教育博物館と手島精一
教育博物館は、明治10年1月に創設され、同年8月から一般に公開された。教育博物館とはその名が示すとおり、いわゆる自然史資料を収める博物館ではなく、教育に関する資料を収集展示する博物館として構想され、通常の陳列展示主体の博物館活動にととまらず、当時としては斬新な講演会、講習会の開催、さらに館内に製作工場を設けて教材用の理化学器機や博物標本を製作し学校へ払い下げ、明治10年代の学校教育ならびに社会教育に貢献してゆくのである。教育博物館は後に東京教育博物館と改称、東京図書館との合併を初めとして、幾多の組織改変を経、現在の国立科学博物館へと至る。
現在、国立国会図書館所蔵本に蔵書印「教育博物館印」のある2万点近い技術関係並びに教育関連の和書・洋書は、工業教育の父と讃えられる同館長・手島精一(1849-1918)の蒐集によるところが大きい。手島精一は嘉永2年、沼津藩主水野忠寛の江戸藩士田辺四友の二男として生まれた。明治4年、岩倉具視大使の米欧巡視に従う。明治11年、パリ万国博に参加。「今回の博覧会にあらわれたヨーロッパの工業力の発達ぶりは素晴らしいです。将来の日本を富強にするには、どうしても工業力の培養に意を用いるべきです。何よりも産業の振興です。この実際知識を授ける工業学校を設置することです」と語る。
社会教育の充実を願う手島と学校教育重視の森有礼との厳しい対立があったが、明治22年に手島は教育博物館館長を辞し、東京工業学校(現・東京工業大学)の校長に就き、大正5年まで断続的に校長の地位にあり、教育と産業とを結ぶ実業教育・社会教育の振興に終始努力した。
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