岸田劉生の作風の変化
岸田劉生(1891-1929)は明治41年、赤坂の白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事している。そして2年後の19歳のとき、第4回文展に外光派風の風景画二点を初出品して入選するなど、早くから洋画家としての才能を認められた。
明治44年ごろから、白樺派に共鳴してゴッホやセザンヌに傾倒し、大正元年、高村光太郎、斎藤与里、木村荘八、万鉄五郎らとフューザン会を結成した。
しかしデューラーなどの北欧ルネサンスへの傾倒から厳格な写実主義を追求し、時流の印象派とは完全に対立する方向に進んだ。
大正6年、鵠沼に転地してからは、自分の娘麗子や村娘お松の像などを連作、写実と装飾を融合する充実した作境を展開した。だが、その間に宋元院体画や初期肉筆浮世絵への傾倒と、日本画を描き残し、その作風はつねに大きく変化していった。
« かんこ踊り(三重県伝統行事) | トップページ | 快慶「地蔵菩薩立像」 »
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 国立西洋美術館開館(1959年)(2024.06.10)
- 画家土佐光則没す(1638年)(2023.01.16)
- 現代彫刻(2020.08.04)
- カナの婚礼(2019.11.24)
- ラ・ボエーム(2018.10.15)



コメント