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2008年1月18日 (金)

北海道の野球のルーツ

    日本ハムファイターズは2004年に本拠地を札幌ドームに移転し、「北海道日本ハムファイターズ」と改称して球団初のリーグ2連覇を達成した。観客動員は増加し北の大地にプロ野球が育ちつつある。だがベースボール伝来の歴史を調べると、北海道こそは野球の発祥地といってもいい。

    これまでの通説では、日本における野球は明治6年開成学校の生徒がアメリカ人のホーレス・ウィルソン(843-1927)、同校予備門のイギリス人のストレンジ、マジェットらの外人教師らに教えられてはじめたのが最初とされてきた。また明治15年アメリカから帰国した平岡熙(1856-1934)によって日本初の野球チーム「新橋アスレチック・クラブ」が結成された。この功績によって平岡熙は1959年、正岡子規は野球用語を邦訳したとして2002年、ホーレス・ウィルソンは日本に野球を伝えた功績により2003年、それぞれ野球殿堂入りをはたしている。

    ところがスポーツライターの大和球士(1910-1992)は一冊の本を読んでもうひとつの日本野球のルーツがあることに気づいた。その本は言語学者の大島正健(1859-1938)の回想記で『クラーク先生とその弟子たち』という。クラーク博士を敬愛するキリスト者にとってはたいへんに有名な名著であり、古い県立図書館には所蔵している本である。ただしそれに野球の関係する重要な記述が含まれているとは誰しも思わなかった。その本は病床にあった大島正健の口述を長男の大島正満がまとめたもので、初版は帝国書院(1937)、第2版(1948)、補訂第3版宝文館(1958)、国書刊行会(1973)、補訂増補版(1990)と版を重ねて出版され関係者のその本に対する情熱が察せられるであろう。

    さて、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)は明治5年5月に東京・芝の増上寺境内に開校、当時、アメリカ人アルバート・G・ベーツが英語教師として明治6年2月に来日した。彼は無類のベースボール好きで、持参した1本のバットと3個のボールで生徒たちにベースボールを教えた。当時は道具などもなく、ボールは手縫いで素手で捕球していた。対外試合はなく、仲間内でプレーしていた草野球程度のものであったであろう。開拓使仮学校は明治8年7月に札幌農学校となり、札幌へ移転した。もちろん北海道でもベースボールは続けられていた。明治13年に入学した第4期生の河村九淵によると「寄宿生は一般に身体の摂生に注意し、殊に運動と体育とに務めた。春から秋の間はベースボールにいそしみ、積雪期には毎夕三々五々相携えて散歩した」とある。この文章から、ベースボールが特別なスポーツというよりも健康的なレクリェーションとして楽しんでいたことがうかがわれるであろう。新渡戸稲造も「私も日本の野球史以前には、自分で球を縫ったり、打棒を作ったりして野球をやったこともあった」(東京朝日新聞明治44年8月29日)と語っている。

    さて、本題の日本における野球のはじまりであるが、何事につけもののはじまりは諸説あることをご理解たまわりたい。ホーレス・ウィルソンが殿堂入りしていることから開成学校が野球博物館公認ではあるが、野球事始が明治6年ということであるならば、ある調査によると、開成学校は10月9日に開校したのに対し、開拓使仮学校の開校は4月15日である。この半年間でアルバート・ベーツが生徒たちにベースボールを教えていたことは十分に考えられることではないだろうか。

    ただし、ベースボールの伝来がイコール日本野球のはじまりではない、とする意見もある。野球は2チームあって対戦して成り立つスポーツで、キャッチボールや仲間内でプレーしたり、練習試合をしていても、野球のはじまりとは認められない。残念ながら開拓使仮学校ではリクレーションとしてベースボールをしていたものの、チームを組織して公式試合をした記録が確認できないので、正式なベースボールとして現在の段階では認定されていないのであろう。

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