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2008年2月29日 (金)

揚州八怪・金農

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  墨竹図  金農 1750年

  大阪市立美術館蔵

    南北交通の中心地であり、商業都市として栄えた揚州に、18世紀半ば、独創的で、きわめて個性的な画家たちの一群が集まった。これらの画家を「揚州八怪」と総称しているが、その筆頭にあげられるのが、本図の筆者金農である。 

    金農(1687-1763)は、清の書家・詩人。銭塘の人。号は冬心。30歳のころまでは、郷里にあって学習に努め、地方詩壇に令名を得る一方、すでに金石拓本の蒐集をはじめたらしく、これは彼の書法形成と密接な関連があると考えられる。受験に失敗して、官途に望みを絶った。金農が、はじめて揚州を訪れたのは35歳のときで、その後たびたびこの地にあそび、鄭燮、汪士慎、高翔、華嵓らと交わり、また多くの蔵書をもち、文人墨客を優遇した馬日琯、日璐兄弟とあいしり、ついに晩年はこの地に寄寓して、書画三昧の生活をおくり、揚州は終焉の地となった。友人の1人が「嗜奇好古」と評したように、超俗的人物で自我がつよく、読書画において古代の美を愛賞し、しかも古人の法式を墨守することなく、自己の胸懐を吐露した個性的芸術を創成した。詩人、書家として、はやくから知られたが、絵を描きはじめたのは50歳をすぎてからであった。竹、梅、馬、花果を得意とし、晩年には仏像を描いた。単純卑近な事物を、水墨や彩色をまじえた線描ふうの、自由な画法で描いたその作は、また自然に即し自然に学んだものであって、主観的象徴的な表現の底に、それを支えるいきいきとした感覚が躍動している。「墨竹図」は64歳の時の制作によるものである。(引用文献:「アジア歴史事典3」平凡社)

2008年2月28日 (木)

万葉の花アセビ

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わが背子にわが恋ふらくは奥山の

            馬酔木の花の今盛りなり

                 (万葉集巻10,1903)

春山の馬酔木の花は悪しからぬ

        君にはしゑや寄そゆともよし

                    (万葉集10,1926)

    スズランのような白い壷形の花を房状につけて早春の風に揺れ、風情に満ちた姿で咲くアセびは、万葉の時代から親しまれてきた花木のひとつである。ただし、有毒植物のひとつでもあり、茎葉を牛や馬が食べると酒に酔ったようになることから「馬酔木」の名が生まれた。

    やや乾燥した山地に生え、高さは2~9メートルになる。葉は互生し、長さ3~8センチの倒披針形で厚い革質。ふちには鈍い鋸歯があり、両面とも無毛。3~5月、枝先に円錐花序をだし、白い花が多数垂れ下がって咲く。花冠は長さ6~8ミリの壷形で先は浅く5裂する。雄しべは10個で、花糸には短毛があり、葯には刺状の突起が2個ある。雌しべは1個。蒴果は直径5~6ミリの扁球形で上向きにつき、9~10月に熟す。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)

ドイツ表現主義

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 ブリュッケの芸術家の肖像 キルヒナー 1925年

 ケルン市立バルラフ・リヒャルツ美術館蔵

   表現主義とは、自然描写に対立して感情表現をねらいとする芸術上の様式概念をいう。思潮としては20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。ドレスデンで1905年に前衛絵画グループ「橋(ブリュッケ)派」が生まれ、運動の起点になった。エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)、エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)、カール・シュミット・ロットルフ(1884-1976)、オットー・ミュラー(1874-1930)を創立メンバーとする「ブリュッケ」派は、のちにベルリンに活躍の舞台を移してマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)を加えた。グループの名称は、若い世代の美術家をひろく結集する橋渡しの意味で命名された。

    画像の作品は「ブリュッケ」解体後20年もたった時点で描かれたものであるが、いかに過去の緊密な時代をなつかしんだか、キルヒナーの胸中を察するに十分な作品である。左から、ミュラー、キルヒナー、ヘッケル、ロットルフを描いている。

春を告げるマンサクの花

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まんさくや 小雪となりし 朝の雪(水原秋桜子)

まんさくや 水激しくて 村静か(飯田龍太)

  早春、山では一番早く花を咲かせて、春の訪れを告げる木である。花の形がおもしろく、花の少ない時期に咲くので庭にもよく植えられる。高さは5~6メートルにもなる。葉は互生し、長さ5~11センチ、幅3~7センチの菱形状円形または広卵形で、基部は左右の形が異なる。質は厚く、表面はややしわがあり、裏面の脈上に星状毛があり、下部は全緑。秋には美しく黄葉する。2~3月、葉に先立って黄色ま花が咲く。花弁は4個あり、長さ1~1.5センチの細長い線形。雄しべは4個で短く、内側に4個の仮雄しべがある。葯は暗赤色。雌しべは1個で、花柱は2つに分かれる。萼は4裂する。萼片は長さ約3ミリの楕円形でそりかえり、内側は暗赤紫色で、外側には褐色の短い腺毛が密生する。蒴果は直径1センチほどの卵状球形で、萼片が残り、外側に短い腺毛が密生する。熟すと2つに裂けて光沢のある黒い種子を2個はじき飛ばす。和名は、黄色の花が枝いっぱいに咲くので「豊年満作」からきたという説と、「まず咲く」がなまったという説がある。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)     

鋳金家・香取秀真

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    みみずく香炉 香取秀真 昭和28年

    香取秀真(かとりほづま、1874-1954)は、はじめ鋳金家大島如雲(1858-1940)に学び、美術学校では岡崎雪声(1854-1921)に学んだ。香取は東洋や日本の古代の金工についても深い関心をもち研究していた。したがって彼の作品は若い時代から晩年にいたるまで、常に古典の影響を受けていたともいえる。

   みみずく、鳩、ふくろう等の置物(香炉が多い)をよく作っているのは、中国銅器に鳥形尊や卣(ゆう)と無関係ではないと思う。青銅鋳物に金の象嵌を施して、色彩効果をあげようとしている。目・耳・足・翼などにかなりの抽象化をみせているのは、この作品の特色であるとともに、このころの彼の傾向でもあった。

    金工史家としても、すぐれた著作があり、また正岡子規の根岸短歌会の1人、アララギ派の歌人として、「天之真榊」「還暦以後」などの歌集を残した。

快慶「地蔵菩薩立像」

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   地蔵菩薩立像 快慶 奈良・東大寺蔵

   端麗な顔だち、神経質なまでに美しい整えられた衣文など、いかにも几帳面な快慶の特色を示している。彼のそれ以前の作品に見られる宋風を取り入れた繁雑さややにっこさは影をひそめ、むしろこの像に見られるような和風化への傾向がみられるようになるのもこの時期である。彩色もきわめて美しく、白雲上の蓮華も白地に緑青と金線を点じ、衣や袈裟には美しいいろいろな切金文が施されている。像の右足下の柄に「巧匠法橋快慶」と刻まれているので、快慶の法橋時代(1203-1208)の唯一の在銘像である。

   快慶は康慶の弟子で運慶とは同門。文治から貞応年間(1185-1223)に活躍。作風は巧緻優雅で、わかりやすく親しみやすい美しさ、とくに端麗な面相は非常に好まれた。東大寺再興に全力を傾けた僧重源に深く帰依して阿弥陀浄土を信じ、号もそれに因む。また明恵・明徳とも親交があった。

岸田劉生の作風の変化

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新緑小閑(紙本着色)  大正14年

   岸田劉生(1891-1929)は明治41年、赤坂の白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事している。そして2年後の19歳のとき、第4回文展に外光派風の風景画二点を初出品して入選するなど、早くから洋画家としての才能を認められた。

   明治44年ごろから、白樺派に共鳴してゴッホやセザンヌに傾倒し、大正元年、高村光太郎、斎藤与里、木村荘八、万鉄五郎らとフューザン会を結成した。

   しかしデューラーなどの北欧ルネサンスへの傾倒から厳格な写実主義を追求し、時流の印象派とは完全に対立する方向に進んだ。

   大正6年、鵠沼に転地してからは、自分の娘麗子や村娘お松の像などを連作、写実と装飾を融合する充実した作境を展開した。だが、その間に宋元院体画や初期肉筆浮世絵への傾倒と、日本画を描き残し、その作風はつねに大きく変化していった。

2008年2月27日 (水)

明日に飛躍する女子高生・内藤洋子

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」第2回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

 

   雑誌「りぼん」のカバー・カールから、「氷点」の暗い宿命を健気に生きる辻口陽子で一躍美少女スターとして人気が沸騰した内藤洋子。ケペルは鎌倉の学校に通う内藤洋子を訊ねた。

 

    *   *    *   *   *   *

 

ケペル「洋子ちゃん、初めまして」

 

洋子「先生、関西からわざわざ来きていただきありがとうごさいます」

 

ケペル「ええ、鎌倉の川端先生宅で李朝の陶器をみせていただいた帰りに寄ってみました」

 

洋子「黒澤監督の赤ひげでデビューして3年になります」

 

ケペル「読書が大好きと聞いたけど、いま何を読んでいるの?」

 

洋子「嵐が丘と風と共に去りぬです」

 

ケペル「次回作はどんな作品?」

 

洋子「舟木一夫さんと共演で、なんとミュージカル映画なんです」

 

ケペル「それはすごい。歌のレッスンはしているの」

 

洋子「毎日、猛特訓で。挿入曲が白馬のルンナっていうんです。昨日、レコード化が決まりました」

 

洋子は、可愛いおでことくりくりとした目で笑顔でこう言った。

 

洋子「私どんな役でもこなせる女優になりたいんです」

 

映画は松山善三監督で「その人は昔」という。今後の彼女の活躍が楽しみだ。

 

 

牧場を駆ける少女ジュディ・バウカー

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」シリーズ第1回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

   フランコ・ゼフィレリ監督の「ブラザー・サン シスター・ムーン」で聖女クレアを演じたジュディ・バウカーは一躍スターとなった。最新作はアンナ・シューエルの児童文学の古典的名作「ブラック・ビューティ」(1877年)のテレビドラマ化。

     *    *    *    *    *

   美しい森に囲まれたイギリスの小さな村に主人公ヒッキーを演じるジュディ・バウカーがいた。ブルー・グレイの澄んだ瞳が美しい少女だ。

「初めまして、日本から来たケペルです」

ジュディ「初めまして。日本へは是非一度行きたいと思っています」

「ブラザー・サン シスタームーンを観ました。こころが洗われるような映画です」

ジュディ「ロンドンのアート・アンド・テクニカル・カレッジでダンスを習っていましたが、私の写真がファション雑誌に載って、それで監督からクレア役のお話があったんです」

「映画の成功でたくさんの出演依頼がきたでしょう」

ジュディ「ええ、とても驚いています。依頼が殺到しましたが、黒馬物語は子どものころから愛読していたので、お引受しました」

「日本でもNHK放送されるそうです。これからのご活躍を祈っています」

ジュディはおとぎの国のお姫様のように美しく、栗色の髪をなびかせて、緑の森の中を駆けていった。

     *    *    *    *    *

    ジュディ・バウカーは1954年4月6日生まれで、「黒馬物語」のときは20歳。イギリスのシャウフォードShawford(ハンプシャー州)生まれ。彼女が3歳のとき、政治家である父親がアフリカにあるイギリスの植民地ザンビアの知事を命ぜられて一家はアフリカに移った。8年間、アフリカの修道院で過ごした。イギリスに戻って宗教系のサリスピューリー校に入学。趣味はピアノ、ダンス、絵画。

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かんこ踊り(三重県伝統行事)

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   かんこ踊りは、伊勢市とその周辺部に残る伝統行事。お盆に先祖の供養に行なわれる。「かんこ」はカッコウオドリの訛とも、古代中国の羯(けつ)より伝来した雅楽の打楽器「羯鼓」(かっこ)に由来するとも考えられる。

    腹部にシメ太鼓(羯鼓、かっこ)をぶらさげ、腰蓑をはき、シャグマという白い馬毛を頭部にかぶり、両手の撥で打ち鳴らしながら音頭に合わせて10人から15人が輪になって焚き火の周りを歌い踊る。

「そっくりショー」と青春歌謡

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   昨夜のNHK歌謡コンサートで仲宗根美樹の昭和36年のヒット曲「川は流れる」を久しぶりに聞いた。仲宗根は昭和19年6月23日生れであるから、当時16歳か17歳だった。我が家にテレビが来たのが昭和35年。あの頃の女性歌手の記憶が鮮明なのは何故だろう。ハワイアンの日野てる子は昭和20年7月13日生まれ。昭和40年には歌謡曲に転身し、「夏の想いで」をヒットさせた。

   日野てる子といえば何故か「そっくりショー」を思い出す。ハイビスカスの花を髪にかざして南国ムードたっぷりに歌う可憐な容姿。そしてボードビリアン小野栄一の軽妙な司会ぶり。「そっくりショー」はコロッケなどの戯画化したものまねではなく、一般素人の容姿が似ているかどうかがポイントで歌は多少下手でも優勝できた。審査委員長は、蝶ネクタイがトレードマークで日劇ヌードショーの元締め丸尾長顕(1911-1986)である。

    当時は青春歌謡の全盛時代であった。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を筆頭に三田明、梶光夫、安達明、久保浩、叶修二、川路英夫、山田太郎、太田博之、望月浩などなど美形の男性が出現した。青春歌謡で現在も第一線で活躍しているのは美川憲一くらいであろうか。ともかく生中継の時代、テレビは面白かった。

2008年2月25日 (月)

沖行く船の無事を祈る

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                   千葉県・勝浦灯台

   灯台守の妻・田中きよ(1911-1999)が雑誌「婦人倶楽部」に「海を守る夫とともに20年」という手記を寄稿したのは昭和31年のことだった。夫・田中績(1909-2002)は、昭和8年の岩手・魹ヶ崎を始め、サハリンのモネロン島(海馬島)、長崎・五島列島の女島、千葉・勝浦埼、福島・塩屋埼、秋田・入道崎、宮崎・都井岬など8ヵ所、37年間、任地はすべて人里離れた「陸の孤島」であった。妻きよは夫の仕事を支え、10人の子どもを育てた。この手記を読んだ木下恵介が感動して、映画「喜びも悲しみも幾歳月」を制作した話はあまりに有名であろう。(引用文献:「二人でかざす一筋の光」朝日新聞2008.2.23)

シモーヌ・シニョレとマリオン・コディヤール

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   シモーヌ・シニョレとチャールトン・ヘストン

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     女の情念を演じ続けたシモーヌ・シニョレ

   第80回米アカデミー賞の授賞式が24日夜、ロサンゼルス・ハリウッドのコダックシアターで開かれた。作品賞は「ノーカントリー」(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督)、主演男優賞はダニエル・デイ・ルイス(「ゼア・ウィルビー・ブラッド」)、主演女優賞はマリオン・コティヤール(「エディット・ピアフ愛の讃歌)。ダニエル・デイ・ルイスは第62回「マイ・レフトフット」で2度目で予想通りの受賞といえる。番狂わせは主演女優賞であろう。本命のケート・ブランシェット、ジュリー・クリスティーを抑えて、フランス映画で、フランス語で演技をしたフランス人女優が受賞したことになる。過去フランス女優がアカデミー主演女優賞を受賞したのは、第32回(1959)の「年上の女」のシモーヌ・シニョレ以来49年ぶりである。ただしこの「年上の女」はジャック・クレイトン監督、ローレンス・ハーヴェイ共演によるイギリス映画作品。つまりシモーヌ・シニョレはイギリス女性役で英語だったようだ。そもそもアカデミー賞の受賞作品の対象になるのは、「その年度の1月1日から12月31日までの間にロサンジェルス地区の劇場で1週間以上商業上映されたもの(外国語映画など一部例外あり)」という規定である。要するに「羅生門」「地獄門」のように外国語映画でも受賞の可能性はあるが、主演賞となるとかなりハードルは高い。マリオン・コディヤールの受賞はフランスのセザール賞主演女優賞とのダブル受賞となるが、フランス語で演技したフランス女優というのは、アカデミー史上初めての快挙なのである。

   だが、シモーヌ・シニョレ(1921-1985)がハリウッドで認められたことも意外な事実であろう。女の哀しい宿命を演じたら、彼女の右に出る女優は世界中探してもいないであろう。たが余りにフランス的であり、ハリウッドに馴染まないタイプだろう。オスカー受賞後、「愚か者の船」(1965)、「悪魔のくちづけ」(1967)など数本の作品に出演したが、フランスに戻った。

   シモーヌ・シニョレはドイツのビースバーデンで生まれた。幼くして、パリに移住し、タイピストや英語教師などを経て演技に興味を抱き、1942年から映画にエキストラ出演。本格的デビューは1945年の「理想的なカップル」。その後「デデという名の娼婦」(1946)「肉体の冠」(1951)「嘆きのテレーズ」(1953)「悪魔のような女」(1955)「年上の女」(1958)で個性的な容貌、抜きんでた演技力と存在感で戦後のフランス映画界を代表する女優だった。

   後進のアヌーク・エーメ、ジャンヌ・モロー、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなどの美人女優がオスカーを手中にはできなかったが、マリオン・コディヤールの受賞を心から喜びたい。

2008年2月24日 (日)

サヴィニャックとロイピン

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 ルッフ社のソーセージの宣伝ポスター

 ロイピン 1950年 ポスター美術館

    戦後のグラフィックデザイナー、ポスター作家の巨匠といえば、レンモンド・サヴィニャック(1907-2002)とヘルベルト・ロイピン(1916-1999)があげられる。広告業界において「視覚ギャグ」「ヴィジュアル・スキャンダル」という言葉も彼らの出現によって生まれた。

  レイモンド・サヴィニャックはアール・デコの巨匠アドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901-1968)に学んだ。1949年に注文なし描いた「牛乳石鹸」のポスターで一躍注目を浴びた。以後フランスのポスターの分野で最も注目された一人である。その作風に見られる愉快な驚きを誘う表現は、多くのデザイナーに強い刺激と影響を与えた。

   ヘルベルト・ロイピンはスイスのバインビルに生まれ、パリでポール・コランに学ぶ。画像のルッフ社のためのソーセージの宣伝ポスターからもわかるように、彼は対象になる商品をきわめて大胆に、誇張した形でとりあげながら、そこに親しみとユーモアとウィットを感じさせる表現にはサヴィニャックと共通するものが見られる。

シュルレアリスト・ダリとフロイト

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                  サルバドール・ダリ

  ジグムント・フロイト(1856-1939)は精神分析の創始者とされている。患者が催眠状態のなかで、忘れ去っていた感情的体験を思い出し、記憶を呼び起こすことにより精神障害の症状が改善されるらしいということを発見したのである。つまりフロイトの大きな功績は、意識下に埋もれた記憶や経験のもつ価値と、それらに到着することにある。シュルレアリストたちは、この理論が意味する想像力の解放に関心をもった。

   シュルレアリスム運動に参加した若き芸術家サルバドール・ダリ(1904-1989)は、学生時代にフロイトの「夢判断」を読み、次のように述べている。

「これは私の人生における重大な発見の1つだった。……私は夢だけでなく、わが身に起こったあらゆる出来事を自己解釈せずにいられないという真の悪習にとりつかれてしまった

    フロイトの著作や精神分析に深く心を奪われたダリは、シュルレアリスムの理論を発展させて、独自の「偏執狂的批判的方法」を生み出した。これは見る者の空想能力にもとづくイメージ解釈の一種であり、ダブル・イメージが1930年代のダリの作品に多数見られる。これは、自らは精神の異常をきたすことなく、偏執狂患者の狂った心を装い、外観の背後にあるイメージを感じとるという彼の能力によって生み出された。彼は「私自身と狂人との唯一の違いは、私は狂っていないということだけだ」と言っている。

2008年2月23日 (土)

三島の太宰批判

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   太宰治の「斜陽」に有名な場面がある。お母さまが白い萩の花のしげみの中から顔を出して、娘のかず子に「お母さまが、何をなさっているか、あててごらん」と聞く。そして、「おしっこよ」と一言いう。「ちっともしゃがんでないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」

    この「斜陽」に対して、三島由紀夫は「太宰治氏のこと」(「三島由紀夫全集30」)で次のように批判している。

作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいひといひ、生活習慣といひ、私の見聞してゐた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などといふ。「お母さまのお食事のいただき方」などといふ。これは当然、「お母さまの食事の召上がり方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さへつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん」などといふ。それがしかも、庭で立小便をしてゐるのである!」

    三島が指摘するように貴族的な立ち居振る舞いや言葉遣いの難点が小説には認められるものの、「斜陽」で太宰が紡ぎだした言葉は全体として成功しているように思える。太宰嫌いの三島はあまり仔細に検討していないようだ。太宰作品をもっと深く丹念に検討する価値がありそうだ。

ここでは、ちょっと気のきいた一文だけをあげるにとどめる。

三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。

2008年2月19日 (火)

「赤いチョッキの少年」の悲劇

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    1890年代までは、ポール・セザンヌ(1839-1906)の作品はパリのタンギー爺さんの小さな画材店でしか彼の絵を買うことができず、ほとんど無名に近かった。1895年に、画商のアンブロワーズ・ヴォラールがセザンヌの個展をパリで開いた。この個展を境としてセザンヌの名声は高まっていった。

   半世紀後の1958年10月15日。1400人の美術愛好家と何万というテレビ視聴者が、ロンドンのサザビーズのオークション・ルームにおける記録破りの競売を見つめた。アメリカのポール・メロンがセザンヌの「赤いチョッキの少年」を61万6000ドルで競り落としたのである。「世紀のオークション」といわれ、当時近代絵画に支払われた史上最高の額であった。セザンヌの「赤いチョッキの少年」といえば最近あった盗難事件を思いうかべるであろう。だが、当時のサザビーズの写真をみると盗まれた絵とは異なる。「赤いチョッキの少年」というモチーフは複数存在するのだろうか。

   盗難の絵画がどのような経緯でスイスの実業家エミール・ビュールレ(1890-1956)の手に渡ったのかも明らかではない。ビュールレ・コレクションとしてチューリヒ美術館、ビュールレ美術館に蔵されるようになった。個人美術館の警備の甘さがあったのかも知れない。ここに名画の悲劇が生まれた。2月10日、覆面をした3人組の強盗団に油絵4点が盗まれた。「赤いチョッキの少年」はそのなかの1点である。

    犯人たちよ、いまからでも遅くない。すぐに返せ!

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2008年2月18日 (月)

太宰治と高峰秀子

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    左より高峰秀子、山根寿子、太宰治

   高峰秀子の自叙伝「わたしの渡世日記」は、単なる一女優の回想録という以上に貴重な昭和史の記録でもある。例えば、昭和22年夏の太宰治との出会いの記述である。

新橋駅に現れた太宰治のスタイルはヒドかった。既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右にゆれている。ダブダブのカーキ色の半袖シャツによれよれのズボン、素足にちびた下駄ばき。広い額にバサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとしたテレ笑いが浮んでいる…。作家の容姿に、これといった定義があるわけではないけれど、とにかく、当代随一の人気作家太宰治先生は、ドブから這いあがった野良犬の如く貧弱だった。鎌倉の料亭に到着したのは午後の4時ころだったろうか、まだ日暮れ前であった。床の間を背にアグラをかいた太宰治はやっとリラックスしたらしく、青柳信雄とプロデューサー補佐を相手に、「ガバッ、ガバッ」といった調子で呑みはじめた。席上、紅一点の私など問題にもしてくれない。そのくせ私が下を向いて箸を取ったりすると、チロリとこっちをうかがったりしているのがこっけいだった。

    昭和23年6月19日、山崎富栄と玉川上水に入水。「朝日新聞連載小説「グットバイ」は13回分までだったため、後半のストーリーを脚本家の小国英雄に委ね、映画「グットバイ」は6月28日の封切りに間に合った。

    しかし、太宰と高峰は昭和22年が初対面ではない。昭和19年7月11日、東宝東京撮影所で会っている。高峰は太宰の愛読者だった。それは自叙伝にも「私もまた、走れメロス、トカトントン、親友交歓などを、ほとんど暗記するほどに熱読していた一人であった」と書いている。この日、高峰は太宰のサインをもらっている。太宰の「佳日」は青柳信雄によって「四つの結婚」として映画化された。脚本は八木隆一郎、如月敏だが、太宰もそれに少し加わっている。

   つまり太宰作品の映画化は東宝の山下良三を中心に昭和19年から進められていたが、二作とも高峰秀子が出演しているというのも何かの奇縁であろう。好奇心旺盛な売れっ子女優が苦悩する大作家を「ドブから這いあがった野良犬」「こっけい」と観察しているのも面白い。

2008年2月17日 (日)

蘭渓道隆と建長寺

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      建長寺 蘭渓道隆像 国宝

    鎌倉幕府執権・北条時頼(1227-1263)は源氏三代と北条氏の霊を弔うため、道元(1200-1253)を招き、寺院建立を請うたが、権勢におもねることを嫌う道元は、その申し出を断わる。その時、南宋より来日した蘭渓道隆(1213-1278)が寿福寺にいた。時頼は道隆に帰依して、寺院建立を申し出る。建長5年(1253年)、開山に蘭渓道隆を迎え、我国初の禅宗専門道場建長寺、成る。蘭渓道隆は、その後、迫害されたり、流.謫されたり、苦難の晩年を送った。

    臨済宗大本山建長寺は、鎌倉五山の第一位の格式を彷彿とさせる、関東唯一の七堂伽藍を備えた禅寺。当時日本で盛んであった密教的な禅とは異なり、厳しい清規のもとに修業生活を送る蘭渓の禅風は、宋風禅とよばれた。その門に参じた修行僧は多く、建長寺は一大禅林となった。歴代住職は名僧ぞろいで、兀庵普寧、大休正念、無学祖元、一山一寧、桃渓徳悟、南浦紹明、高峰顕日などがいた。

女の道は一本道

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   「汚れた手」の佐々木すみ江(昭和42年)

    NHK大河ドラマ篤姫第6回「女の道」(2月10日放送)。今和泉島津家の於一(宮崎あおい)が当主・島津斉彬の養女となることに決まった。城に出向く日の朝、奥女中の菊本(佐々木すみ江)はそっと於一の髪をなおしていう。「御養女の件、お迷いなのはわかりますが、女の道は一本道に御座います。定めに背き引き返すは恥に御座います」というセリフがいい。そして菊本は自害して於一に武家の女の生き様を示す。菊本のとった行動がいま大きな話題になっている。視聴者の中にも、昔の日本人が身に付けていた品格や礼節をドラマを通して感じたようだ。菊本自害の理由は今夜の放送で明らかになるだろう。

    ところで、この菊本を演じた佐々木すみ江。若い世代の方でも「ふぞろいの林檎たち」を初め多数のドラマでお馴染みのベテラン女優だが、劇団民芸出身(民芸俳優養成所第1期生)。ケペルは残念ながら舞台は一度も見ていない。「穀倉地帯」「楡の樹蔭の欲望」「セールスマンの死」「かもめ」など翻案劇が多いため、西洋人のインテリ女性が似合っていた。画像に見える「汚れた手」オルガ役に扮する佐々木は、大柄で目鼻立ちのハッキリした女性党員を好演している。テレビドラマの姑役しかしらないが、若い時代、和製ソフィア・ローレンという感じだったらしい。

リプトン卿とアメリカスカップ

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        ティークリッパー

  イギリス東インド会社の独占貿易が廃止された19世紀。最初に届けられた新茶は高値で取引されたことから、中国からイギリスに紅茶を運ぶ船「ティークリッパー」は、その速さを競いあった。特にアメリカのニューイングランドで作られた帆船は、東インド会社の船の5倍の速さでイギリスに到着し人々を驚かせた。高速で帆走できるように、長さが幅の6倍もある細長い構造で、浅い船底に鋭い船首を持っていた。横風も受けられるようにマストを高くし、横張りの三角帆がついていた。次第に、優勝者には多額の懸賞金が支払われる「ティーレース」へと進化していき、人々はお金をかけてこのレースの始まりであり、現在有名な「アメリカスカップ」の元祖とも言える。アメリカスカップには、紅茶王と呼ばれるリプトン社の創始者であるリプトン卿も参加していた。

   1851年のロンドン大博覧会の際、ビクトリア女王が観戦する中、ワイト島1周帆船レースが開催された。14隻のイギリス船と、1隻のアメリカ船が参戦。優勝したのは、たった1隻で参加したアメリカの「アメリカ号」だった。優勝カップをアメリカに持ち帰ったアメリカ号のオーナーは「カップの保持者はいかなる国の挑戦も受けなければならない」という証書をつけた。そこから、このカップを賭けて始まったのがアメリカスカップだ。リプトン卿は30年間に渡って5回挑戦したが、惨敗続き。しかし、彼の勇敢な挑戦を讃え、ニューヨーク市民は一人1ドルずつ出し合って、ティファニーのカップを彼にプレゼントした。このカップを記念して創設されたのが「リプトン・カップ・レース」である。(引用文献:「世界のみなと物語」港湾空間高度化環境研究センター)

2008年2月16日 (土)

榎本美佐江と日本調歌手

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         神楽坂はん子(左)と榎本美佐江(右)

 

    日本調美人歌手といえば、藤あや子、伍代夏子、長山洋子などを思い浮かべるかもしれない。しかし日本調歌手の定義を「着物姿で日本調の曲を歌う」とすれば該当するのだが、「鈴を鳴らしたような美声」という歌唱法を条件に加えるとすれば、いま日本調歌手は一人もいないかも知れない。

    鶯芸者といわれた芸者たちがレコーディングするようになったのは昭和5年ごろだろうか。藤本二三吉、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅、新橋喜代三、浅草〆香、日本橋きみ栄、豆千代などが戦前派日本調歌手。戦後は久保幸江「トンコ節」、鈴木三重子「むすめ巡礼」「愛ちゃんはお嫁に」、神楽坂はん子「ゲイシャ・ワルツ」「こんなベッピン見たことない」、榎本美佐江「お俊恋唄」、神楽坂浮子「十九の春」、五月みどり「おひまなら来てね」、二宮ゆき子「松ノ木小唄」など昭和30年代まではヒット曲が続いた。

   昭和40年代になると、日本調美人歌手はほとんど懐メロ歌番組でしか聴けなくなった。戦後最も親しまれた歌手は榎本美佐江かもしれない。当時、子供でも国鉄スワローズの金田正一の妻であることはよく知られていた。そして離婚後の芸能界復帰も藤田まことの「てなもんや三度笠」で鳥追い女でレギュラー出演していたのも覚えている。榎本美佐江こそは、天性の美貌と美声で日本調美人歌手の第一人者だ。戦前、小笠原美都子が歌った「十三夜」のリバイバルは名唱で「十三夜の榎本か、榎本の十三夜か」といわれるほどである。

ヨルダーンス「夫妻像」

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    ヨルダーンス   「夫妻像」

    17世紀 ボストン美術館蔵

   誇り高く落ち着き払いかつ富裕さの歴然とした若き夫婦を描いたこの美しい肖像画は、ヨルダーンスがその先輩でもありかつより有名な、同世代であったルーベンスやヴァン・ダイクの後を継いで、アントワープにおける評判高い肖像画家となった理由を、明確に示している。この作品は夫妻の人物描写において着想が率直でありかつ生気に溢れており、17世紀のフランドル芸術の特徴である健全さ、力強さを具えている。もちろんこの理念は、ヨルダーンスが助手として充分に吸収する機会を得たルーベンスの大芸術の、多大な影響を基礎に形成されたものである。この「夫妻像」が永い間ルーベンス自身の作と考えられていたという。

   ヤーコブ・ヨルダーンス(1593-1678)はルーベンスやヴァン・ダイクと同時代に活躍した画家。アダム・ファン・ノートルに師事し絵画を学ぶ。1615年にアントワープの聖ルカ組合に認められ、翌年にはノートルの長女と結婚し、画家としての道を順調に歩みはじめる。以後、教会の注文による大規模な祭壇画やタペストリーの作成に携わるほか、ルーベンスの工房と共同でネーデルランドの総督でもあったフェルナンド枢機卿の同地入市に伴う装飾、スペイン国王フェリペ4世の住居を飾る神話画などの制作をおこない国際的に名声を手にし、同時期に大規模な工房をかまえた。彼の才能は多方面にわたるが、本質的には当時の市民的な基盤に立つもので、市民の日常生活の情景を描いた作品の秀作が多い。神話や古典に取材した作品にも現世的、風俗的な要素がしばしばうかがわれる。

アンドキデスと赤絵式陶器

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  アンフォラ  「ケルベロスをなだめるヘラクレス」 

  ヴルチ(エトルリア)出土 ルーブル美術館蔵

    前530年ころ、アテネの陶工アンドキデスは黒地に赤い形象という新しい赤絵様式を開発する。黒い背景から図像を浮び上がらせ、細部を筆により濃淡をもって表わすことにより、人間感情を自由に表現することが可能になった。

   この陶器の図像場面は、ヘラクレスの12の難業の一つで、冥界の3頭の番犬ケルベロスをなだめて地上に連れ出す話である。ヘラクレスの背後に守護女神アテナが立っている。前510年ころの作品。

2008年2月15日 (金)

挂甲の武人

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     挂甲の武人(埴輪)

          群馬県太田市強戸成塚出土

          群馬 相川考古館蔵

    5世紀ごろ、騎馬戦に適した武具として大陸よりもたらされた挂甲(けいこう)という鎧をつけている。右袵重ねで、衝角付き冑には頬当てと錣が付いている。両手には甲当ての上に鞆を結んで左手には弓を持ち、剣に右手をかけている。埴輪作者の関心はもっぱらこれらの武具にあり、挂甲の小札は刻線で、冑の鋲留は浮文で詳細にあらわされている。新式武具の威力に感銘したためだろうか。頬当ての間から見える武人の顔は、古墳時代後半の一般的な表現である。

2008年2月14日 (木)

こちらはロンドンです

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   1940年夏、ドイツ軍のロンドン空襲を毎晩ラジオ中継で何百万人ものアメリカ人に生々しく伝え、のちに「アメリカの良心」といわれたひとりの通信員がいた。

   エドワード・R・マロー(1908-1965)。ノースカロライナ州ギルフォードに生まれる。ワシントン州立大学卒業後、1935年にCBSに入社。1938年、ヒトラーのオーストリア侵攻を取材。感情を抑えた冷静な口調で一躍有名になる。やがてマローの「こちらロンドンです」と例の口調で番組をはじめる現地レポート番組は人気をよび、その影響でラジオは急速に普及する。

   「わたしの左手では、怒ったように対空射撃する高射砲が激しく赤い火を吹き……サーチライトが4つ上空を照らして振れ動いています。敵機が、いまわたしの上空です。いま、すぐに2つの爆発音が聞えました」

   そのとき爆弾が落ちてくる音やサイレンが鳴り響くのを多くのアメリカ人はラジオから聞いた。

    画像は中折れ帽を小粋に傾けてCBS通信員マローが、ロンドンの万霊教会(右)や爆撃の最中にその屋根から放送したイギリス国営放送局の建物を大股に通り過ぎて行く様子である。

双葉山と縁結びの高安病院

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    双葉山定次(1912-1968)は昭和13年の満州巡業で赤痢にかかり、大阪の高安病院(道修町旧4丁目)に入院することとなった。体調不良をおしての大阪1月場所。4日目、安芸ノ海の外掛けに敗れ70連勝はならず。和田信賢アナウンサーの「70古来やはり稀なり」という名言がラジオから流れた。

   場所後、双葉山は小柴澄子(23歳)と結婚した。澄子は高安病院に入院したとき見舞ってくれ、看護してくれたことが二人の愛を育くむきっかけとなった。

   澄子は大阪天王寺区夕陽丘の金融業者の一人娘。天王寺高校から樟蔭女子専門学校、大阪堂ビルの割烹学院に通っていた。澄子は両親を亡くし、大阪帝大理学部助教授で叔父の渡瀬武男の元で暮らしていた。二人の突然の結婚は関係者を驚かせた。当時横綱が相撲界とは関係のない世界から花嫁を迎えるのは異例のことで、当初は関係者から反対もあった。しかし双葉山と相撲の人気はますます上がり、5月場所から興行日数は現在と同様の15日となった。そして結婚後初の場所、双葉山はみごと15戦全勝で優勝した。

   二人の縁結びの病院はそれからまもなくのこと、昭和17年に閉院となったのは残念なことである。建物は空襲により焼失し現在はないという。

法隆寺九面観音像

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      九面観音像 木造  法隆寺蔵 

    養老3年に唐から将来した白檀で彫られた尊像で、719年以前の盛唐の作。37.4センチの小像ながら、実に細部まで周到に彫刻されている。頭上の八面でやや頭でっかちにみえるところを、豪華な瓔珞と下裳のひだでよくそれを釣り合わせている。秀麗な表情がみごとで、肢体もよく均衡がとれている。たれた右手に数珠、あげた左手に水瓶を持っている。宝髷もみごとに整備されて、弧状にふくれるが、余ったところは、耳のうしろから左右の肩にシンメトリックにたれ下がる。頭上左右の6頭部は、みなこの本尊と同じように仏化をいただき、中央の仏頭は惜しいことに、その面相を失っている。しかし、あらゆる点で、盛唐の趣があり、細部に至るまでの精緻をきわめた造形の確かさは、壇像彫刻の典型的な作技を示しており、わが国の天平彫刻をはじめ木彫像に与えた影響ははかりしれないものがある。(引用文献:「世界美術全集15」角川書店)

天明の美人画家清長

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        鳥居清長「つらら取り」 天明6年

    雪に覆われた朝、振袖の若い2人の女が庭に立っている。1人は長い煙管を手にして軒端のつららをたたき落している。他の1人は雪をかぶった庭の梅の花を摘み取っている。何れも吉原の芸者で、遊里の朝の景色であろうか。

   鳥居清長(1752-1815)は江戸木材町1丁目で生まれた。父は書肆を営む白子屋市兵衛といい、家業の関係から浮世絵版画や草双紙・絵本などを目にすることが多く、幼くして鳥居清満に弟子入りする。明和7年師より清長の名を許され、一枚ものの芝居絵の何枚かを売り出した。天明元年には健康的で明るい、流麗な線描を主体とする清長独特の画風を確立し、歌麿が世に出るまで、浮世絵の世界の第一人者であった。

2008年2月10日 (日)

安土城の石垣と穴太衆

    戦国時代の石垣は野面積み(のずらづみ)によって積まれていたが、ただ山城における防御の中心はあくまでも土塁であって、石垣が使われたことは少なかった。城の塁壁に石垣が多用されるようになるのは織田信長が築いた安土城のころからである。この安土城の石垣を積んだのがいわゆる穴太衆(あのうしゅう)で、もともとは近江国滋賀郡坂本村穴太において石材業に従事していた石工であった。穴太衆はこののち、諸国の大名に請われて築城に従事したため、その技術が全国に広がったとされる。

2008年2月 9日 (土)

伊藤快彦「大奥女中」

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   大奥女中  伊藤快彦 明治41年

                 京都市美術館蔵

   伊藤快彦の代表作の一つに「少女像」(明治24年作)がある。小品であるが、師の原田直次郎の影響で緻密な写実による力作である。この「大奥女中」は明治後期に盛行した歴史風俗画を代表する作品で、将軍家の大奥の女中の初々しい局の表情に絵の題目がある。

   伊藤快彦(いとうよしひこ、1867-1942)は田村宗立に師事し、明治21年、京都府画学校を卒業すると上京して小山正太郎、原田直次郎の門に学ぶ。明治26年に家塾鍾美会を開設する。明治34年に同志と関西美術会を創立し、また浅井忠を助けて関西美術院を興し、晩年には院長として後進の指導に尽力した。

リベラーチ、世界が恋したピアニスト

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   リベラーチというアメリカのピアニストを知っているだろうか。ラスベガスにある博物館には生前に彼が着た豪華な衣裳やキャデラック、メルセデス・ベンツなどの愛車、そしてピアノが展示されている。年輩のアメリカ人なら誰でも知っている有名人といえる。「リベラーチ」という名は、「バレンチノ」と同様に高級ブランドとしての響きがある反面、「悪趣味の代名詞」ともいわれる。

   日本でその名前が知られないのは、彼がアメリカのテレビやラスベガスのショーを中心に演奏活動したことや、クラシックというよりもイージーリスニングのようにクラシックの名曲のさわりだけを演奏していたので、音楽批評家たちの評価は低かったからかも知れない。だが「世界が恋したピアニスト」といわれるようにその人気ぶりはスゴかったようだ。

    彼のエピソードとして知られるのは、「リベラーチの演奏会のある日は、恐妻家にとっては最高の夜だ」というジョークであろう。金持ちのご夫人方がリベラーチを聴くためにみんな外出しているからだそうだ。

    ワラジャー・ヴァレンティーノ・リベラーチ(1919-1987)。1919年5月16日、ウィスコンシン州ウェスト・アリスに住むポーランド系アメリカ人の音楽一家に生まれ、幼児からピアノを習う。7歳の時、イグナツィ・パデレフスキー(1860-1941)に演奏を絶賛され、神童と言われた。1950年代、全米にテレビが普及し始めると、テレビ・ピアニストとして一躍人気者となる。独身だったこともあってとくに女性に高い人気であった。リベラーチェをとくに有名にしたのは豪華で派手なファッションだった。極端に立った襟を持つ金ぴかの上着に、孔雀の羽をふんだんに使ったキッチュな衣裳は、エルビス・プレスリー、エルトン・ジョン、果ては美川憲一のルーツともいえる。

    1987年、カリフォルニア州パームスプリングの自宅で死去。享年67歳。死因はエイズであった。彼の主演映画「シンシアリー・ユアーズ」(共演・ドロシー・マローン、ジョン・ドルー、1951年)も残念ながら日本未公開で見ることはできなかった。

延辺の朝鮮族

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   吉林省東南部に位置する延辺朝鮮族自治州に居住する朝鮮族は郷土の息吹に満ち溢れた民族で、衣・食・住・移動にも独特の風格がある。家屋は木造の枠の上に稲藁を葺いて造る。上着に襟とボタンがなく、長い布帯で結うことは衣服の特徴である。すもう、板飛び、ぶらんこなどは人気のある大衆スポーツである。とくに朝鮮族特有の砧打ち、あやまき(砧で布を打つとき、その布を巻きつける棒)を使っての洗濯は有名である。

   朝鮮族の女性は大部分、洗濯を川べりに行ってする。延辺にはいたるところ多くの小川が流れていて、川べりの石は天然の洗濯台となっている。女性は春から秋までテヤ(大きく平らな鉢)に洗濯物を入れて頭にのせ、手に洗濯棒を持ち、川べりに出むいて洗濯をする。

   朝鮮族は毎年、仲秋前後に、女性たちがふとん皮や着物を洗ってノリをつけ乾したのちに、それを長方形になるように何度もたたんで砧石の上において砧で打つ風習がある。砧石は長さ50センチ、幅22センチ、厚さ17センチくらいの堅い木または石で作るのだが、表面をなめらかにし、重さを減らすため、下に広い溝を横に掘る。砧棒は洗濯棒と似ているが、固い木でつるつるに作る。

   「砧」は多く夜にやる。女性たちが昼には服やふとんをほぐして洗い乾かしたりするのに忙しく、夜はひまな時間があるからである。砧を打つには夜がいちばんよいチャンスである。砧は生地にしわがなくなり、つやがでるまで打つ。砧を打つとき、二人がむかいあって交互に打つこともあり、一人が片手あるいは両手で打ったりする。若い女や少女が向かいあって、坐り打つときは、打つ技をたいへん重視する。強くまた弱く、早くまたゆっくりと打つのは、あたかも太鼓を打つかのようにリズミカルである。秋の夜、朝鮮族が住む村にはいると、リズムにのって打つ砧の音を聞くことができる。

    朝鮮族は「あやまき」で砧を打つ。生地を洗って晒したのちに打つのである。つまり麻や絹を灰に浸して煮て洗い、それを晒して白くしたのちに、のりをし砧を打つのである。昔は石けんのように垢をとるものがなかったので、生地を洗って晒すときに木炭の水を多く使った。その方法は次のようである。カマドを用意し、底に稲わらやアシで編んだ敷物を敷く。その上に灰を入れ、まんべんなく水を注ぐ。すると濃い褐色の灰汁がカメの底から出て、下に置いた素焼きのたらい状の器にたまる。その灰汁を釜に入れ洗濯物を入れてひとしきり煮てから川べりに行ってすすぎ、日に晒してからのりをつける。その次にあやまきをする段取りになる。あやまきをする生地がまだ乾いていないので、直接長方形に折りたたんで砧石の上に置いて打つのでなく、生地を広げて、あやまきにしっかりと巻きつけてから、それを砧石の上に置き、二人の女性が向かいあってそれぞれ片手であやまきの端を握って次々と転がしながら、もう一方の手に棒を手にして交互にたたく。(参考:「中国の朝鮮族」むくげの会)

2008年2月 8日 (金)

白いパラソル

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  そのころの太宰治は自殺未遂、薬物中毒、最初の妻・小山初代との離別とどん底の状態だった。

    昭和13年7月、井伏鱒二を通じて石原美知子との縁談が持ち込まれる。そのころ書かれた「満願」(雑誌「文筆」掲載)という小品には、健康的で明るい太宰の別の一面がよく出ている。

    伊豆の三島でひと夏を過ごす、太宰らしき小説家は、西郷隆盛のように大きくふとった町医者と親しくなる。毎日、散歩の途中に医者の家へ立ち寄るようになって、小説家は薬をとりに来る若い女に気がつく。

簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、よくお医者と診察室で笑い合っていて、ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、「奥様、もうすこしのご抱ですよ」と大声で叱咤することがある。お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。

   つまり、病気の治療中のため性交渉が医者から固く禁じられていたのである。

八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、「ああ、うれしそうね」と小声でそっと囁いた。ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。「けさ、おゆるしが出たのよ」奥さんは、また、囁く。

    この作品は回想になっているが、4年前というから、太宰が静岡県三島の坂部武郎方に居候として2ヵ月滞在していたころの話である。坂部は金木の番頭・北芳四郎の妻の実家であった。太宰はその頃の話を楽しそうに古谷綱武に語っている。「眠れないと真夜中に、下におりていってまず酒をひといきでのんだという話をしていたように思うのだが、酒屋ででもあったのであろうか」と古谷は書いているが、本当に坂部は酒屋を経営していた。酒豪の太宰にとっては天国だっただろう。(参考:古谷綱武「私の名作鑑賞「満願」、現代文学大系54、月報20 筑摩書房)

脇坂安宅とカタシボ竹林

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   「播磨の小京都」といわれる兵庫県龍野市には、カタシボの竹という珍らしい竹が生育している。マダケの一変種で、幹の半分はふつうの竹と同じツルツルなのに、裏半面は無数のタテしわが走っている。しかも節目が変わると、平らな面としわの面が表裏入れかわり、次の節目にくると、また逆になる。見た目には、節目ごとに平らな面としわのある面が交互にタテにつながるという面白い模様が見える。つまり片側にしわができるので「片皺竹」からこの名前が生まれた。なぜ、このようなしわが出来るのか、諸説あるが、一つには、タテじわの面の組織内の養分を通す管が異常に細く、かつ、それらが何本も束になって固く縮まるのではないかともいわれている。なお、節目の上の芽(枝)の出る側が平滑で、その裏側にしわが出来るのも特徴である。

   片皺竹はもとは淡路島の洲本が原産地であった。幕末期の詩人・梁川星巌(1789-1858)が親交のあった播磨龍野藩主・脇坂安宅(1809-1874)公に珍種として数株を贈った。安宅公は大層喜んで、これを一族の筆頭家老の屋敷内に植えさせ、門外不出を厳命して秘蔵としてきた。これが現在、龍野市龍野町下霞城の梅玉旅館庭園内にあるカタシボ竹林である。約500本が生育していて、昭和33年5月15日、天然記念物に指定された。いま、原産地の淡路島には、カタシボ竹は無いという。

    脇坂安宅は安政4年、老中に列し、中務大輔と改称して外国事務を担当。まもなく職を辞したが、文久3年11月になり、さきの桜田門外の変の際、井伊直弼の遭難を秘した咎により謹慎を命ぜられた。

龍野藩脇坂家は現在16代目当主、脇坂安知。さ「先ごろ詐欺容疑で逮捕されたタレント医師、脇坂英里子と当家とは一切関係ありません」とコメントを発表。

ホンタイジの朝鮮出兵と延辺地区

    16世紀初期の朝鮮時代が舞台である韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」などを見ると、朝鮮がいかに明国を宗主国として尊重していたかがわかる。劇中、宮廷の人々が中国の使者などに気を使うシーンがしばしば登場する。

    元・明代の東北地方には、ツングース系の女真族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元やそれに続く明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、ハルビン方面の海西、瀋陽、遼東方面の建州、東北地方北部の野人の3大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取り引きしていた。明の永楽帝(1360-1424)は、これらの女真族を統合させるために、黒竜江下流にヌルカン(奴児汗)都司を設け、遼東に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、賜与や特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれた。

   清の建国者ヌルハチ(奴児哈赤、1559-1629)は、蘇子河中流域の興京老城(ホトアラ)に居住していた建州女真族の一首長の子に生まれた。1616年ホトアラに国を建てて金と号し、1619年サルホの戦いで明に大勝し、1621年には遼河以東を制圧し、1625年には瀋陽を都とした。

    1629年にヌルハチが没すると、ホンタイジ(1592-1643)がハンの位についた(太宗、1626-1643)。1636年、国号を清とした。朝鮮は国初以来、明の忠実な藩属国で、毎年何回か朝貢していたことから、清の建国を認めなかったため、ホンタイジは1637年、李氏朝鮮を攻撃した。鴨緑江を越えた清軍は、またたくまに南下して、朝鮮のソウルに近い南漢山城に迫った。これに驚いた仁祖王は江華島に脱出したが、朝鮮は服属させられた。

    その後も清国は自らの祖先の発祥地である東北地方には特別な統治体制を行なった。盛京、寧古塔、璦琿などに三将軍を次々と設置して満州八旗官兵を統率させ、地域を分割し、各旗人民を統治した。今日、中国吉林省東南部に延辺朝鮮族自治州があり、多くの朝鮮族が居住している。南には図們江(朝鮮でいう豆満江)をはさんで朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道と向かあっている。延辺地区の諸民族が朝鮮文化を維持しながら、辺境地方を開拓し、自治州内において独自の地方自治権を行使しうるにいたったのは、17世紀以来のこのような歴史的経過によるものである。

冠松は行く

   登山の楽しみは、山の頂を征服することだけではなく、山と山との間の渓谷を歩くことにも楽しみがあることを気づかせてくれたのは、冠松次郎(1883-1970)であろう。冠松が渓谷の美に魅せられて歩いていた頃は大正中期から昭和初期にかけてである。彼は30代半ばから40代前半であろう。そのころ黒部上流にはまだ太古の自然が残されていた。「その美しさは大自然の成せる美しさである。古来その峻険と深奥をもって名あるこの渓谷は、今日なお殆ど斧鉞を加えられていない原生林によって占められている。かりにこの森林に伐採を試みても、その木材を搬出することには容易ではなく、莫大な費用を要するため採算がとれずに、今なお昔日の幽深を存している」

    冠松は黒部ダム建設工事に対してどのような思いであったろうか。徹底抗戦するのかと思いきや、彼に自然の景勝を保全する自然保護の思想があまりみられないのは、不思議なほどである。むしろ観光レジャー化を推奨しているようにすらみえる。次のような文章が残る。「この発電工事の竣工につれて立山の秘境とされていた東面の景勝がにわかに脚光を浴びてくることが予想される。内蔵の助谷、内蔵の助平、黒部別山、御前谷、御前の滝、御山谷などの美しい、あるいは壮大な風景が、一般登山者の前にデビューしてくると思う。とにかく黒部に山上湖が出現し、黒部の中流の美しさが開発されれば、都会からほとんど歩かずに黒部の奥に入れる。それこで魚釣もできるし舟遊びもできる。湖畔のキャンプも考えられる。君、黒部へ月見に行かないかと、夜行で東京から乗物で大町へ、大町からバスで湖畔に乗りつけ、翌日は湖辺に遊び、夜は湖上に舟を浮べて、君、立山の月はすばらしいなあ!と得意になる者もいるだろう。(中略)原始的な黒部は、その中流において影をひそめるが、それに代って日本第一の観光遊山地の出現を見ることは、疑いないことと思われる」(「黒部」修道社、昭和34年)

    今日、冠松の著書が広く愛読されるのは、黒部ダム建設で渓の美が見られなくなってしまったために、かえって短期間に古典的な価値や評価が上がり、登山家には憧憬をもって読まれるのであろう。冠松とは本当に幸せな人である。

    余談だが、ケペルは学校映画会で三船敏郎、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」(昭和43年)を観た記憶がある。冠松が亡くなられたのが昭和45年。おそらく冠松もあの映画を観ただろう。今日、容易に見ることができないあの映画を観て死んだのも彼の運のよさを感じる。

▼剣の大滝を囲む大山壁

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2008年2月 4日 (月)

岩の坂もらい子殺し事件

   東京のはずれともいえる板橋の岩の坂は、江戸時代には中仙道の宿場町として栄えていた。ところが明治になって鉄道が敷かれるようになり、急速に宿場町は廃れて、街はスラム化していった。関東大震災以後、岩の坂は東京最大のスラム街といわれるようになった。昭和初期、長屋が20棟、木賃宿が10数件あり、約70世帯2000人が住んでいた。

    昭和恐慌は大量の失業者を生み出し、都市に流入した細民(下層の民、貧民)は最底辺の生活を余儀なくされた。昭和5年4月、こうした世相を反映する陰惨な事件が発覚した。「岩の坂もらい子殺し事件」である。ここでは多くの事情があって育てることのできない子をもらい子として養育料と引きかえにもらい受け、うまく成長すれば4,5歳になるともらい乞食や遊芸乞食に、14、15歳になると女は娼妓、男は炭鉱の雑役夫に売り飛ばしたという。ひどいときは事故死にみせかけて殺害した。死んだ子どもは年間で30人はあったという。(参考:「大量失業時代と病める都市」昭和2万日の全記録、講談社)

2008年2月 3日 (日)

泰明小学校の卒業生たち

    銀座の街中、銀座5丁目にある中央区立泰明小学校。創立は明治11年6月。同校の入口には「島崎藤村、北村透谷、幼き日ここに学ぶ」という記念碑がある。関東大震災で焼失後、昭和4年6月、耐震耐火の鉄筋コンクリートで再建された。(施行・銭高組)最新設備の特別室や屋上運動場、電気スチームなどを備えていた。アーチ型の窓など趣のある昭和モダンは、東京の建築遺産に選ばれている。北村透谷、島崎藤村の他にも、近衛文麿、稲山嘉寛、信欣三、池田弥三郎、殿山泰司、矢代静一、加藤武、朝丘雪路、中山千夏、「二人の銀座」の和泉雅子などの著名人が卒業している。

芥川龍之介の自殺の意味するもの

    大正12年6月9日、有島武郎(1878-1923)は有夫の美人記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。有島は前年に北海道の450町歩の土地と小作人に解放し、さらに遺産も親族に分けなかった。熱心なクリスチャンであった有島が信仰も棄て、社会主義者たちと交流していたことを考えると、単なる情死ではなく、社会問題やなんらかの時代状況が反映していたと思われる。

   有島の死から4年後、昭和2年7月24日、芥川龍之介が服毒自殺した。遺書には、自殺の動機として「将来に対するぼんやりとした不安」をあげていた。大正末期から昭和初期の知識人の不安とは何であったのだろうか。芥川も自殺する3ヵ月前と2ヵ月前、帝国ホテルで平松麻素子と心中未遂を2度している。昭和23年6月13日、太宰治は玉川上水で山崎富栄と心中しているが、これ以後60年経過したが、著名な作家の男女の心中・情死の例はない。有島、芥川、太宰の自殺はもちろん個人的なもので原因は異なり、ひとまとめに論ずることはできないだろうが、社会に与えた影響の点でみると芥川の自殺ほど衝撃的な文学者の死はない。芥川の「ぼんやりと不安」が何んだったのか、芥川の自殺原因に関する憶測はおびただしい数にのぼるであろう。以下、そのおもな説をまとめてあげる。

①精神状態・健康起因説。生来、虚弱体質で、神経衰弱、偏頭痛、胃腸病、うつ病などで苦しむ②不眠症説。睡眠薬の常用③ドッペルゲンガー説(自分の姿を自分で目にする幻覚現象)④義兄の鉄道自殺による心労説⑤有夫の女性との不倫⑥創作のいきづまり説⑦文学状況説。プロレタリア文学の台頭など⑧マインレンダーなど厭世主義の影響⑨気象状況説。例年にない酷暑が精神に影響を与えた⑩大正から昭和という時代の変化を鋭敏に予感した。

    最後の⑩については、「歴史のあと知恵」のような気もするが、当時の文壇状況を新進作家の片岡鉄平(1903-1944)はのちに次のように書いている。

人道主義的な、素朴な苦悶はあったんだ。たとえば貧乏人と金持とがいるということの矛盾、それをあの頃「不断の歯痛」という言葉で表現している。不断の歯痛の如く、また靴底に入った小砂利の如く、矛盾を感じながら、しかもマルクシズムに行かないゆえんを詭弁をもって主張したのがあの頃の僕さ

    人道主義者の有島武郎や鋭い感覚で時代を受けとめた芥川龍之介にとって、大正から昭和への変動は、片岡の「不断の歯痛」をはるかに超える激痛であったに違いない。宮本顕治は「我々はいかなる時代も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない」と「敗北の文学」で書いている。時代の殉教者であった芥川の死は今日でも青年や知識人たちに人生の苦悶を問いかけているのである。

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