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2008年3月16日 (日)

パリ会議と明石元二郎

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    日露戦争の勝因の一つとして、陸軍の行ったすぐれた諜報・謀略活動があった。それが明石元二郎大佐が担ったヨーロッパにおける後方撹乱工作(明石工作という)である。明治35年夏、陸軍総帥の山県有朋はロシア革命援助工作として明石に100万円(:現在の100億円)もの大金を渡して、対露謀略工作を開始させた。

    明石はロシアのアキレス腱は民族問題であると見抜いていた。明治37年10月1日、パリである秘密会議が開かれた。出席したのは、自由党、革命党、フィンランド憲法党、ポーランド国民党、ポーランド社会党、アルメニア革命連合、グルジア革命的社会主義連邦派党の各党主や代表メンバーであった。会議の議長を務めたのは、フィンランド憲法党の党主コンリー・シリヤクスであった。会議の目的は、ロシア皇帝とその政府をいかに転覆させるかであった。その結果、各党の利害関係はさておき、帝政ロシア打倒という一点で各党が協力し、反ロシア行動を推進することが決まった。この会議を裏から画策したのが、他ならぬ明石大佐である。

    明石元二郎(1864-1919)は、万治元年に福岡藩士明石助九郎の二男として生まれた。父親は二千石以上の上士だったが、若くして自殺している。明治9年、上京し、安井息軒の門に入り、漢学を修め、明治20年に陸大を卒業。陸士卒業時の成績はフランス語がトップ、製図と絵画に優れていたが、運動神経は著しく劣っていた。熱中すると周囲に目が入らなくなる性格であるために、協調性という点でも評価は低かった。明石の異常なまでの集中力を示す逸話がある。

    ある時、明石元二郎は構想を述べるため山県有朋を訪ねた。語るにしたがい、明石は夢中になり小便を漏らした。尿意を感じたが、面倒だと思ったのか、そのまま話を続けたので、小便は床を伝わって山県の足元を濡らした。それでも語ることを止めない明石の熱心さにほだされて、山県も黙って終わりまで話を聞いていたという。

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