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キャサリン・ヘプバーン(1907-2003)
映画雑誌スクリーンが900号を迎えた。メモリアルな5月号の表紙を飾ったのはジョニー・デップではなくてオードリー・ヘプバーンだった。移ろいやすものの代表のように言われるスターの人気であるが、日本では依然としてオードリー・ヘプバーンの人気は根強いものがある。今から40年も前の話だが、高校世界史の授業で先生が「僕はオードリー・ヘプバーンよりキャサリン・ヘプバーンのほうが好きだ」といったことをよく覚えている。あのキャサリン・ヘプバーンのキツネ顔のどこがいいのかわからなかった。スクリーン表紙にはこれまでエリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブ等の大スターがその表紙を飾ってきたが、「勝利の朝」「招かれざる客」「冬のライオン」「黄昏」で4度のオスカーに輝く大女優キャサリン・ヘプバーンはおそらく一度も表紙に登場したことはないであろう。川端康成のエッセイ「新鮮」に次のような女性観が示されている。
私たちはよく映画女優で誰が好きかとたずねられる。私は外国女優の名前など忘れやすい方だし、おぼえようともしないが、誰と限らないで、成功した第1作の女優が好きだと答える習わしだ。成功した第1作の女優は新鮮だからである。たとえば、「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーン、「芽ばえ」のジャクリーヌ・ササール、「うたかたの恋」のダニエル・ダリュー、エリザベス・テーラーの場合は少し極端だろうが「緑園の天使」の役の少女である。
川端康成の美少女趣味は「芸術の新鮮」という第一条件をもって大勢の日本男性の賛同を得ているかのように思われる。ところが、欧米諸国では、新鮮な少女よりも、年齢を積み重ねて美しくなる大人の女性が賞賛される傾向にあるようだ。フランスに行って女性について話をすると、「あなたはベルファムとジョリファム、どちらの女性がお好きですか?」と聞かれる。ベルファムとはうまれながらの美人であるが、さらに年齢を重ねて魅力を増していく女性であり、ジョリファムとは後天的に磨き上げられて美しくなる、エステや美容、知性と洗練さ、なども習得して魅力を増した女性である。つまりは、天然素材としての美少女はまだ女性の魅力としては対象外となっている。文豪川端康成の影響力たるや、恐るべし哉!アメリカの週刊誌「ピープル」が行った調査「史上最高の女優は?」との問いに、キャサリン・ヘプバーンと答えた人は全体の36%に達し、ダントツの1位だった。キャサリン・ヘプバーンは美人ではない。しかし、美しい人だった。ゴージャス、エレガンス、インテリジェンス、ソフィスティケーション、といった「美しい人」を構成する要素をすべて備えた女優だった。
1889年のパリ万国博覧会開催を決定したフランス政府は、会場入口に1870年の敗戦から立ち直るフランスを象徴する記念碑を建てることを望んだ。いくつかの計画が提出されたが、結局、技師ギュスターヴ・エッフェル(1832-1923)の案が採用される。塔はフランスでつくられた金属による構築物の領域での偉大な進歩の象徴であった。300メートルの高さの塔の出現は前代未聞だった。ちなみに高い建造物といえば、
トリノのアントネリアーナ塔 170m
ワシントン記念塔 169m
ケルン大聖堂 156m
ギゼーのピラミッド 146m
サン・ピエトロ寺院 132m
したがって、エッフェル塔の高さは当時、人間が建てた建造物では世界一だった。だが、同時代の人びとからはひどく嫌われる。1897年2月にはメッソニエ、ジェロームなど官展派の画家と、ドーメ、ケルテス、ヴォードルメなどのアカデミー会員を含む150人の名士によるエッフェル塔撤去の請願書が作成されている。作家のユイスマンは、「穴のあいた燭台」といった。しかし塔の美学は次第に画家たちを魅惑していく。ジョルジュ・スーラ、ラウル・デュフィ、アンリ・ルソーがエッフェル塔を描いた。とりわけロベール・ドローネー(1885-1941)はルソーの影響によってエッフェル塔の連作を描きはじめた。
赤いエッフェル塔 ドローネー シカゴ美術館蔵
桜も咲いて、明日から4月がスタートします。そして今日、3月31日はその準備をするため忙しい一日です。当ブログでも装い新たにテンプレートを変更しました。
イメージは「4月のパリ」。「大切なのは普通の語で平凡なことを言うことである」(ショウペンハウエル)という名言があります。例えば、「富士山」「桜」「バラ」をテーマにして記事を書くとすれば、案外と難しいのです。反対に「寺田望南」とか「伊藤鶴吉」だと情報量が少ないので短時間で記述できます。「平凡」「月並み」「大衆性」「世俗的」というのは、意外と奥深いものなのかも知れません。ちなみに平凡社という名称の出版社が学術的に優れた本や百科事典を刊行していることを考えると、「平凡」ということは、とても大切なことなのだとつくづく思います。
伊藤鶴吉
イギリス人女性のイサベラ・バード(1831-1904)が日本に来たのは、明治11年のことであった。イサベラは横浜で伊藤という青年を通訳兼案内人として雇い、東京を起点に日光から新潟、山形、秋田、青森を経て、北海道まで北日本を旅行している。イサベラは著書『日本奥地紀行』で伊藤という青年を、狡猾な面もあるが、通訳としては優れていることを記している。たとえば「彼は普通の英語とは違って立派な英語を話したがっており、新語をおぼえようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日、彼は私が用いるが彼には良く分からない単語を全部ノートに書き付けて、晩になると私のところへもってきてその意味と綴りを習い、日本語の訳をつける」とある。この伊藤という青年は、最近の調査で、伊藤鶴吉(1857-1913)であることが判明している。イサベラ47歳、伊藤鶴吉20歳の日本での旅行であった。だが伊藤の晩年について、詳しいことはなにも知らない。
「図説秋田県の歴史」収録の柴田浅五郎の顔写真
明治13年、板垣退助、河野広中らの民権運動に応じて8月10日に秋田立志会が結成された。立志会の生みの親の柴田浅五郎とはどのような人物だったのだろうか。わずかに残る不鮮明な写真からは理想に燃えた青年のようにみえる。秋田事件(平均事件、おならし事件ともいわれる)という金品目的の強盗犯の親玉にはとても見えない。この写真はおそらく当時の新聞に掲載されたものを何度も複製したものと思われるが、通常、写真を丸型にするときは善人、四角の写真は罪人、とするという慣例がある。(もちろん絶対ではないが)と、するとこの写真の初出は秋田事件の報道の写真ではなくて、立志会の機関誌であろうか。
柴田浅五郎は平鹿郡吉田村の中農の生まれで、政治的関心が強く行動的な青年であった。明治9年ごろから上京し、民権思想にふれ、明治12年には土佐に遊学してさらに理解を深め、明治13年に秋田に帰って立志会を設立した。明治13年11月、国会期成同盟第2回大会が東京で開かれたとき、柴田は腹心の内桶圭三郎(士族・教員)とともに「秋田立志会2645名総代」として出席、大会後も急進グループに交じって国会開設請願活動をつづけた。請願はもとより藩閥政府の容れるところとならなかった。こうした活動のなかで柴田はしだいに政府転覆の考えをもつようになり、帰県後は村々を回って民権運動のきびしい情勢を説明し、そのうち実力で政府を変えるときがくることを密かに語った。立志会の急激な発展に不安をいだき、民権運動弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放ってこれを挑発した。インフレのなかで生活に苦しんでいた一部の立志会員がその挑発にのり、明治14年6月8日、平鹿郡阿気付村藤巻部落(現・大雄村)の豪農・須藤六郎右衛門宅を襲撃、さらに付近の豪農を襲撃しようとした。翌9日、立志会の幹部は内乱陰謀の廉で逮捕・投獄された。これが秋田事件で呼ばれるものである。
農民的基盤にたっていた秋田立志会は、秋田事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まるやふたたび結集の動きがあり、同年半ばころには秋田自由党を組織し、板垣退助らの自由党と連携をとっている。党員の組織は15年末から翌17年5月には412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占めるにいたっている。このことは、柴田浅五郎らの秋田立志会の運動が激しい弾圧のなかでも県南農民のあいだに深く根を張っていたことを表わしている。柴田浅五郎は、明治17年3月、懲役10年の判決を言い渡され、投獄されたが、明治22年、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅した。やがて不遇のうちに、明治26年亡くなったという。(引用文献:「図説秋田県の歴史」河出書房新社)
長かった北国の冬も4月になると、春と夏が競り合って一度にやって来るような気がする。阿寒湖に春を告げる風物詩は、遊覧船の運航再開に向け、氷をばりばりと割りながら氷砕船が航路をつくる作業が4月上旬ころから行われる。そして湖畔には太陽の光を浴びて小さな緑の芽がいきづきはじめ、水芭蕉が白い花を咲かせる。森の小鳥たちも待ちかねたように賑やかにコーラスをうたいはじめる。やがて5月も中頃になると湖岸のえぞむらさきつつじが一斉に咲き乱れ阿寒観光の序曲となる。
阿寒湖といえばマリモが有名である。明治30年、札幌農学校の川上瀧弥農学博士(植物学)が採集し、翌年に学会に発表し、和名を「マリモ」と命名した。大正10年、天然記念物に指定、さにら昭和27年3月29日、特別天然記念物に指定されている。この日に因んで「マリモの日」が制定された。この濃緑の球は大きいものになると直径30センチに達するものもあり、現在、阿寒湖北部のチュウルイ島とキネタンペの二ヶ所にしか生息していない。昭和36年にチュウルイ島にマリモ展示観察センターを造り、遊覧船が寄航し容易にマリモの生態を観察することができる。
毬藻の歌
水面をわたる 風さみし
阿寒の山の湖に
浮ぶ毬藻よ なに思う
毬藻よ 毬藻 緑の毬藻
(作詞・いわせひろし、作曲・八州秀章)
海軍の昇進は兵学校の卒業年次と成績順位が基準となっている。平時は年功序列でもよいかもしれないが、戦時は序列無視の適材適所の人事が絶対に必要であろう。だが、長い人事の伝統は戦争という非常事態でも直せなかった。
「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母4隻を一瞬にミッドウェー海戦で失った南雲忠一機動部隊司令長官(海兵36期)は、帰途、連合艦隊旗艦「大和」に移り、山本五十六長官に敗戦を報告した。南雲長官以下、幕僚全員の自決が先任参謀から提案されたが、参謀長の草鹿龍之介少将(海兵41期)が押しとどめた。草鹿は山本に「仇をとらせてください」と涙を流しつつ哀訴した。じっと聞いていた山本は、最後に一言「わかった」と応えたという。結局、山本長官の温情主義が大きな過ちを生み、日本の運命を決めることになる。もともと南雲中将は水雷戦隊の指揮が専門で、航空専門ではなかった。山本長官も南雲は適材適所ではないと感じていたが、南雲中将に機動部隊を託したのは、兵学校の卒業年次にとらわれたからだったといわれている。海軍は上級者ほど信賞必罰の気風に欠けていたのだ。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)
山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。
山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。
しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、絞首刑になった。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)
舞台劇「復活」のネフリュードフとカチューシャ
大正期の新劇女優・松井須磨子(1886-1919)の「カチューシャの唄」(トルストイ原作「復活」)が一世を風靡したのは大正3年3月のことである。
カチューシャ可愛や
別れのつらさ
せめて淡雪とけぬまに
神に願いをララかけましょか
須磨子の歌うこの哀切のメロディーは人々を魅了した。レコードは2万枚を売り尽くという前例のない人気ぶりであった。これにつづいて芸術座はツルゲーネフ原作「その前夜」。この主題歌「♪命短し恋せよ乙女」の「ゴンドラの唄」も大ヒット。吉井勇の「生ける屍」の主題歌「♪行こうか戻ろかオーロラの下を」の「さすらすの唄」。そして大正7年9月のハウプトマン原作、レスピーギの歌劇「沈鐘」で松井須磨子は森の妖精ラウテンデラインに扮した。劇中歌は「水藻の花」と「森の娘」(作詞・北原白秋、作曲・中山晋平)。遠藤さんがお探しの第5幕「♪森の姫とも歌われた、それは昔の夢じゃもの」という歌い出しではじまる「水藻の花」は作詞は島村抱月(1871-1918)と楠山正雄(1884-1950)、作曲は小松耕輔(1884-1966)。
歌詞を調べるため国立音楽大学附属図書館のデーターベース「童謡・唱歌索引」を検索すると1件ヒットした。図書・楽譜ならば「世界音楽全集19巻、流行歌曲集」(春秋社)昭和6年の刊行に「水藻の花」が採録されているらしい。また実際の曲を聴きたいのであればCD8枚組(全193曲)「恋し懐かしはやり唄」がコロムビアファミリークラブから発売されており、DISC7に「水藻の花」が収録されている。ただし、これは「籠の鳥」「船頭小唄」で有名な演歌師・鳥取春陽(1900-1932)が歌っており、須磨子ではない。そして金額16800円也。創唱・松井須磨子のオリジナル版が聞きたければ、SPレコード「沈鐘の唄/水藻の花」が大正7年にニッポノフォンから発売されている。ヤフーオークション中古レコードはすぐに売り切れ。現在、松井須磨子CD全曲集が入手可能かどうかは知らない。「沈鐘」は翻訳物なので「水藻の花」はレスピーギの歌劇の曲と同様なのかは詳しくはわからない。「沈鐘」は阿部六郎訳で岩波文庫にあるが、昭和初期に楠山正雄訳で「世界名作翻訳全集12」に「沈鐘」があることがわかった。大正12年には松竹映画「水藻の花」伊藤大輔監督、栗島すみ子、岩田祐吉、岡島昇で映画化されている。
結局、いろいろ調査しましたが、お探しの全歌詞には辿りつくことができませんでした。ゴメンナサイ。
追記
「日本のうた第1集」野ばら社(1998年刊行)に「水藻の花」の歌詞と楽譜が収録されていましたので紹介します。
1
もりのひめとも うたわれた
それはむかしの ゆめじゃもの
なさけないぞえ のろわれて
いまじゃ みずもに さくはなよ
2
みずにうつした おもかげは
むかしこいしき そのひとよ
なつかしいなの ハインリーヒ
ほんに さようなら さようなら
菜の花や月は東に日は西に
広々とした平野に黄色い菜の花が一面に咲いている光景が眼前にうかぶ。風のない日暮れに近い早春の時刻、陽は西に沈もうとしている。そんなとき、テレビで韓国ドラマ「春のワルツ」のテーマソングが流れた。なんとパチンコのコマーシャルだった。蕪村とパチンコ。この無関係な取り合わせは菜の花によってケペルの脳裏にうかんだ。ユン・ソクホは韓国人でありながら、まことに日本人と同様な詩情を持ち合わせた監督だ。春といえば菜の花。そして赤いランドセルの女の子。そういえばケペルにも小学校1年生の頃、歌の上手な女の子が友達にいた。童謡コンクールに出場してラジオから彼女の歌声を聞いた。まさに「春のワルツ」そのものだった。もちろん女の子とは長いこと会っていない。「愛していれば、会いたかったら…いつかまためぐりあえるのです…。子どものころのかくれんぼのように、しっかりかくれたつもりでも…目には見えなくても…、どこかでオニの私を待っているから、数多くのすれ違いの中で、心を込めた愛の祈りのように…愛し合う2人はいつかまた出会えるのです」そんな「春のワルツ」のテーマは蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」にもハーモニーとなって響きあうのだ。
ところで与謝蕪村(1716-1783)は今日でこそ俳人として知られているが、それは明治期になって正岡子規が、俳人としての蕪村を評価したからだという。それ以前の蕪村はむしろ画家として知られていた。映像作家のユン・ソクホと絵画的、視覚的に表現する蕪村と二人に共通点があるとしてもなんら不思議は無いだろう。そして韓国人と日本人との芸術的感性は同じであろう。
明治44年、若杉鳥子(1892-1937)は、板倉勝忠(1887-1973)と結婚した。夫は備中高梁城の城主・板倉勝静(1823-1889)の孫にあたるという(板倉勝弼の五男)。つまりプロレタリア女流作家・若杉鳥子は子爵令弟夫人といわれる上流階級の夫人であった。だが鳥子自身の生い立ちが芸者置屋に里子にだされるという境遇であったためか、プロレタリア女流作家としての道を歩んだ。そして夫は早稲田大学卒の新聞記者、外交官という社会的地位のある人物。また義弟には登山家として知られた板倉勝宣(1897-1929)がいた。昭和8年、鳥子は小林多喜二の母・セキへの義捐金を集める活動をするが、それが治安維持法違反にあたるとして、検挙・投獄されるという苦い経験をもつ。平林たい子は「若杉さんは、プロレタリア文学と、外交官で華族出の夫をもった家庭とのあいだでのギャップに苦しんでいた」と語っている。画像は晩年の若杉鳥子であるが、美貌の上流夫人であり女流作家としての雰囲気がよく表れた写真であろう。(引用文献:奈良達雄『若杉鳥子その人と作品』東銀座出版社)
秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。
画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。
黄石公張良図沈金鞍 室町時代
木製黒漆塗 馬の博物館蔵
張良(?-前168年)は秦に滅ぼされた韓王室の一族であった。その仇を報いようと始皇帝の暗殺を企てたが失敗に終わる。下邳に身を隠していた時、川のほとりで一人の老人に出会う。その老人が誤って自分の沓を川に落とし、張良にその沓を拾わせた。その老人は黄石公といい、張良に太公望の兵法(『六韜』)を授け、これによって張良は漢の劉邦の軍師となった。司馬遷の『史記』に書かれたこの伝説は日本中世でも好まれ、室町時代以降、絵画や工芸品の題材として多く表わされている。画像の鞍(くら)には黒漆に沈金の技法で中国の故事を図案にしている。(引用文献:「本郷 2008.1」吉川弘文館)
プラトン
プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。
ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。
化粧品のパッケージ・デザイン
戦前、街を歩けば「仁丹」か「クラブ」か、と言われるほど、特に関西では「クラブ化粧品」の街頭広告が目についた。クラブ化粧品は中山太一(1881-1956)が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりである。商品としては「クラブ洗粉」を発売し、双美人のシンボルマーク(原案は画家の中島春郊)が広く知られるようになった。明治期、白粉の「御園」、歯磨の「ライオン」、化粧水の「レート」、洗粉の「クラブ」といわれた。中山太陽堂の商品には、洗粉、歯磨、白粉、粉白粉、水白粉、ポマード、化粧水、クリーム、乳液化粧水、美身ゼリー、眉墨、チック、歯磨チューブ、歯ブラシ、石鹸などがあった。プラトン社をつくり雑誌「女性」(大正11年)「苦楽」(大正13年)「婦人文化」(大正15年)を発行した。美容だけにとどまらず、中山文化研究所を設立して女性を全面的にサポートするための総合サロンを開設している。
テムズ川とタワー・ブリッジに夕陽が照りつけている
人口742万人の大都市ロンドン(2005年現在)。ニューヨーク、東京、上海などとともに世界最大の都市の一つをなしている。街の中央にテムズ川(全長336キロ)が流れ、タワー・ブリッジ、ロンドン塔、ビックベン、英国会議事堂、イングランド銀行、ギルドホールが並び政治経済の中心地として重要な位置を占める。だがテムズ川周辺地区は、地盤は比較的軟弱で、海抜ゼロメートル地域が続く。近年の地球温暖化による水位の上昇は、テムズ川氾濫の危険性を増大している。ロンドンは世界でも最も洪水に強い都市と言われてきた。1953年には高潮により大きな被害を受けたロンドンであるが、1980年代にはテムズ・バリア(堰)と呼ばれる潮汐を調整するための巨大な施設を建設した。しかし水位の上昇はさらに当初の想定を超えるようになった。ニューオーリンズでも起こったことはロンドンでも起こるかもしれない。いま万全な洪水対策が問題となっている。
ドストエフスキー(1821-1881)
ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の1919年の一文に「カラマーゾフの兄弟またはヨーロッパの没落」(高橋健二訳『若き人々へ』人文書院)があるが、ここではその一節を紹介する。
ドストエフスキーの諸作の中では、特に『カラマーゾフの兄弟』において私がひそかに「ヨーロッパの没落」と呼ぶものが、最も強くもりあがり、異常な明らかさで、表現され、予言されているように思われる。ヨーロッパの青年、特にドイツの青年が、ゲーテでなく、またニーチェでもなく、ドストエフスキーを、彼らの偉大な作家と感じていることは、われわれの運命にとって決定的であると、私には思われる。そう思って、最近の文学をながめると、いたるところに、ドストエフスキーへの近似が見出される。もっとも、それが単に模倣であり、子どもらしい印象を与えるに過ぎないことも、しばしばなのだが。カラマーゾフの理想が、非常に古いアジア的神秘的理想が、ヨーロッパ的となり始め、ヨーロッパの精神を食いつくし始めている。それが、私がヨーロッパの没落と呼ぶところのものだ。この没落は、母へ帰ることを意味する。それはアジアへ、源泉へ、ファウストの母たちへ帰ることであり、もちろん地上のすべての死がそうであるように、新しい誕生に通じるであろう。この過程を、「没落」と感じるのは、われわれだけである。われわれと同じ年輩のものだけである。古いいとしい故郷を去る時、悲しみと取り返しようもない喪失の感を抱くのは、老人だけであって、これに反し、若いものは、新しいものを、未来を見るだけである。ちょうどそれと同じようなものである。
だが、私がドストエフスキーに見出す「アジア的」理想とは、ヨーロッパを征服しようとしていると私の思う「アジア的」理想とは、どんなものか。
それは簡単に言えば、一切を承認するために、また長老ゾシマが予告し、アリョーシャが実践し、ドミトーリが、そしてずっとそれ以上にイワン・カラマーゾフが極度に明らかな自覚に達するまでに表白している、一つの新しい危険な恐ろしい神聖さのために、あらゆる固定した倫理と道徳から離反することである。長老ゾシマの場合はまだ、正義の理想が支配している。彼にとっては、ともかく善と悪とが存在している。ただ彼は彼の愛を、ほかならぬ悪人に特に好んで注ぐのである。
アリョーシャの場合はもう、新しい神聖さの方式が、ずっと自由に生き生きとして来ており、彼はもうほとんど、無道徳的な自在さで、身辺のあらゆる汚れと泥の中をとおりぬけている。しばしば彼は私に、「あらゆる不快感を脱却することを、自分はかって誓った」というツァラツストラのあの最も高貴な誓約を想起させる。しかし、見よ、アリョーシャの兄たちは、この思想をもっともっと押し進め、もっと思い切ってこの道を進んで行く」そして、しばしば、外観はどうあろうと、カラマーゾフ兄弟の関係は、厚い三巻の本の進行の間に、徐々にまったく向きを変え、確固として存在している一切のものが次第に再び疑わしくなり、聖なるアリョーシャが次第に世俗的に、世俗的な兄たちが次第に神聖になり、最も犯罪人的な無頼なドミートリが、新しい神聖さ、新しい道徳、新しい人道の、最も神聖な、敏感な、切実な予感者となるかのように、思われる。それははなはだ奇妙である。いよいよカラマーゾフ的で、背徳的で、飲んだくれで、無頼で、粗暴になればなるほど、この粗暴な現象や人間や行為の肉体を通して、新しい理想がいよいよ近く光を発し、それは内面的にはいよいよ精神化され、神聖になる。飲んだくれで殺害者で暴行者であるドミートリと、犬儒学者的な知識人イワンとを並べると、検事やその他の市民階級の他の代表者たちの、律義な、きわめて儀礼的なタイプは、外面的に勝ち誇れば誇るほど、いよいよみすぼらしい、うつろな、価値のないものとなる。
このような、ヨーロッパ的精神の根をおびやかす「新しい理想むはまったく無道徳的な考え方であり、感じ方であるかのように見える。それは精神的なもの、必然的なもの、運命的なもの、極悪なものの中にも、極度に醜いものの中にも感知し、そういうものに対しても、いや、まさにそういうものに対してこそ、尊敬と礼拝とをささげる能力であるように思われる。検事は大弁舌を振るって、このカラマーゾフ的背徳を皮肉に誇張して表現し市民たちの嘲笑にゆだねようとするが、その試みは、実際になるどころか、かえってきわめて穏やかなものにとどまっている。
この演説の中で、保守的市民的な立場から、それ以来通りことばとなった「ロシア的人間」が描写されている。危険で、いじらしくて、無責任で、しかも良心的に敏感で、気が弱く、夢想的で、残忍で、しんから子どもらしい「ロシア的」人間である。今日でも人は好んでそう呼んでいる。もっとも私の信じるところでは、そのロシア的人間は、ずっと前からヨーロッパ的人間になりかけている。それこそまさに「ヨーロッパの没落」である。
このヘッセの一文は第一次世界大戦直後の不安に時期に書かれたものであり、当時の精神状況を知るうえで今日でも意義ある文献と考える。文章を理解しやすくするため、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物を紹介しておこう。
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ カラマーゾフ家の家長。地主階級とは名ばかりの、ほとんど裸同然の身から出発し、居酒屋の経営や金貸しなどのあくどい稼業で身代を築き上げた成り上がり者で、抑制のきかぬ激しい情熱をもつ物欲と淫蕩の権化、自分も堕落し、まわりにも堕落をまきちらすシニカルな毒舌家で、「ロシアは豚小屋だ。ロシアの百姓は叩きのめす必要がある」などとうそぶく。彼はグルーシェンカに淫蕩の血を狂わせ、血道を上げている。最後に非業の死をとげる。
アデライーダ・イワーノヴナ その妻。富貴な家庭に生まれながら、フョードルを買いかぶって結婚し、一児をもうけたが、のちに愛想をつかして、他の男とかけおちする。
ソフィヤ・イワーノヴナ その後妻。二人の息子を生んで死ぬ。
ドミートリ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称ミーチャ) 長男。父からカラマーゾフ的な抑制のきかぬ情熱を譲りうけたが、同時にロシア人的純粋さを持つ男である。酒色に溺れ、底抜けのばかさわぎをやらかすが、心の底には高潔なものへの憧れが生きている。広いロシア的性格への憧れが生きている。彼はグルーシェンカの肉体の美しさに夢中になると、許婚を放り出してしまい、父親を敵視し、殺してやりたいと悩む。27歳。
イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 次男。大学出の秀才。父の人間蔑視が異なった形で彼に投影している。彼は神を否定し、「神の創ったこの世界を認めぬ以上、人間にはすべてが許される」という独自の理論を打ちたてる。無神論者であり、虚無主義者である。彼にもやはりカラマーゾフの血が流れている。それは兄ドミートリの許婚カテリーナに対する狂おしい思慕に現れる。ドミートリが肉体的になら、イワンは理論的に、父を憎悪していることは同じである。
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称アリョーシャ) 三男。僧院で愛の教えを説くゾシマ長老に傾倒する純真無垢な青年。彼は誰からも、父からも愛され、天使と呼ばれている。しかし、彼の内部にもカラマーゾフの血が流れていることは、だれよりも彼自信が知っている。20歳。
スメルジャコフ フョードルが乞食女に生ませた私生児。てんかんの病をもつ。下男としてうわべは実直に働いているが、浅薄で、奸智にたける。差別あつかいされているだけに、父フョードルを憎む気持ちは誰よりも強く、フョードルを殺して金を奪い、犯罪をドミートリに転嫁する。
寺田寅彦 (昭和7年10月 月寒にて)
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。(寺田寅彦「科学者とあたま」)
春のいまごろの季節、森林を散歩するのがよい。早春特有の匂いがある。若葉と雪解け水のかもしだす、心のはずむような気配が感じられる。森林には樹の種類によって匂いも異なる。ある場所で何年か過ごしたとする。それから長い年月ののちにそこをふたたび訪れ、かすな匂いをかぐ。もうそれだけで、そこで過ごした時のことを思い出すことがある。匂いはそれくらい強い力があるのだ。寺田寅彦(1878-1935)の言葉どおり「自然を恋人」にしよう。森林へ行けば、野鳥はさえずり、草花は咲いている。行く場所は自由だ。いつでもどこにでも、自然の喜びは満ちあふれている。
長塚節(1872-1915)は夏目漱石の推薦で東京朝日新聞に「土」(明治43年6月13日から11月17日掲載)を執筆中のある日、遠縁にあたる詩人の横瀬夜雨(1875-1934)宅を訪ねた。そこで夜雨から一人の女弟子の写真を見せられた。若杉鳥子(1892-1937)という女性で、庶子のため生後間もなく里子にだされ芸者の修業をさせられていたが、強い向学心と文学の才能があり、16歳の時、家出、上京したという素性を聞く。節はその楚々たる容姿に魅了され写真を貸してもうら。明治43年6月、夜雨から鳥子の写真を返すように督促された節は写真の代わりに、「擬古二種」を夜雨あてに送る。
まくらがの古河の桃の樹ふふめるを
いまだ見ねどもわれ恋にけり
*
紅の下照り匂ふももの樹の
立ちたる姿おもかげに見ゆ
ほどなくして、鳥子が夜雨宅にくることを知らされる。夜雨は二人を引き合わせることにしたが、ちょうどその時、節が痔を病んで、とうとう実現しなかった。鳥子は翌年9月、英文学者の板倉勝忠(1887-1973)と結婚する。
節は終生独身で、結核のため大正4年、40歳に満たずに早世している。鳥子も昭和12年病のため44歳で亡くなった。
鳥子は節が亡くなるや、挽歌7首を夜雨のもとに送り届けた。
大利根の川千載を流るとも
故郷悲し君あらなくに
*
筑波野に君います日は一握の
土くれさへも光出しを
*
君しあれば筑紫野に師の痛めるを
たのみ来てにし逆さ事はも
「逆さ事」とは病で外出もままならない夜雨の世話を本来は世話を受けた私がすべきなのに、節にそれを頼むように結婚してしまった。それを「逆さ事」と、すまない気持ちを表わしているのであろうか。若杉鳥子の文学者としての才能だけではなく、人柄のよさがこの歌でうかがい知ることができる。
愛媛県に日本一狭長な佐田岬半島の西端に幅1キロ、長さ40キロにわたって突出した佐田岬がある。波が荒く昔から御鼻といって航行上恐れられた。室戸岬や足摺岬のように人に知られないのは「陸の孤島」とまでいわれる交通の不便さからであろうか。ここでは黒牛の放牧がひとつの風物詩である。そのようなさいはての印象が強い南国伊予に一度だけ旅したことがある。30年以上も前のことである。大学の卒業ゼミで仲間数人(男3人、女2人)の旅。ちょうど山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」が流行っていた。
松山道後温泉に1泊して、宇和島で闘牛や宇和島城を見て、八幡浜からバスで佐田岬の先端へ行った。長い長い一本道のメロディ・ライン(当時にそう呼んだのかは不明)は単調である。風の強い佐田岬の灯台まで歩く。夜は付近にある民宿。夕食には近所の子供達が一緒に歌をうたい遊んだ。観光地ではないが、そんなのどかで楽しい旅はもう二度と経験することはないだろう。いま思えばあれが青春の旅だったのだ。
「奈良大和路で最も魅力のある古寺、行ってみたいところは?」と聞かれたら、ケペルは躊躇することなく、室生寺と答える。中学生の春休みを利用して、高校生の兄と二人で行ったのは40年近くも昔の話である。室生口大野から宇陀川に沿って大野寺の磨崖仏を見て、反橋を渡り、境内に入る。緑ふかい杉木立の間に点在する諸堂には、かつての山岳道場としての重みが感じられる。奈良時代末期の宝亀年間(770年~781年)僧賢璟が開創。本尊は釈迦如来立像。仁王門をくぐり、石段を上ると正面に金堂、左に弥勒堂がある。さらに石段を上ると本堂、その上に五重塔がある。杉木立にはえる丹塗りの塔。勾配の緩やかな屋根、細かい組物、相輪などが一つの調べとなって人々を魅了する。室生寺には威圧感は微塵もない。なにか暖かくつつんでくれるようなやさしさがある。女人高野といわれるだけに女性に人気がある。女人ならずともなんどでも訪ねてみたい。だがあの石段を上ることはケペルにはもうできないかもしれない。
豊島沖海戦 栗島忠二画
林房雄(1903-1975)は、自分が生きてきた時代の実感を次のように語っている。「私は日露戦争の直前に生まれた。生まれてこのかた、戦争の連続であったことは、五味川純平氏の四十年も私の六十年も全く同じである。だれが平和を知っているであろうか。だれも知らない。私たちが体験として知っているのは戦争だけだ」として、「私は大東亜戦争は百年戦争の終局であった」と結論づけている。つまり林の東亜百年戦争論の開始は、明治維新よりさかのぼり、ペリーの黒船渡来よりも前になる。外国艦船の出没が激しくなり、日本は、西洋列強との事実上の戦争状態に入る頃を起点とするようである。林房雄は専門の歴史家ではないのでその実証はおそらく粗雑なものであろうが、直観としてはなかなかすぐれた面がある。
近代日本の戦争は大きく分けて7つあるといわれる。1番目は維新戦争(幕末から明治維新)、2番目は日清戦争、3番目は日露戦争、4番目は第一次世界大戦期の戦争、5番目は満州事変、6番目は日中戦争、7番目が太平洋戦争である。
とりあえず、第1番目の維新戦争の内訳だけを列挙してみよう。維新戦争は外国との戦争と内戦とがあるが、文久3年8月薩摩藩がイギリスと戦う薩英戦争、元治元年9月萩藩が英・米・仏・蘭4国連合艦隊と下関海峡で交戦、明治元年1月から明治2年6月は戊辰戦争、明治7年5月台湾出兵(牡丹社事件、征台の役とも呼ばれる)、明治7年2月佐賀の乱、明治8年9月江華島事件、明治9年10月神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして明治10年1月から9月までの西南戦争である。
近代日本の根本にあるものは、結局西洋との対決、もう少し弱めて言えば対峙であった。「東亜百年戦争」が西洋列強との対決であるとする史観は、小説という形式で司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも一部にはみられるようになる。一部というのは、司馬は明治維新は偉大だが、昭和の戦争は愚劣であったという区別をしている点が林とは異なるのである。
大佛次郎は、「天皇の世紀」の中で、G・B・サンソムが、吉田松陰の偉大さが分からないといっていることを引いた上で、「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいといったのは当然なのである。日本人ならばこれが解るとも最早言えないのである」と書いている。(引用:新保祐司「大東亜戦争とは日本思想にとって何だったのか」『日本思想史ハンドブック』)、
ヨーロッパ最古といわれるカレル橋(プラハ)
チェコ共和国の首都プラハは、中部ヨーロッパの中心地であり、西欧と東欧との交易ルートとして重要な位置を占めている。5~6世紀より、この地に定住したスラブ人を統治し、外敵に対抗するため、9世紀末にスラブ人によるプラハ城が築かれた。この城下町として、プラハ市街が発達したのは10世紀で、12世紀には、中部ヨーロッパ最大の都市として知られていた。
プラハという地名は、言い伝えによると、「境、境界」を意味する地名であった。チェコ語のプラジティ(森の焼けた所)が語源であろうとする説。もう一つの説は、スラブ語のプラツ(働く)を語源とする。プラツはスラブ人が川に仕掛けをして漁をする場所を指し、チェコ、スロバキア、ハンガリーに多い地名である。
1948年6月、チェコスロバキア人民共和国を樹立し、1960年7月公布の新憲法で国名を社会主義共和国に変更した。1968年、ドプチェク第1書記による「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こるが、ソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して軍事介入し、プラハなどを占領し、民主化運動は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロバキアが分離。チェコではクラウス首相が急進的経済改革を推進。1998年にはミロシュ・ゼマン、2002年にはヴラディミール・シュピトラ、2004年にはスタニスラフ・グロス、2005年にはイジー・パロウベク、2006年にはミレク・トポラーネクが首相に就任している。2002年にはヴァルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が氾濫し、大きな被害を受けたが、プラハにもようやく春が訪れようとしている。
生麦村の古写真(横浜開港資料館蔵)
大久保一蔵(写真は明治期のもの)
NHK大河ドラマ「篤姫」をより楽しむために幕末史をちょぼちょぼ予習している。今回は生麦事件。勅使の大原重徳を警護して薩摩藩兵とともに東海道を下った島津久光は、文久2年6月7日に江戸高輪の下屋敷に入った。江戸での大原は将軍徳川家茂に朝廷からの沙汰書を渡すとともに朝廷の意向を伝えた。薩摩側の強い働きかけもあって、幕府は将軍後見職に一橋慶喜、大老に松平慶永の就任を認めた。目的を果たした久光は8月21日、高輪の下屋敷を出発し京へ向かった。品川宿で休息をとり、川崎宿で昼食を兼ねた休息をした一行は、鶴見村の辺りで馬に乗って遠出したいたアメリカ領事館の書記官ヴァン・リードと遭遇した。3年前に日本に上陸していたリードは日本の習慣にも通じており、馬を下りて脱帽の上膝をついて頭を下げた姿で行列が過ぎるのを待ったため、何事もなく久光一行も通り過ぎた。だが行列は武州生麦村に通りかかつたところで、馬に乗ったイギリス人の男女4人に行き会った。下馬せず行列を横切ろうとしたので、先頭の藩士が抜刀し、商人チャールズ・L・リチャードソンを殺害、他の2人に負傷させた。加害者は同藩士奈良原喜左衛門であった。イギリス公使ニールは、幕府に対し強硬に抗議するとともに、賠償金を要求、別に薩摩藩に対しては犯人引渡しと賠償金を幕府を通じて要求した。文久3年5月9日老中格の小笠原長行は、独断で賠償金をイギリスに支払った。しかし薩摩藩は幕府の説得を拒否したため、イギリスは薩摩藩と交渉、決裂に及んで薩英戦争が開かれた。藩内は、早期講和を主張する国元藩士と、江戸屋敷にいる攘夷による強硬の反対派とに二分していた。この収拾のため大久保一蔵(大久保利通)は、江戸屋敷の反対派に対して、「慰謝料は遺族扶助料の名目として要求どおり7万両を払うが、その金は幕府から借用する」という案を示し、反対派をとりまとめた。文久3年9月28日、横浜で薩英双方の和議は成立した。
世界ムード音楽シリーズ(第6回)。「恋はみずいろ」(1968年)の世界的大ヒットでACCディスク大賞を受賞したポール・モーリア(1925-2006)は、「シバの女王」「蒼いノクターン」と次々とヒット曲を放つ。「エーゲ海の真珠」(1971)は原題が「ペネーロペ」で、ギリシア神話の英雄ユリシーズの貞淑な妻の名前である。スペインの作曲家アウグスト・アルゲロの作品を軽妙なロックビートと女性ソロ・ヴォーカルで地中海の雰囲気を見事に表現した編曲である。最初の録音版ではダニエル・リカーリが中間部のスキャトを担当している。画像はフィリップス・中央公論社の広告チラシであるが、リーダーズ・ダイジェストもポール・モーリアのレコードのセットものを多数販売しおり、愛聴したものである。
あなたゆえ くるおしく
乱れた 私の心よ
まどわされ そむかれて
とまどう 愛のまぼろし
私はあなたの 愛の奴隷
命も真心も あげていたいの
あなたがいないと
生きる力も失われてゆく 砂時計
世界ムード音楽シリーズ(第5回)。「サバの女王」(シバの女王ともいう)は旧約聖書に記されている南アラビアのシバ、そのシバの女王にわが恋人のイメージをたくして「君はボクのシバの女王、どうか戻ってもう一度君の国をここに築いておくれ」という意味。「シバの女王」はフランスの人気歌手ミッシェル・ローランが作詞・作曲し、自ら歌ってヒットさせた。ポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルなども競演したが、昭和47年、日本語歌詞で歌ったアルゼンチン出身のグラシェラ・スサーナの低いもの悲しげな歌声が妙に心に切なく響いた。
ケンタッキー州の州会議事堂
ケンタッキー州はアメリカ合衆国中部南東寄りに位置する。アパラチア山地の西では最も早く開け、1748年にトーマス・ウォーカーが開拓を行い、続いてダニエル・ブーンがケンタッキー川に沿ったブーンズボロを建設した。もちろんその前に、インディアンがたくさん住んでいた。ケンタッキーという地名は、インディアン語のケンタケ(牧草地、平原)が語源。1776年ヴァージニア州の1郡となり、1792年に州となった。南北戦争では北部のリンカーン、南部のデーヴィス両大統領がケンタッキーの出身で、州は中立を守り、州民は両軍に分かれて参戦した。
ケンタッキー州の別名、ブールグラスとは学名ナガハグサというヨーロッパ原産の牧草のことである。この牧草は、レキシントンを中心にこの州でよく育ち、馬や牛がとくに好む。このためケンタッキー州は馬の飼育地として有名である。毎年、ルイビルで行われるケンタッキー・ダービーは、1875年から開催されている。このほかケンタッキー・バーボンとして有名な、バーボン・ウィスキーの材料となるトウモロコシも産出される。リンカーン大統領の父親がケンタッキー州からインディアナ州へ移るとき、彼は20樽のバーボンウィスキーと現金20ドルをもって行った、といわれる。
しかし今日ケンタッキーといえば、カーネル・サンダースのケンタッキー・フライドチキンが最も有名であろう。ハーランド・デーヴィッド・サンダース(1890-1980)は、1930年9月、ケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角を借りて客席わずか6つの小さな食堂を始めた。「もし美味しくなかったらお代はいりません」という自信と、お客一人ひとりと会話を交わすもとなしから食堂は繁盛する。だが高速道路の開通で客が激減、そこでフランドチキンをワゴン車で巡回販売した。これがケンタッキー・フライドチキンの始まりである。日本進出は万博年の昭和45年、名古屋でオープン。店頭に置かれたカーネル・サンダース像は典型的な「南部の紳士」を象徴する白いスーツを着用している。
モニュメント・バレー
アメリカ合衆国西部にあるユタ州の州都ソルト・レーク・シティは砂漠にある都市で、東にはワサッチ(ウォサッチ)山脈の美しい峰が聳え、市の中央をジョーダン川が流れている。ユタは、この地方に住んでいたインディアンの部族名。この部族はユタとかユテ族とよばれていた。発見者フレモントは、この族名をさらに、現在のジョーダン(ヨルダン)川の名にも転用した。1847年この地方は、ブリガム・ヤング(1801-1877)に率いられた147名のモルモン教徒が開拓に従事し、白人人口が増加した。1850年、合衆国へ編入が決まり、モルモン教徒は、デザレットという州名を希望したが、承認されなかった。議会は、当時広く知られていたフレモント報告書より、ユタ州の地名を選び、州名とした。開拓当初モルモン教徒は、彼ら独自の平和郷の設立を目指したが、教義に示す一夫多妻制に対しては、連邦政府の圧迫が強く、1890年に正式に廃止された。しかし教徒は収入の10%を教会に献金する義務を有し、教会は膨大な富をもっている。そして、ホテル、新聞社を経営し、製糖会社、銀行、生命保険などの事業を行い、州内を横断するユニオン・パシフィック鉄道の大株主でもある。
いつも信じていた 会えないけれど
いつかは会えると 涙で慰めてもみた
時には心を塞いでいた
近くに抱き寄せられない
傷の中で 君がまた疼くから
君だけを待っていた
一日だけあたえられたら
幸せになる準備をしただろう
君のために 何もかも
アイ ラヴ ユー
僕が行くよ 遠いところにいても
希望の翼に包まれても
君と同じ夢を見る
離さないでくれ
運命が邪魔をして
たとえ世の中のすべてと引き換えても
君の手を離さないから
まだ聞いていなかったね
どこへ向かっているのかと
一緒にいられるなら
それが二人の進む道
* * * * * * *
世界ムード音楽シリーズ(第2回)「FLOWER-M」は韓国ドラマ「春のワルツ」の主題歌。ちょうど今の季節にぴったりの曲。ソ・ドヨンが甘く切なく歌っています。
たとえ私があなたに少しも話さないでも
私の秘密がわかるでしょう
いつの日かあなたは読むでしょう
私の瞳に、私の瞳に
たとえあなたが聞かなくても
私の秘密がわかるでしょう
偽ることが決して出来ないって
私の瞳で 私の瞳で
なぜだか私に言って
でもどうして、でもどうして
あなたは私の瞳を決して見つめないの
それでもあなたは知っているわ
もうあなたがちょっと私が好きだって
なぜだか私に言って
でもどうして、でもどうして
あなたは私の瞳を決して見つめないの
それでもあなたは
私は知っている
どうあなたがちょっと好きだって
たとえあなたがたずねなくても
私の秘密を発見するでしょう
偽ることが決して出来ない
私の瞳で 私の瞳で
* * * * * *
世界ムード音楽シリーズ(第1回)「ささやく瞳」はイタリアの歌手ウィルマ・ゴイクのヒット曲。1967年のサンレモ音楽祭で男性歌手ディーノをパートナーに入賞した曲です。後にトム・ジョーンズも歌っていました。
子どもの頃、夏になるといつも「南洲香」という蚊取り線香を我が家では使用していた。その絵柄には西郷隆盛が描かれてあった。でっぷりとした体格で太い眉とギョロリとした目といった印象がある。だが、西郷は明治天皇が写真を所望しても、その生涯に一度も写真を撮らなかったといわれているため、真実の姿は謎のままである。今日伝わる西郷の真影と称する偽物は明治6年ころから、他人の写真が大量に出回り、西南戦争のころには、兵士や民衆がその写真を西郷としてイメージしていたが、そのような西郷像は今日も国民に定着していると思える。
だが明治31年に上野公園に西郷隆盛の銅像が建立され、除幕式に呼ばれた、西郷隆盛の未亡人の西郷糸は、「うちの人は、こげな人じゃなかった」と口走ったという。なぜ、西郷は写真を撮らなかったのか。真偽は別として、西郷隆盛が写真の撮影を拒否した理由は、坂本竜馬の妻お龍と、写真を終生撮らないと共に誓ったためといわれる。西郷は坂本の死を悼み、その気持ちを終生忘れないため、一種の物断ちをしたとも考えられる。物断ちとは、願掛けなどのために、塩や嗜好品などを口にしないことであるが、西郷は竜馬のために「写真断ち」をしたというのである。つまり現在、西郷隆盛の本物の写真は1枚も存在していないし、今後も発見される可能性はないであろう。国立国会図書館のホームページなどで西郷隆盛のリアルな写真画像を見ることができるが、これらはイタリア人画家キョッソーネが描いた絵をもとに作成したものであろう。
NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。第12回「さらば薩摩」では篤姫(宮崎あおい)がいよいよ江戸へと旅立つ。つまり嘉永6年(1853)8月21日。この前月、7月8日、アメリカの海軍提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794-1858)は4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた。篤姫が2ヵ月の旅を終え、江戸の薩摩藩邸に入ったのは10月のことである。国情はペリー来航で騒然としていた。「泰平のねむりをさます正喜撰、たった四はいで夜もねられず」という狂歌が流行った。徳川家定(堺雅人)と篤姫の縁組みの話は遅々として進まなかった。安政2年10月には安政大地震があり、縁談はさらに遅れた。こうして婚姻が正式に決まったのは安政3年(1856)のことであった。篤姫の入輿は一橋派の慶喜擁立のための工作であったが、わずか2年で家定が病没したため、南紀派の推す慶福(松田翔太)が第14代将軍となった。未亡人となった篤姫は天璋院と称し、大政奉還から江戸城開城へと至る歴史の転変の中、徳川家存続のため、可能なかぎりの働きをした。
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