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2008年3月22日 (土)

福沢諭吉と上野戦争

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 福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦

 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

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コメント

昨夜NHKで、ドラマ化する「翔ぶが如く」の特番をしていました。その中で阿部寛演ずる秋山好古が、日本で一番えらい人は福沢諭吉だと言っていました。
僕は福沢の脱亜論に抵抗を覚えます。

慶喜追悼→慶喜追討ですよね。校正をよくするのでつい……。

さとるさん、いつも校正していただきましてお礼申し上げます。福沢の脱亜論(明治18年)は清仏戦争、朝鮮甲申事変というアジア諸国の客観情勢を踏まえて提起されたものです。そして脱亜意識とアジア諸民族に対する蔑視は表裏の関係にあります。近代日本の歩みの中で戦争とは何だったのか、ということは最も重要なテーマの一つですが、その意味でも「坂の上の雲」のドラマ化は注目したいと思います。

『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を間違えてました。察していただき有り難うございます。コメントは訂正でないのが悔しいです。

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