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2008年1月 2日 (水)

ドンケツ指揮官・木村昌福

   木村昌福(1891-1960)は大正2年12月、海軍兵学校を卒業。成績順位は118人中第107番という下位成績である。身長は180センチもあり、髯をはやし、柔道で鍛えた猛者であった。

    昭和18年にビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後は第一水雷戦隊司令官に着任した。昭和18年5月12日、アメリカ軍は大挙してアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、山崎保代大佐以下2500名の同島守備隊は奮闘むなしく玉砕した。これにより、キスカ島にいる守備隊5200名は完全に孤立してしまった。幌筵に停泊する重巡「那智」の司令長官・河瀬四郎中将はキスカ撤退作戦を「ドンケツ」の木村昌福少将にその任務を与えた。

    霧発生の予報を得た旗艦「阿武隈」、「木曾」、「多摩」は、7月7日、幌筵を出港した。しかし、10日になると霧が消えてしまった。14日になっても霧が出ない。阿武隈に後続していた木曾や駆逐艦は、霧がなにくてもキスカに突入すべきだと訴えてきた。阿武隈艦橋では参謀たちが、木村司令官に突入を進言した。木村は決断した。引き返すのだ。「帰れば、また来ることができる」一水隊は幌筵に帰還した。司令部や大本営では、この決断に「木村は臆病者だ」と非難が集中した。しかし、幌筵に戻った木村は、霧が出るのを待つ、といって碁を打ったり、釣りをしたりの毎日だ。しかし22日、霧発生の気象予報が届いた。その日の夜、一水隊は出港した。そして7月29日、農霧につつまれたキスカ島に艦隊が入港した。5200名の将兵は、わずか1時間足らずで全員艦隊に収容された。彼らは万感の想いでキスカ島に別れを告げ、7月31日から8月1日にかけて無事に幌筵に帰投した。「キスカの奇跡」といわれる撤収作戦が成功した要因には連合艦隊司令部からの催促や非難にも動ぜず、平然とした態度で好機を待つという「ドンケツ」の指揮官・木村昌福の冷静な判断によるところが大きい。彼はこの作戦の成功により、昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。

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