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2008年2月29日 (金)

揚州八怪・金農

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  墨竹図  金農 1750年

  大阪市立美術館蔵

    南北交通の中心地であり、商業都市として栄えた揚州に、18世紀半ば、独創的で、きわめて個性的な画家たちの一群が集まった。これらの画家を「揚州八怪」と総称しているが、その筆頭にあげられるのが、本図の筆者金農である。 

    金農(1687-1763)は、清の書家・詩人。銭塘の人。号は冬心。30歳のころまでは、郷里にあって学習に努め、地方詩壇に令名を得る一方、すでに金石拓本の蒐集をはじめたらしく、これは彼の書法形成と密接な関連があると考えられる。受験に失敗して、官途に望みを絶った。金農が、はじめて揚州を訪れたのは35歳のときで、その後たびたびこの地にあそび、鄭燮、汪士慎、高翔、華嵓らと交わり、また多くの蔵書をもち、文人墨客を優遇した馬日琯、日璐兄弟とあいしり、ついに晩年はこの地に寄寓して、書画三昧の生活をおくり、揚州は終焉の地となった。友人の1人が「嗜奇好古」と評したように、超俗的人物で自我がつよく、読書画において古代の美を愛賞し、しかも古人の法式を墨守することなく、自己の胸懐を吐露した個性的芸術を創成した。詩人、書家として、はやくから知られたが、絵を描きはじめたのは50歳をすぎてからであった。竹、梅、馬、花果を得意とし、晩年には仏像を描いた。単純卑近な事物を、水墨や彩色をまじえた線描ふうの、自由な画法で描いたその作は、また自然に即し自然に学んだものであって、主観的象徴的な表現の底に、それを支えるいきいきとした感覚が躍動している。「墨竹図」は64歳の時の制作によるものである。(引用文献:「アジア歴史事典3」平凡社)

2008年2月28日 (木)

ふたりのナターシャ

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(ご注意)本記事は「ケペルの架空対談」第3回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するとい新企画の架空記事です。

   1968年、朱里エイコがパンチのきいた声で「がんばれアニマル・ワン。メキシコめざして」と歌っていた年、ケペルにとって二人のナターシャがいた。ひとりは、メキシコ五輪の女子体操の名花ナタリア・クチンスカヤ。当時、ソ連のプラハ侵攻の直後であったため、世界の同情はベラ・チャフラフスカに集まった。しかしケペルの視線は19歳のクチンスカヤの若々しい肢体に集中していた。判定においても彼女に不利な状況であっかが、笑顔を絶やさず可愛らしかった。まさしく、彼女こそ「戦争と平和」のナターシャであった。

   その2年前、ソ連は国家的事業で「戦争と平和」を制作していた。完成までに6年を費やした、ヒロインのリュドミラ・サベーリエワに会いにケペルはモスクワへ行った。

   *    *    *    *    *    *

ケペル「はじめまして。戦争と平和は本当に大作ですね。ナターシャ役はどのようにして決ったのですか」

リュドミラ「子どもの頃からバレエの学校へ行ってプリマになることが夢だっんです。そのころセルゲイ・ボンダルチュク監督は超大作の映画に取り組んでいましたが、ナターシャ役が未定で1年が過ぎていました。そこで文化省のお声がかりで、コンテストにでることになって、選ばれてしまいました」

ケペル「撮影にはどれくらいかかりましたか」

リュドミラ「原作では17歳から21歳までですが、私もナターシャの年齢とほぼ同じに少女から女性へと成長していくように撮影しました。」

ケペル「これからの夢は何ですか」

リュドミラ「もうプリマへの夢は諦めました。ナターシャの役が大きすぎたのでなかなか映画出演も決らなかったのですが、最近、新作を撮っています」

ケペル「何という映画ですか」

リュドミラ「ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの映画です」

ケペル「最近結婚されたそうですね」

リュドミラ「ええ、アレクサンドル・ズブルーイェフと結婚しました。娘が生まれました」

可愛い赤ちゃんを抱いていた。

ケペル「名前はなんというの?}

リュドミラ「ナターシャです」

    *   *   *   *   *    *    *

   旧ソ連が制作した超大作「戦争と平和」のヒロイン女優リュドミラ・サベーリエワは1942年1月24日生まれ。現在66歳になっている。澄んだ瞳は北国の湖、透明な肌は純白の雪。ソビエト映画界が世界に誇る花リュドミラ・サベーリエワ、いまごろどうしているだろう。

万葉の花アセビ

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わが背子にわが恋ふらくは奥山の

            馬酔木の花の今盛りなり

                 (万葉集巻10,1903)

春山の馬酔木の花は悪しからぬ

        君にはしゑや寄そゆともよし

                    (万葉集10,1926)

    スズランのような白い壷形の花を房状につけて早春の風に揺れ、風情に満ちた姿で咲くアセびは、万葉の時代から親しまれてきた花木のひとつである。ただし、有毒植物のひとつでもあり、茎葉を牛や馬が食べると酒に酔ったようになることから「馬酔木」の名が生まれた。

    やや乾燥した山地に生え、高さは2~9メートルになる。葉は互生し、長さ3~8センチの倒披針形で厚い革質。ふちには鈍い鋸歯があり、両面とも無毛。3~5月、枝先に円錐花序をだし、白い花が多数垂れ下がって咲く。花冠は長さ6~8ミリの壷形で先は浅く5裂する。雄しべは10個で、花糸には短毛があり、葯には刺状の突起が2個ある。雌しべは1個。蒴果は直径5~6ミリの扁球形で上向きにつき、9~10月に熟す。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)

ドイツ表現主義

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 ブリュッケの芸術家の肖像 キルヒナー 1925年

 ケルン市立バルラフ・リヒャルツ美術館蔵

   表現主義とは、自然描写に対立して感情表現をねらいとする芸術上の様式概念をいう。思潮としては20世紀初頭のドイツにおいてもっとも典型的な高揚をみた。ドレスデンで1905年に前衛絵画グループ「橋(ブリュッケ)派」が生まれ、運動の起点になった。エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー(1880-1938)、エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)、カール・シュミット・ロットルフ(1884-1976)、オットー・ミュラー(1874-1930)を創立メンバーとする「ブリュッケ」派は、のちにベルリンに活躍の舞台を移してマックス・ペヒシュタイン(1881-1955)を加えた。グループの名称は、若い世代の美術家をひろく結集する橋渡しの意味で命名された。

    画像の作品は「ブリュッケ」解体後20年もたった時点で描かれたものであるが、いかに過去の緊密な時代をなつかしんだか、キルヒナーの胸中を察するに十分な作品である。左から、ミュラー、キルヒナー、ヘッケル、ロットルフを描いている。

春を告げるマンサクの花

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まんさくや 小雪となりし 朝の雪(水原秋桜子)

まんさくや 水激しくて 村静か(飯田龍太)

  早春、山では一番早く花を咲かせて、春の訪れを告げる木である。花の形がおもしろく、花の少ない時期に咲くので庭にもよく植えられる。高さは5~6メートルにもなる。葉は互生し、長さ5~11センチ、幅3~7センチの菱形状円形または広卵形で、基部は左右の形が異なる。質は厚く、表面はややしわがあり、裏面の脈上に星状毛があり、下部は全緑。秋には美しく黄葉する。2~3月、葉に先立って黄色ま花が咲く。花弁は4個あり、長さ1~1.5センチの細長い線形。雄しべは4個で短く、内側に4個の仮雄しべがある。葯は暗赤色。雌しべは1個で、花柱は2つに分かれる。萼は4裂する。萼片は長さ約3ミリの楕円形でそりかえり、内側は暗赤紫色で、外側には褐色の短い腺毛が密生する。蒴果は直径1センチほどの卵状球形で、萼片が残り、外側に短い腺毛が密生する。熟すと2つに裂けて光沢のある黒い種子を2個はじき飛ばす。和名は、黄色の花が枝いっぱいに咲くので「豊年満作」からきたという説と、「まず咲く」がなまったという説がある。(引用文献:「日本の樹木」山と渓谷社)     

鋳金家・香取秀真

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    みみずく香炉 香取秀真 昭和28年

    香取秀真(かとりほづま、1874-1954)は、はじめ鋳金家大島如雲(1858-1940)に学び、美術学校では岡崎雪声(1854-1921)に学んだ。香取は東洋や日本の古代の金工についても深い関心をもち研究していた。したがって彼の作品は若い時代から晩年にいたるまで、常に古典の影響を受けていたともいえる。

   みみずく、鳩、ふくろう等の置物(香炉が多い)をよく作っているのは、中国銅器に鳥形尊や卣(ゆう)と無関係ではないと思う。青銅鋳物に金の象嵌を施して、色彩効果をあげようとしている。目・耳・足・翼などにかなりの抽象化をみせているのは、この作品の特色であるとともに、このころの彼の傾向でもあった。

    金工史家としても、すぐれた著作があり、また正岡子規の根岸短歌会の1人、アララギ派の歌人として、「天之真榊」「還暦以後」などの歌集を残した。

快慶「地蔵菩薩立像」

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   地蔵菩薩立像 快慶 奈良・東大寺蔵

   端麗な顔だち、神経質なまでに美しい整えられた衣文など、いかにも几帳面な快慶の特色を示している。彼のそれ以前の作品に見られる宋風を取り入れた繁雑さややにっこさは影をひそめ、むしろこの像に見られるような和風化への傾向がみられるようになるのもこの時期である。彩色もきわめて美しく、白雲上の蓮華も白地に緑青と金線を点じ、衣や袈裟には美しいいろいろな切金文が施されている。像の右足下の柄に「巧匠法橋快慶」と刻まれているので、快慶の法橋時代(1203-1208)の唯一の在銘像である。

   快慶は康慶の弟子で運慶とは同門。文治から貞応年間(1185-1223)に活躍。作風は巧緻優雅で、わかりやすく親しみやすい美しさ、とくに端麗な面相は非常に好まれた。東大寺再興に全力を傾けた僧重源に深く帰依して阿弥陀浄土を信じ、号もそれに因む。また明恵・明徳とも親交があった。

岸田劉生の作風の変化

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       新緑小閑(紙本着色)  大正14年

   岸田劉生(1891-1929)は明治41年、赤坂の白馬会葵橋洋画研究所に入って黒田清輝に師事している。そして2年後の19歳のとき、第4回文展に外光派風の風景画二点を初出品して入選するなど、早くから洋画家としての才能を認められた。

   明治44年ごろから、白樺派に共鳴してゴッホやセザンヌに傾倒し、大正元年、高村光太郎、斉藤与里、木村荘八、万鉄五郎らとフューザン会を結成した。

   しかしデューラーなどの北欧ルネサンスへの傾倒から厳格な写実主義を追求し、時流の印象派とは完全に対立する方向に進んだ。

   大正6年、鵠沼に転地してからは、自分の娘麗子や村娘お松の像などを連作、写実と装飾を融合する充実した作境を展開した。だが、その間に宋元院体画や初期肉筆浮世絵への傾倒と、日本画を描き残し、その作風はつねに大きく変化していった。

2008年2月27日 (水)

明日に飛躍する女子高生・内藤洋子

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」第2回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

   雑誌「りぼん」のカバー・カールから、「氷点」の暗い宿命を健気に生きる辻口陽子で一躍美少女スターとして人気が沸騰した内藤洋子。ケペルは鎌倉の学校に通う内藤洋子を訊ねた。

    *   *    *   *   *   *

ケペル「洋子ちゃん、初めまして」

洋子「先生、関西からわざわざ来きていただきありがとうごさいます」

ケペル「ええ、鎌倉の川端先生宅で李朝の陶器をみせていただいた帰りに寄ってみました」

洋子「黒澤監督の赤ひげでデビューして3年になります」

ケペル「次回の新作はどんな作品?」

洋子「舟木一夫さんと共演で、なんとミュージカル映画なんです」

ケペル「それはすごい。歌のレッスンはしているの」

洋子「毎日、猛特訓で。挿入曲が白馬のルンナっていうんです。昨日、レコード化が決まりました」

洋子は、可愛いおでことくりくりとした目で笑顔でこう言った。

洋子「私どんな役でもこなせる女優になりたいんです」

映画は松山善三監督で「その人は昔」という。今後の彼女の活躍が楽しみだ。

牧場を駆ける少女ジュディ・バウカー

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(ご注意)本記事は「ケペルの妄想対談」シリーズ第1回。ケペルが往年のアイドル女優に面会するという新企画の架空記事です。

   フランコ・ゼフィレリ監督の「ブラザー・サン シスター・ムーン」で聖女クレアを演じたジュディ・バウカーは一躍スターとなった。最新作はアンナ・シューエルの児童文学の古典的名作「ブラック・ビューティ」(1877年)のテレビドラマ化。

     *    *    *    *    *

   美しい森に囲まれたイギリスの小さな村に主人公ヒッキーを演じるジュディ・バウカーがいた。ブルー・グレイの澄んだ瞳が美しい少女だ。

「初めまして、日本から来たケペルです」

ジュディ「初めまして。日本へは是非一度行きたいと思っています」

「ブラザー・サン シスタームーンを観ました。こころが洗われるような映画です」

ジュデイ「ロンドンのアート・アンド・テクニカル・カレッジでダンスを習っていましたが、私の写真がファション雑誌に載って、それで監督からクレア役のお話があったんです」

「映画の成功でたくさんの出演依頼がきたでしょう」

ジュデイ「ええ、とても驚いています。依頼が殺到しましたが、黒馬物語は子どものころから愛読していたので、お引受しました」

「日本でもNHK放送されるそうです。これからのご活躍を祈っています」

ジュディはおとぎの国のお姫様のように美しく、栗色の髪をなびかせて、緑の森の中を駆けていった。

     *    *    *    *    *

    ジュディ・バウカーは1954年4月6日生まれで、「黒馬物語」のときは20歳。イギリスのシャウフォード生まれ。彼女が3歳のとき、政治家である父親がアフリカにあるイギリスの植民地ザンビアの知事を命ぜられて一家はアフリカに移った。8年間、アフリカの修道院で過ごした。イギリスに戻って宗教系のサリスピューリー校に入学。趣味はピアノ、ダンス、絵画。

かんこ踊り(三重県伝統行事)

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   かんこ踊りは、伊勢市とその周辺部に残る伝統行事。お盆に先祖の供養に行なわれる。「かんこ」はカッコウオドリの訛とも、古代中国の羯(けつ)より伝来した雅楽の打楽器「羯鼓」(かっこ)に由来するとも考えられる。

    腹部にシメ太鼓(羯鼓、かっこ)をぶらさげ、腰蓑をはき、シャグマという白い馬毛を頭部にかぶり、両手の撥で打ち鳴らしながら音頭に合わせて10人から15人が輪になって焚き火の周りを歌い踊る。

「そっくりショー」と青春歌謡

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   昨夜のNHK歌謡コンサートで仲宗根美樹の昭和36年のヒット曲「川は流れる」を久しぶりに聞いた。仲宗根は昭和19年6月23日生れであるから、当時16歳か17歳だった。我が家にテレビが来たのが昭和35年。あの頃の女性歌手の記憶が鮮明なのは何故だろう。ハワイアンの日野てる子は昭和20年7月13日生まれ。昭和40年には歌謡曲に転身し、「夏の想いで」をヒットさせた。

   日野てる子といえば何故か「そっくりショー」を思い出す。ハイビスカスの花を髪にかざして南国ムードたっぷりに歌う可憐な容姿。そしてボードビリアン小野栄一の軽妙な司会ぶり。「そっくりショー」はコロッケなどの戯画化したものまねではなく、一般素人の容姿が似ているかどうかがポイントで歌は多少下手でも優勝できた。審査委員長は、蝶ネクタイがトレードマークで日劇ヌードショーの元締め丸尾長顕(1911-1986)である。

    当時は青春歌謡の全盛時代であった。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家を筆頭に三田明、梶光夫、安達明、久保浩、叶修二、川路英夫、山田太郎、太田博之、望月浩などなど美形の男性が出現した。青春歌謡で現在も第一線で活躍しているのは美川憲一くらいであろうか。ともかく生中継の時代、テレビは面白かった。

2008年2月26日 (火)

映画は見世物から第七芸術へ

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                   バイオグラフ社の広告(1909年)

    アメリカやフランスの科学者によって発明された動く写真は、はじめは見世物としての大衆娯楽でしかなかったが、メリエスやグリフィスやアベル・ガンスら欧米作家たちの創意による分析や構成が加えられ、それら映像のもつリズムやテンポが新しい芸術手段として評価されるようになった。イタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュード(1877-1923)は、音楽・舞踏・文学という「時間の芸術」と、建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」の既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した。(「第七芸術宣言」1911年)

   カニュードのいう映画の総合芸術とは、装置の美術性とか、演技の演劇性とかいう意味ではなく、あらゆる芸術の本質的な諸機能を統一したものという意味で、映画は第七芸術という総合芸術だというのである。

   1900年になって、イギリスのアルバート・スミス、スチュアート・ブラックストンによって、アメリカで最初の映画会社ヴァイタグラフが創立され、ニューヨークに撮影所が設置された。ベントレイ・キャンベルの戯曲「白い奴隷」が、第1回作品として発表されている。1908年になると活動写真はますます盛んになった。エジソン、バイオグラフ、エッサネイ、カレム、ルビン、ヴァイタグラフ、シーリング、パテー、ジョージ・クライン、メリエスなどの会社がアメリカ全土に配給戦を演じた。

    ドイツでは、演劇界の巨人マックス・ラインハルトが、初めて映画を監督、「擲弾兵ローランド」を発表した。スウェーデンでは、スヴェンスカ社が映画制作を開始している。後年、イングリッド・バーグマンを生んだのもこの社である。

    無声映画時代は純粋な映像表現が追求され、表現主義や前衛映画運動が起こり、フォトジェニー、モンタージュの理論が実践された。ロベール・ウィーネ監督の「カリガリ博士」(1919年)は表現主義の画家ヴァルター・レーリッヒが装置を担当し、表現派美術を応用して、第一次大戦後の不安定な社会心理が国民にある共感を呼び起こさせた。ウェルネス・クラウス(カリガリ博士)、コンラット・ファイト(眠り男セザレ)、フリードリヒ・フェアー(フランシス)らも好演している。

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    カリガリ博士

2008年2月25日 (月)

沖行く船の無事を祈る

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                   千葉県・勝浦灯台

   灯台守の妻・田中きよ(1911-1999)が雑誌「婦人倶楽部」に「海を守る夫とともに20年」という手記を寄稿したのは昭和31年のことだった。夫・田中績(1909-2002)は、昭和8年の岩手・魹ヶ崎を始め、サハリンのモネロン島(海馬島)、長崎・五島列島の女島、千葉・勝浦埼、福島・塩屋埼、秋田・入道崎、宮崎・都井岬など8ヵ所、37年間、任地はすべて人里離れた「陸の孤島」であった。妻きよは夫の仕事を支え、10人の子どもを育てた。この手記を読んだ木下恵介が感動して、映画「喜びも悲しみも幾歳月」を制作した話はあまりに有名であろう。(引用文献:「二人でかざす一筋の光」朝日新聞2008.2.23)

シモーヌ・シニョレとマリオン・コディヤール

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   シモーヌ・シニョレとチャールトン・ヘストン

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     女の情念を演じ続けたシモーヌ・シニョレ

   第80回米アカデミー賞の授賞式が24日夜、ロサンゼルス・ハリウッドのコダックシアターで開かれた。作品賞は「ノーカントリー」(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督)、主演男優賞はダニエル・デイ・ルイス(「ゼア・ウィルビー・ブラッド」)、主演女優賞はマリオン・コティヤール(「エディット・ピアフ愛の讃歌)。ダニエル・デイ・ルイスは第62回「マイ・レフトフット」で2度目で予想通りの受賞といえる。番狂わせは主演女優賞であろう。本命のケート・ブランシェット、ジュリー・クリスティーを抑えて、フランス映画で、フランス語で演技をしたフランス人女優が受賞したことになる。過去フランス女優がアカデミー主演女優賞を受賞したのは、第32回(1959)の「年上の女」のシモーヌ・シニョレ以来49年ぶりである。ただしこの「年上の女」はジャック・クレイトン監督、ローレンス・ハーヴェイ共演によるイギリス映画作品。つまりシモーヌ・シニョレはイギリス女性役で英語だったようだ。そもそもアカデミー賞の受賞作品の対象になるのは、「その年度の1月1日から12月31日までの間にロサンジェルス地区の劇場で1週間以上商業上映されたもの(外国語映画など一部例外あり)」という規定である。要するに「羅生門」「地獄門」のように外国語映画でも受賞の可能性はあるが、主演賞となるとかなりハードルは高い。マリオン・コディヤールの受賞はフランスのセザール賞主演女優賞とのダブル受賞となるが、フランス語で演技したフランス女優というのは、アカデミー史上初めての快挙なのである。

   だが、シモーヌ・シニョレ(1921-1985)がハリウッドで認められたことも意外な事実であろう。女の哀しい宿命を演じたら、彼女の右に出る女優は世界中探してもいないであろう。たが余りにフランス的であり、ハリウッドに馴染まないタイプだろう。オスカー受賞後、「愚か者の船」(1965)、「悪魔のくちづけ」(1967)など数本の作品に出演したが、フランスに戻った。

   シモーヌ・シニョレはドイツのビースバーデンで生まれた。幼くして、パリに移住し、タイピストや英語教師などを経て演技に興味を抱き、1942年から映画にエキストラ出演。本格的デビューは1945年の「理想的なカップル」。その後「デデという名の娼婦」(1946)「肉体の冠」(1951)「嘆きのテレーズ」(1953)「悪魔のような女」(1955)「年上の女」(1958)で個性的な容貌、抜きんでた演技力と存在感で戦後のフランス映画界を代表する女優だった。

   後進のアヌーク・エーメ、ジャンヌ・モロー、フランソワーズ・アルヌール、ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなどの美人女優がオスカーを手中にはできなかったが、マリオン・コディヤールの受賞を心から喜びたい。

カナダの自然と歴史

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褐色の岩肌を誇るカナディアン・ロッキーにあるキャッスル・マウンテンとバウ川。名称は1858年にジェームズ・ヘクターによって名づけられたが、アメリカのアイゼンハワー大統領がカナダを訪れたのを記念して、「アイゼンハワー山」と改称された。しかし地元の強い要請もあり、1983年に旧称のキャッスル・マウンテンに戻った。

   世界で一番面積が大きい国は、もちろんロシア。アジアとヨーロッパにまたがり、国土の面積は約1708万平方km。では、2番目に広い国はどこか。中国?それともアメリカ?いずれも面積は900万平方km以上あるが、カナダの国土面積は997万平方kmで、ロシアに次いで世界第2位である。

    ヨーロッパ人が北アメリカに来る以前から、カナダを縦横に走りまわっていたのが、インディアンである。かれらの祖先は、ベーリング海峡を通って、アジアからアメリカ大陸へ入って来たものと考えられている。ヨーロッパ人がカナダにやって来た近世の初めに、かれらの文化はまだ石器時代の段階にあって、狩猟生活を営んでいた。一部の部族は原始的な農業を営み、トオモロコシやカボチャなどをつくっていたが、イヌのほか家畜がなく、したがって牧畜も知らなかった。五大湖地方から、セントローレンス川流域には、イロコイ語族に属するインディアンの諸部族が居住し、かれらは同盟を結んで、近隣の諸部族を脅かしていた。セント・ローレンス河谷に、ヨーロッパ人から鉄の斧やナイフ、鉄砲や毛織物を手に入れ、狩猟の産物である毛皮と交換して、これらの便利な文明の利器をますます多く得たいと望むようになった。

   コロンブスのアメリカ発見の5年後、1497年から翌年にかけて、イタリア人ジョバンニ・カボート(イギリス名ジョン・カボット)が、イギリス王ヘンリー7世の許可を得て西航し、セント・ローレンス湾口にあるケープ・ブレトン島や、グリーンランドおよびニュー・ファンドランドを発見した。フランス人ジャック・カルティエはフランス王フランソア1世の命を受けて、アジアに至る北西航路探検のため大西洋を西航し、1534年から翌年にかけて、同川をさかのぼって現在のモントリオールの地点まで到着した。

   フランスの探検隊カルティエ等がインディアンに「ここはどこか」と訊ねた。イロコイ族は「カナタ(村の意味)」と答えた。探検隊はこれを地名と誤認し、誤って「カナダ」となったという。(イギリスの地名研究家テイラーの説)

   カルティエはインディアンから「カナダ王国」の話を聞いたが、そこで見たものはインディアンの貧しい部落だけだった。しかしながらこの探検によって、フランスのカナダに対する領土権主張の根拠がすえられた。その後インディアンとの毛皮貿易の利益が知られるとフランス人の本格的な植民が始まった。フランス王アンリ4世から毛皮貿易の独占権を与えられたド・モンを説得してセント・ローレンス流域に向かったシャンプランは、1608年、ケベックの地に最初の恒久的な根拠地を築いた。1663年にルイ14世は新フランス植民地の知事や監督官や司教を任命し、その後有力な軍隊が派遣されて、フランス人に敵対するイロコイ族の討伐も行なわれた。軍隊の将校や兵士に、セント・ローレンス川沿岸の土地が与えられ、フランス本国に類似した封建的領主制が行なわれた。カトリック教会にも広大な土地が下付され、教会は入植者の生活のあらゆる部面において、指導的役割を果たした。

    17世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争に至るまで、ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスは必ず敵対する陣営に属して戦った。イギリス人の植民地は、フランス人の植民地に対してはるかに確固たる農業植民地を形成していたため、新大陸における両国の争いはイギリスの決定的な勝利に終わった。カナダはイギリス領となった。ケベックその他のフランス人植民地は、イギリス軍の占領後ケベック州となった。人口の大部分がフランス系植民者からなり、宗教・言語・法律・習慣の異なるヨーロッパ人を統治するという新しい課題に直面したイギリス政府は、1774年にケベック法を定めて、ローマ・カトリック教の信仰の自由を保証し、フランス的な民法とイギリス刑法を適用することにして、フランス系カナダ人の自由と権利の保護に努めた。このような文化の異なる民族に対する寛容な政策により、イギリス領ケベック州とイギリス本国の間の統合が強化された。

   ケベック法によって、ケベック州の領域がオハイオ川北岸まで拡大されたことは、大西洋岸のイギリス領13州植民地に刺激を与えた。これらの植民地では独立の気運が高まり、独立軍は1775年ケベック州に侵入してモントリオールを攻略したが、ケベック要塞を占領することはできなかった。1783年のパリ条約により、五大湖の線がアメリカとイギリス領ケベック州の境界線となった。

   アメリカ独立戦争の際、これに反対したロイヤリスト(忠誠派)が大挙カナダに移住したことは、その後のカナダの人口構成に大きな変化を与えた。約4万人のロイヤリストがノバスコチアおよびニュー・ブランズウィックに移住し、後の上カナダ、現在のオンタリオ州に移住した者は約1万人にのぼるといわれている。このためカナダにはイギリス系の人口が急増し、かれらはケベック法で認められていなかった代議制や、その他のイギリス的な自由な諸制度の実施を求めるようになった。イギリス本国政府はこれらの要求にこたえて、1791年植民地政府組織法を定めた。この法律によりケベック州は、イギリス系人口からなる下カナダの二州に分離され、それぞれに立法院と衆議院が設けられた。これより以前、ノバスコチアには1758年、1763年イギリス領となったプリンス・エドワード島には1773年、ノバスコチアから分離したニュー・ブラウンズウィックには1784年に、それぞれ代議制議会が認められていた。なおケベック州では以前からフランス的な封建的土地保有制が行なわれていたが、1791年の法律により、新しく下付される土地についてイギリス的な自由な土地保有制が適用されるようになった。

   1867年7月1日、イギリス領北アメリカ法が成立し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなる連邦としてカナダ自治領が成立する。初代首相はジョン・A・マクドナルド(1815-1891)。1949年にニュー・ファンドランド島が連邦に加盟し、その結果現在のカナダの領域が最終的に確定する。英領アメリカ法が修正され、完全な主権を獲得する。1970年代以降はカナディアン・アイデンティティーの確立を模索するという動きが外交面でみられ、従来の対米依存の路線から自主路線への転換が図られるとともに、先進国の一員として国際的発言力を強めつつある。(引用文献:「これが新しい世界だ9 カナダ」国際情報社)

スティーヴン・リーコック

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   「カナダの有名な作家は?」とたずねると、10人中みんなが、「赤毛のアンの作家」と答えるだろう。ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1942)の作品は村岡花子、中村佐喜子、岸田衿子、猪熊葉子、松本侑子、掛川恭子などの翻訳で日本では今も広く読まれている。ウィキペディアの「カナダ」の項目では、他にマーガレット・アトウッド(1939年生まれ)という女流詩人も記載されていた。しかし、カナダの作家はこれだけなのだろうか。日本でのカナダの文化や歴史の情報があまりに少ないのに驚く。

   調べてみると、スティーブン・バトラー・リーコック(1869-1944)という作家がいる。生まれはイギリスのワイト島で、8歳の時にカナダに移住している。 つまりイギリス系のカナダのユーモア小説家。モントリオールのマギル大学の政経学部の教授を勤めながら、ユーモアと風刺あるエッセイ風の作品やミステリーを多数残している。マーク・トウェイン以来の最も人気のあるユーモア作家である。

   スティーヴン・リーコックの代表作に「町のひなた点猫」(「小さな町の陽気なスケッチ」)(1912)をはじめとして、「ナンセンス小説集」(1911)、「わがイギリス発見」(1923)がある。文芸批評家として健筆をふるい「マーク・トウェーン」(1932)、「チャールズ・ディケンズ」(1933)などの評伝がある。ほかに自伝「あとに残した少年」(1946)がある。他に「ミステリ狂、或いは迷探偵」「二百歳まで生きる法」「億万長者になる法」「善行魔」「逆行魔」「騎士道残酷物語」「Qある怪奇心霊実話」「名探偵危機一髪」「スパイ戦線異常あり」「バッガム屋敷の怪」「架空会見記」「ゴルフ虎の巻」「奇術師の復讐」「手相をみせて」「衣服病理学」「ABC物語」「欠陥探偵」「人生成功の秘訣」「専門化が進めば」「わが財政的履歴」「ミステリこの優雅な娯楽」等多数あるが現在入手は困難。

    スティーヴン・リーコックの人生訓がよく知られている。

幸運とは、自ら動かない限りは、決して訪れないものだ

     *   *   *   *   *   *   *   *

人生の進み具合というのは、なんと奇妙なものだろう。小さな子供は「もっと大きくなったら」と口にする。だが、どうしたことだ。大きくなったら子供は「大人になったら」と言うではないか。そしておとなになったら、「結婚したら」と言う。けれども、結婚したらいったいどうなるのか、考えがコロリと変わって、「退職したら」と来る。やがて、退職が現実のものとなると、自分の過ぎし日の光景を思い浮かべる。そこには木枯らしが吹きすさんでいるようだ。どういうわけか、すべてを取り逃がしてしまった。もはや過ぎ去ってしまったのだ。そして、遅ればせながらわれわれは学んぶ。人生とは、生きることの中、つまり毎日毎時間の連続の中にあるのだということを

2008年2月24日 (日)

サヴィニャックとロイピン

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 ルッフ社のソーセージの宣伝ポスター

 ロイピン 1950年 ポスター美術館

    戦後のグラフィックデザイナー、ポスター作家の巨匠といえば、レンモンド・サヴィニャック(1907-2002)とヘルベルト・ロイピン(1916-1999)があげられる。広告業界において「視覚ギャグ」「ヴィジュアル・スキャンダル」という言葉も彼らの出現によって生まれた。

  レイモンド・サヴィニャックはアール・デコの巨匠アドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901-1968)に学んだ。1949年に注文なし描いた「牛乳石鹸」のポスターで一躍注目を浴びた。以後フランスのポスターの分野で最も注目された一人である。その作風に見られる愉快な驚きを誘う表現は、多くのデザイナーに強い刺激と影響を与えた。

   ヘルベルト・ロイピンはスイスのバインビルに生まれ、パリでポール・コランに学ぶ。画像のルッフ社のためのソーセージの宣伝ポスターからもわかるように、彼は対象になる商品をきわめて大胆に、誇張した形でとりあげながら、そこに親しみとユーモアとウィットを感じさせる表現にはサヴィニャックと共通するものが見られる。

赤い風車(ムーラン・ルージュ)

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   夜のモンマルトルの象徴といえば、「赤い風車」の明かりであろう。ナイトクラブ、パル・デュ・ムーラン・ルージュが、酒と踊りであらゆる階層のパリっ子を魅了したのは19世紀末。クリシー大通りの「レーヌ・ブランシュ(白の女王)」という安ダンス・ホールの跡地、ブランシュ広場に、「赤い風車」(ムーラン・ルージュ)が開店したのは1889年のことであった。1891年以来、入口のロビーは絵のギャラリーとなっていた。そこでは大勢の客が酒を飲んだり、ぽんびきや娼婦、踊り子、おとりの警官などがたむろしていた。内部は、見物席に囲まれた大ダンスフロア、大きなバー、そして道化師や歌手、エキゾチィックな踊り子、アクロバット師、にぎやかなカンカン踊りの一団など、一風変わった多種多様な芸人たちが毎晩出演する舞台になっていた。

   ムーラン・ルージュには、客たちが座って休むことのできる、小さなテーブルと椅子をおいた中庭があり、それを囲むように屋根つきのプロムナードが広がっていた。庭の真ん中を占めていたのはオーケストラ全員がなかに入れるほどの大きさの張りぼての象であった。そのまわりに客を楽しませるために猿が鎖につながれていた。また人々は、モンマルトルのバーで最もよく飲まれていた「緑の妖精」つまりアブサンと呼ばれたアニスシードの酒を飲み過ぎなければ、ロバに乗って庭を回ることもできた。官能の悦びを求める人のための標識である屋根の赤い風車は、木製の模型であり、本物の風車が数多く点在していた緑豊かな丘の村であったころのモンマルトルの、そう遠くない昔を思い起こさせた。ムーラン・ルージュを開店したシャルル・ジドレールは、クリシー街のダンス・ホール「エリゼー・モンマルトル」や「カジノ・ド・パリ」といった競争相手から常連客を呼び寄せるために、あり余るほどの娯楽を用意することにあらゆる手をつくした。

   夕べの調べは、オッフェンバックとオリビエール・メトラの音楽によるサーカスなみの喧騒であり、トロンボーン、シンバル、ドラムによって大音響で演奏された。世紀の変わり目ころには、踊りの流行はマティッシュやケーキウォークのようなものになっており、バンドは聴衆を馬鹿騒ぎに駆り立てたので、外国からの客は驚いて立ち去るほどであった。ある偏見のないイギリスの雑誌記者は「ここではどのような欲情も抑える必要はない。わめき声と馬鹿騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と記している。

   しかし、ロシア、イギリス、ルーマニア、南アメリカなど世界中からやってくるムーラン・ルージュの男の常連客にとって一番の魅力は、小粋で性道徳にとらわれない女たちであった。性取引はパリの周辺では盛んであった。悪徳はナイトクラブや娼家だけの商売ではなかった。外国商人たちは娼婦にするパリの娘を求めた。ヨーロッパ最大の肉体市場と考えられていたムーラン・ルージュは、表面は華やかでうわついて見えたが、踊り子兼娼婦といううす汚れた仕事に携わる女は、白人奴隷市場の手配師に誘拐されてきた者が多かった。(引用:「ロートレック」同朋舎出版、1990)

恋多き女シュザンヌ・ヴァラドン

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            シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロ

   ひとりの貧しい田舎娘マドレーヌ・ヴァラドンはフランス中西部リモージュ近郊のベッシーヌで道路建設技師との情事から一人の女児を生んだ。マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ、1865-1938)である。5年後、マドレーヌは娘シュザンヌとともにパリに出た。彼女たちは貧しい労働者たちが住むロシュシュアール大通りに落ち着き、裕福な家庭の家事手伝いをしたり、洗濯屋で働いた。

   マリーは生まれつき人の言うことをきかない性格の子供であったらしいが、ロシュシュアール大通りの路上に白墨をつかって物を書くのが好きだった。強い好奇心と鋭い物を見る眼とがこの女の子に与えられた天の贈物だった。マリーは13歳の頃にはお針子としてオート・クチュールの仕事場で見習いとなったが、その後も転々と仕事を変えて行った。やがてマリーはパリ16区にあった「モリエ」サーカス団のアクロバットの美少女として人気がでた。ある時、空中ブランコから転落して、脚をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。写真で見るマリーは、濃い眉毛と刺すような目差すで男達の好き心をそそる美少女に成長していたらしい。15歳の時、当時画壇の大御所だったピュヴィウス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。シャヴァンヌは58歳、年齢的には孫娘にも近いマリーと画家はモデル以上の関係を結ぶようになる。この画家の最も有名な作品「聖なる森」に描かれた上半身裸の8人の女人像はすべてマリーがモデルをつとめたといわれる。1883年からほぼ7年にわたりマリーはポーズをとった。

   そんなころモンマルトルは酒場、あるいはダンスホールなどが開設され、歓楽街としての賑わいを大きくしてくる。ボヘミヤン風の生活を若さにまかせて楽しんでいたマリーは1883年の冬、男児を出産する。将来のモーリス・ユトリロである。時にマリーは18歳だった。そして、このポトー通り8番地で生まれたモーリスの父親が一体誰であるかについては諸説ある。①ユトリロ姓を与えたスペイン人の芸術家ミゲル・ユトリロ説②カッフェ「黒猫」のなじみ客で、モンマルトルの酔いどれ詩人モーリス・ボワシー説③ピュヴィス・シャヴァンヌ説

   後年さまざまな推測がなされたがシュザンヌ自身が「本当のところは私にも分からない」と言っているとおり、浮気なシュザンヌだった。

   シュザンヌはドガ、ロートレック、ルノワールらのモデルをつとめた。2歳のモーリスを連れたシュザンヌはロートレックの愛人となる。ロートレックは身体が不具であったが、シュザンヌは彼にひとかたならぬ魅力を感じていたらしい。というのも、この美しく意志の強い女性は、彼に結婚する気にさせようとして狂言自殺を試みたといわれている。おそらくこれによって、数年間続いてきた彼らのつかず離れずの関係に終止符が打たれたと思われる。1893年にはエリック・サティと交際したが半年で破局した。1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚。その後、離婚し、1914年に息子のユトリロよりも若い画家アンドレ・ユテルと再婚する。まさにシュザンヌは恋多き女であった。ロートレックやドガの指導で画家として成功したシュザンヌは、息子のモーリスをアルコールから遠ざけるために、彼に絵をすすめたエピソードはあまりにも有名であろう。ユトリロが風景画家であるのに対して、シュザンヌの作品はほとんどが人物画であるが、その大胆なフォルムはロートレックの影響を思わせるものがある。

シュルレアリスト・ダリとフロイト

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                  サルバドール・ダリ

  ジグムント・フロイト(1856-1939)は精神分析の創始者とされている。患者が催眠状態のなかで、忘れ去っていた感情的体験を思い出し、記憶を呼び起こすことにより精神障害の症状が改善されるらしいということを発見したのである。つまりフロイトの大きな功績は、意識下に埋もれた記憶や経験のもつ価値と、それらに到着することにある。シュルレアリストたちは、この理論が意味する想像力の解放に関心をもった。

   シュルレアリスム運動に参加した若き芸術家サルバドール・ダリ(1904-1989)は、学生時代にフロイトの「夢判断」を読み、次のように述べている。

「これは私の人生における重大な発見の1つだった。……私は夢だけでなく、わが身に起こったあらゆる出来事を自己解釈せずにいられないという真の悪習にとりつかれてしまった

    フロイトの著作や精神分析に深く心を奪われたダリは、シュルレアリスムの理論を発展させて、独自の「偏執狂的批判的方法」を生み出した。これは見る者の空想能力にもとづくイメージ解釈の一種であり、ダブル・イメージが1930年代のダリの作品に多数見られる。これは、自らは精神の異常をきたすことなく、偏執狂患者の狂った心を装い、外観の背後にあるイメージを感じとるという彼の能力によって生み出された。彼は「私自身と狂人との唯一の違いは、私は狂っていないということだけだ」と言っている。

蛇信仰と女性

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  タロット・ガーデンの彫刻 ガラビッチョ(イタリア)

   古代社会においては、蛇は死者礼拝と結びついて霊獣とみなされる。古代エジプトでは、蛇のヒエログリフは女神の象徴とされる。ギリシアのクノッソスからも「蛇をもつ女神」が出土されている。また蛇は定期的に脱皮を繰り返すことから、人類の「生、死、再生」の象徴であるとされる。とくに女性は月経を迎えると、古くなった子宮の層を剥がす。すなわち、女性は、月経によって新しい女に生まれ変わる。蛇には永遠性を象徴する神聖な生き物であるという信仰が生まれた。

    ニキ・ド・サンファール(1930-2002)というフランス生れの女性芸術家は人生の岐路に立った時、人生の指針としてタロットカードに力を借りていた。イタリアのトスカーナ地方のガラビッチョにある「タロット・ガーデン」には、ニキが20年の歳月をかけて制作したタロットカードのシンボルをモチーフとした彫刻作品が並んでいる。そこを訪れた人々は女性ばかりでなく、男性や子供から老人まで誰もが理屈ぬきに元気のパワーをもらうという。ニキ・ド・サンファールは動く彫刻で知られるジャン・ティンゲリー(1925-1991)と知り合い、1961年、絵の具を仕込んだ銃でカンヴァスを撃つという「射撃絵画」によってヌーヴォー・レアリスムの一員として知られるようになった。画像作品は、女性器から人々が入ってゆくという巨大な女性像のオブジェで、女性には蛇が絡み付いている。カラフルな色彩のユニークな作品は多くの人々に親しまれている。とくに胎内回帰願望の方にオススメである。

モンマルトルとサクレ・クール寺院

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    ハニー・リュティ  「サクレ・クール聖堂」

   モンマルトルはパリで一番高い丘にあり、現在でもパリの観光地として世界中から旅行客で賑わっている。サクレ・クール寺院左手のこじんまりしたテルトル広場に軒を並べたカフェ、レストランの前では大道芸人や似顔絵描きが屯したり、派手な色彩やきまり切った構図のどう見ても観光客用のお土産でしかない絵が販売されている。

   19世紀後半から、モンマルトル界隈はムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールなどのキャバレーが建ち並び、歓楽街となっていった。ヨハン・ヨンキント、カミーユ・ピサロ、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ドゥ・トゥールーズ・ロートレック、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなどの印象派画家たちがモンマルトルを制作の場とした。

   19世紀末から第一次大戦までのベル・エポックの時代には、世界中から画家・詩人・小説家など多くの芸術家たちが集まり、ここを活動の拠点とした。モンマルトルの「洗濯船」、モンパルナス近くの「蜂の巣」は、当時の画家たちのアトリエ兼アパートだった。パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、テオフィル・アレクサンドル・スタンラン、シュザンヌ・ヴァラドン、アンドレ・ドラン、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、マックス・ジャコブ、レイモン・デュシャン・ヴィヨン、アンドレ・サルモン、サン=ポール・ルー、フランシス・カルコたちがモンマルトルで育っていった。

    1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の頂にサクレ・クール寺院が建設され、シンボルのようになった。

    第一次大戦後、フランス以外の国から芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに移り住むようになった。モディリアニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーティン(リトアニア)たちである。彼らにはフォービズムやキュビズムの画家たちのような特定の理論や主義があったわけではない。しかもフランス国外からきたユダヤ人だった。彼らはパリをこよなく愛し、そのフランス的な感受性に傾倒して大いにそれを養分としていった。彼らは「エコール・ド・パリ」の画家と呼ばれるようになった。彼ら以外にもユトリロ、ピカソ、グリス、ドンゲン、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マリー・ローランサン、ホアン・ミロ、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリあたりまで含める場合もある。

2008年2月23日 (土)

三島の太宰批判

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   太宰治の「斜陽」に有名な場面がある。お母さまが白い萩の花のしげみの中から顔を出して、娘のかず子に「お母さまが、何をなさっているか、あててごらん」と聞く。そして、「おしっこよ」と一言いう。「ちっともしゃがんでないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」

    この「斜陽」に対して、三島由紀夫は「太宰治氏のこと」(「三島由紀夫全集30」)で次のように批判している。

作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいひといひ、生活習慣といひ、私の見聞してゐた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などといふ。「お母さまのお食事のいただき方」などといふ。これは当然、「お母さまの食事の召上がり方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さへつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん」などといふ。それがしかも、庭で立小便をしてゐるのである!」

    三島が指摘するように貴族的な立ち居振る舞いや言葉遣いの難点が小説には認められるものの、「斜陽」で太宰が紡ぎだした言葉は全体として成功しているように思える。太宰嫌いの三島はあまり仔細に検討していないようだ。太宰作品をもっと深く丹念に検討する価値がありそうだ。

ここでは、ちょっと気のきいた一文だけをあげるにとどめる。

三十。女には、二十九までは乙女の匂いが残っている。しかし、三十の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いが無い、というむかし読んだフランスの小説の中の言葉がふっと思い出されて、やりきれない淋しさに襲われ、外を見ると、真昼の光を浴びて海が、ガラスの破片のようにどぎつく光っていました。

2008年2月22日 (金)

ボッティチェリとフィレンツェ

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ボッティチェリの自画像「東方三博士の礼拝」(部分) 1475年 フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵

   アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ(1445-1510)はフィレンツェの皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末子として生まれた。フィレンツェ人は驚くほど愛称を好み、アレッサンドロの長兄ジョヴァンニは「イル・ボッティチェロ」(小さな樽を意味する)と呼ばれた。おそらく彼が丸々と太っていたからだろう。アレッサンドロ(通称サンドロ)は1470年以前のいつのころからかこの愛称を肩代わりし、ついにはそれが一家の姓となった。

   サンドロ・ボッティチェリの若いころについて確かなことはほとんど知られていないが、13歳で金細工師の徒弟になったという話は真実らしく思われる。しかし、まもなくして画家になろうと決心し、1461、2年ごろ、父親は彼をフィリッポ・リッピの工房に入れた。リッピはフィレンツェの名高い画家だった。その後、ボッティチェリは「プリマヴェラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」によって、ルネサンスを代表する芸術家の一人になった。

    彼は旅嫌いで、めったに故郷のフィレンツェを離れなかった。1473年、注文に応じるためにピサを旅したが、計画が頓挫すると、すぐに家に帰った。1481年、ローマのシスティナ礼拝堂を飾る芸術家の一人に選ばれたためフィレンツェを離れたが翌年にはフィレンツェに戻っている。

   晩年、修道僧サヴォナローラが処刑されると、ボッティチェリも人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。ボッティチェリがイタリア・ルネサンス最大の芸術家として認められたのは、ようやく19世紀の末に再評価されたからである。

2008年2月21日 (木)

犬と水差しを持つ田舎娘

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    「犬と水差しを持つ田舎娘」(部分)

    1785年 サー・アルフレッド・バイト准男爵蔵

    トマス・ゲインズバラ(1727-1788)は、フランスのロココ美術と17世紀オランダの風景画の双方の影響を受けつつ、イギリス人やイギリスの田園風景を独自の感覚で描いた。晩年における「ファンシー・ピクチャー」といわれる人物画は風景がロマンティックな世界をつくり上げて、19世紀風景画の先駆的役割を果たした。「犬と水差しを持つ田舎娘」はゲインズボロの「ファンシー・ピクチャー」の代表的作品である。物思いに沈む子供の表情は魅力的で、最高の出来ばえをみせている。

   トマス・ゲインズバラ(ゲーンズボロ)は南サフォーク地方の市場町として繁栄するサドバリーに生まれた。父親は羊毛業者だったが、後年には事業に失敗し、職を変えて郵便局長となっている。トマスは創造性にあふれた一家の9人兄弟の末っ子として育った。彼はロンドンで絵の修業をしたのち、故郷に帰って肖像画家となり、やがてファッショナブルな町バースに移り住むと、ヴァン・ダイクの後継者にふさわしい肖像画家としての評判を築きあげた。

2008年2月19日 (火)

「赤いチョッキの少年」の悲劇

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    1890年代までは、ポール・セザンヌ(1839-1906)の作品はパリのタンギー爺さんの小さな画材店でしか彼の絵を買うことができず、ほとんど無名に近かった。1895年に、画商のアンブロワーズ・ヴォラールがセザンヌの個展をパリで開いた。この個展を境としてセザンヌの名声は高まっていった。

   半世紀後の1958年10月15日。1400人の美術愛好家と何万というテレビ視聴者が、ロンドンのサザビーズのオークション・ルームにおける記録破りの競売を見つめた。アメリカのポール・メロンがセザンヌの「赤いチョッキの少年」を61万6000ドルで競り落としたのである。「世紀のオークション」といわれ、当時近代絵画に支払われた史上最高の額であった。セザンヌの「赤いチョッキの少年」といえば最近あった盗難事件を思いうかべるであろう。だが、当時のサザビーズの写真をみると盗まれた絵とは異なる。「赤いチョッキの少年」というモチーフは複数存在するのだろうか。

   盗難の絵画がどのような経緯でスイスの実業家エミール・ビュールレ(1890-1956)の手に渡ったのかも明らかではない。ビュールレ・コレクションとしてチューリヒ美術館、ビュールレ美術館に蔵されるようになった。個人美術館の警備の甘さがあったのかも知れない。ここに名画の悲劇が生まれた。2月10日、覆面をした3人組の強盗団に油絵4点が盗まれた。「赤いチョッキの少年」はそのなかの1点である。

    犯人たちよ、いまからでも遅くない。すぐに返せ!

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2008年2月18日 (月)

太宰治と高峰秀子

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    左より高峰秀子、山根寿子、太宰治

   高峰秀子の自叙伝「わたしの渡世日記」は、単なる一女優の回想録という以上に貴重な昭和史の記録でもある。例えば、昭和22年夏の太宰治との出会いの記述である。

新橋駅に現れた太宰治のスタイルはヒドかった。既にイッパイ入っているらしく、両手がブランブランと前後左右にゆれている。ダブダブのカーキ色の半袖シャツによれよれのズボン、素足にちびた下駄ばき。広い額にバサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻ののびた顔には彼特有のニヤニヤとしたテレ笑いが浮んでいる…。作家の容姿に、これといった定義があるわけではないけれど、とにかく、当代随一の人気作家太宰治先生は、ドブから這いあがった野良犬の如く貧弱だった。鎌倉の料亭に到着したのは午後の4時ころだったろうか、まだ日暮れ前であった。床の間を背にアグラをかいた太宰治はやっとリラックスしたらしく、青柳信雄とプロデューサー補佐を相手に、「ガバッ、ガバッ」といった調子で呑みはじめた。席上、紅一点の私など問題にもしてくれない。そのくせ私が下を向いて箸を取ったりすると、チロリとこっちをうかがったりしているのがこっけいだった。

    昭和23年6月19日、山崎富栄と玉川上水に入水。「朝日新聞連載小説「グットバイ」は13回分までだったため、後半のストーリーを脚本家の小国英雄に委ね、映画「グットバイ」は6月28日の封切りに間に合った。

    しかし、太宰と高峰は昭和22年が初対面ではない。昭和19年7月11日、東宝東京撮影所で会っている。高峰は太宰の愛読者だった。それは自叙伝にも「私もまた、走れメロス、トカトントン、親友交歓などを、ほとんど暗記するほどに熱読していた一人であった」と書いている。この日、高峰は太宰のサインをもらっている。太宰の「佳日」は青柳信雄によって「四つの結婚」として映画化された。脚本は八木隆一郎、如月敏だが、太宰もそれに少し加わっている。

   つまり太宰作品の映画化は東宝の山下良三を中心に昭和19年から進められていたが、二作とも高峰秀子が出演しているというのも何かの奇縁であろう。好奇心旺盛な売れっ子女優が苦悩する大作家を「ドブから這いあがった野良犬」「こっけい」と観察しているのも面白い。

2008年2月17日 (日)

セゴビア城とイサベル1世

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           セゴビアの城

   カスティーリャ王国エンリケ4世が1474年、亡くなると異母妹のイサベル1世(1451-1504)がセゴビア城(アルカサス・デ・セゴビア)で即位した。イサベルはアラゴン王フェルナンドと結婚して、1479年には両国が統一してスペインが誕生した。1492年、グラナダの陥落により国土回復運動(レコンキスタ)は終わり、同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていった。

蘭渓道隆と建長寺

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      建長寺 蘭渓道隆像 国宝

    鎌倉幕府執権・北条時頼(1227-1263)は源氏三代と北条氏の霊を弔うため、道元(1200-1253)を招き、寺院建立を請うたが、権勢におもねることを嫌う道元は、その申し出を断わる。その時、南宋より来日した蘭渓道隆(1213-1278)が寿福寺にいた。時頼は道隆に帰依して、寺院建立を申し出る。建長5年(1253年)、開山に蘭渓道隆を迎え、我国初の禅宗専門道場建長寺、成る。蘭渓道隆は、その後、迫害されたり、流.謫されたり、苦難の晩年を送った。

    臨済宗大本山建長寺は、鎌倉五山の第一位の格式を彷彿とさせる、関東唯一の七堂伽藍を備えた禅寺。当時日本で盛んであった密教的な禅とは異なり、厳しい清規のもとに修業生活を送る蘭渓の禅風は、宋風禅とよばれた。その門に参じた修行僧は多く、建長寺は一大禅林となった。歴代住職は名僧ぞろいで、兀庵普寧、大休正念、無学祖元、一山一寧、桃渓徳悟、南浦紹明、高峰顕日などがいた。

女の道は一本道

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   「汚れた手」の佐々木すみ江(昭和42年)

    NHK大河ドラマ篤姫第6回「女の道」(2月10日放送)。今和泉島津家の於一(宮崎あおい)が当主・島津斉彬の養女となることに決まった。城に出向く日の朝、奥女中の菊本(佐々木すみ江)はそっと於一の髪をなおしていう。「御養女の件、お迷いなのはわかりますが、女の道は一本道に御座います。定めに背き引き返すは恥に御座います」というセリフがいい。そして菊本は自害して於一に武家の女の生き様を示す。菊本のとった行動がいま大きな話題になっている。視聴者の中にも、昔の日本人が身に付けていた品格や礼節をドラマを通して感じたようだ。菊本自害の理由は今夜の放送で明らかになるだろう。

    ところで、この菊本を演じた佐々木すみ江。若い世代の方でも「ふぞろいの林檎たち」を初め多数のドラマでお馴染みのベテラン女優だが、劇団民芸出身(民芸俳優養成所第1期生)。ケペルは残念ながら舞台は一度も見ていない。「穀倉地帯」「楡の樹蔭の欲望」「セールスマンの死」「かもめ」など翻案劇が多いため、西洋人のインテリ女性が似合っていた。画像に見える「汚れた手」オルガ役に扮する佐々木は、大柄で目鼻立ちのハッキリした女性党員を好演している。テレビドラマの姑役しかしらないが、若い時代、和製ソフィア・ローレンという感じだったらしい。

リプトン卿とアメリカスカップ

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        ティークリッパー

  イギリス東インド会社の独占貿易が廃止された19世紀。最初に届けられた新茶は高値で取引されたことから、中国からイギリスに紅茶を運ぶ船「ティークリッパー」は、その速さを競いあった。特にアメリカのニューイングランドで作られた帆船は、東インド会社の船の5倍の速さでイギリスに到着し人々を驚かせた。高速で帆走できるように、長さが幅の6倍もある細長い構造で、浅い船底に鋭い船首を持っていた。横風も受けられるようにマストを高くし、横張りの三角帆がついていた。次第に、優勝者には多額の懸賞金が支払われる「ティーレース」へと進化していき、人々はお金をかけてこのレースの始まりであり、現在有名な「アメリカスカップ」の元祖とも言える。アメリカスカップには、紅茶王と呼ばれるリプトン社の創始者であるリプトン卿も参加していた。

   1851年のロンドン大博覧会の際、ビクトリア女王が観戦する中、ワイト島1周帆船レースが開催された。14隻のイギリス船と、1隻のアメリカ船が参戦。優勝したのは、たった1隻で参加したアメリカの「アメリカ号」だった。優勝カップをアメリカに持ち帰ったアメリカ号のオーナーは「カップの保持者はいかなる国の挑戦も受けなければならない」という証書をつけた。そこから、このカップを賭けて始まったのがアメリカスカップだ。リプトン卿は30年間に渡って5回挑戦したが、惨敗続き。しかし、彼の勇敢な挑戦を讃え、ニューヨーク市民は一人1ドルずつ出し合って、ティファニーのカップを彼にプレゼントした。このカップを記念して創設されたのが「リプトン・カップ・レース」である。(引用文献:「世界のみなと物語」港湾空間高度化環境研究センター)

2008年2月16日 (土)

浅野長矩刃傷松の廊下

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   浅野内匠頭長矩画像 岩屋寺蔵(京都・山科)

    元禄14年の3月14日午前9時半ごろ。

    江戸城の松之廊下で勅使供応役の播磨国赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が儀式典礼の指導役である高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷に及んだ。

    唯一の目撃者である梶川与惣兵衛頼照の「梶川氏筆記」によれば、梶川と上野介が松之廊下の角住付近で立ち話をしたあと、上野介が去ろうとする背後から内匠頭が突然大きな声をあげて斬りつけた。

   「この間の遺恨、おぼえたか」

    内匠頭の小刀が上野介の大紋(式服)の背を切り裂き、驚いて振り向く上野介の額に二の太刀が振りおろされ、烏帽子の金具にあたる響きがして、血潮が流れ散った。おびえた上野介は、ぐったりとし、その場に倒れ込んだ。梶川は内匠頭を羽交い絞めにしてとめた。

    多門伝八郎重共、近藤平八郎の取り調べに対し、内匠頭は「かねて遺恨があったので斬った」と陳述、上野介のほうは「恨みを抱かれるおぼえがない。内匠頭殿は乱心されたのであろう」と申し立てた。幕閣では、将軍のいる殿中での刃傷は大罪であるが、よく取り調べてから処分したいとした。

    しかし、激怒した将軍徳川綱吉は、内匠頭に即日切腹を命じ、上野介には神妙な態度であったとして、お構いなしとした。綱吉は勅使・院使を迎えての大切な式日に刃傷事件を起こした内匠頭を不敬罪としたのである。

    当時、喧嘩両成敗という幕法の建前から、理非にかかわりなく双方の当時者が処罰の対象になるのが慣例であった。それなのに、将軍の裁きということで一方的に内匠頭だけが処断されたのである。ここに復讐への一つの伏線が生まれてくる。この処罰は、そのころの武士の正義の感情からは許すことのできないものであった。

    網打ち駕籠に乗せられて陸奥国一関領主の田村右京大夫建顕邸に入った内匠頭は、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。このことも赤穂義士たちの憤激を招く要因となった。内匠頭は従五位下の官位を持った大名である。座敷での切腹が当然であり、庭前での切腹は非礼違法にわたり、武士への大きな恥辱であった。

風さそう花よりもなほ我はまた

春の名残をいかにとやせん

   内匠頭は哀切な辞世を残して35歳の生涯を閉じた。

    片岡源五衛門は、最後にひと目、主君に拝領したいと願い出た。検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の座にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、拝領することができた。双方、無言のまま、視線をかわしたが、まことに断腸の思いであった。やがて、遺骸をうけとって泉岳寺へ葬った。このとき、田村家から渡された遺言状を読んだ。内匠頭の口上を覚書として書き留めたもので、「刃傷事件の原因を知らせておくべきだった。定めし不審に思うであろうが…」といった内容で、宛名は源五右衛門と磯貝十郎左衛門になっていた。その場で、片岡源五衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門の4人は髻を切り、墓前に供えた。幕命によって江戸藩邸を引き渡すと、片岡、磯貝、田中の3人は、赤穂へ戻る。赤穂義挙の序曲が始まった。

榎本美佐江と日本調歌手

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         神楽坂はん子(左)