ホンタイジの朝鮮出兵と延辺地区
16世紀初期の朝鮮時代が舞台である韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」などを見ると、朝鮮がいかに明国を宗主国として尊重していたかがわかる。劇中、宮廷の人々が中国の使者などに気を使うシーンがしばしば登場する。
元・明代の東北地方には、ツングース系の女真族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元やそれに続く明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、ハルビン方面の海西、瀋陽、遼東方面の建州、東北地方北部の野人の3大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取り引きしていた。明の永楽帝(1360-1424)は、これらの女真族を統合させるために、黒竜江下流にヌルカン(奴児汗)都司を設け、遼東に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、賜与や特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれた。
清の建国者ヌルハチ(奴児哈赤、1559-1629)は、蘇子河中流域の興京老城(ホトアラ)に居住していた建州女真族の一首長の子に生まれた。1616年ホトアラに国を建てて金と号し、1619年サルホの戦いで明に大勝し、1621年には遼河以東を制圧し、1625年には瀋陽を都とした。
1629年にヌルハチが没すると、ホンタイジ(1592-1643)がハンの位についた(太宗、1626-1643)。1636年、国号を清とした。朝鮮は国初以来、明の忠実な藩属国で、毎年何回か朝貢していたことから、清の建国を認めなかったため、ホンタイジは1637年、李氏朝鮮を攻撃した。鴨緑江を越えた清軍は、またたくまに南下して、朝鮮のソウルに近い南漢山城に迫った。これに驚いた仁祖王は江華島に脱出したが、朝鮮は服属させられた。
その後も清国は自らの祖先の発祥地である東北地方には特別な統治体制を行なった。盛京、寧古塔、璦琿などに三将軍を次々と設置して満州八旗官兵を統率させ、地域を分割し、各旗人民を統治した。今日、中国吉林省東南部に延辺朝鮮族自治州があり、多くの朝鮮族が居住している。南には図們江(朝鮮でいう豆満江)をはさんで朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道と向かあっている。延辺地区の諸民族が朝鮮文化を維持しながら、辺境地方を開拓し、自治州内において独自の地方自治権を行使しうるにいたったのは、17世紀以来のこのような歴史的経過によるものである。
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