三島の太宰批判
太宰治の「斜陽」に有名な場面がある。お母さまが白い萩の花のしげみの中から顔を出して、娘のかず子に「お母さまが、何をなさっているか、あててごらん」と聞く。そして、「おしっこよ」と一言いう。「ちっともしゃがんでないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」
この「斜陽」に対して、三島由紀夫は「太宰治氏のこと」(「三島由紀夫全集30」)で次のように批判している。
作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいひといひ、生活習慣といひ、私の見聞してゐた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などといふ。「お母さまのお食事のいただき方」などといふ。これは当然、「お母さまの食事の召上がり方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さへつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん」などといふ。それがしかも、庭で立小便をしてゐるのである!」
三島が指摘するように貴族的な立ち居振る舞いや言葉遣いの難点が小説には認められるものの、「斜陽」で太宰が紡ぎだした言葉は全体として成功しているように思える。太宰嫌いの三島はあまり仔細に検討していないようだ。太宰作品をもっと深く丹念に検討する価値がありそうだ。
ここでは、ちょっと気のきいた一文だけをあげるにとどめる。
三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。
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