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2008年3月25日 (火)

ヘッセとドストエフスキー

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    ドストエフスキー(1821-1881)

   ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の1919年の一文に「カラマーゾフの兄弟またはヨーロッパの没落」(高橋健二訳『若き人々へ』人文書院)があるが、ここではその一節を紹介する。

    ドストエフスキーの諸作の中では、特に『カラマーゾフの兄弟』において私がひそかに「ヨーロッパの没落」と呼ぶものが、最も強くもりあがり、異常な明らかさで、表現され、予言されているように思われる。ヨーロッパの青年、特にドイツの青年が、ゲーテでなく、またニーチェでもなく、ドストエフスキーを、彼らの偉大な作家と感じていることは、われわれの運命にとって決定的であると、私には思われる。そう思って、最近の文学をながめると、いたるところに、ドストエフスキーへの近似が見出される。もっとも、それが単に模倣であり、子どもらしい印象を与えるに過ぎないことも、しばしばなのだが。カラマーゾフの理想が、非常に古いアジア的神秘的理想が、ヨーロッパ的となり始め、ヨーロッパの精神を食いつくし始めている。それが、私がヨーロッパの没落と呼ぶところのものだ。この没落は、母へ帰ることを意味する。それはアジアへ、源泉へ、ファウストの母たちへ帰ることであり、もちろん地上のすべての死がそうであるように、新しい誕生に通じるであろう。この過程を、「没落」と感じるのは、われわれだけである。われわれと同じ年輩のものだけである。古いいとしい故郷を去る時、悲しみと取り返しようもない喪失の感を抱くのは、老人だけであって、これに反し、若いものは、新しいものを、未来を見るだけである。ちょうどそれと同じようなものである。

   だが、私がドストエフスキーに見出す「アジア的」理想とは、ヨーロッパを征服しようとしていると私の思う「アジア的」理想とは、どんなものか。

    それは簡単に言えば、一切を承認するために、また長老ゾシマが予告し、アリョーシャが実践し、ドミトーリが、そしてずっとそれ以上にイワン・カラマーゾフが極度に明らかな自覚に達するまでに表白している、一つの新しい危険な恐ろしい神聖さのために、あらゆる固定した倫理と道徳から離反することである。長老ゾシマの場合はまだ、正義の理想が支配している。彼にとっては、ともかく善と悪とが存在している。ただ彼は彼の愛を、ほかならぬ悪人に特に好んで注ぐのである。

    アリョーシャの場合はもう、新しい神聖さの方式が、ずっと自由に生き生きとして来ており、彼はもうほとんど、無道徳的な自在さで、身辺のあらゆる汚れと泥の中をとおりぬけている。しばしば彼は私に、「あらゆる不快感を脱却することを、自分はかって誓った」というツァラツストラのあの最も高貴な誓約を想起させる。しかし、見よ、アリョーシャの兄たちは、この思想をもっともっと押し進め、もっと思い切ってこの道を進んで行く」そして、しばしば、外観はどうあろうと、カラマーゾフ兄弟の関係は、厚い三巻の本の進行の間に、徐々にまったく向きを変え、確固として存在している一切のものが次第に再び疑わしくなり、聖なるアリョーシャが次第に世俗的に、世俗的な兄たちが次第に神聖になり、最も犯罪人的な無頼なドミートリが、新しい神聖さ、新しい道徳、新しい人道の、最も神聖な、敏感な、切実な予感者となるかのように、思われる。それははなはだ奇妙である。いよいよカラマーゾフ的で、背徳的で、飲んだくれで、無頼で、粗暴になればなるほど、この粗暴な現象や人間や行為の肉体を通して、新しい理想がいよいよ近く光を発し、それは内面的にはいよいよ精神化され、神聖になる。飲んだくれで殺害者で暴行者であるドミートリと、犬儒学者的な知識人イワンとを並べると、検事やその他の市民階級の他の代表者たちの、律義な、きわめて儀礼的なタイプは、外面的に勝ち誇れば誇るほど、いよいよみすぼらしい、うつろな、価値のないものとなる。

   このような、ヨーロッパ的精神の根をおびやかす「新しい理想むはまったく無道徳的な考え方であり、感じ方であるかのように見える。それは精神的なもの、必然的なもの、運命的なもの、極悪なものの中にも、極度に醜いものの中にも感知し、そういうものに対しても、いや、まさにそういうものに対してこそ、尊敬と礼拝とをささげる能力であるように思われる。検事は大弁舌を振るって、このカラマーゾフ的背徳を皮肉に誇張して表現し市民たちの嘲笑にゆだねようとするが、その試みは、実際になるどころか、かえってきわめて穏やかなものにとどまっている。

   この演説の中で、保守的市民的な立場から、それ以来通りことばとなった「ロシア的人間」が描写されている。危険で、いじらしくて、無責任で、しかも良心的に敏感で、気が弱く、夢想的で、残忍で、しんから子どもらしい「ロシア的」人間である。今日でも人は好んでそう呼んでいる。もっとも私の信じるところでは、そのロシア的人間は、ずっと前からヨーロッパ的人間になりかけている。それこそまさに「ヨーロッパの没落」である。

   このヘッセの一文は第一次世界大戦直後の不安に時期に書かれたものであり、当時の精神状況を知るうえで今日でも意義ある文献と考える。文章を理解しやすくするため、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物を紹介しておこう。

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ カラマーゾフ家の家長。地主階級とは名ばかりの、ほとんど裸同然の身から出発し、居酒屋の経営や金貸しなどのあくどい稼業で身代を築き上げた成り上がり者で、抑制のきかぬ激しい情熱をもつ物欲と淫蕩の権化、自分も堕落し、まわりにも堕落をまきちらすシニカルな毒舌家で、「ロシアは豚小屋だ。ロシアの百姓は叩きのめす必要がある」などとうそぶく。彼はグルーシェンカに淫蕩の血を狂わせ、血道を上げている。最後に非業の死をとげる。

アデライーダ・イワーノヴナ その妻。富貴な家庭に生まれながら、フョードルを買いかぶって結婚し、一児をもうけたが、のちに愛想をつかして、他の男とかけおちする。

ソフィヤ・イワーノヴナ その後妻。二人の息子を生んで死ぬ。

ドミートリ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称ミーチャ) 長男。父からカラマーゾフ的な抑制のきかぬ情熱を譲りうけたが、同時にロシア人的純粋さを持つ男である。酒色に溺れ、底抜けのばかさわぎをやらかすが、心の底には高潔なものへの憧れが生きている。広いロシア的性格への憧れが生きている。彼はグルーシェンカの肉体の美しさに夢中になると、許婚を放り出してしまい、父親を敵視し、殺してやりたいと悩む。27歳。

イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 次男。大学出の秀才。父の人間蔑視が異なった形で彼に投影している。彼は神を否定し、「神の創ったこの世界を認めぬ以上、人間にはすべてが許される」という独自の理論を打ちたてる。無神論者であり、虚無主義者である。彼にもやはりカラマーゾフの血が流れている。それは兄ドミートリの許婚カテリーナに対する狂おしい思慕に現れる。ドミートリが肉体的になら、イワンは理論的に、父を憎悪していることは同じである。

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称アリョーシャ) 三男。僧院で愛の教えを説くゾシマ長老に傾倒する純真無垢な青年。彼は誰からも、父からも愛され、天使と呼ばれている。しかし、彼の内部にもカラマーゾフの血が流れていることは、だれよりも彼自信が知っている。20歳。

スメルジャコフ  フョードルが乞食女に生ませた私生児。てんかんの病をもつ。下男としてうわべは実直に働いているが、浅薄で、奸智にたける。差別あつかいされているだけに、父フョードルを憎む気持ちは誰よりも強く、フョードルを殺して金を奪い、犯罪をドミートリに転嫁する。

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