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2008年2月 3日 (日)

芥川龍之介の自殺の意味するもの

    大正12年6月9日、有島武郎(1878-1923)は有夫の美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。有島は前年に北海道の450町歩の土地と小作人に解放し、さらに遺産も親族に分けなかった。熱心なクリスチャンであった有島が信仰も棄て、社会主義者たちと交流していたことを考えると、単なる情死ではなく、社会問題やなんらかの時代状況が反映していたと思われる。

   有島の死から4年後、昭和2年7月24日、芥川龍之介が服毒自殺した。遺書には、自殺の動機として「将来に対するぼんやりとした不安」をあげていた。大正末期から昭和初期の知識人の不安とは何であったのだろうか。芥川も自殺する3ヵ月前と2ヵ月前、帝国ホテルで平松麻素子と心中未遂を2度している。昭和23年6月13日、太宰治は玉川上水で山崎富栄と心中しているが、これ以後60年経過したが、著名な作家の男女の心中・情死の例はない。有島、芥川、太宰の自殺はもちろん個人的なもので原因は異なり、ひとまとめに論ずることはできないだろうが、社会に与えた影響の点でみると芥川の自殺ほど衝撃的な文学者の死はない。芥川の「ぼんやりと不安」が何んだったのか、芥川の自殺原因に関する憶測はおびただしい数にのぼるであろう。以下、そのおもな説をまとめてあげる。

①精神状態・健康起因説。生来、虚弱体質で、神経衰弱、偏頭痛、胃腸病、うつ病などで苦しむ②不眠症説。睡眠薬の常用③ドッペルゲンガー説(自分の姿を自分で目にする幻覚現象)④義兄の鉄道自殺による心労説⑤有夫の女性との不倫⑥創作のいきづまり説⑦文学状況説。プロレタリア文学の台頭など⑧マインレンダーなど厭世主義の影響⑨気象状況説。例年にない酷暑が精神に影響を与えた⑩大正から昭和という時代の変化を鋭敏に予感した。

    最後の⑩については、「歴史のあと知恵」のような気もするが、当時の文壇状況を新進作家の片岡鉄平(1903-1944)はのちに次のように書いている。

人道主義的な、素朴な苦悶はあったんだ。たとえば貧乏人と金持とがいるということの矛盾、それをあの頃「不断の歯痛」という言葉で表現している。不断の歯痛の如く、また靴底に入った小砂利の如く、矛盾を感じながら、しかもマルクシズムに行かないゆえんを詭弁をもって主張したのがあの頃の僕さ

    人道主義者の有島武郎や鋭い感覚で時代を受けとめた芥川龍之介にとって、大正から昭和への変動は、片岡の「不断の歯痛」をはるかに超える激痛であったに違いない。宮本顕治は「我々はいかなる時代も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」と「敗北の文学」で書いている。時代の殉教者であった芥川の死は今日でも青年や知識人たちに人生の苦悶を問いかけているのである。

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