リプトン卿とアメリカスカップ
ティークリッパー
イギリス東インド会社の独占貿易が廃止された19世紀。最初に届けられた新茶は高値で取引されたことから、中国からイギリスに紅茶を運ぶ船「ティークリッパー」は、その速さを競いあった。特にアメリカのニューイングランドで作られた帆船は、東インド会社の船の5倍の速さでイギリスに到着し人々を驚かせた。高速で帆走できるように、長さが幅の6倍もある細長い構造で、浅い船底に鋭い船首を持っていた。横風も受けられるようにマストを高くし、横張りの三角帆がついていた。次第に、優勝者には多額の懸賞金が支払われる「ティーレース」へと進化していき、人々はお金をかけてこのレースの始まりであり、現在有名な「アメリカスカップ」の元祖とも言える。アメリカスカップには、紅茶王と呼ばれるリプトン社の創始者であるリプトン卿も参加していた。
1851年のロンドン大博覧会の際、ビクトリア女王が観戦する中、ワイト島1周帆船レースが開催された。14隻のイギリス船と、1隻のアメリカ船が参戦。優勝したのは、たった1隻で参加したアメリカの「アメリカ号」だった。優勝カップをアメリカに持ち帰ったアメリカ号のオーナーは「カップの保持者はいかなる国の挑戦も受けなければならない」という証書をつけた。そこから、このカップを賭けて始まったのがアメリカスカップだ。リプトン卿は30年間に渡って5回挑戦したが、惨敗続き。しかし、彼の勇敢な挑戦を讃え、ニューヨーク市民は一人1ドルずつ出し合って、ティファニーのカップを彼にプレゼントした。このカップを記念して創設されたのが「リプトン・カップ・レース」である。(引用文献:「世界のみなと物語」港湾空間高度化環境研究センター)
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こんにちは。アメリカ人も紅茶が好きだった事を示す逸脱な?先生のお話ですねえ。
アメリカンコーヒーが薄いのは、今でも紅茶を心の奥で慕っている証拠の盲腸。っていうか残渣か。カスを飲むのは酒粕でーす。
抹茶好きは佐幕側で、煎茶好きは倒幕派に多かったように、飲み物は何かを示すような気がします。
もしも、アメリカが日本茶を好み始めてアメリカ農法が変われば良いになあ。
僕らの高校は普通科は日本史は必修でした。受験科目として選ばないクラスは、先生の好みで一年間で幕末から第二次大戦の開戦までを習いました。太古からだと時限がとても足らないそうです。でも、ロッキードのおさの証人の時は、手がブルブル震える姿を日本史の時間に皆でテレビを見ました。
日本史の先生はこれも歴史になるのだから見るのだと言いました。先生が見たかっただけかもしれませんが。
尾崎がくどうの筆名変遷の件もよく話していました、山本ごんべさんの偉さと堕落とかも。私はえい先生に教えてもらいラッキーでした。
投稿: | 2008年2月17日 (日) 22時51分
あたたかいコメントありがとう。このブログを見てくれる人はやはり歴史好きの人が多いですね。それも大学の歴史学の講義ではなくて、高校の授業。少々脱線して話してくれたエピソードが懐かしくて忘れられないものです。それは、教師の人間味に少しふれた気がするからかもしれない。
投稿: ケペル | 2008年2月19日 (火) 23時10分
突然のメール失礼致します。
私は㈱グリンタの野瀬と申します。
ただいまテレビ製作をしておりまして
その中でイギリスの帆船の画像を探していましたところ、
こちらのHPにて帆船画像を拝見した次第です。
差し付けなければ帆船画像をお貸しいただけませんでしょうか?
もちろんそのまま使うのではなく加工して使用させていただきます。
どうぞよろしくおねがいします。
投稿: ノセ ジュンヤ | 2010年5月13日 (木) 08時40分
野瀬さま。画像の使用の件ですが、掲載の写真は別の著作権者の作品を引用させていただきましたので、当方に許諾の権利はないため、あしからずご了承ください。
投稿: ケペル | 2010年5月13日 (木) 09時44分