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2008年3月31日 (月)

京都・霊応山法観寺

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    霊応山法観寺は円徳院の南、二年坂近くのたて込んだ民家の間にあり、八坂の五重の塔で知られる。東山周辺を飾るランドマークとなっている。

    法観寺は臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、崇峻天皇2年(589年)、聖徳太子の創建と伝える、市内では最古の由緒をもつ寺である。延喜式七ヶ寺の一つで、四天王寺の伽藍を備え、隆盛を極めたという。八坂の塔は本瓦葺五層、方6m、高さ48mの和様建築。創建以来たびたびの災禍により焼失したが、その都度再建された。現在の塔は室町時代、永享12年(1440年)、足利義政(1436-1490)の再興である。

あなたはベルファム、それともジョリファム?

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    キャサリン・ヘプバーン(1907-2003)

   映画雑誌スクリーンが900号を迎えた。メモリアルな5月号の表紙を飾ったのはジョニー・デップではなくてオードリー・ヘプバーンだった。移ろいやすものの代表のように言われるスターの人気であるが、日本では依然としてオードリー・ヘプバーンの人気は根強いものがある。今から40年も前の話だが、高校世界史の授業で先生が「僕はオードリー・ヘプバーンよりキャサリン・ヘプバーンのほうが好きだ」といったことをよく覚えている。あのキャサリン・ヘプバーンのキツネ顔のどこがいいのかわからなかった。スクリーン表紙にはこれまでエリザベス・テーラー、ソフィア・ローレン、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブ等の大スターがその表紙を飾ってきたが、「勝利の朝」「招かれざる客」「冬のライオン」「黄昏」で4度のオスカーに輝く大女優キャサリン・ヘプバーンはおそらく一度も表紙に登場したことはないであろう。川端康成のエッセイ「新鮮」に次のような女性観が示されている。

   私たちはよく映画女優で誰が好きかとたずねられる。私は外国女優の名前など忘れやすい方だし、おぼえようともしないが、誰と限らないで、成功した第1作の女優が好きだと答える習わしだ。成功した第1作の女優は新鮮だからである。たとえば、「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーン、「芽ばえ」のジャクリーヌ・ササール、「うたかたの恋」のダニエル・ダリュー、エリザベス・テーラーの場合は少し極端だろうが「緑園の天使」の役の少女である。

    川端康成の美少女趣味は「芸術の新鮮」という第一条件をもって大勢の日本男性の賛同を得ているかのように思われる。ところが、欧米諸国では、新鮮な少女よりも、年齢を積み重ねて美しくなる大人の女性が賞賛される傾向にあるようだ。フランスに行って女性について話をすると、「あなたはベルファムとジョリファム、どちらの女性がお好きですか?」と聞かれる。ベルファムとはうまれながらの美人であるが、さらに年齢を重ねて魅力を増していく女性であり、ジョリファムとは後天的に磨き上げられて美しくなる、エステや美容、知性と洗練さ、なども習得して魅力を増した女性である。つまりは、天然素材としての美少女はまだ女性の魅力としては対象外となっている。文豪川端康成の影響力たるや、恐るべし哉!アメリカの週刊誌「ピープル」が行った調査「史上最高の女優は?」との問いに、キャサリン・ヘプバーンと答えた人は全体の36%に達し、ダントツの1位だった。キャサリン・ヘプバーンは美人ではない。しかし、美しい人だった。ゴージャス、エレガンス、インテリジェンス、ソフィスティケーション、といった「美しい人」を構成する要素をすべて備えた女優だった。

テンプレートを変更しました

  桜も咲いて、明日から4月がスタートします。そして今日、3月31日はその準備をするため忙しい一日です。当ブログでも装い新たにテンプレートを変更しました。

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   イメージは「4月のパリ」。「大切なのは普通の語で平凡なことを言うことである」(ショウペンハウエル)という名言があります。例えば、「富士山」「桜」「バラ」をテーマにして記事を書くとすれば、案外と難しいのです。反対に「寺田望南」とか「伊藤鶴吉」だと情報量が少ないので短時間で記述できます。「平凡」「月並み」「大衆性」「世俗的」というのは、意外と奥深いものなのかも知れません。ちなみに平凡社という名称の出版社が学術的に優れた本や百科事典を刊行していることを考えると、「平凡」ということは、とても大切なことなのだとつくづく思います。

2008年3月30日 (日)

秋田立志会会長・柴田浅五郎

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「図説秋田県の歴史」収録の柴田浅五郎の顔写真

   明治13年、板垣退助、河野広中らの民権運動に応じて8月10日に秋田立志会が結成された。立志会の生みの親の柴田浅五郎とはどのような人物だったのだろうか。わずかに残る不鮮明な写真からは理想に燃えた青年のようにみえる。秋田事件(平均事件、おならし事件ともいわれる)という金品目的の強盗犯の親玉にはとても見えない。この写真はおそらく当時の新聞に掲載されたものを何度も複製したものと思われるが、通常、写真を丸型にするときは善人、四角の写真は罪人、とするという慣例がある。(もちろん絶対ではないが)と、するとこの写真の初出は秋田事件の報道の写真ではなくて、立志会の機関誌であろうか。

   柴田浅五郎は平鹿郡吉田村の中農の生まれで、政治的関心が強く行動的な青年であった。明治9年ごろから上京し、民権思想にふれ、明治12年には土佐に遊学してさらに理解を深め、明治13年に秋田に帰って立志会を設立した。明治13年11月、国会期成同盟第2回大会が東京で開かれたとき、柴田は腹心の内桶圭三郎(士族・教員)とともに「秋田立志会2645名総代」として出席、大会後も急進グループに交じって国会開設請願活動をつづけた。請願はもとより藩閥政府の容れるところとならなかった。こうした活動のなかで柴田はしだいに政府転覆の考えをもつようになり、帰県後は村々を回って民権運動のきびしい情勢を説明し、そのうち実力で政府を変えるときがくることを密かに語った。立志会の急激な発展に不安をいだき、民権運動弾圧の機会を狙っていた官憲は、スパイを放ってこれを挑発した。インフレのなかで生活に苦しんでいた一部の立志会員がその挑発にのり、明治14年6月8日、平鹿郡阿気付村藤巻部落(現・大雄村)の豪農・須藤六郎右衛門宅を襲撃、さらに付近の豪農を襲撃しようとした。翌9日、立志会の幹部は内乱陰謀の廉で逮捕・投獄された。これが秋田事件で呼ばれるものである。

   農民的基盤にたっていた秋田立志会は、秋田事件で大きな打撃をうけたが、翌15年、全国的に政党結成の気運が高まるやふたたび結集の動きがあり、同年半ばころには秋田自由党を組織し、板垣退助らの自由党と連携をとっている。党員の組織は15年末から翌17年5月には412人にも達し、全国自由党員数の18.5%を占めるにいたっている。このことは、柴田浅五郎らの秋田立志会の運動が激しい弾圧のなかでも県南農民のあいだに深く根を張っていたことを表わしている。柴田浅五郎は、明治17年3月、懲役10年の判決を言い渡され、投獄されたが、明治22年、明治憲法発布の日に大赦を受けて帰宅した。やがて不遇のうちに、明治26年亡くなったという。(引用文献:「図説秋田県の歴史」河出書房新社)

2008年3月29日 (土)

日本海軍の人事弊害

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     海軍の昇進は兵学校の卒業年次と成績順位が基準となっている。平時は年功序列でもよいかもしれないが、戦時は序列無視の適材適所の人事が絶対に必要であろう。だが、長い人事の伝統は戦争という非常事態でも直せなかった。

     「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の空母4隻を一瞬にミッドウェー海戦で失った南雲忠一機動部隊司令長官(海兵36期)は、帰途、連合艦隊旗艦「大和」に移り、山本五十六長官に敗戦を報告した。南雲長官以下、幕僚全員の自決が先任参謀から提案されたが、参謀長の草鹿龍之介少将(海兵41期)が押しとどめた。草鹿は山本に「仇をとらせてください」と涙を流しつつ哀訴した。じっと聞いていた山本は、最後に一言「わかった」と応えたという。結局、山本長官の温情主義が大きな過ちを生み、日本の運命を決めることになる。もともと南雲中将は水雷戦隊の指揮が専門で、航空専門ではなかった。山本長官も南雲は適材適所ではないと感じていたが、南雲中将に機動部隊を託したのは、兵学校の卒業年次にとらわれたからだったといわれている。海軍は上級者ほど信賞必罰の気風に欠けていたのだ。(引用文献:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

水藻の花(歌劇「沈鐘」)

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  舞台劇「復活」のネフリュードフとカチューシャ

   大正期の新劇女優・松井須磨子(1886-1919)の「カチューシャの唄」(トルストイ原作「復活」)が一世を風靡したのは大正3年3月のことである。

  カチューシャ可愛や

  別れのつらさ

  せめて淡雪とけぬまに

  神に願いをララかけましょか

  須磨子の歌うこの哀切のメロディーは人々を魅了した。レコードは2万枚を売り尽くという前例のない人気ぶりであった。これにつづいて芸術座はツルゲーネフ原作「その前夜」。この主題歌「♪命短し恋せよ乙女」の「ゴンドラの唄」も大ヒット。吉井勇の「生ける屍」の主題歌「♪行こうか戻ろかオーロラの下を」の「さすらすの唄」。そして大正7年9月のハウプトマン原作、レスピーギの歌劇「沈鐘」で松井須磨子は森の妖精ラウテンデラインに扮した。劇中歌は「水藻の花」と「森の娘」(作詞・北原白秋、作曲・中山晋平)。遠藤さんがお探しの第5幕「♪森の姫とも歌われた、それは昔の夢じゃもの」という歌い出しではじまる「水藻の花」は作詞は島村抱月(1871-1918)と楠山正雄(1884-1950)、作曲は小松耕輔(1884-1966)。

   歌詞を調べるため国立音楽大学附属図書館のデーターベース「童謡・唱歌索引」を検索すると1件ヒットした。図書・楽譜ならば「世界音楽全集19巻、流行歌曲集」(春秋社)昭和6年の刊行に「水藻の花」が採録されているらしい。また実際の曲を聴きたいのであればCD8枚組(全193曲)「恋し懐かしはやり唄」がコロムビアファミリークラブから発売されており、DISC7に「水藻の花」が収録されている。ただし、これは「籠の鳥」「船頭小唄」で有名な演歌師・鳥取春陽(1900-1932)が歌っており、須磨子ではない。そして金額16800円也。創唱・松井須磨子のオリジナル版が聞きたければ、SPレコード「沈鐘の唄/水藻の花」が大正7年にニッポノフォンから発売されている。ヤフーオークション中古レコードはすぐに売り切れ。現在、松井須磨子CD全曲集が入手可能かどうかは知らない。「沈鐘」は翻訳物なので「水藻の花」はレスピーギの歌劇の曲と同様なのかは詳しくはわからない。「沈鐘」は阿部六郎訳で岩波文庫にあるが、昭和初期に楠山正雄訳で「世界名作翻訳全集12」に「沈鐘」があることがわかった。大正12年には松竹映画「水藻の花」伊藤大輔監督、栗島すみ子、岩田祐吉、岡島昇で映画化されている。

   結局、いろいろ調査しましたが、お探しの全歌詞には辿りつくことができませんでした。ゴメンナサイ。

追記

  「日本のうた第1集」野ばら社(1998年刊行)に「水藻の花」の歌詞と楽譜が収録されていましたので紹介します。

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もりのひめとも うたわれた

それはむかしの ゆめじゃもの

なさけないぞえ のろわれて

いまじゃ みずもに さくはなよ

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みずにうつした おもかげは

むかしこいしき そのひとよ

なつかしいなの ハインリーヒ

ほんに さようなら さようなら

蕪村とパチンコ

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   菜の花や月は東に日は西に

    広々とした平野に黄色い菜の花が一面に咲いている光景が眼前にうかぶ。風のない日暮れに近い早春の時刻、陽は西に沈もうとしている。そんなとき、テレビで韓国ドラマ「春のワルツ」のテーマソングが流れた。なんとパチンコのコマーシャルだった。蕪村とパチンコ。この無関係な取り合わせは菜の花によってケペルの脳裏にうかんだ。ユン・ソクホは韓国人でありながら、まことに日本人と同様な詩情を持ち合わせた監督だ。春といえば菜の花。そして赤いランドセルの女の子。そういえばケペルにも小学校1年生の頃、歌の上手な女の子が友達にいた。童謡コンクールに出場してラジオから彼女の歌声を聞いた。まさに「春のワルツ」そのものだった。もちろん女の子とは長いこと会っていない。「愛していれば、会いたかったら…いつかまためぐりあえるのです…。子どものころのかくれんぼのように、しっかりかくれたつもりでも…目には見えなくても…、どこかでオニの私を待っているから、数多くのすれ違いの中で、心を込めた愛の祈りのように…愛し合う2人はいつかまた出会えるのです」そんな「春のワルツ」のテーマは蕪村の名句「菜の花や月は東に日は西に」にもハーモニーとなって響きあうのだ。

   ところで与謝蕪村(1716-1783)は今日でこそ俳人として知られているが、それは明治期になって正岡子規が、俳人としての蕪村を評価したからだという。それ以前の蕪村はむしろ画家として知られていた。映像作家のユン・ソクホと絵画的、視覚的に表現する蕪村と二人に共通点があるとしてもなんら不思議は無いだろう。そして韓国人と日本人との芸術的感性は同じであろう。

2008年3月26日 (水)

中山太一と双美人

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           化粧品のパッケージ・デザイン

    戦前、街を歩けば「仁丹」か「クラブ」か、と言われるほど、特に関西では「クラブ化粧品」の街頭広告が目についた。クラブ化粧品は中山太一(1881-1956)が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりである。商品としては「クラブ洗粉」を発売し、双美人のシンボルマーク(原案は画家の中島春郊)が広く知られるようになった。明治期、白粉の「御園」、歯磨の「ライオン」、化粧水の「レート」、洗粉の「クラブ」といわれた。中山太陽堂の商品には、洗粉、歯磨、白粉、粉白粉、水白粉、ポマード、化粧水、クリーム、乳液化粧水、美身ゼリー、眉墨、チック、歯磨チューブ、歯ブラシ、石鹸などがあった。プラトン社をつくり雑誌「女性」(大正11年)「苦楽」(大正13年)「婦人文化」(大正15年)を発行した。美容だけにとどまらず、中山文化研究所を設立して女性を全面的にサポートするための総合サロンを開設している。

2008年3月25日 (火)

ヘッセとドストエフスキー

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    ドストエフスキー(1821-1881)

   ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)の1919年の一文に「カラマーゾフの兄弟またはヨーロッパの没落」(高橋健二訳『若き人々へ』人文書院)があるが、ここではその一節を紹介する。

    ドストエフスキーの諸作の中では、特に『カラマーゾフの兄弟』において私がひそかに「ヨーロッパの没落」と呼ぶものが、最も強くもりあがり、異常な明らかさで、表現され、予言されているように思われる。ヨーロッパの青年、特にドイツの青年が、ゲーテでなく、またニーチェでもなく、ドストエフスキーを、彼らの偉大な作家と感じていることは、われわれの運命にとって決定的であると、私には思われる。そう思って、最近の文学をながめると、いたるところに、ドストエフスキーへの近似が見出される。もっとも、それが単に模倣であり、子どもらしい印象を与えるに過ぎないことも、しばしばなのだが。カラマーゾフの理想が、非常に古いアジア的神秘的理想が、ヨーロッパ的となり始め、ヨーロッパの精神を食いつくし始めている。それが、私がヨーロッパの没落と呼ぶところのものだ。この没落は、母へ帰ることを意味する。それはアジアへ、源泉へ、ファウストの母たちへ帰ることであり、もちろん地上のすべての死がそうであるように、新しい誕生に通じるであろう。この過程を、「没落」と感じるのは、われわれだけである。われわれと同じ年輩のものだけである。古いいとしい故郷を去る時、悲しみと取り返しようもない喪失の感を抱くのは、老人だけであって、これに反し、若いものは、新しいものを、未来を見るだけである。ちょうどそれと同じようなものである。

   だが、私がドストエフスキーに見出す「アジア的」理想とは、ヨーロッパを征服しようとしていると私の思う「アジア的」理想とは、どんなものか。

    それは簡単に言えば、一切を承認するために、また長老ゾシマが予告し、アリョーシャが実践し、ドミトーリが、そしてずっとそれ以上にイワン・カラマーゾフが極度に明らかな自覚に達するまでに表白している、一つの新しい危険な恐ろしい神聖さのために、あらゆる固定した倫理と道徳から離反することである。長老ゾシマの場合はまだ、正義の理想が支配している。彼にとっては、ともかく善と悪とが存在している。ただ彼は彼の愛を、ほかならぬ悪人に特に好んで注ぐのである。

    アリョーシャの場合はもう、新しい神聖さの方式が、ずっと自由に生き生きとして来ており、彼はもうほとんど、無道徳的な自在さで、身辺のあらゆる汚れと泥の中をとおりぬけている。しばしば彼は私に、「あらゆる不快感を脱却することを、自分はかって誓った」というツァラツストラのあの最も高貴な誓約を想起させる。しかし、見よ、アリョーシャの兄たちは、この思想をもっともっと押し進め、もっと思い切ってこの道を進んで行く」そして、しばしば、外観はどうあろうと、カラマーゾフ兄弟の関係は、厚い三巻の本の進行の間に、徐々にまったく向きを変え、確固として存在している一切のものが次第に再び疑わしくなり、聖なるアリョーシャが次第に世俗的に、世俗的な兄たちが次第に神聖になり、最も犯罪人的な無頼なドミートリが、新しい神聖さ、新しい道徳、新しい人道の、最も神聖な、敏感な、切実な予感者となるかのように、思われる。それははなはだ奇妙である。いよいよカラマーゾフ的で、背徳的で、飲んだくれで、無頼で、粗暴になればなるほど、この粗暴な現象や人間や行為の肉体を通して、新しい理想がいよいよ近く光を発し、それは内面的にはいよいよ精神化され、神聖になる。飲んだくれで殺害者で暴行者であるドミートリと、犬儒学者的な知識人イワンとを並べると、検事やその他の市民階級の他の代表者たちの、律義な、きわめて儀礼的なタイプは、外面的に勝ち誇れば誇るほど、いよいよみすぼらしい、うつろな、価値のないものとなる。

   このような、ヨーロッパ的精神の根をおびやかす「新しい理想むはまったく無道徳的な考え方であり、感じ方であるかのように見える。それは精神的なもの、必然的なもの、運命的なもの、極悪なものの中にも、極度に醜いものの中にも感知し、そういうものに対しても、いや、まさにそういうものに対してこそ、尊敬と礼拝とをささげる能力であるように思われる。検事は大弁舌を振るって、このカラマーゾフ的背徳を皮肉に誇張して表現し市民たちの嘲笑にゆだねようとするが、その試みは、実際になるどころか、かえってきわめて穏やかなものにとどまっている。

   この演説の中で、保守的市民的な立場から、それ以来通りことばとなった「ロシア的人間」が描写されている。危険で、いじらしくて、無責任で、しかも良心的に敏感で、気が弱く、夢想的で、残忍で、しんから子どもらしい「ロシア的」人間である。今日でも人は好んでそう呼んでいる。もっとも私の信じるところでは、そのロシア的人間は、ずっと前からヨーロッパ的人間になりかけている。それこそまさに「ヨーロッパの没落」である。

   このヘッセの一文は第一次世界大戦直後の不安に時期に書かれたものであり、当時の精神状況を知るうえで今日でも意義ある文献と考える。文章を理解しやすくするため、「カラマーゾフの兄弟」の登場人物を紹介しておこう。

フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ カラマーゾフ家の家長。地主階級とは名ばかりの、ほとんど裸同然の身から出発し、居酒屋の経営や金貸しなどのあくどい稼業で身代を築き上げた成り上がり者で、抑制のきかぬ激しい情熱をもつ物欲と淫蕩の権化、自分も堕落し、まわりにも堕落をまきちらすシニカルな毒舌家で、「ロシアは豚小屋だ。ロシアの百姓は叩きのめす必要がある」などとうそぶく。彼はグルーシェンカに淫蕩の血を狂わせ、血道を上げている。最後に非業の死をとげる。

アデライーダ・イワーノヴナ その妻。富貴な家庭に生まれながら、フョードルを買いかぶって結婚し、一児をもうけたが、のちに愛想をつかして、他の男とかけおちする。

ソフィヤ・イワーノヴナ その後妻。二人の息子を生んで死ぬ。

ドミートリ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称ミーチャ) 長男。父からカラマーゾフ的な抑制のきかぬ情熱を譲りうけたが、同時にロシア人的純粋さを持つ男である。酒色に溺れ、底抜けのばかさわぎをやらかすが、心の底には高潔なものへの憧れが生きている。広いロシア的性格への憧れが生きている。彼はグルーシェンカの肉体の美しさに夢中になると、許婚を放り出してしまい、父親を敵視し、殺してやりたいと悩む。27歳。

イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 次男。大学出の秀才。父の人間蔑視が異なった形で彼に投影している。彼は神を否定し、「神の創ったこの世界を認めぬ以上、人間にはすべてが許される」という独自の理論を打ちたてる。無神論者であり、虚無主義者である。彼にもやはりカラマーゾフの血が流れている。それは兄ドミートリの許婚カテリーナに対する狂おしい思慕に現れる。ドミートリが肉体的になら、イワンは理論的に、父を憎悪していることは同じである。

アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ(愛称アリョーシャ) 三男。僧院で愛の教えを説くゾシマ長老に傾倒する純真無垢な青年。彼は誰からも、父からも愛され、天使と呼ばれている。しかし、彼の内部にもカラマーゾフの血が流れていることは、だれよりも彼自信が知っている。20歳。

スメルジャコフ  フョードルが乞食女に生ませた私生児。てんかんの病をもつ。下男としてうわべは実直に働いているが、浅薄で、奸智にたける。差別あつかいされているだけに、父フョードルを憎む気持ちは誰よりも強く、フョードルを殺して金を奪い、犯罪をドミートリに転嫁する。

2008年3月24日 (月)

石川啄木・我を愛する歌

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大海にむかひて一人

七八日

泣きなむとすと家を出でにき

          *

砂山の裾によこたはる流木に

あたり見まわし

物言ひてみる

          *

大といふ字を百あまり

砂に書き

死ぬことをやめて帰り来れり

          *

ふと深き怖れを覚え

ぢっとして

やがて静かに臍をまさぐる

          *

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

汽車を下りしに

ゆくところなし

          *

何がなしに

さびしくなれば出てあるく男となりて

三月にもなれり

          *

かなしきは

飽くなき利己の一念を

持てあましたる男にありけり

愛媛県佐田岬

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    愛媛県に日本一狭長な佐田岬半島の西端に幅1キロ、長さ40キロにわたって突出した佐田岬がある。波が荒く昔から御鼻といって航行上恐れられた。室戸岬や足摺岬のように人に知られないのは「陸の孤島」とまでいわれる交通の不便さからであろうか。ここでは黒牛の放牧がひとつの風物詩である。そのようなさいはての印象が強い南国伊予に一度だけ旅したことがある。30年以上も前のことである。大学の卒業ゼミで仲間数人(男3人、女2人)の旅。ちょうど山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」が流行っていた。

    松山道後温泉に1泊して、宇和島で闘牛や宇和島城を見て、八幡浜からバスで佐田岬の先端へ行った。長い長い一本道のメロディ・ライン(当時にそう呼んだのかは不明)は単調である。風の強い佐田岬の灯台まで歩く。夜は付近にある民宿。夕食には近所の子供達が一緒に歌をうたい遊んだ。観光地ではないが、そんなのどかで楽しい旅はもう二度と経験することはないだろう。いま思えばあれが青春の旅だったのだ。

2008年3月23日 (日)

早春の室生寺五重塔

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    「奈良大和路で最も魅力のある古寺、行ってみたいところは?」と聞かれたら、ケペルは躊躇することなく、室生寺と答える。中学生の春休みを利用して、高校生の兄と二人で行ったのは40年近くも昔の話である。室生口大野から宇陀川に沿って大野寺の磨崖仏を見て、反橋を渡り、境内に入る。緑ふかい杉木立の間に点在する諸堂には、かつての山岳道場としての重みが感じられる。奈良時代末期の宝亀年間(770年~781年)僧賢璟が開創。本尊は釈迦如来立像。仁王門をくぐり、石段を上ると正面に金堂、左に弥勒堂がある。さらに石段を上ると本堂、その上に五重塔がある。杉木立にはえる丹塗りの塔。勾配の緩やかな屋根、細かい組物、相輪などが一つの調べとなって人々を魅了する。室生寺には威圧感は微塵もない。なにか暖かくつつんでくれるようなやさしさがある。女人高野といわれるだけに女性に人気がある。女人ならずともなんどでも訪ねてみたい。だがあの石段を上ることはケペルにはもうできないかもしれない。

東亜百年戦争論

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        豊島沖海戦  栗島忠二画

 

  林房雄(1903-1975)は、自分が生きてきた時代の実感を次のように語っている。「私は日露戦争の直前に生まれた。生まれてこのかた、戦争の連続であったことは、五味川純平氏の四十年も私の六十年も全く同じである。だれが平和を知っているであろうか。だれも知らない。私たちが体験として知っているのは戦争だけだ」として、「私は大東亜戦争は百年戦争の終局であった」と結論づけている。つまり林の東亜百年戦争論の開始は、明治維新よりさかのぼり、ペリーの黒船渡来よりも前になる。外国艦船の出没が激しくなり、日本は、西洋列強との事実上の戦争状態に入る頃を起点とするようである。林房雄は専門の歴史家ではないのでその実証はおそらく粗雑なものであろうが、直観としてはなかなかすぐれた面がある。

近代日本の戦争は大きく分けて7つあるといわれる。1番目は維新戦争(幕末から明治維新)、2番目は日清戦争、3番目は日露戦争、4番目は第一次世界大戦期の戦争、5番目は満州事変、6番目は日中戦争、7番目が太平洋戦争である。

    とりあえず、第1番目の維新戦争の内訳だけを列挙してみよう。維新戦争は外国との戦争と内戦とがあるが、文久3年8月薩摩藩がイギリスと戦う薩英戦争、元治元年9月萩藩が英・米・仏・蘭4国連合艦隊と下関海峡で交戦、明治元年1月から明治2年6月は戊辰戦争、明治7年5月台湾出兵(牡丹社事件、征台の役とも呼ばれる)、明治7年2月佐賀の乱、明治8年9月江華島事件、明治9年10月神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして明治10年1月から9月までの西南戦争である。

   近代日本の根本にあるものは、結局西洋との対決、もう少し弱めて言えば対峙であった。「東亜百年戦争」が西洋列強との対決であるとする史観は、小説という形式で司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも一部にはみられるようになる。一部というのは、司馬は明治維新は偉大だが、昭和の戦争は愚劣であったという区別をしている点が林とは異なるのである。

    大佛次郎は、「天皇の世紀」の中で、G・B・サンソムが、吉田松陰の偉大さが分からないといっていることを引いた上で、「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいといったのは当然なのである。日本人ならばこれが解るとも最早言えないのである」と書いている。(引用:新保祐司「大東亜戦争とは日本思想にとって何だったのか」『日本思想史ハンドブック』)、

プラハの春の訪れ

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 ヨーロッパ最古といわれるカレル橋(プラハ)

  チェコ共和国の首都プラハは、中部ヨーロッパの中心地であり、西欧と東欧との交易ルートとして重要な位置を占めている。5~6世紀より、この地に定住したスラブ人を統治し、外敵に対抗するため、9世紀末にスラブ人によるプラハ城が築かれた。この城下町として、プラハ市街が発達したのは10世紀で、12世紀には、中部ヨーロッパ最大の都市として知られていた。

    プラハという地名は、言い伝えによると、「境、境界」を意味する地名であった。チェコ語のプラジティ(森の焼けた所)が語源であろうとする説。もう一つの説は、スラブ語のプラツ(働く)を語源とする。プラツはスラブ人が川に仕掛けをして漁をする場所を指し、チェコ、スロバキア、ハンガリーに多い地名である。

   1948年6月、チェコスロバキア人民共和国を樹立し、1960年7月公布の新憲法で国名を社会主義共和国に変更した。1968年、ドプチェク第1書記による「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こるが、ソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して軍事介入し、プラハなどを占領し、民主化運動は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロバキアが分離。チェコではクラウス首相が急進的経済改革を推進。1998年にはミロシュ・ゼマン、2002年にはヴラディミール・シュピトラ、2004年にはスタニスラフ・グロス、2005年にはイジー・パロウベク、2006年にはミレク・トポラーネクが首相に就任している。2002年にはヴァルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が氾濫し、大きな被害を受けたが、プラハにもようやく春が訪れようとしている。

エーゲ海の真珠

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    世界ムード音楽シリーズ(第6回)。「恋はみずいろ」(1968年)の世界的大ヒットでACCディスク大賞を受賞したポール・モーリア(1925-2006)は、「シバの女王」「蒼いノクターン」と次々とヒット曲を放つ。「エーゲ海の真珠」(1971)は原題が「ペネーロペ」で、ギリシア神話の英雄ユリシーズの貞淑な妻の名前である。スペインの作曲家アウグスト・アルゲロの作品を軽妙なロックビートと女性ソロ・ヴォーカルで地中海の雰囲気を見事に表現した編曲である。最初の録音版ではダニエル・リカーリが中間部のスキャトを担当している。画像はフィリップス・中央公論社の広告チラシであるが、リーダーズ・ダイジェストもポール・モーリアのレコードのセットものを多数販売しおり、愛聴したものである。

サバの女王

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 あなたゆえ くるおしく

 乱れた 私の心よ

 まどわされ そむかれて

 とまどう 愛のまぼろし

 私はあなたの 愛の奴隷

 命も真心も あげていたいの

 あなたがいないと

 生きる力も失われてゆく 砂時計

   世界ムード音楽シリーズ(第5回)。「サバの女王」(シバの女王ともいう)は旧約聖書に記されている南アラビアのシバ、そのシバの女王にわが恋人のイメージをたくして「君はボクのシバの女王、どうか戻ってもう一度君の国をここに築いておくれ」という意味。「シバの女王」はフランスの人気歌手ミッシェル・ローランが作詞・作曲し、自ら歌ってヒットさせた。ポール・モーリアやレーモン・ルフェーブルなども競演したが、昭和47年、日本語歌詞で歌ったアルゼンチン出身のグラシェラ・スサーナの低いもの悲しげな歌声が妙に心に切なく響いた。

2008年3月22日 (土)

ローマよ今夜はふざけないで

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ローマよ、今夜はふざけないで

私にダメと言わせて

きらめく星を消しておくれ

ロマンチックな月もかくしておくれ

でないと、大変なことになるわ

春になったことを忘れさせて

お願い、私にダメと言わせて

心をそそのかす

あのそよ風を止めておくれ

ローマよ 今夜はふざけないで

  *  *  *  *  *

世界ムード音楽シリーズ(第4回)「ローマよ今夜はふざけないでおくれ」はイタリア歌手オルネラ・ヴァノーニが歌ってヒットした。

ほほにかかる涙

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あなたは知っている このほほの涙

想い出を 流したい この涙で

あなたのため このほほの涙

あつい思いを そっとたえているの

もし だれかに聞かれたら

どう どう答えましょう

私の涙と 苦しい心を

あなたを想って このほほの涙

恋をなくしたために 淋しい夜

もう一度だけ 聞きたいの

サヨナラの言葉は

あなたの本当の心なのかしら

  *  *  *  *  *  *  *  

世界ムード音楽シリーズ(第3回)「ほほにかかる涙」は1964年の第14回サンレモ音楽祭の入賞曲で、日本にカンツォーネ・フームを巻き起こしたボビー・ソロの大ヒット曲。安井かずみ訳詩も知られており、ほりまさゆきが歌った。 

春のワルツ

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いつも信じていた 会えないけれど

いつかは会えると 涙で慰めてもみた

時には心を塞いでいた 

近くに抱き寄せられない

傷の中で 君がまた疼くから

君だけを待っていた

一日だけあたえられたら

幸せになる準備をしただろう

君のために 何もかも

アイ ラヴ ユー

僕が行くよ 遠いところにいても

希望の翼に包まれても

君と同じ夢を見る

離さないでくれ

運命が邪魔をして

たとえ世の中のすべてと引き換えても

君の手を離さないから

まだ聞いていなかったね

どこへ向かっているのかと

一緒にいられるなら

それが二人の進む道

    *    *    *    *    *    *    *

   世界ムード音楽シリーズ(第2回)「FLOWER-M」は韓国ドラマ「春のワルツ」の主題歌。ちょうど今の季節にぴったりの曲。ソ・ドヨンが甘く切なく歌っています。

ささやく瞳

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たとえ私があなたに少しも話さないでも

私の秘密がわかるでしょう

いつの日かあなたは読むでしょう

私の瞳に、私の瞳に

たとえあなたが聞かなくても

私の秘密がわかるでしょう

偽ることが決して出来ないって

私の瞳で 私の瞳で

なぜだか私に言って

でもどうして、でもどうして

あなたは私の瞳を決して見つめないの

それでもあなたは知っているわ

もうあなたがちょっと私が好きだって

なぜだか私に言って

でもどうして、でもどうして

あなたは私の瞳を決して見つめないの

それでもあなたは

私は知っている

どうあなたがちょっと好きだって

たとえあなたがたずねなくても

私の秘密を発見するでしょう

偽ることが決して出来ない

私の瞳で 私の瞳で

  *  *  *  *  *  *

世界ムード音楽シリーズ(第1回)「ささやく瞳」はイタリアの歌手ウィルマ・ゴイクのヒット曲。1967年のサンレモ音楽祭で男性歌手ディーノをパートナーに入賞した曲です。後にトム・ジョーンズも歌っていました。

篤姫とペリー提督

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   NHK大河ドラマ「篤姫」が面白い。第12回「さらば薩摩」では篤姫(宮崎あおい)がいよいよ江戸へと旅立つ。つまり嘉永6年(1853)8月21日。この前月、7月8日、アメリカの海軍提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794-1858)は4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた。篤姫が2ヵ月の旅を終え、江戸の薩摩藩邸に入ったのは10月のことである。国情はペリー来航で騒然としていた。「泰平のねむりをさます正喜撰、たった四はいで夜もねられず」という狂歌が流行った。徳川家定(堺雅人)と篤姫の縁組みの話は遅々として進まなかった。安政2年10月には安政大地震があり、縁談はさらに遅れた。こうして婚姻が正式に決まったのは安政3年(1856)のことであった。篤姫の入輿は一橋派の慶喜擁立のための工作であったが、わずか2年で家定が病没したため、南紀派の推す慶福(松田翔太)が第14代将軍となった。未亡人となった篤姫は天璋院と称し、大政奉還から江戸城開城へと至る歴史の転変の中、徳川家存続のため、可能なかぎりの働きをした。

2008年3月20日 (木)

バカリャウ(干しタラ)

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    アベイロ港のタラのかんそう

   ポルトガルの乾物屋の軒先には大きな灰色の物体がぶら下がっているのをみかける。それはポルトガルの国民食といわれるバカリャウ(干し鱈)である。大西洋で獲れた大きなタラを開いて干したり塩漬けにする。特製の野菜スープを加えて煮込むか、塩ゆでにし、オリーブ油と酢で食べる。ポテト・サラダやクロケッテ(コロッケ)にも使う。そのほか調理法はいろいろあるようで、「家庭の数だけバカリャウ料理がある」といわれる。ともかくポルトガル人はムニェール(舌平目)、グリル(太刀魚)など魚料理を好むが、なかでもバカリャオ(鱈)はよく食べる。

  アベイロは「ポルトガルのベニス」といわれるほど風光明媚な運河の町である。むかしから良港として栄えたが一時水路が砂で塞がれたため寂れたが、19世紀に大暴風雨に襲われて、再び水路が開かれ、町は奇跡的に復興したという。

マサイ族の風俗習慣

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    マサイ族の少女たち

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    マサイ族の住居

    マサイ族はケニア南部からタンザニア北部にかけて住む民族。パラ・ナイル系のマー語に属するマサイ語を話す。牛の牧畜を主な生業とする。宗教はキリマンジャロに座するエン・カイという神を信奉する一神教。マサイ族の男は「草原の勇敢なる戦士」と呼ばれているが、今日では部族間の争いもなく、戦闘はもっぱら猛獣相手に行われる。

   住居は牛糞と泥をこねて作る。この小屋をサークル状に配置し、外側を木の柵で囲いボマという村をつくって、猛獣から身を守る。マサイ族の伝統的な色は赤であり、衣服や化粧にはほとんど赤を使う。巨大な耳輪、派手な化粧をしていることもある。頭髪は牛の油でかためる。身体的特徴は、背が非常に高く、脚も長い。皮膚は黒褐色。マラソンなどの長距離走に優れており、名ランナーが多数でている。また驚異的な視力を持つこともよく知られている。

2008年3月19日 (水)

御宿の海女に美人が多い理由

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   御宿町は千葉県の南東、房総半島の東に位置する人口約8,200人の小さな町。ここには、今でも100人ほどの海女が海に潜りアワビ、サザエ、テングサ、ワカメなどを採集している。御宿岩和田の海女はむかしから大柄で美人が多いといわれる。その理由にはこんな歴史がある。

   1609年9月28日、メキシコへ向かう途中のスペインのドン・ロドリゴ(1564-1636)船長の「サン・フランシスコ号」が台風に遭い、上総国岩和田村(現・御宿)田尻の浜に漂着した。地元の御宿の海女が彼らを救助した。ロドリゴらは、駿府城で徳川家康とも会見し、1610年10月にスペインに帰国した。つまり、海女と船員との間に子どもが生まれ、海女になったというのである。ほんとうに事実かどうかはわからないが、遠い異国の船員たちにとっても、海女の操業する姿はなんとも艶かしく人魚姫のように見えたことだろう。なにせ大正時代までは、海女は上半身は裸で、腰には白木綿の磯ナカネ(腰巻)を巻いていた。海女の健康的な美しさは異人の旅情の思い出であったことは間違いない。

   今日、海女といえば観光海女しか見ることができないが、三重県志摩の鳥羽真珠島、福井県東尋坊、千葉県御宿、石川県輪島舳倉島(へぐらじま)などがよく知られている。

2008年3月17日 (月)

七人の刑事と警視庁物語

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        七人の刑事

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        警視庁物語

  もの悲しいハミングが流れ、よれよれのコートにハンチング帽という中年の渋い部長刑事、芦田伸介が登場する。TBSのテレビドラマ「七人の刑事」(昭和36年から44年)は警視庁赤木班(堀雄二)の七人の刑事たちの聞き込みや張り込み、参考人への取調べといった地道な捜査を通じて真実に迫るドキュメンタリー・タッチの社会派ドラマだった。キャストは課長の堀雄二をはじめ、芦田伸介、菅原謙次、佐藤英夫、美川陽一郎、城所英夫、天田俊明。山下毅雄作曲、歌・ゼーグ・デチネのテーマソングも良かった。赤坂のクラブで遊び歌っていた客のユダヤ人の宝石商デチネをたまたま居あわせた山下がレコーディングさせ、大ヒットとなった。ところが、ゼーグはその後、詐欺容疑で海外に逃亡したため、「七人の刑事」の歌を聞くことはできない。またドラマそのものも当時は録画保存という体制がなかったため、数回分だけでほとんど現存していない。リアルタイムで見れた幸せを感謝したい。

   この「七人の刑事」の原型ともいえるのが、東映の「警視庁物語」である。脚本の多くは長谷川公之が手がけているし、堀雄二が主演している。1時間ちょっとの映画なのでSP作品。二本立てということだが、地方の映画館では三本立て興行だったかもしれない。お目当ては東映イーストマンカラーのオールスター総天然色、明朗痛快娯楽時代劇だったが、添え物的に白黒のリアルな現代ドラマをみせられ強烈な印象となった記憶がある。それにあの月光仮面の大村文武が登場している。込み入った話の筋は理解できなかったかもしれないが、リアリズムというものも意外に、子どもにも楽しめる作品だった。警視庁に電話がなって、捜査員が受話器をとる。「なに!女性のバラバラ死体!」と、いった調子で話が展開していく。全25本あるそうだが、昭和30年の「終電車の死美人」を第1回とするかどうかは、研究者によって異なるという。昭和31年作品は「逃亡五分前」「魔の最終列車」「追跡七十三時間」、昭和32年作品は「白昼魔」「上野発五時三五分」「夜の野獣」、昭和33年作品は「七人の追跡者」「魔の伝言板」、昭和34年作品は「顔のない女」「一〇八号車」「遺留品なし」、昭和35年作品は「深夜便一三〇号車」「血液型の秘密」「聞き込み」、昭和36年作品は「不在証明(ありばい)」「十五才の女」「十二人の刑事」、昭和37年作品は「謎の赤電話」「十九号埋立地」、昭和38年作品は「ウラ付け捜査」「全国縦断捜査」「十代の足どり」、昭和39年作品は「自供」「行方不明」。  メンバーは「七人の刑事」のような固定制ではなく、毎回異なっている。堀雄二、神田隆、花沢徳衛、中山昭二、波島進、宇佐美諄、伊藤久哉、松本克平、福原秀雄、曽根秀介、菅沼正、外野村晋、関山耕司、南原伸二(南原宏治)、今井健二ら。下の写真の俳優すべて知っているかたは相当なマニアですね。

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左上より:佐原広二、山本麟一、須藤健、千葉真一、花沢徳衛、堀雄二

右上より:神田隆、南広、中山昭二、波島進、大村文武、石原房太郎

2008年3月16日 (日)

柳と別離

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    3月は別れと旅立ちの季節。送別の歌として古来、有名な、盛唐の王維(699-759)の七言絶句「元二の安西に使いするを送る」の第二句に「客舎青青として柳色新たなり」とある。「柳色新」という表現は、じつは「柳」の語に送別の意をほのめかしたものである。古代の中国では、送別のときに柳の枝を折り取り、これを相手に贈る風習があった。「柳」(りゅう)の字の音が、ひきとめる意の「留」(りゅう)に通じるからとも、柳の枝は曲げてもすぐにもとにもどるので、分かれてもまた会える意を示すからともいう。したがって、別離と柳とは密接な関係があり、漢詩などでも送別の詩には柳をうたうことが多い。別れの笛の曲に「折楊柳」というのがあるが、「楊柳を折る」ことで別れを意味する。

詩全体は、以下のとおり。

 渭城の朝雨 軽塵を浥し

 客舎青青 柳色新たなり

 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

 西のかた陽関を出づれば故人無からん

(口語訳)渭城の朝の春雨は、軽い土ぼこりをしっとりと湿らして、旅館のあたりのあおあおとした柳の色もひとしおみずみずしく鮮やかである。さあ君、もう一杯この酒を飲みほしたまえ。これからあの西の方、陽関の関所を越えたなら、親しい友人はいないだろうから。(引用文献:井波律子「中国名言集一日一言」)

教育博物館と手島精一

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    教育博物館は、明治10年1月に創設され、同年8月から一般に公開された。教育博物館とはその名が示すとおり、いわゆる自然史資料を収める博物館ではなく、教育に関する資料を収集展示する博物館として構想され、通常の陳列展示主体の博物館活動にととまらず、当時としては斬新な講演会、講習会の開催、さらに館内に製作工場を設けて教材用の理化学器機や博物標本を製作し学校へ払い下げ、明治10年代の学校教育ならびに社会教育に貢献してゆくのである。教育博物館は後に東京教育博物館と改称、東京図書館との合併を初めとして、幾多の組織改変を経、現在の国立科学博物館へと至る。

   現在、国立国会図書館所蔵本に蔵書印「教育博物館印」のある2万点近い技術関係並びに教育関連の和書・洋書は、工業教育の父と讃えられる同館長・手島精一(1849-1918)の蒐集によるところが大きい。手島精一は嘉永2年、沼津藩主水野忠寛の江戸藩士田辺四友の二男として生まれた。明治4年、岩倉具視大使の米欧巡視に従う。明治11年、パリ万国博に参加。「今回の博覧会にあらわれたヨーロッパの工業力の発達ぶりは素晴らしいです。将来の日本を富強にするには、どうしても工業力の培養に意を用いるべきです。何よりも産業の振興です。この実際知識を授ける工業学校を設置することです」と語る。

   社会教育の充実を願う手島と学校教育重視の森有礼との厳しい対立があったが、明治22年に手島は教育博物館館長を辞し、東京工業学校(現・東京工業大学)の校長に就き、大正5年まで断続的に校長の地位にあり、教育と産業とを結ぶ実業教育・社会教育の振興に終始努力した。

パリ会議と明石元二郎

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    日露戦争の勝因の一つとして、陸軍の行ったすぐれた諜報・謀略活動があった。それが明石元二郎大佐が担ったヨーロッパにおける後方撹乱工作(明石工作という)である。明治35年夏、陸軍総帥の山県有朋はロシア革命援助工作として明石に100万円(:現在の100億円)もの大金を渡して、対露謀略工作を開始させた。

    明石はロシアのアキレス腱は民族問題であると見抜いていた。明治37年10月1日、パリである秘密会議が開かれた。出席したのは、自由党、革命党、フィンランド憲法党、ポーランド国民党、ポーランド社会党、アルメニア革命連合、グルジア革命的社会主義連邦派党の各党主や代表メンバーであった。会議の議長を務めたのは、フィンランド憲法党の党主コンリー・シリヤクスであった。会議の目的は、ロシア皇帝とその政府をいかに転覆させるかであった。その結果、各党の利害関係はさておき、帝政ロシア打倒という一点で各党が協力し、反ロシア行動を推進することが決まった。この会議を裏から画策したのが、他ならぬ明石大佐である。

    明石元二郎(1864-1919)は、万治元年に福岡藩士明石助九郎の二男として生まれた。父親は二千石以上の上士だったが、若くして自殺している。明治9年、上京し、安井息軒の門に入り、漢学を修め、明治20年に陸大を卒業。陸士卒業時の成績はフランス語がトップ、製図と絵画に優れていたが、運動神経は著しく劣っていた。熱中すると周囲に目が入らなくなる性格であるために、協調性という点でも評価は低かった。明石の異常なまでの集中力を示す逸話がある。

    ある時、明石元二郎は構想を述べるため山県有朋を訪ねた。語るにしたがい、明石は夢中になり小便を漏らした。尿意を感じたが、面倒だと思ったのか、そのまま話を続けたので、小便は床を伝わって山県の足元を濡らした。それでも語ることを止めない明石の熱心さにほだされて、山県も黙って終わりまで話を聞いていたという。

2008年3月12日 (水)

岡本信治郎「10人のインディアン」

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10人のインディアン(10枚組の内)  岡本信治郎 

  昭和39年 長岡現代美術館蔵

   ゴッホに関心をよせていた岡本信治郎は、やはりゴッホを象徴する色、いわばゴッホ色として黄色を用いた作品がよく見られる。「10人のインディアン」は髪飾りをつけ長靴をはいたインディアンの姿が、太い描線で囲まれた簡潔な形体と、明るく鮮やかな色調で描かれている。記号のように著しく単純化されたイメージは、豊かなユーモアと鋭いアイロニーに満ちて、抽象的戯画ともいうべき独自な世界を示す。戦後、抽象画が流行していたが、岡本はマンガ的絵画を描くことで、見るものにさまざまなメッセージを送り続けている。

    岡本信治郎(おかもとしんじろう)は昭和8年、東京生まれ。昭和27年、都立日本橋高等学校を卒業後、印刷会社のアート・ディレクターとして26年間勤務。独学で水彩画をはじめ、日本水彩画展、二紀展などに出品。昭和31年、村松画廊で最初の個展を開き、同年ヨシダ・ヨシエらと「制作会議」を結成、新印象派の画家スーラの作品に出会うことで、現代の病理を明るい色彩と単純な形態によって表わす発想を得る。昭和31年から読売アンデパンダン展に出品、昭和37年と翌年のシェル美術賞展で佳作賞を、昭和39年第1回長岡現代美術館賞展で大賞を受賞。この間、「聖家族」「10人のインディアン」など、ユーモラスな形態の内に空虚感を込めた連作を発表し、現代日本のポップ・アートを代表する一人となる。

2008年3月11日 (火)

未来派・尾形亀之助

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  化粧   尾形亀之助 1922年 仙台・個人蔵

    尾形亀之助(1900-1942)は、アナーキスト系詩人の仲間に加わり詩誌「銅羅」「歴程」などに参加。虚無的心情を平明な言葉に託してうたった詩人として知られる。画家としては、大正10年の第2回未来派美術協会展に、木下秀一郎に誘われて出品したが、それ以前の画歴はよくわからない。未来派美術協会に属し、村山知義や柳瀬正夢とマヴォの結成にも加わった。彼の油絵の作品は、絵を描いた時期が短かったせいもあるが、この「化粧」以外、残っているものがあるかどうか、現在のところ不明である。平面的な線と色によって対象を抽象化して描いており、瀟洒な色感と洗練された近代感覚が認められる。

2008年3月10日 (月)

るんは風の中

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   ある日、アキラは高校に通う途中で、運命の少女と出会った。と、いってもそれはインスタント・コーヒーの広告に写った少女である。アキラはその少女に恋をした。ポスターの少女も当たり前のようにアキラに話しかけた。アキラはそのポスターをはがして家に持って帰る。

「よし、きみの名は、るんだ!」

   アキラはいつも、るんと一緒にいたい。学校へもポスターを持ち歩いた。二人の交際は深まっていく。

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   アキラは新しい学校にも馴染めず、一人で悩んでいた。人生の目的も進路もわからない。しかし時間だけが過ぎていく。るんだけがすべてだった。アキラは「ぼくは、るんがすきだ。できれば、きみのいる止まった世界にぼくもはいりたい!」

   るんは言った。「それは無理よ。だってあたしは思い出だけなんですもの。だからとまつたまま。未来はないの。あたしこそあなたがうらやましいわ。あなたには人生があるもの」

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  ある日、写真のモデルになった女性の娘が訪ねてきた。るんとそっくりである。るんは「あたしをはがして。アキラさん、あたしのつもりで彼女と交際しなさいよ。ね、それがいちばんいいのよ。」アキラは「だけど彼女はきみじゃない!」「アキラさん、さようなら。彼女と仲よくね」「風のバカヤロッ。るんを返せっ。るん!!」

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 るんは風の中

 るんは風の中

 思い出の空のかなたへ

 とび去っていった…

          (引用:手塚治虫「るんは風の中」)

赤いドレスの女

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   1933年、インディアナ州の刑務所から釈放されたジョン・デリンジャー(1903-1934)はアメリカ中西部を舞台に銀行強盗を繰り返した。神出鬼没の犯行に銀行は恐怖に陥り、庶民は喝采した。1934年7月22日の夜、デリンジャーはガールフレンドのポリー・ハミルトンとアンナ・セイジを連れて、シカゴのバイオグラフ劇場で上映中のギャング映画「男の世界」(クラーク・ケーブル主演)を観に出かけた。

    アンナ・セイジはルーマニア出身で旧姓をアナ・カンパナスといい、長年インディアナ州で売春宿を経営しており、ルーマニアへの強制送還を恐れ、デリンジャーの情報をFBに売っていた。アンナはデリンジャーとバイオグラフ劇場で映画に行くことになっているとFBIに打ち明けた。FBIは映画館の外で待ち伏せする際、デリンジャーを見失わないため、アンナに赤いドレスを着るように指示しておいた。8時すぎ、アンナがカップルと一緒にやってきた。女性2人はロビーに入って彼を待った。ロビーの照明の下でアンナのオレンジ色のスカートは血の色に見えた。映画館は満員で、踏み込んで逮捕すればほかの観客を巻き添えにするのは必死だった。デリンジャーが出てきたところで逮捕することにした。午後10時30分、デリンジャーは2人の女性に挟まれて映画館から姿を現した。罠にかかったことに気づいたデリンジャーは、ポケットから銃を抜き、そばの路地に逃げ込もうとしたが、発砲する前に撃たれ、顔を下にして路地に倒れたという。遺体を一目見ようと物見高い野次馬が集まった。バイオグラフ劇場横の路地では、人々が固まりかけた血の海にハンカチやスカートの裾を浸していた。司法当局にとってはデリンジャー事件は解決したが、デリンジャーを英雄視していた庶民の間では、FBIが撃ち殺したのはニセ物だという噂が広まった。いまでもアメリカでは「赤いドレスの女 (the lady in red)」とは「自分を破滅へ導く運命の女」を意味する用語として使われている。(引用文献:「マーダー・ケースブック48、伝説の無法者」1996)

2008年3月 8日 (土)

ホーンブック

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    少女が手に持っているのは、お正月に羽根突き遊びをするための羽子板ではありません。ホーンブックという幼児用の本です。イギリスでは17世紀から18世紀にかけて、慈善学校、日曜学校などの民衆学校が設立され、子どもに字を覚えさせるために、アルファベット、数字、主の祈りなどを書いた紙を透明な角質(horn)の薄片で覆い、それを柄付きの枠におさめたホーンブックが使われていました。ホーンブックの起源は1442年頃にさかのぼるともいわれています。

2008年3月 7日 (金)

田村仁左衛門吉茂と「農業自得」

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     田村仁左衛門吉茂像

    河内郡下蒲生村(栃木県上三川町)の名主・田村仁左衛門吉茂(1790-1877)、父吉昌は、親子2代にわたって農業技術の改良につとめ、近代の科学的な農業技術改良の先駆ともいえる着実な成果をあげた。

   当時世間一般で行なわれていた苗代への播種量や田植え時に用いる一株の苗数の常識に疑問をもち、真に適正な播種量をさぐりあてるための親子2代をかけて継続的な栽培実験を重ねた。その結果、この地方で植え田一反当りの播種量7、8升とされていた常識は誤りであり、実はたいへんな厚蒔・厚植えを行っていたことを発見した。仁左衛門が実証したところでは、もっとも収量のあがる苗数や株数から厳密に逆算すれば、適正な播種量はおよそ反当り2、3升であるとしている。仁左衛門はこうした実験観察のため、数年分の作付け状況を一目で同時に比較対照できる農事帳形式を工夫案出していた。仁左衛門の技術改良は畑作にもおよび、各種の畑作物間の輪作体系を工夫し、収量を増し、病虫害を引きおこさない作付き方法の発見につとめていた。これらの技術改良によって天保年間の凶作時にも被害を最小限にくいとめる成果をあげることができたという。田村仁左衛門はこの成果を、独自の技術体系として確立することにつとめ、隠居後執筆に取りかかり、天保12年に草稿を書きあげた。たまたま天保改革期にあたり江戸を追放されて秋田へ帰郷する途中の国学者平田篤胤がこの書を目にとめて、みずから「農業自得」と命名し、出版をすすめたことから農書として世にでることになった。田村仁左衛門の農業技術の改良と普及の努力はその後も継続し、「農業根元記」「農業自得付録」「農家肝用記」などの著書がつぎつぎとだされた。(参考文献:阿部昭「近世村落の構造と農家経営」文献出版 1988)

2008年3月 4日 (火)

安源へ赴く毛主席

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              安源へ赴く毛主席 1968年

    無名の画学生であった劉春華(リュウ・チュンホワ)が大学の卒業制作として描いた作品。若き毛沢東が共産主義革命の志をもって江西省安源へ向かう颯爽とした姿を描いたもので、模範的なテーマと表現であると評価され、各家庭に行き渡るほど膨大な量のポスターが印刷され社会に流布した。「安源へ赴く毛主席」は、単なる文化大革命期のプロパガンダ・ポスターというより、時代と社会をイメージとして人びとの脳裏に強烈に記憶されている。

2008年3月 3日 (月)

マルケ「シブール」

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    マルケ「シブール」 1907年

    ジュネーブ 個人蔵

    アルバート・マルケ(1875-1947)は、ギュスターブ・モローに師事、同時に同門のマチスやルオーらと親交を重ねた。1905年サロン・ドートンヌに出品したところの初期の仕事は、鮮烈な色彩の対比と大胆な描法とによって、マチスらとともにフォービズムの代表的作例と目された。やがて1912年のモロッコ旅行後、次第にフォーブ的傾向から離れ、色彩の調和を重んずる温雅な作風に向かった。以後マルケはほとんど風景画を専門とし、各地を旅しながらいずれも川・港・橋など水の見える情景を対象に、柔らかな灰色や緑・青などを主調とする微妙な色合いと的確な描写で、「海辺の謝肉祭」(1906年)などのすぐれた作品を数多く残した。

   本図の作品はフランスのスペイン国境近くの港町シブールの風景を、大胆な色彩と筆触を駆使している。

聖アポステルン教会

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       聖アポステルン教会(ケルン)

   ドイツ西部のラインラント地方にはケルン、マインツ、マンハイム、ボン、アーヘン、デュッセルドルフなどの都市が点在し、中世の教会も多数残っている。とくにケルンにはゴッシック建築のケルン大聖堂をはじめ、ロマネスク建築の聖マーチン教会、聖セヴェリン教会、聖バンタエロン教会、聖アポステルン教会などがある。1192年建築の聖アポステルン教会は、三つの祭室を備え、外壁は3段のアーケードによって飾られている。

夢二式美人

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       お葉

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       マコチャン

  竹久夢二のモデルといえば、たまき、彦乃、マコチャンなどいるが、「お葉」が最も知られているかも知れない。佐々木カ子ヨ(1904-1980)は、東京美術学校のモデルとして人気があった。大正8年春頃、夢二のモデルとなり、「お葉」という愛称をつけられる。妖精のような可憐さと成熟した女性の妖艶さをあわせもつというまさに理想的モデルだ。夢二の代表作「黒船屋」はお葉をモデルとして生まれた。物憂げな表情をたたえた細面の大正美人は「夢二式美人画」といわれる。

彦乃と京都

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笠井彦乃 京都・高台寺鳥居わきの家の2階にて(背後は八坂の五重塔)

    笠井彦乃(1896-1920)は、日本橋の紙問屋・笠井宗重の娘で、裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。竹久夢二のファンで、大正3年秋、夢二に絵をかいてほしいと頼んだのが切っ掛けで、愛し合うようになる。しかし夢二には岸他万喜との離婚歴があり、父宗重は反対した。大正6年2月、夢二が次男不二彦を連れて京都へ引っ越すと、彦乃は6月には京都へ行く。夢二との幸福な京都高台寺での同棲生活を過ごす。大正7年、彦乃は旅行中の夢二に会うために九州へ向かう途中、結核を発病し、別府で入院する。夢二とは引き裂かれたまま、大正9年1月16日、順天堂医院で亡くなる。享年25歳だった。

港屋絵草子店たまき

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            港屋絵草子店の岸たまき

   抒情画の天才、竹久夢二(1884-1934)は明治17年9月10日、岡山県邑久郡本庄村の酒造家の次男に生まれた。15歳の頃に家運が傾き、18歳で上京。その画才は岡田三郎助、島村抱月に認められ、やがて甘美な哀感ただよう詩情は、大正の人々の心をとらえた。

    岸他万喜(きしたまき、1882-1945)との出会いは明治39年、夢二が早稲田鶴巻町にある絵葉書店「つるや」を訪ねたときに始まる。やがて二人は結婚し子供も生まれる。「港屋絵草子店」を開店するが、二歳年上のたまきとはいさかいが絶えなかった。大正4年、たまきと東郷青児との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎えるが、たまきは夢二亡き後も彼を慕い続けたという。

2008年3月 2日 (日)

有島武郎「ドモ又の死」

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   有島武郎(1878-1923)が個人雑誌「泉」に戯曲「ドモ又の死」を発表したのは大正11年10月のことである。それから翌年6月に美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中自殺したのは、わずか8ヵ月後のことであった。当時の有島の心境を知るてがかりとしては、この作品のほか、戯曲「断橋」、小説「酒狂」「或る旋療患者」「骨」「親子」などがある。

「ドモ又の死」あらすじ

    「ドモ又」とあだ名された戸部、花田、沢本、瀬古、青島という五人の青年画家が、ともにモデルのとも子に好意をもち、芸術家信念に燃え3日間も飢えとたたかって制作に精進している。遺作展を開いて、悪ブローカー九頭竜、えせ美術愛好家堂脇左門から金をまきあげようという計画がたてられる。そのためにはひとりを天才として死んだことにし、とも子と結婚して天才の弟として再生することにしなければならない。とも子に意中の人を選ばした結果は、意外にもドモリで、ししっ鼻で、顔にでこぼこのあるドモ又だった。一同これを了承、九頭竜らを迎える準備をする。

花田さん、あなたは才覚があって画がお上手だから、いまに立派な画の会を作って、その会長さんにでもおなりになるわ。お嫁にしてもらいたいって、学問のできる美しい方が掃いて捨てるほど集まってきてよきっと。沢本さんは男らしい、正直な生蕃さんね。あなたとはずいぶん口喧嘩をしましたが、奥さんができたらずいぶん可愛がるでしょうね。そうしてお子さんもたくさんできるわ。そうして物干竿におしめが賑やかに並びますわ。青島さんは花田さんといっしょに会をやって、きっと偉くなるわ。いまに皆んながあなたの画を認めて大騒ぎする時が来てよ。そうして堂脇さんとやらが、美しいお嬢さんを貰ってくださいって、先方から頭を下げてくるかもしれないわ。けれどもあんまり浮気をしちゃいけなくってよ。瀬古さん…あなた、若様ね。きさくで親切で、顔つきだって一番上品で綺麗だし、お友だちにはうってつけな方ね。でもあなた、きっと日本なんかいやだって外国にでも行っちまうんでしょう。お大事にお暮らなさい。戸部さんは吃りで、癇癪持ちで、気むずかしやね。いつまでたってもあなたの画は売れさうもないことね。けれどもあなたは強がりなくせに変に淋しい方ね…。悪口になったら、許してちょうだい。でも私は心から皆さんにお礼しますわ。私みたいながらがらした物のわからない人間を、皆さんで可愛がってくださったんですもの。お金にはちっともならなかったけれども、私、どこに行くよりも、ここに来るのが一番嬉しかったの。ともどもに苦労しながら、めいめいが一番偉いつもりで、仲よく勉強しているのを見ていると、何んだか知らないが、私時々涙がこぼれっちまいましたわ。…でも私、自分の旦那さんを決めなければならないんだわ。いやになるねえ。私がいい人を選んでも、どうか怒らないでちょうだいよ。私、これでも身のほどをわきまえて選ぶつもりですから…。戸部さん、私あなたのお内儀さんになります。怒らないでちょうだいよ。私あなたのことを思うと、変に悲しくなって、泣いちまうんですもの…。

2008年3月 1日 (土)

カルロ・マデルナ

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サンタ・スザンナ聖堂 ローマ 1595-1603年

   カルロ・マデルナ(1556-1629)は、イタリア・バロックの建築家。北イタリア、ルガノ近郊のカポラーゴ生まれ。ビニョーラの影響が強い。教皇シクストス5世のとき、ローマでこの教皇のために働いていた建築家の伯父ドメニコ・フォンタナのもとで助手をつとめ、独立の建築家としての活動をみせるのは1592年以後である。1603年、ポルタの跡を継いでサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、いわゆるマデルナの長堂およびファサードを完成(1607-1617)。

   そのほか、聖堂建築には、サンタ・マリア・デラ・ビットーリア聖堂(1608-1620)やサンタンドレア・デラ・パレ聖堂(1608-1616)など、邸館建築には、パラッツォ・マッティ(1603-1616)やパラッツォ・バルベリーニの設計(1625-1629、建設はベルニーニ)などがあり、いずれも盛期バロックへの先駆をなす作品として重要である。パラッツォ・バルベリーニの着工後まもなく没した。

   本図のサンタ・スザンナ聖堂は、マデルナの代表的な建築とされ、明暗の効果や列柱の扱い方にも特徴がある。前時代の建築家ビニョーラの設計したローマのイル・ジェス教会などのシステムに従ったものであるが、壁面に埋め込まれた円柱や角柱、また、壁面に掘り込まれた壁龕(像を置くための壁のくぼみ)や突出した軒蛇腹などの使用により、壁面は平坦ではなく、より変化に富んだ陰影をつくり、バロック的・絵画的な効果を上げている。上層部の両側にある渦巻形の装飾はかろやかで、ダイナミックな感じを与える。盛期バロック建築正面の最初の代表例であり、17世紀の教会堂正面の典型となった。

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