揚州八怪・金農
墨竹図 金農 1750年
大阪市立美術館蔵
南北交通の中心地であり、商業都市として栄えた揚州に、18世紀半ば、独創的で、きわめて個性的な画家たちの一群が集まった。これらの画家を「揚州八怪」と総称しているが、その筆頭にあげられるのが、本図の筆者金農である。
金農(1687-1763)は、清の書家・詩人。銭塘の人。号は冬心。30歳のころまでは、郷里にあって学習に努め、地方詩壇に令名を得る一方、すでに金石拓本の蒐集をはじめたらしく、これは彼の書法形成と密接な関連があると考えられる。受験に失敗して、官途に望みを絶った。金農が、はじめて揚州を訪れたのは35歳のときで、その後たびたびこの地にあそび、鄭燮、汪士慎、高翔、華嵓らと交わり、また多くの蔵書をもち、文人墨客を優遇した馬日琯、日璐兄弟とあいしり、ついに晩年はこの地に寄寓して、書画三昧の生活をおくり、揚州は終焉の地となった。友人の1人が「嗜奇好古」と評したように、超俗的人物で自我がつよく、読書画において古代の美を愛賞し、しかも古人の法式を墨守することなく、自己の胸懐を吐露した個性的芸術を創成した。詩人、書家として、はやくから知られたが、絵を描きはじめたのは50歳をすぎてからであった。竹、梅、馬、花果を得意とし、晩年には仏像を描いた。単純卑近な事物を、水墨や彩色をまじえた線描ふうの、自由な画法で描いたその作は、また自然に即し自然に学んだものであって、主観的象徴的な表現の底に、それを支えるいきいきとした感覚が躍動している。「墨竹図」は64歳の時の制作によるものである。(引用文献:「アジア歴史事典3」平凡社)
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