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2008年1月 6日 (日)

ブリューゲルとアントウェルペン

    画家ピーテル・ブリューゲルが生きた時代のアントウェルペン(英語名アントワープ)は「世界の環のなかのダイヤモンド」と呼ばれ、繁栄と発展の黄金期にあった。詩人ダンテがブリュージュを讃えた「太陽のごとく、その比を知らぬ、ブラバントのメトロポリス」(グイチャルディーニ)と書いた開港都市であったブリュージュの入江が泥で埋まってしまったため、代わってアントウェルペンが北海沿岸低地帯の主要港として、ヴェネチアとハンザ同盟の交易を引き継ぎ、また東方の香料を求めるポルトガル船団の重要な寄港地となった。16世紀の前半に人口は倍になり、美術品の輸出が盛んになったため、全国各地から芸術家たちが集まってきた。アントウェルペンはまた、印刷の中心地としての名声も急速に高めた。低地帯諸国で出される本の半分以上がここで印刷され、パリやリヨンの国際的地位を競い合うようになった。

    ブリューゲルがいつ、どこで生まれたか、確かなことはわからない。1525年から1530年の間と推定されている。マックス・J・フリードレンダーの推定によると1528年から1530年の間に生まれている、としている。これで算えると、ブリューゲルは39歳で死んでいることになる。生地については、フランドルの画家カレル・ファン・マンデルの著書「画家の書」(1604年)によると「プレダ市近くのブリューゲルという小さな村に生まれた」とある。ブリューゲルが地名であるか姓であるか明らかではないが、おそらく当時ブラバント公国にあったブレダに生まれ、アントウェルペンにやってきたのは1540年ころのことであろう。マンデルの記録によると、ブリューゲルはピーテル・クック・ファン・アールスト(1502-1550)の弟子として画家修業を始めた。クックはアントウェルペンの一流の画家だった。工房は非常に繁盛し、絵画制作は芸術であると同時に、一つの産業だった。クックは出版活動でもその名を知られた。クックが1545年に出版したセバスティリアーノ・セルリオの建築書の翻訳は、イタリア・ルネサンスの建築理念を北方ヨーロッパに広めるのに大きく貢献した。そしてブリューゲルは1540年から1545年の間、クックの工房で徒弟生活を送った。1551年、ブリューゲルはアントウェルペンの画家組合(サン・ルカ・ギルド)の親方として登録されている。

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