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2008年1月19日 (土)

小泉信三「スポーツはかなり私の時を取る」

    「練習は不可能を可能にす」で知られるように小泉信三(1888-1966)はテニス、野球に限らずスポーツ、運動全般を基本にした教育家という印象がある。だが青年時代スポーツマンであった小泉信三も晩年には自分で球を打ったり、走ったりすることはできなくなり、人のするのを見るだけとなった。

    晩年のある一日。昭和36年9月24日。日曜日。「この日、私は午後、例により双眼鏡を携えて神宮球場に行き、法政-立教、慶応-東大の二試合を見た。2-0、5-1でそれぞれ法政、慶応の勝つのを見終わって広尾町の家に帰ると、ちょうどその時間なので、更にテレビの前に座り込んだ。そうして大相撲秋場所千秋楽、大鵬、柏戸、明武谷の優勝決定勝負に大鵬が柏戸をうっちゃり、明武谷を寄り倒すのを見た。考えて見ると、私は野球と相撲を見ることすでに60年である。私は明治36年秋(11月21日)、慶応と早稲田が初めて三田綱町グラウンドに戦った第1回の試合から見ている。相撲は更にその数年前、本所回向院境内の小屋掛け時代、時の横綱、紅顔の小錦八十吉が、逆鉾の露払、源氏山の太刀持ちで土俵入りをするのを見て以来、今日の大鵬・柏戸時代に及んでいる。まことにスポーツはかなり私の時を取る」。

   かって戦死した長男を悼む小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を杉浦直樹主演のドラマで、ナレーターの西田敏行が言っていたが、武者小路実篤(1885-1976)の「友情」の大宮のモデルは小泉信三だという説があるそうだ。小泉は大正元年に欧州へ留学し、大正5年に帰国し、阿部とみ(1895-1991)と結婚している。スポーツが苦手な実篤にはコンプレックスがあって、大宮という人物には男前でスポーツマンの志賀直哉(1883-1971)と小泉信三を混ぜ合わせたような人物をイメージしたのかもしれない。慶応ボーイと学習院生とのサロンが明治末年にあったのだろう。しかしスポーツをほとんどやらず絵画が趣味だった実篤が三人で一番長命だったのは、青年時代におけるスポーツの蓄積はかならずしも寿命に比例しないということであろうか。

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