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2008年3月30日 (日)

秋田立志会会長・柴田浅五郎

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「図説秋田県の歴史」収録の柴田浅五郎の顔写真

   明治13年、板垣退助、河野広中らの民権運動に応じて8月10日に秋田立志会が結成された。立志会の生みの親の柴田浅五郎とはどのような人物だったのだろうか。わずかに残る不鮮明な写真からは理想に燃えた青年のようにみえる。秋田事件(平均事件、おならし事件ともいわれる)という金品目的の強盗犯の親玉にはとても見えない。この写真はおそらく当時の新聞に掲載されたものを何度も複製したものと思われるが、通常、写真を丸型にするときは善人、四角の写真は罪人、とするという慣例がある。(もちろん絶対ではないが)と、するとこの写真の初出は秋田事件の報道の写真ではなくて、立志会の機関誌であろうか。

   柴田浅五郎は平鹿郡吉田村の中農の生まれで、政治的関心が強く行動的な青年であった。明治9年ごろから上京し、民権思想にふれ、明治12年には土佐に遊学してさらに理解を深め、明治13年に秋田に帰って立志会を設立した。明治13年11月、国会期成同盟第2回大会が東京で開かれたとき、柴田は腹心の内桶圭三郎(士族・教員)とともに「秋田立志会2645名総代」として出席、大会後も急進グループに交じって国会開設請願活動をつづけた。請願はもとより藩閥政府の容れるところとならなかった。こうした活動のなかで柴田はしだいに政府転覆の考えをもつようになり、帰県後は村々を回って民権運動のきびしい情勢を説明し、そのうち実力で政府を変えるときがくることを密かに語った。立志会の急激な発展に不安をいだき、民権運動弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放ってこれを挑発した。インフレのなかで生活に苦しんでいた一部の立志会員がその挑発にのり、明治14年6月8日、平鹿郡阿気付村藤巻部落(現・大雄村)の豪農・須藤六郎右衛門宅を襲撃、さらに付近の豪農を襲撃しようとした。翌9日、立志会の幹部は内乱陰謀の廉で逮捕・投獄された。これが秋田事件で呼ばれるものである。

   農民的基盤にたっていた秋田立志会は、秋田事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まるやふたたび結集の動きがあり、同年半ばころには秋田自由党を組織し、板垣退助らの自由党と連携をとっている。党員の組織は15年末から翌17年5月には412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占めるにいたっている。このことは、柴田浅五郎らの秋田立志会の運動が激しい弾圧のなかでも県南農民のあいだに深く根を張っていたことを表わしている。柴田浅五郎は、明治17年3月、懲役10年の判決を言い渡され、投獄されたが、明治22年、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅した。やがて不遇のうちに、明治26年亡くなったという。(引用文献:「図説秋田県の歴史」河出書房新社)

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