デモなんかくだらない!革命だ」と叫ぶ。「太陽の墓場」(大島渚監督)では炎加代子は大阪の釜ヶ崎の女を熱演した。実生活では共演の若手男優と心中未遂を起こして、すぐに映画界から消えたが、少年たちに強烈な印象を残した女優である。ある雑誌の対談での発言「セックスしている時が最高よ」と語ったことからたちまち流行語となった。それは安保という政治的な時代の中で、ひたすらセックスという私ごとを追い求めることへの共感があったからであろう。

熱血柔道漫画全盛の頃

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   日本のアニメや漫画が世界で高く評価され、最近では美術館でも昔の漫画が展示されることが珍しくない。ケペルが幼い頃、まだ文字が読めない前から漫画を見ていた。市場内にある二軒隣りの本屋は新刊と貸し本の漫画を置いていた。一日10円であった。「少年」「少年画報」「冒険王」といった月刊誌の最新号も借りてほとんど読んだ。好きなのは、手塚治虫「鉄腕アトム」(少年)、横山光輝「鉄人28号」(少年)。これらロボット漫画、科学漫画はテレビ化される前から、当時の少年に圧倒的に人気があった。「赤銅鈴之助」(少年画報)よりスマートでカッコよかった。桑田次郎の「まぼろし探偵」や「月光仮面」などのヒーロー物も人気があった。しかし、空想科学漫画やヒーロー物よりも人気があったのは、スポ根ものである。スポ根という言葉は1970年代の「巨人の星」「あしたのジョー」で生まれた言葉で、当時はなかったが、「熱血柔道漫画」というジャンルが存在しており、ライバルとの対決、友情、貧困、根性、涙、などの要素はすでに揃い、スポ根漫画の元祖は、おそらく福田英一の「イガグリくん」(冒険王)といっても過言ではない。このほか田中正雄の「ダルマくん」(少年)、下山長平の「イガグリくん」(少年画報)が人気があった。当時、おそらく手塚治虫より福田英一のほうが人気があったと思う。NHK番組で手塚本人が出演して、福田を最大のライバルだと言っていたことを記憶する。日本の少年漫画が正当なる評価を受ける時代がきたように思うが、残念ながら手塚治虫以外の漫画家研究はあまりされていない。手元のコンサイス人名事典にも手塚治虫と白土三平、以外はほとんど掲載されていない。ウィキペディアの項目にも昭和30年代に活躍した漫画家にはあまりふれていない。単行本化されていない作品も多く、当時の記憶もうすれていくであろう。もっと早い段階で公的な漫画図書館を各県に設置しておればと悔やまれる。

背くらべ

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 柱の疵は 一昨年の

 五月五日の 背くらべ

 粽たべたべ 兄さんが

 計ってくれた 背の丈

 昨日くらべりゃ 何のこと

 やっと羽織の 紐の丈

       *

 柱に凭れりゃ すぐ見える

 遠いお山も 背くらべ

 雲の上まで 首出して

 てんでに 背伸(せのび)してゐても

 雪の帽子を 脱いでさへ

 一はやっぱり 冨士の山

 詩人・海野厚(1896-1925)は明治29年、静岡市曲金に生まれ、早稲田大学に学んだ。俳人の渡辺水巴に師事し、鈴木三重吉、会津八一、竹久夢二、中山晋平らと親交し、「おもちゃのマーチ」その他多くの作品を発表した。大正14年、肺結核を病み、東京・目黒で寂しく他界した。

鯉のぼり

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 甍の波と 雲の波

 重なる波の 中空を

 橘かをる 朝風に

 高く泳ぐや 鯉のぼり

     *

 開ける広き その口に

 舟をも呑まん さま見えて

 ゆたかに振るふ 尾鰭には

 物に動ぜぬ 姿あり

     *

 百瀬の瀧を 登りなば

 忽ち龍に なりぬべき

 わが身に似るや 男子(をのこご)と

 空に踊るや 鯉のぼり

2008年4月19日 (土)

宇治は茶どころ縁どころ

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あれに見えるは茶摘みじゃないか 茜襷に菅の笠

萌えるお茶の芽もえたつたすき 唄に明けゆく宇治の里

宇治は茶どころ茶は縁どころ 娘やりたや婿ほしや

今年やこれきりまた来る春は 八十八夜のお茶に逢う

主は焙炉でこがれていよと わたしや茶園でうわの空

神に一心お茶にはニしん かけてみやんせキッと利く

ことしお茶にはあかねのたすき 今度五月にや黒だすき

宇治の里から貰うた嫁は 茶つみ上手で唄上手

人の手前で薄茶じやけれど 主の濃茶で目をさます

こよい庚申濃茶をのんで 話明かそか主さんと

ぬるいお茶でもお前の手から ついで貰えばあつくなる

朝の茶の湯に茶柱立って 運の開きか花が咲く

2008年4月18日 (金)

ヒッピーが住みついた火山島

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              現在も活動を続ける御岳

   火山国日本に火山は多いが、常に活動している活火山は少ない。鹿児島県南部、トカラ列島の中部にあるスワノセ島(諏訪之瀬島)は現在も最も活発な活火山である。文化10年(1813年)に大噴火を起こし、その後70年間、無人島となった。明治16年頃、藤井富伝が入植をはじめ、人が住むようになった。ほとんどの住民が奄美大島などからの移住者だった。島の周囲は海食崖に囲まれ、十数個からなる小集落が南部の台地にあり、自給的な畑作と牛肉飼育をおこなっている。戦後になって、人口の減少が著しく、とくに若年層の流出が続いた。ところが昭和42年に都会からヒッピーといわれる若者がやってきた。島民たちとさまざまなトラブルを起こしながらも、若者は島の生活において重要な働き手となっていった。そしていつしか島にあたらしい文化を根付かせている。「バンヤン・アシュラム」というスワノセ・コミューン(共同体)で、漁師をしながら詩作を続けるナーガ(長沢哲夫)もその一人である。

2008年4月17日 (木)

平和五原則とチベット問題

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   北京五輪の聖火リレーがインドの首都ニューデリーで警察の厳戒態勢下、行なわれるといニュースを聞く。インドには約10万人の亡命チベット人がいるという。チベット問題にはほとんど無関心であったが画像の写真で興味がでてきた。インドの首相ネルーが北京へ行き、周恩来と会談し、共同声明「平和五原則」を発表したのが1954年4月29日である。つまり、領土・主権の相互尊重、対外不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和的共存である。学校の社会科の授業では平和五原則はいかにも国際平和に寄与するもののように学んだが、これはインドと中国という大国間の平和共存であって、小国のチベットにとっては悲劇の始まりであった。この会談の真のねらいは「中国チベット地区とインドとの間の貿易及び交通に関するインド共和国と中華人民共和国との間の協定」を締結することであった。そして平和五原則の一項、内政不干渉により、中国はインドに気にすることなくチベットへの圧政をすることができるようになった。1959年3月10日、チベット民族蜂起、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。そもそもチベットは人民中国の支配以前から固有の文化、歴史、民族を有するチベット人が独立主権国家を形成していたことは、1913年のモンゴルとの蒙蔵条約、1914年のイギリスとのシムラ条約などからも立証されている。ただ国際連合に代表をもたなかったため世界各国が中国の侵略をたやすく容認してしまったのが遠因となって続いている。

2008年4月16日 (水)

汽車のひびき

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                  余部鉄橋を渡る機関車C57形

      汽車のひびき         近藤東

汽車はひびきをたてて

走っていく

汽車は遠くからやってきて

また遠くへ走っていく

汽車は遠くの町や村の話を乗せ

遠くの町や村へ運んでいく

汽車のひびきは汽車のことば

汽車は一生けんめい話をするが

私たちにはそのことばはわからない

わかればどんなにおもしろいであろう

わかればどんなにめずらしいであろう

汽車よ私たちもどこかへ

乗せていっておくれ

そういって私たちは汽車によびかける

すると汽車は答えるように

汽てきを鳴らす

そしてひびきをたてて走っていく

2008年4月15日 (火)

レオポン誕生

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   甲子園阪神パークは昭和4年「甲子園娯楽場」が前身で、昭和7年に「阪神パーク」と改称した。遊園地であるが、戦後ライオンとヒョウを交配した雑種「レオポン」誕生で一躍、動物園として有名になった。昭和34年11月に2頭、昭和35年6月に3頭のレオポンが誕生した。このような存在しない珍種を狙った異種交配に対してはのちに批判も出てきた。現在では生命倫理の観点からも、動物の個体管理が必要であり、人工的に異種交配をする動物園はないかもしれない。(中国でライオンとトラとの交配によるライガーがいるというが)戦後、阪神パークの動物園としての不十分な設備のため、様々な動物たちを雑居家族として住まわせていたことと関係するであろう。昭和31年の「動物園への招待」(アサヒ写真ブック32)に次のような記事が掲載されている。

   甲子園の阪神パーク動物園のサル山には次の動物が一緒にすんでいる。アカゲザル6頭、タヌキ2頭、キツネ2頭、イノシシ1頭、山羊1頭、犬2頭、猫3頭であるが、これはおどろくべきことである。しかし各々その個性がちがうらしく、同じ猫でも猿にいじめられて水にほうり込まれるのもあれば、猿と仲良しになってノミとりをしてもらっている白猫もいる。もしこの猿山で生死をかけた闘争がおこなわれるとすれば、それは猿同士がその王位をかける勢力争いであろう。

   阪神パークでは園長の土井弘之や飼育担当の近藤義一郎らの努力で世界でも珍しいレオポンの誕生に成功したのは、昭和34年11月3日のことであった。だがレオポン5頭も昭和60年にはすべて亡くなった。平成14年、元園長の土井弘之も87歳で亡くなり、翌年3月、阪神パークは閉園した。

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   ヒョウを抱く土井園長(昭和31年頃)

2008年4月14日 (月)

矢作橋

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   日吉丸は尾張から三河へ行く途中、木綿布子をぬう大針を安く買いこみ、これを行くさきざきで売り、飯代や草鞋銭にあてた。夜は、こもをかぶって矢作橋の下で寝ていた。そして武将となった自分の夢を見ていたが、夜なか、数頭の馬蹄の音に目をさます。野武士めいた身ごしらえの男たちが、日吉丸の頭のそばを馬で通り過ぎていく。寝ていた日吉丸は、野盗のかしら蜂須賀小六に蹴とばされた。怒った日吉丸は、小六の槍をつかんで、「無礼者!」と怒鳴った。

   大きな声に驚いた小六は、「こんなところに、山猿がおる」と笑った。「おもしろそうなやつ。だが、猿め、三日のうちにわしの刀を盗むことができたら、使うてやろう」という。日吉丸は、三日めの雨の夜、軒先にかさを立てかけておき、いかにもしのび寄ってたたずんでいるかのようにみせて相手をゆだんさせ、そのすきをねらって刀を盗んだ。小六はその才知に舌を巻いた。

   その小六が、のちには羽柴秀吉(日吉丸)の部下になるのだから、人の運命というのはまったくわからない。

忘れがたき人人

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  葡萄色(えびいろ)の

  古き手帳にのこりたる

  かの会合(あいびき)の時と処かな

          *

  かの声を最一度聴かば

  すっきりと

  胸や霽(は)れんと今朝も思える

          *

  君に似し姿を街に見る時の

  こころ躍りを

  あわれと思え

          *

  時として

  君を思えば

  安かりし心にわかに騒ぐかなしさ

          *

  わかれ来て年を重ねて

  年ごとに恋しくなれる

  君にしあるかな

          *

  さりげなく言いし言葉は

  さりげなく君も聴きつらん

  それだけのこと

          *

  かの時に言いそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど

               (石川啄木「一握の砂」)

花を持つ少女

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      花を持つ少女   木炭と水彩、紙

   フランス近代絵画の肖像画・風俗画において、「美しい女性こそ最高の美である」という理念がサロンでは主流であった。印象主義及びそれに続くさまざまな運動の高まりの中でサロンの画家たちは美術史の中で軽視されていくが、最近見直しされる傾向にある。

    フリッツ・ツベル=ビューレル(1822-1896)。スイスの肖像画家、風俗画家。ルイ・グロクロード、ピコの弟子。美術学校で学ぶ。1850年からサロンに出品し始める。ベルヌ、ル・ロクル、モンペリエ、スシャテルの美術館に作品が収蔵されている。

手套を脱ぐ時

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 こころよく

 春のねむりをむさぼれる

 目にやわらかき庭の草かな

          *

  あたらしき木のかおりなど

  ただよえる

  新開町の春の静けさ

          *

 ゆえもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたえがたき日に

      ( 「一握の砂」  石川啄木)

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初夏の山野を彩るレンゲツツジ

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          富士山を背景に咲く甘利山のレンゲツツジ

   橙色の花と薄緑色の葉が輪状に並び、豪華な雰囲気をかもしだすレンゲツツジは、日本を代表するツツジの一種。北海道から九州まで広範囲に自生し、山野を鮮やかに染め上げるが、その花色は、北にいくほど濃さを増していく。江戸時代までツツジには毒性があると信じられてきた。しかし、毒をもつツツジはほんの一部で、そのひとつがレンゲツツジである。根にはスパラッソル、花にはロードヤポニンなどの有害物質を含むため、家畜の食害から逃れてきた。こうしたレンゲツツジは、きわめて強いその耐寒性と、毒によって日本の山野に生き続け、華麗な花姿を自ら守り抜いてきたともいえる。甘利山(山梨県韮崎市)のレンゲツツジの花は真っ赤で、盛りの6月になると、麓から赤く燃えるような山肌が眺められる。そして富士山がはるか上に浮ぶ景観はみごとである。

   群馬県西部、長野県に隣接する鹿沢・湯の丸高原(吾妻郡嬬恋村)には60万株のレンゲツツジが6月から7月上旬になると見られる。青森県の八甲田山に群生するレンゲツツジも色鮮やかに新緑の野山を染めている。

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                             八甲田山のレンゲツツジ

2008年4月13日 (日)

韓国花茶物語

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 ヘンリー・ジェイムズ(1843-191)は、午後のお茶のひとときを次のように書いている。

 その時の事情にもよるが、午後のお茶と呼ばれている儀式に捧げられたひとときほど気持ちのよいときは、この世にはめったにないものである。お茶を飲もうが飲むまいが、もちろんけっして飲まない人もいるのだが、お茶どきの雰囲気がそれだけ楽しいといった場合があるのだ。(「ある婦人の肖像」)

 イギリス式の紅茶、あるいはハーブ・ティーを、自宅の庭などの自然の中で楽しんでいる様子がうかがえる。そして、お茶の香りに加えて、美しい花の香りも楽しめたら最高に気持ち良いことだろう。

    ところで、お茶に、何か別のものを加えて飲む楽しみ方は、世界各地にあるようだ。中国の花茶は、花だけに湯を注ぐ方法のほか、烏龍茶や緑茶などと花をブレンドする方法もみられる。有名な花茶といえばジャスミン茶だが、元の時代にはハス、ラン、バラなどの花が好まれた。またインドや中近東では紅茶にしょうが、シナモン、クローブ、カルダモンなどのスパイスを加える習慣がある。モロッコでは、厚手のコップに新鮮なミントの葉をたっぷり入れて熱い紅茶を注ぎ、砂糖を多めに入れて飲むスタイルが知られている。

  ここで紹介する韓国の花茶は「目と香りと味で楽しむ」朝鮮時代の貴族たちが嗜んだ風流を楽しむものであった。貴族たちは移り行く季節の折々、花茶を嗜み、詩を詠み、彼らだけの世界に耽ったものだった。花茶の製造法については、18世紀の生活百科「閨閣叢書」に梅茶のことが載っている。ホ・ジュン(1546-1615)が書いた医学書「東医宝鑑」にも「むくげの花を茶にして飲めば風邪に良い」とあり、花茶が薬として紹介されている。19世紀には花を使った料理が多様になり、「是議全書」には、バラやツツジの花菜や、蜂蜜水に松の花粉を入れた松花蜜水などが載っている。花は春、夏、秋、冬、季節の野の花を使う。かすかな色と小さな花びら。一般的なものは、菊茶、蘭茶、蓮茶、芍薬茶などである。生きた花びらでお茶を淹れる方が見た目には美しいが、味が良いのはやはり花びらを乾燥させて淹れたお茶である。

   菊茶の作り方

1.菊は茎を捨て、花だけ摘み取り流水で洗う

2.湯気の立つ蒸し器に菊を入れて蒸す

3.ザルに取り、互いがくっつかないように並べ、日陰に干す

4.茶器に干した菊を10輪ほど入れ、お湯を注ぐ

望郷の月、阿倍仲麻呂

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    養老元年、阿倍仲麻呂(698-770)は遣唐使多治比県守の船で、吉備真備らとともに入唐した。ときに16歳であった。当時、唐は玄宗皇帝の代で開元の治がおこなわれ隆盛をきわめていた。彼は唐にとどまり中国名を朝(晁)衡と名乗って玄宗に仕えた。盛唐の詩人・李白や王維らとも交遊した。唐朝に仕える生活は、憧れの先進国で重んぜられるという、めったなことでは日本人が味わえなかった経験を彼に与える快い歳月であったことであろう。しかし齢50歳を越えた仲麻呂は懐郷の念おさえがたく、帰朝することになった。天平勝宝5年、遣唐使藤原清河らとともに鑑真に会い来日を促し、自らも帰国しようとしたが、海上で暴風雨にあい、船はちりぢりに流され遭難する。仲麻呂らの遭難を受けた李白は悲しんで「晁卿の行を哭す」という七言絶句を作った。

 日本ノ晁卿帝都ヲ辞ス

 片帆百里蓬壷ヲ繞ル

 明月帰ラズ碧海ニ沈ミ

 白雲秋色蒼梧ニ満ツ

    阿倍仲麻呂の船は安南に漂着した。再び清河らと唐に戻る。仲麻呂は帰国を断念して、鎮南都護安南節度使(正三品)にすすみ潞州大都督をおくられ、宝亀元年、唐土で没した。年70歳。

 天の原ふりさけ見れば春日なる

      三笠の山にいでし月かも

(通釈)大空をはるかにふり仰いで見ると、月が美しく出ている。ああ、あの月は春日の三笠山に出た、あの月なのだなあ。

ハリス・フーセンガムと恵とも子

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    いま50歳以上の男性ならば、この懐かしいアイドル・タレントの名前を半数近くの方は知っているだろうし、50歳以下ならばほとんど知らないだろう。現在のようなグラビア・アイドルの位置が確立していない時代、男の子の記憶に残る永遠の青春スターであった。

    恵とも子。昭和24年生まれ。アメリカ人の父を持つハーフ・タレント。茶色の髪に青い瞳が可愛い。昭和38年に東京音楽院に入学、スクール・メイツの一員として音楽番組に出演。明星スター・パレードのマスコットガールになる。太田博之との「プラチナ・ゴールデンショー」の司会や映画「てなもんや幽霊道中」「東京市街戦」「陽のあたる坂道」に出演。レコードは昭和40年「ピンクの口紅」(「なぜか教えて」)、「大人の匂い」(花のおしゃべり」)。渡辺プロに所属し、テレビ出演も多数ある。昭和40年、41年、42年と雑誌のモデルとしても活躍する。「明星」の昭和41年1月号は橋幸夫、恵とも子である。2月号が舟木一夫、吉永小百合であるから、当時全盛だった吉永を抑えての正月号の登場であった。プロマイドの売り上げもローティーンの男子に人気があったので吉永に匹敵していたと思う。カネボウハリスはフーセンガム広告に恵とも子を大々的に起用し、週刊少年マガジンに頻繁に登場した。ちばてつや「ハリスの旋風」は「あしたのジョー」の前作品であるが、それまで少年週刊誌は戦争記事や忍者特集などで、女性タレントが誌面にでることは皆無だった。現在の少年誌は表紙も中味も女性アイドル中心であるが、恵とも子はその先駆け的役割を果たしたグラビア・アイドルといえる。

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              昭和41年1月号

漢の孝廉

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漢の武帝が政治についての意見を求めるために学者の家を訪問している図

    漢王朝(前206年~220年)のおよそ400年間は、後世の中国人が「黄金時代」として回顧する、長い安定と繁栄の時代であった。そして前漢の武帝(在位前141-前87)の50年を超える在位は中国歴代の諸君主のなかでも長きにわたり、匈奴遠征、絹の道、大帝国の建設と漢の最盛期であった。内政では「賢良方正直言極諌の士を挙げよ」と命じ、人材の登用を図り、儒教によって教育されたものを選抜した。有能な官僚によって、行政がおこなわれ、学問が盛んになった。武帝の人材登用や学者保護が伝説化されて、画像のような後代の想像図が残されている。

  武帝は地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒や公孫弘らを博士に任じた。そして儒教の経典である「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」に通暁している専門学者を五経博士に任じた。

    漢代の官吏になる道はいくつかあるが、正規の道は孝廉選挙である。 孝廉の制度は漢の武帝の時代から始まるが、次第に盛んになって、後漢になると、制度が整い、改正が加えられた。和帝の時に郡国の人口率に応じて孝廉の人数が定められ、順帝の時に限年制(孝廉は40歳以上)と課試制(後世の科挙の先駆)とが設けられた。地方から推薦される孝廉は、和帝の時、全国で毎年200人ほどいたという。その多くは地方豪族の子弟である。(参考文献:宮崎市定「九品官人法の研究」)

女優の顔

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   「立川志らくのシネマ徒然草」248回「ソン・ヘギョ淡いままでいてください」(キネマ旬報1480)を読む。立川は女優の顔を「濃い顔」と「淡い顔」に分類している。エリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、オードリー・ヘプバーンは濃い顔である。韓国女優のソン・ヘギョ(「フルハウス」)は「淡い顔」(薄い顔)であるという。

    立川に限らず最近の日本男性はどうやら「薄い顔」を好むようである。そういえば電車の中吊り広告に見る女性誌の特集記事には「モテ顔」「小顔」「あっさり顔」「癒し系」「童顔」「かわいい」「さわやか」「ナチュラル」「自然美」という語が肯定的に使われていることからも、薄いメイクでキツイ印象を与えない女性が当世風美人とされているようである。インドの女優の写真を見るとスゴイ美人が多いが、日本でスターとなった女優は一人もいない。しかし日本男性は昔から「薄い顔」が好みだったというとそうでもない。日本映画界最大の美人女優といえば原節子である。ところが原の顔立ちは鼻は大きく、あっさり顔というよりは「濃い顔」である。山本富士子も鼻が立派で「濃い顔」である。石原裕次郎の奥さん、北原三枝は「君の名は」で情熱的なアイヌ娘を演じて人気がでた女優である。やはり「濃い眉」が特徴である。当時、ヘプバーン旋風が日本を席巻していたが、サブリナの濃い眉を若い女性はまねをしていた。久我美子、岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子、淡路恵子、根岸明美、青山京子など皆んな眉は太く長く「濃い顔」をしている。この傾向は基本的には1980年代まで続いている。薬師丸ひろ子が一人勝ちの人気を誇った時代も、「濃い顔」で売れた。「跳んだカップル」の敵役の石原真理子の濃い眉は時代の象徴であった。現在のような「薄い顔」が好まれるようになったのは、何時頃からであるかは明言できない。例えば、飯島直子が濃い眉をしていたが、缶コーヒーのCMでブレイクしたときは、「癒し系」の顔立ちへと変化していた。現在の「薄い顔」の象徴は小西真奈美であろう。長身で小顔。小さい目であっさりした顔立ち。モデルのShihoがさわやか系で人気をえたことも、「薄い顔」の成立に大きく貢献したかもしれない。

    このように「薄い顔」が標準美人として君臨するようになったが、「爽やかな笑顔と明るいキャラクター」というだけでは女優としては物足らないように感じる。やはりハリウッドでは「濃い顔」「個性的キャラクター」が女優に求められる。美人系のキーラ・ナイトリー(「パイレーツ・オブ・カビリアン」)、アン・ハサウェー、ペネロペ・クルズは「濃い顔」であるし、ミラ・ジョヴォヴィッチ、アンジェリーナ・ジョリー、レネー・ゼルウェガー、ナタリー・ポートマン、二コール・キッドマン、シャリーズ・セロン、ジョデー・フォスターなどトップ女優は個性派(知性派とアクション派に分かれるが)が健在で「薄い顔」の女優は少ない。日本映画界のほうは、上野樹里、沢尻エリカ、長澤まさみ、田中麗奈、石原さとみ、宮崎あおい、蒼井優、榮倉奈々、谷村美月、成海璃子、伊藤美咲、長谷川京子、相武紗季、多部未華子、新垣結衣、堀北真希、山田優、池脇千鶴と若手主演級の女優を並べてみたが、往年の映画女優の華やかさに比べると物足らなさを感ずるのはケペルだけだろうか。やはり現在アジアでの人気女優は韓国女優のソン・ヘギョが一番かもしれない。

黒いチューリップ

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フランクフルトで出版された商品カタログ「花譜」(1612年)

    咲いた咲いた チューリップの花が

    並んだ並んだ 赤白黄色

    どの花みても きれいだな

  童謡「チューリップ」でも歌われているように、チューリップの魅力は花姿や花色に富んだ数多くの園芸品種があることであろう。園芸品種は約5000ある。原種は約150種といわれ、その約4割が天山山脈の西側からパミール高原の山岳地帯を原産地とする。そして北はシベリア、東は中国へ、南はカシミールやインド、西へはコーカサス地方へと伝播した。ここからトルコやバルカン半島へ、さらに16世紀末には人の手によってヨーロッパにもち込まれた。

    オランダのライデン大学初代植物学教授カロルス・クルシウス(1526-1609)は、大学の植物園での栽培に成功した。チューリップはたちまちヨーロッパ各国に伝わり、貴族や大商人の間で流行した。やがて球根の先物取引が始まり、1633年には投機ブームとなり、1637年2月、ついに恐慌を引き起こし、球根は暴落した。契約の履行は不可能になり、破産者続出は必死となったが、オランダ政府の介入により取引高の5~10%支払いのみですべて清算され、破局は回避された。この恐慌は、生産の拡張に基づかない前資本主義恐慌の代表的な実例といわれている。

    このような17世紀のチューリップ狂時代を風刺した小説にデュマの『黒いチューリップ』(1850年)がある。青年コルネリウスは黒いチューリップの栽培に成功するが、彼を妬んだボクステルの陰謀により投獄される。牢屋番の娘との恋がうまれ意外な展開の喜劇小説に仕上がっている。ちなみにアラン・ドロン主演の映画「黒いチューリップ」は別なお話だ。

    ところで、黒いチューリップは実際に存在するのだろうか。19世紀半ば頃まで育種家は、黒、緑、青花のチューリップを作出することが長年の夢だった。しかし1891年に、「ラ・チューリップ・ノアール」という黒色品種がついに登場した。さらに1944年、より黒み帯びた「クインオブナイト」が作出され、架空の物語が現実となった。緑色は、花弁に緑色の筋が入るむヴィリディフローラ系があり、「アルバ・コエルレア・オクラータ」と呼ばれる「青いチューリップ」も近年登場している。現在、単色で黒、緑、青のチューリップが育種家により追求されている。

2008年4月12日 (土)

三木清の龍野中学時代

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    三木清(1895-1945)は、龍野市揖西町小神の裕福な農家に生まれた。龍野中学時代は反抗と懐疑に駆り立てられていた。多趣味で何にでも首を突っ込み、友達にもめぐまれた。この頃、必要もないのに月に1回は徹夜して読書することに決めていたという。軍人と商人以外のあらゆる種類の人間になることを空想し、中でも文学では頽廃主義や自然主義の流行に追随し、戯曲、小説、短歌、批評などすべての文学のジャンルに手を染めていった。けれども、国語教師の寺田喜治郎は三木に徳富蘆花の『自然と人生』を副読本として与えた。寺田はこの本の字句の解釈などはしないで繰り返し読むように命じ、蘆花のもっていたヒューマニズムが、知らず識らずの間に三木の内面で育っていった。

    三木清は京都帝国大学2年を終えた夏、知的生活の目覚めから22歳までの精神の遍歴を「語れざる哲学」として綴った。

私が知恵によって目覚まされてから後いくばくもなく私の懐疑が始まった。私の意識された知的生活の殆ど最初の日から、私は学校や教師をあまり信用しなかったし、またそれから教えられる道徳に大した権威をおくこともできなかった。私は悪戯好きで反抗的な子供であった。教室ではわき見をしたり、隣の生徒に相手になったり、落書きばかりしていた。けれども成績の良い子供であるという教師たちの評判が私を妙に臆病にさせた。中学時代になってからは権威に対する懐疑と反抗と自己の力を示したいという虚栄心とから私は体操の教師と衝突し、文芸部の主任に反対し、校長に対してまで反抗した。その頃私は弁論の練習をしながら大政治家になろうという空漠な野心に燃えていたのだった。伝統や証権に対する懐疑が悪いことであるとは私は決して信じない。懐疑が悪いこととして否定されなければならない場合はいつでも、第一にその懐疑が徹底していないとき、第二にその懐疑の動機が正しくないときである。懐疑主義者と自称する世の多くの人々と同様に、私も徹頭徹尾懐疑的でなかった。学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽くて書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として謗られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記したり、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。(引用文献:三木清「語られざる哲学」講談社学術文庫)

天使の歌声・ディアナ・ダービン

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   ディアナ・ダービン(1921-  )はカナダのウィニペグに生まれ、美声を買われてMGMと契約。ジュディー・ガーランドと「アメリカーナの少女」(1936)で共演した。その後、ユニヴァーサルで「天使の花園」(1936)、「オーケストラの少女」(1937)が大ヒット。「天使の歌声」をもった美少女として戦前の日本の映画少年にも大人気だった。ちなみに「オーケストラの少女」のオーデションには当時13歳だったマリア・カラス(1923-1977)も受けたが残念ながら若すぎた。ダービンは「アヴェ・マリア」「年ごろ」「庭の千草」「銀の靴」「春の序曲」など音楽映画に多数出演し、1949年には引退し、パリで悠々自適の生活を送り、なんと今も健在である。

    ディアナ・ダービンのレコードは数枚持っているが、まさかCDなど無いだろうと思っていたら、ダイソーで8曲入り210円で売っていた。「アマポーラ」「ハレルヤ」「スプリング・イン・マイ・ハート」「ホーム・スイート・ホーム」「ラスト・ローズ・オブ・サマー」「アヴェ・マリア」「青きドナウ・ドリーム」「ある晴れた日に」である。やはりオペラの曲がある。映画「オーケストラの少女」でも歌われた「乾杯の歌」(ヴェルディ「椿姫」より)は収録されていなかった。日本語訳詩は浅草オペラの伊庭孝であるそうだが、詳しくは知らない。だだ次のような訳詩が見つかった。

  乾杯の歌

(アルフレード)

 友よ、いざ飲みあかそうよ

 こころゆくまで

 誇りある青春の日の

 楽しいひと夜を!

 若い胸には

 燃える恋心

 やさしいひとみが

 愛をささやく

 またと帰らぬ日のために

 さかずきをあげよ

(ヴィオレッタ)

 この世の命は短く

 やがては消えてゆく

 ねーだから今日もたのしく

 すごしましょうよ

 このひとときは

 ふたたびこない

 むなしくいつか

 過ぎてしまう

 若い日は夢とはかなく

 消えてしまう

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー過ぎてゆく

 あーあー

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ディアナ・ダービン、ジュディ・ガーランドの夢の共演は「エヴリー・サンデー」(アメリカーナの少女)という短編一作だった

2008年4月11日 (金)

漱石と阿蘇登山

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    夏目漱石(1867-1916)が松山中学を辞任して、第五高等学校に月給100円で熊本に赴任したのは明治29年4月のことであった。はじめ菅虎雄の家(熊本市薬園町62番地)に同居。やがて明治29年5月4日、熊本市通町103番地、現在の下通町、光琳寺に一戸を構えた。ここで6月、中根鏡子(1877-1963)と結婚式をあげた。9月20日、熊本市合羽町237番地(現・坪井町)に移転。家賃13円の広い家だった。明治30年9月10日、熊本県飽託郡大江村401番地(現・新屋敷)に移転。明治31年3月、井川淵町8番地に移転。明治31年7月、熊本市坪井町78番地に移転。明治33年3月末、熊本市北千反畑78番地に移転。そして明治33年5月12日に英語研究のため、イギリス留学を命ぜられ、熊本を去る。4年3ヵ月の熊本滞在中に6回も引越ししている。またこのころ30歳から34歳の漱石は身心壮健で、小天温泉、山鹿温泉、久留米、耶馬溪、内牧温泉(阿蘇)など旅行をよくしている。まだ交通の整備されていない時代であろうから、かなりの健脚であったと思われる。ちなみに漱石は身長158,8cm、体重53.3㎏(明治23年の測定)で当時としては平均よりやや良好な体格であった。

    明治32年9月には、山川信次郎と共に、阿蘇中岳へ行く。最初の日、戸下温泉を経て、内牧温泉養神亭(現・山王閣)に泊まり、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路で高岳まで登ったと思われる。この旅行が「二百十日」の素材となっている。

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明治30年頃の阿蘇中岳への登山道はこのように整備されていなかったであろう

2008年4月10日 (木)

アイヌ語小事典

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              悪魔払い(ウニエンテ)の儀式

   アイヌ語は、大きくは北海道方言、樺太方言、千島方言とに分かれる。北海道の多くの地名や、トナカイ、ラッコ、オットセイ、シシャモなどの単語など、知らないうちに日本語になったアイヌ語も多い。アイヌ語は文字のない言語で、表記はローマ字やカタカナが使われる。文法面では、否定辞が動詞の前にくる以外は、日本語とほとんど語順が同じで、学びやすい言語の一つである。

 アッシ(着物)

 イコロ(お金)

 イトウ(神にささげる祭具)

 イヨマンテ(熊送り)

 ウタリ(仲間)

 カムイ(神)

 カムイワッカー(酒)

 キムンカムイ(ヒグマ)

 ク(弓)

 コタン(村)

 チセ(家)

 チャランケ(なんくせ)

 ヌブリ(山)

 ノンノ(花)

 ハボ(母)

 ピリカ(美しい)

 ベツ(川)

 ミナ(父)

 メノコ(女)

 ユーカラ(詩曲)

 ワッカー(水)

長崎は今日も雨だった

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   長崎という町は旅人の心を酔わせる不思議な魔力がある。踏む足に柔らかな石畳の面に唐寺の甍に、そして古びた西洋館の蘇鉄をふるわす海風に沃しい異国の香りが漂う。そんなエキゾチックな魅力がある長崎は、戦前から流行歌の格好の歌所となった。由利あけみ「長崎物語」(昭和14年)、樋口静雄「長崎シャンソン」(昭和21年)、小畑実「長崎のザボン売り」(昭和23年)、藤山一郎「長崎の鐘」(昭和24年)と長崎物は必ずヒットするといわれた。昭和40年代に入り、魅惑のムード歌謡の時代もご当地ソングのナンバー・ワンは長崎だった。高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」(昭和43年)、青江三奈「長崎ブルース」(昭和43年)、そして内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」(昭和44年)の大ヒットへと続く。「長崎は今日も雨だった」も「思案橋ブルース」のヒットがなければ、世に知られることは無かったかもしれない。ところで思案橋とは歌のせいで、長崎の橋だけと思われがちであるが、もともと江戸が元祖で元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋が近くにあり、「行こうか戻ろうか」と思案したので思案橋という名がついたといわれている。

 ないているような 長崎の街

 雨に打たれて ながれた

 ふたつの心は かえらない

 かえらない 無情の雨よ

 ああ 長崎 思案橋ブルース

    ところで長崎で一番有名な橋は、やはり眼鏡橋だろう。石造2連アーチ橋と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えるところから、この名がついたのだろう。寛永11年に興福寺の住職・黙子如定禅師(1597-1657)が造ったものである。昭和57年7月の長崎大水害では崩壊したが、復旧された。画像は昭和40年代前半のもので、周辺マンションなどが建設される以前の眼鏡橋の景観がうかがえる。

「もののあはれ」と山桜

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    JR青梅線の鳩ノ巣駅から川沿いの渓谷を散策する。花と葉が同時に開く山桜の花が美しい。山桜の美しさを感ずる心を、国学者・本居宣長(1730-1801)は次のように詠っている。

  敷島の大和心を人問はば

                     朝日に匂ふ山桜花

  めづらしき高麗もろこしの花よりも

                     あかね色香は桜なりけり

   宣長はこれを「もののあはれ」として、感ずべきことに心を動かすこと、つまり儒教や仏教道徳に捉われずに、美しい花を見たら美しいと感ずる心が大切だと説いている。

    評論家・小林秀雄も桜に魅せられた日本人の一人である。

「さくらさくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」といふ誰でも知っている子供の習ふ琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めづらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌かず思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(小林秀雄「さくら」)

円谷幸吉の栄光と死

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(左から)畠野洋夫(コーチ)、円谷幸吉、南三男、宮路道雄

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   昭和58年から東京オリンピックリのマラソンで日本人初の銅メダルに輝いた福島県須加川市出身の円谷幸吉(1940-1968)の業績を讃えた「円谷幸吉メモリアルマラソン」が毎年行なわれている。昨年の第25回の記録のなかに10km招待選手として宮路道雄の名前をみることができた。

    昭和43年1月7日、宮路道雄は自衛隊体育学校の校庭で偶然に円谷幸吉に出会った。「やあ、明けましておめでとう。今年も頑張ろう」新年の挨拶を交わした二人は、しばらく並んで走った。二人で走るのは、東京オリンピックのレースの朝、逗子海岸で、南三男と三人でジョギングをして以来のことだ。「もうすっかりいいんだろう。よかったなあ。もちろんやるんだろう、オリンピック…」宮路は話かけたが、幸吉はうなづいただけで、それには言葉で答えず、ほかの話題に移した。「宮路君も、目を悪くしたと聞いたけど、もうよくなったのか」「医者に、栄養失調だと、いわれてね。左右とも1.5に戻ったよ。アハハハ…」疲労のためだというと、幸吉が気を使うと思って、宮路は、しきりに栄養失調を強調した。競技のことには、ほとんど触れぬまま、二人は別れた。それが二人の最後の出会いだった。二日後、幸吉は、自衛隊体育学校の自室で肉親と上官に遺書をしたため、剃刀自殺した。

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周囲の人々の善意と好意への謝辞と、その期待に応えられないことへの詫びからなる、せつなくも悲しい円谷幸吉の遺書

熱海と「細雪」

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  熱海在住時代の谷崎潤一郎。右は高峰秀子

    谷崎潤一郎(1886-1965)は79年間の生涯で何度住居を変えたのだろうか。おそらく40回を超えるだろうが、ホテル、別荘、マンションの仮住居も数えるともっと多い。とくに大正12年に箱根で関東大震災にあって以降、京都上京区等持院へ、続いて要法寺へ、そして兵庫県西宮市苦楽園に転居すると昭和18年11月まで阪神間を転々としている。有名な「細雪」は神戸市東灘区住吉東町の倚松庵で書かれたといわれる。関西ブルジョア家庭が描かれているので、神戸で執筆した印象が強いが、実際にその多くを執筆したのは熱海である。昭和17年ころから、谷崎は「細雪」を執筆のために熱海の地を選んだ。昭和17年4月には熱海の西山598番地に別荘を購入している。そして当時の居住地であった神戸が空襲にあう危険がてでてきたので、昭和19年4月に熱海に疎開している。戦後、谷崎は京都の南禅寺と左京区下鴨泉町に転居したが、京都の冬の底冷えの寒さに耐えられず、昭和25年2月、再び熱海に転居し、雪後庵と名づけた。昭和39年には臨終の地となる神奈川県湯河原町吉浜字蓬ヶ平に「湘碧山房」に新築移転している。

    このような引越し魔であるが、その根底には谷崎一流の美意識があるように思える。「細雪」の執筆にはあえて関西をさけて熱海を選び、「新訳源氏物語」のためには京都を選んでいる。作品を書く上げるためには、積極的に環境を変える必要があったのであろう。

満州事変、二・二六事件のころの東北農村の実態

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     奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」

      のポスター  昭和9年

 昭和2年の金融恐慌、4年の世界恐慌の中で、日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。

2008年4月 9日 (水)

ウィーンとザルツブルグ

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        ザルツブルグ(オーストラリア)

   ザルツァッハ川沿いにあるザルツブルクは、美しい町である。古代ローマ人が塩を取りにアルプスを越えてやってきたという歴史がある。モーツァルトの生まれた町ではあるが、あまり彼には好意的ではなかったという。別にその埋め合わせというわけでもないが、毎年行なわれる夏にはモーツァルトを記念する音楽祭を行なっている。

    ウィーンは音楽の都である。ヨハン・シュトラウスの像のある公園のベンチに腰をかけていると、ワルツが聴こえてきそうだ。この公園の近くには、ベートーベンの大きな銅像があり、その向かい側に、演奏会場コンツェルトハウス、並んでウィーン音楽院がある。グルック、ハイドン、シューベルト、ブラームスもウィーンに住んだことのある作曲家である。なかでもモーツァルト(1756-1791)はザルツブルグで生まれたが、25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そしてモーツァルトは経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フイガロの結婚」や「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神がもりこまれている。モーツァルトには時代を見る目があった。

  「人間を高めるのは身分ではなく心だ」

                (モーツァルト)

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北海道に残るアイヌ語の地名

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   二風谷アイヌ資料館の復元伝承家屋アイヌチセ

   アイヌとは「人」の意で、なまって「アイノ」ともいわれてた。近世まで、北海道を中心にして千島列島、樺太南部および東北地方に居住していた。最盛期には、さらに本州中部、アムール川流域やカムチャツカ半島南部等にもその勢力が及んだと思われる。18世紀初めの人口は約28,000人と推定されている。小民族ではあるが、他民族に支配されたことがなく、体質や言語が周囲の諸民族と著しく異なっていたため、学界の注目をひき、その研究がなされたが、いまだ定説をみていない。

   北海道には、アイヌ語の地名に漢字を宛てたとされる地名が数多く残されている。

サッポロペッ(かわいた大きな川)  札幌

ヤムワッカナイ(冷たい水)  稚内

モベツ(静かな川)  紋別

シリエトク(大地の果て)  知床

シベツ(親である川=本流)  標津

クッチャル(湖が川になって流れ出すところ)  屈斜路湖

テシカカ(岩の岸の上)  弟子屈

レブンシリ(沖のほうの島)   礼文島

リシリ(高い島)   利尻島

サク・コタン(夏の村)  積丹半島

モルラン(小さな下り坂)   室蘭

シコツ(大きなくぼみ)   支笏湖

サル(アシ原)    沙流川

ビラウツル(崖と崖のあいだ)  平取

シラウオイ(アブの多いところ)  白老

2008年4月 8日 (火)

サクラの語源

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         大池の桜と筑波山(茨城県)

    しとしと降る春雨に満開の桜も散ってしまった。でも北国ではこれからが本番を迎える。いつの日か桜前線を追いかけて旅してみたい。

    桜の名所といえば、一目千本とうたわれた吉野山が古来から名高いが、嵐山、御室仁和寺、醍醐寺、石山寺、多武峰など京都に近い古くからの名所は多い。だが日本の桜は北は北海道から南は沖縄にいたるまで、各地にそれぞれの野生種があって春の盛りを告げている。今日の朝日新聞夕刊によれば、桜の名所の人気ランキングが掲載している。

 1.吉野山(奈良)

 2,千鳥ヶ淵(東京)

 3.嵐山(京都)

 4.弘前公園(青森)

 5.造幣局(大阪)

 6.上野恩賜公園(東京)

 7.高遠城址公園(長野)

 8.仁和寺・御室桜(京都)

 9.新宿御苑(東京)

 10.醍醐寺(京都)

   この投票は朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」の投票なので都市に偏っているが、この他にも地方にもっと桜の名所が数多くあるだろう。

    サクラ自体の語源は、江戸時代から「古事記」の木花之開耶姫の「さくや」の転訛とされてきたが、大槻文彦は、「麗らかに咲く花」から「咲く」「麗らか」、つまり「咲麗」(サクラ)の名になったと「大言海」で説いている。中村浩(1910-1980)は咲くに、接尾語「ら」がついて成立したと見た。接尾語「ら」は、多数の集まりを示す群(むら)の略とする。咲群(さくむら)からサクラになったという説である。

   ちなみに中村浩博士は食品微生物学が専門で、ウンコを研究し、糞尿博士として知られた。クロレラ研究所を設立。著書に「植物名の由来」「園芸植物名の由来」「糞尿博士・世界漫遊記」がある。

2008年4月 7日 (月)

「熱海ブルース」と「熱海の夜」

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   坪内逍遥(1859-1935)は熱海をこよなく愛し、熱海の地で没した。「わが国の避寒の最優勝地である上に、頗る有効な温泉があり、加ふるに、海と山と田園との三風致を兼ね備えへ、おまけに都会的設備と田舎の趣味を両立せしめているといふ点にある」と熱海の魅力を語っている。(「熱海に関する追憶」)逍遥は大正9年5月に、熱海水口村に別荘を落成し、双柿舎と命名した。ここで昭和10年に没するまで、シェイクスピアの全訳を成し遂げ、「役の行者」「名残りの星月夜」の戯曲を書いた。

 「東の熱海、伊東、西の別府」といわれるほど日本有数の温泉街へと成長した熱海には、古屋旅館、小林屋旅館、相模屋、鱗屋旅館、露木旅館など温泉街としての風格があった。そのため熱海を訪れる著名人も多く、三浦観樹(陸軍軍人)、雨宮敬次郎(実業家)、長與専斎(医政家)、曾我祐準(陸軍中将)、茂木惣兵衛(実業家)、成島柳北(随筆家)、伊藤博文(政治家)、尾崎紅葉(小説家)、尾崎行雄(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、横山大観(画家)、佐佐木信綱(歌人)、谷崎潤一郎(小説家)、広津和郎(小説家)、志賀直哉(小説家)など熱海ゆかりの文人墨客は多い。

   また昭和初期、熱海温泉組合は熱海の宣伝のため流行歌を有名作詞家、作曲家につくらせた。

熱海小唄 藤本二三吉、四家文子 昭和5年

熱海節 四家文子、藤本二三吉 昭和5年

熱海ジャズ 渡辺光子 昭和9年

熱海音頭 歌手不詳 昭和9年

熱海ぶし(西条八十作詞、中山晋平作曲)四家文子

熱海ブルース(佐伯孝夫作詞、塙六郎作曲)由利あけみ 昭和14年

 戦時中、空襲だけは免れることができたが、歓楽街としての熱海は昔日の面影はなくなった。そして昭和24年8月31日のキティー台風、昭和25年4月13日の熱海大火と、たび重なる災難が熱海を襲った。熱海国際観光温泉文化都市建設法を制定し、戦後の復興に努めていった。

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熱海の夕波(佐伯孝夫作詞、倉若晴生作曲)ディック・ミネ、菊池章子昭和23年

熱海シャンソン 青木はるみ 昭和34年

三平の熱海の海岸 林家三平 昭和37年

熱海の雨 春日八郎 昭和41年

熱海渚通り 松山恵子 昭和41年

熱海の夜 箱崎晋一郎 昭和44年

熱海妻 笹みどり 昭和46年

熱海音頭 三波春夫 昭和48年

熱海で逢ってね 五月みどり 昭和49年

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    昭和40年代以降の熱海は、都市化のため昔日の温泉街としての情緒が薄れていった。そしてバブル崩壊により、かつて年間530万人を数えた宿泊客は最近では290万人と減少している。お宮の松で有名な海岸通りに建つ大型観光ホテルの多くが倒産し、それらの中には何年も放置されているのもあるという。かつての男性客・団体客を中心とした日本一の歓楽街も大きく変化することを余儀なくされている。

      熱海ブルース

 きのうきた町 きのうきた町

 今日また暮れて

 つきぬ思いの 湯けむりよ

 雨のにおいも やさしくあまく

 きみは湯あがり 春の顔

  *  *  *  *  *  *  *

      熱海の夜

 たった一度の しあわせが

 はかなく消えた ネオン街(まち)

 忘れられない 面影を

 月にうつした 湯の宿よ

 熱海の夜

「金色夜叉」と丹名トンネル

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 熱海の海岸。明治の頃は砂浜で遠浅だった

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 「金色夜叉」執筆の頃の尾崎紅葉(32歳)

   熱海市は、静岡県の最東部、伊豆半島の東岸基部に位置しており、南西北の三方に箱根山系の山をめぐらし、東方は相模灘に面している。明治以降、熱海は「東洋のリヴィエラ」と呼ばれるほどに観光地、保養地として開発されたが、熱海をこれほどまでに全国的に有名にしたのは「金色夜叉」と丹名トンネルであろう。明治初期は富士山のすそのを迂回する御殿場線であったが、明治22年の丹名トンネルの開通により、東海道本線が熱海を通過するようになった。「金色夜叉」は尾崎紅葉(1868-1903)が明治30年から6年間に「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載した小説である。高等中学生の間貫一が、許婚の鴫沢宮を資産家の富山唯継に奪われ、高利貸となって復讐する愛憎劇。とくに追いかけて許しを乞うお宮を貫一が下駄で蹴り飛ばす熱海の海岸の場面が有名となった。

  熱海の海岸散歩する

  貫一お宮の二人連れ

  共に歩むも今日限り

  共に語るも今日限り

     (「新金色夜叉」作詞作曲・宮島郁芳)

   「金色夜叉」は無声映画の時代からテレビの時代になっても、何度もスターによって演じられた。これまで宮を演じた俳優は、映画では衣笠貞之助、中山歌子、三浦清、川田芳子、栗島すみ子、田中嘉子、浦辺粂子、歌川八重子、久野あかね、田中絹代、佐久間妙子、山田五十鈴、西条麗子、川崎弘子、轟夕起子、山本富士子、テレビでは水谷八重子、朝丘雪路、冨士真奈美、高須賀夫至子、佐久間良子、横山めぐみ。

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    栗島すみ子、岩田祐吉(大正11年)

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  浦辺粂子、鈴木伝明(大正13年)

ブリュッセルの夜

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グラン・ブラスを前に、そびえるブリュッセル市庁舎の夜景

   ベルギーの首都ブリュッセルは、EUの本部やNATO北大西洋条約機構本部(ヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル事務総長)が置かれているため、ヨーロッパの政治の中心地になっている。ブリュッセルの語源は、ブラマン語のブリュック(沼地)とサリ(建物)である。7世紀、この地はブリュックセラ(沼地の家)と呼ばれた。12世紀には都市を囲む城郭が築かれるまでになり、商工業の町として栄えた。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街地にある大広場グラン・ブラスは、17世紀頃の建築物に囲まれ、ユーゴーは「世界一美しい広場」と称賛している。

    フランドル地方は中世、毛織物工業を背景にブリュージュなどが商業の中心地として繁栄した。15世紀、ブルゴーニュ公国に編入、さらにハプスブルク家の支配下に置かれた。1815年のウィーン会議で、フランスの再拡張を抑える緩衝地帯としてオランダに併合された。1830年10月4日、独立革命によりオランダから独立を宣言。翌1831年、レオポルド1世が国王に即位、立憲君主国となった。中立政策をとったが、2度の世界大戦でドイツの侵略を受けた。2008年3月28日、キリスト教民主フラームス党のイヴ・ルテルムが首相に就任した。

文化財の宝庫・小浜

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     十一面観音立像 10世紀

     小浜市 羽賀寺蔵 重要文化財

   北陸福井県南西部に位置する人口3.2万人の漁港の町・小浜市。NHK連続小説「ちりとてちん」の舞台となった。ヒロイン和田喜代美(貫地谷しほり)の父・正典(松重豊)は若狭塗箸の職人。塗箸は全国の9割の生産量を誇る伝統産業。ちなみに「お箸の日」は「ハ・シ」の語呂合わせで8月4日と定められている。「おばま」つながりで話題となっているバラック・オバマ上院議員も8月4日が誕生日であるという偶然が面白い。

   「和名抄」に遠敷郡(おにゅうぐん)遠敷郷とある小浜市は歴史のある町で、かつては大陸文化の玄関口として栄え、「海のある奈良」といわれるほど文化財を所有する古刹が多い。羽賀寺、神宮寺、若狭国分寺、明通寺、万徳寺、妙楽寺、多田寺、空印寺など。

   羽賀寺の本尊・十一面観音立像は顔面から全身にわたってよく残されている彩色がひときわ美しい。やや黄みがかった肉色に花文様や裳のところどころのはなやかな緑と朱の色調は、時代を経て落ち着いた深みのある味わいをみせている。背面内刳りの一木彫で、全体の姿はやはり扁平で硬直したきらいはあるが、翻波式の彫技と着彩との調和を知るうえに好個の作例である。頭部の冠台は幅が広く大仰であり、頭上の化仏の配列や水瓶を持った左腕から、まっすぐに長く伸ばした右腕の手首にかかる天衣の扱い方などにも地方作として個性的な表現が著しい。(引用文献:千沢楨治「世界美術全集4」角川書店)

廬山三絶と美廬別荘

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    江西省廬山は世界文化遺産に登録されているが、自然の景観がすばらしいことで知られている。海の向こうからのぼる朝日、山中に漂う幻想的な雲霧、空から流れ落ちてきたかのような瀑布、つまり日の出、雲霧、瀑布の3つの絶景があることから「廬山三絶」という。

    廬山の歴史は古く、「書経」や「史記」などの書物にも名前が見える。道教、仏教、儒教などの宗教にゆかりの深い山であるとともに、「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一節で知られる白居易(772-846)はじめ、李白、蘇軾など多くの文人墨客を魅了した詩歌の原郷でもある。近代以降は、政治家や文化人らの避暑地として別荘が建てられた。数多い別荘のなかで、もっとも有名なのが蒋介石(1886-1975)の美廬別荘である。1903年にイギリス人が建てたもので、その後、ある外国人女性の所有となり、その女性が蒋介石夫人の宋美齢と親交があったことから、1934年にこの別荘を夫妻にプレゼントしたという。1937年には蒋介石と周恩来がここで会合するなど、歴史の舞台としても知られる。

2008年4月 6日 (日)

春爛漫の熊本城

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    加藤清正(1562-1611)が慶長6年(1601年)から7年の歳月を費やして築城した熊本城(別名、銀杏城)は、日本三名城のひとつで、いま「熊本城築城400年祭」エピローグを迎えている。600本の満開の桜が天守を彩り、武者返しと呼ばれる反り返った石垣に生える桜の美しさも見事である。

    文明年間(1469-1487)菊池氏の一族・出田秀信(?-1485)が、北東隅の小丘に千葉城を構え、大永・享禄年間(1521-1532)鹿子木親員(寂心)(?-1549)が南隅に隈本城(古城)を築城。天正15年、豊臣秀吉が九州統一後、佐々成政が肥後一国に封ぜられて入城したが、翌年改易され、そのあとへ加藤清正と小西行長(1555-1600)とが半国ずつに封ぜられ、清正は隈本城に、行長は宇土城にはいった。慶長5年、関ヶ原の戦いで清正は東軍に、行長は西軍に属し、戦後清正は小西領跡を与えられ、肥後52万石の領主になった。慶長6年、千葉城跡と隈本城との中間にある茶臼山に本丸を置き、両城の範囲を取り囲んで、一大城郭とした。石垣の高く急で丈夫なことは無類といわれる。普請奉行は飯田覚兵衛、森本儀太夫で、後年名古屋城、江戸城などの工事に手腕を発揮した石垣造りの名人であった。慶長12年完成し、本丸には7層7階の天守を建て、隈本を熊本と改めた。

    加藤清正の子、加藤忠広(1601-1652)は寛永9年改易され、そのあとに細川忠利(1586-1641)が小倉から国替えで入城した。細川家は、忠利のあと細川光尚、細川綱利、細川宣紀、細川宗孝、細川重賢、細川治年、細川斉茲、細川斉樹、細川斉護、細川韶邦と11代、240年間、維新まで続いた。

2008年4月 5日 (土)

松竹歌舞伎と松竹映画

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(左より)佐分利信、佐野周二、上原謙、岡田茉莉子、小山明子、高千穂ひづる、佐田啓二、高橋貞二ら松竹映画スター

 松竹の創業は、大谷竹次郎(1877-1969)が京都阪井座を買収した明治28年である。「松竹」の名前は、明治35年、双子の兄の白井松五郎(1877-1951)と共に、松竹合名会社を設立したことに始まる。演劇興行会社で100年以上もの歴史を持つことは世界にもあまり類例がない。

    明治36年1月、1回目の興行は、歌舞伎の実川延二郎(後の2代目延若)一座で、出し物は「曽我の実録」「乳貰い」「左甚五郎」。興行は大成功だったという。竹次郎が大津の連隊に入隊したのを契機に兄松次郎もこの仕事に加わり、2人は競い合うように京阪の劇場を手中にして、明治43年には本郷座と新富座を買収して東京へ進出した。大正3年、歌舞伎座経営、昭和5年には東京劇場を新築開場した。松竹が、映画に乗り出したのは大正9年のことで、「松竹キネマ」を興し、栗島すみ子、川田芳子、五月信子、英百合子、柳さく子、岡田嘉子、伏見直江、歌川八重子、八雲恵美子、田中絹代などの看板女優を中心に蒲田調といわれる女性向映画を得意とした。戦後の松竹大船調では、小津安二郎、木下恵介、大庭秀雄、中村登、吉村公三郎、渋谷実、野村芳太郎などの監督が健在で日本映画の黄金時代を築いた。昭和35年頃から大島渚、吉田喜重、篠田正浩ら松竹ヌーベル・バーグといわれる若手監督が登場する。映画産業そのものは斜陽となったが、松竹では山田洋次監督による渥美清の喜劇路線で不振を何とか乗り切ってきた。岩下志麻、倍賞千恵子、松坂慶子らが長らく松竹の看板女優であったが、近年、田中麗奈が「犬と私の10の約束」「築地魚河岸三代目」「ゲゲケの鬼太郎千年呪い歌」と松竹作品の出演が続いている。

角川春樹とハワード・ヒューズ

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    「愛情物語」クランク・アップ記念撮影

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      「地獄の天使」(1930年)ポスター

   16歳のミュージカルを夢見る少女仲道美帆(原田知世)は3歳の時に捨てられた孤児ではあるが、「あしながおじさん」を探すために長崎へ旅をする。「時をかける少女」(昭和58年)で一躍、薬師丸ひろ子に並ぶアイドル女優になった原田知世の主演第二作は、角川春樹自らが監督した作品「愛情物語」(昭和59年)だった。このように実業家(出版業)がメガホンをとることはめずらしいが、映画の都ハリウッドでもサイレントからトーキーへと代わる時代に、実業家ハワード・ヒューズ(1905-1976)が映画監督をしている。

   1930年、石油成金の息子で大富豪のハワード・ヒューズは初作品「地獄の天使」のヒロインの代役を探していた。主演女優はスウェーデンの女優グレタ・ニッセンであったが、彼女の訛りがひどかったので、トーキー映画に使えなくなった。そんな時、たまたまエキストラの無名女優ジーン・ハーロウ(1911-1937)がスタジオにいた。ヒューズはこの映画に莫大な制作費を投じた。世間はヒューズの愚かさを嘲笑し、その失敗を誰もが予言した。ところが大方の予想に反して、映画は大ヒットした。妖婦ジーン・ハーロウはこの映画で「プラチナ・ブロンド」といわれるセックス・シンボルになった。ジーンが登場する舞踏会のシーンはブロンドを見せるためにテクニカラーが施している。

   最近では「アビエイター」(2005年)という映画で、レオナルド・デカプリオがヒューズを演じている。そしてジーン・ハーロウをグウェン・ステファニー、キャサリン・ヘプバーンをケイト・ブランシェット、エヴァ・ガードナーをケイト・ベッキンセールが演じているというが興味をそそられる。

   ジーン・ハーロウの私生活は不可解をきわめ、1932年、MGMの製作者ポール・バーンと結婚したものの、バーンは謎の自殺をとげた。1933年撮影監督ハロルド・ロッスンと三度目の結婚をしたがこれも長つづきはしなかった。バーンに打たれた腎臓が障害をおこして、1937年6月7日、26歳の若さで急死した。

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阿修羅

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 阿修羅とは梵語「アスラ」で「呼吸」の意味。ペルシアの善神アフラと同義で古くはすぐれた精霊の意味にも用いられたが、のち戦闘を行なう鬼神の一類とみなされるようになり、常にインドラ(帝釈天)と争う闘争的な悪神とされた。仏教では八部衆の一として仏法を守護する神とされた。とくに興福寺の阿修羅像は知られている。三面六臂の奇怪な姿で、細い蜘蛛手のような六本の腕がある。阿修羅の眉を寄せた憂いの表情には仏の深い愛情がよく表現されている。仏の真実がこれほど芸術の香気高く表現された例は稀であり、天平芸術の精華が、まさにここにある。

冬のソナタとジェーン・エア

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   今日からいよいよ太王四神記(第1回)の放送がNHK総合テレビである。主演のペ・ヨンジュン、イ・ジアの来日が6月1日に決定し、韓流ブームPart2が始まろうとしている。

   ところで、旧聞になるかもしれないが、「冬のソナタは嵐が丘で始まり、ジェーン・エアで終わる」というのは真説だろう。冬ソナ、ユジンとチュンサンとの出会いは転校生という設定だが、嵐が丘では哀れな父(てて)なし子・ヒースクリフを主人が拾って屋敷へ連れてくるところから物語が展開する。冬ソナ最終回、ユジンとチュンサンが再会する場面は、盲人となったロチェスターとジェーン・エアとの再会と酷似している。もちろん馭者は車の運転手になっているが。

       *      *     *     *     *    *

    ロチェスターが30マイルばかり離れた、自分の荘園に住んでいるときいて、ジェーンは二輪馬車を頼んで早速出発した。陰気な森が繁っていた。花崗岩の門柱の鉄の扉から入ると、あたりはぐっと暗くなった。建物は見つからなかった。森の中の暗さと日暮れの本当の暗さとが迫ってきた。そのうち、少し木立がまばらになり。家が見えてきた。正面に二つの破風があり、窓は狭かった。正面の入口も狭く、一つ踏み段がついていた。近づくと、木の葉に降る雨の音に混じって、内で物音がした。狭い入口の扉が動いて、一人の男が立っていた。暗かったけれども、紛れもなくエドワード・ロチェスターである。この一年の間に、彼の力強さは失われてはいなかった。毛髪も豊かで黒かった。しかし、彼の容貌の変化は、絶望的な暗さであった。金の縁のある眼を残忍にえぐり取られた捕われの鷲は、あの盲のサムソンのような様子をしていたのではないだろうか。「放っておいてくれ」と言ったが、ジェーンが一年ぶりに聞いた、ロチェスターの最初の声であった。それは、腕を貸そうとしたあの馭者のジョンに言われた言葉であった。ロチェスターが内に入って、メアリーがコップの水とろうそくを持って行くことになった時、ジェーンが代わりに行った。

   「おまえ、メアリーじゃないないな?」と彼は言った。「メアリーは台所でございますよ」とジェーンは答えた。ロチェスターは素早く手を差し伸ばした。手はまだジェーンに届かぬまま、「誰です?誰です?もう一度、今の声で答えておくれ」とロチェスターの声は高くなった。

      *   *   *   *   *

 もちろん冬ソナがパクリだというつもりはない。むしろ世界文学はいつの時代も人を感動させる力をもっていることの証をしただけである。

2008年4月 3日 (木)

映画にみるクレオパトラ

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  古代エジプト、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ(前69-前30)はその美貌をもってして歴史にその名を知られるが、彼女は本当に美人だったのだろうか。残念なことにクレオパトラが美人だったという証拠は何もない。ただプルタルコスの記録には、「彼女に親しく接することには、抵抗できない魅力があった。そして彼女の容姿は、説得力にみちた言葉や、そのふるまいに多少とも表れていた独自の性格と結びついて、一種の心地よい刺激をかもし出した。彼女が語るとき、その声の響きは甘く快かった」とあるように魅力的な女性だったことは間違いなさそうだ。実際は小柄で痩せ型だったといわれるクレオパトラを絶世の美女にしたのは、やはり映画の影響が大きいだろう。無声映画時代からクレオパトラはスクリーンに登場した。セダ・バラの「クレオパトラ」(1917年)は彼女の数ある出演作のなかでも、有名な作品となった。続いてクローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1939年)、ヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」(1945年)、リンダ・クリスタルの「クレオパトラ」(1959年)などがあるが、なんといっても20世紀フォックスが社運をかけた超大作、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」(1963年)がクレオパトラ映画の決定版であろう。その後もヒルデガード・ニールが「アントニーとクレオパトラ」(1971年)で演じているが、エリザベス・テーラーを超える存在感のあるクレオパトラはスクリーンでは登場していない。

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  セダ・バラ

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  クローデット・コルベール

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  ヴィウィアン・リー

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  リンダ・クリスタル

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  ヒルデガード・ニール

2008年4月 2日 (水)

「解語の花」楊貴妃

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  楊貴妃   上村松園画

    「クレオパトラか楊貴妃か」といわれるほど、唐の楊貴妃は美人の典型になっている。だが、ひとくちに「美人」と言っても、その基準をどこに定めたらよいのか難しい。中国でも、六朝時代には、痩せ型で、柳腰の、すらりとした女性がもてはやされた。しかし、唐代にはいると、ふっくらと太った、ふくよかな感じの女性が美人の典型とされるようになった。つまり則天武后も、楊貴妃も、いわゆる肥満型美人であった。唐代の後宮を多彩に飾る美女たちの群れは、一様に、どっしりと、悠然としていたであろう。

    楊貴妃(719-756)は740年の驪山温泉宮(華清宮)行幸のとき玄宗にみそめられ、745年後宮の最高位である貴妃の称号を与えられた。ときに玄宗62歳、楊貴妃27歳であった。

    ある秋のことである。玄宗皇帝と楊貴妃が唐長安城大明宮にある庭園の太液の池を供を連れて散歩していた、池には美しい蓮の花が咲いていた。人びとはその美しさに思わず嘆声を発した。すると玄宗が傍らの楊貴妃を指さしていった。

「いかで我が解語の花に如(し)かん」

    解語とは言葉の意味を解するということ。つまり「わしの、言葉のできる花の方がよほど美しいわい」というのである。この逸話より「解語の花」とは美人のことをいうようになった。出典は王仁裕の『開元天宝遺事』

 さまざまな楊貴妃の画像

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禁断の個人教授

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  沖縄の女性中学教諭が教え子の生徒が好きで淫行に及んだとして逮捕される記事を読んだ。なぜかフィンガー5の「個人授業」(作詞・阿久悠)のメロディーがでてきた。

  いけないひとねといって

  いつもこの頭をなでる

  叱られていてもぼくは

  なせかうっとりしてしまう

  あなたはせんせい

  授業をしている時も

  ぼくはただ見つめているだけ

  魔法にかかったように

  昼も夢みている気分

  あなたはせんせい

  あこがれのあのひとは

  罪なことだよ せんせい

  出来るなら個人授業を

  受けてみたいよ ハハハー

  学校帰りの道で

  じっと待つこの身はつらい

  毎日毎日同じ場所で

  ただこうしているよ

  あなたはせんせい

  はやりのドレスをいつも

  しゃれてきこなしてるひとよ

  けっこうグラマーなことも

  ぼくは気がついてるんだよ

  あなたはせんせい

  今度の休みになれば

  部屋へたずねることにしよう

  ちょっぴり大人のふりで

  愛のことばなどを持って

  ちらちらまぶたにうかぶ

  とても勉強など駄目さ

  このままつづいて行けば

  きっと死んでしまうだろう

  あなたはせんせい

    昭和47年から48年にかけて沖縄出身の五人兄弟の歌謡アイドル・グループ・フィンガー5は「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」と次々と学園ソングのヒットを連発し、多くの若者の心を捉えた。ファッションでもアキラのトンボメガネが大流行。そもそも「個人授業」は、フランス映画「個人教授」がモチーフにあるように思える。高校生ルノー・ベルレーと美しい年上の女性ナタリー・ドロンとの禁断の恋を描く。歌や映画の世界では年の差の愛は存在しえても、現実の世界では愛が「みだらな行為」「淫行」として法の裁きを受けることになる。たとえふたりが愛し合っていたとしても、「許されない愛」「禁断の愛」がこの世に存在するのだろうか。汝、姦淫することなかれ。

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